対馬暖流 列島の 人類の交易

氷河が地球を覆っていた時代には、海面が現在より低く、日本列島はアジア大陸と地続きになっていた。しかし、やがて海面の上昇により、日本は現在のように大陸から切り離されてしまったが、大陸との交流は途絶えることなく、人の移住も文化の流入もますます盛んに行なわれていた。 日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。その縄文時代の文化を考える時に非常に重要なことは、遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期に相当するのです。今から約6.000〜7.000年前に紅山文化という非常に高い文化がありました。日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。

黒曜石 石器 ヒスイ 土器
三内丸山A 細石刃 三内丸山B トチのアク抜き
古代の建物(池上曽根遺跡・
大湯遺跡・三内丸山遺跡)
三内丸山遺跡の
円筒土器と装飾品
三内丸山遺跡の円筒上層式土器 三内丸山遺跡の円筒下層式土器

縄文時代の交易

 日本海をめぐる交流

 シベリア、中国東北部など日本海の対岸から、アサやゴボウなどの種子移入があったとすれば、これらの地域から、断続的ながら人の往来もあったと見るのが自然であろう。この時期の舟は、恐らく数人が乗れる程度の帆の無い丸木舟に過ぎなかったであろうが、海流を巧みに利用し、陸地伝いに日本海沿岸に辿り着くことも不可能ではなかった。

 福井県鳥浜貝塚からは、石川県能登半島産の輝石安山岩隠岐島産の黒曜石が、石鏃や石匙などの剥片石器の原料として出土しており、人とモノの動きは、現代人が想像する以上に盛んだったと思われる。又、集落の近くで、アサやエゴマ、リョウトウ、ヒョウタンなどの栽培が行なわれた可能性も高く、初源的な栽培活動も否定することは出来ない。

 縄文遺跡から掘り出されたヒョウタンは、現在のヒョウタンのようにくびれは無いが、富山県南太閤山T遺跡、滋賀県琵琶湖湖底の粟津遺跡、青森県三内丸山遺跡などからも発見されており、縄文前期の縄文人によってヒョウタン栽培が行なわれていたことは、ほぼ確実だと言えよう。縄文前期の縄文人によってヒョウタン栽培が行なわれていたことは、ほぼ確実と言えよう。そして、種子を蒔く、苗を植える、収穫したヒョウタンを容器として加工する、といった栽培の知識を管理する技術は、各種の有用植物にも応用されたと見るのが自然であろう。

 三内丸山遺跡などで検出されたイヌビエは、東北アジア原産のヒエの一種(イネ科の一年草)であり、これも栽培されていた可能性が高いという。又、最近、三内丸山遺跡や富山県の小矢部市の桜町遺跡出土の大量のクリの実は、DNA分析(静岡大学・佐藤洋一郎)によって、栽培されていた可能性が高いとも言われる。

 このような栽培植物の多くは、日本海経由で列島にもたらされ、更に、沿岸伝いに波及していったものと考えられる(橋本澄夫・「日本海の海人文化と交流路」)。

 海のベルトコンベヤー

 対馬暖流は、黒潮が九州南部で枝分かれし、九州の西岸を北上して、対馬海峡を通って日本海に入り、津軽半島まで北上する。津軽半島に達した主流は津軽海峡から太平洋に出て、三陸海岸を南下する。又、一部の支流は北海道の西を北上し、宗谷海峡付近で衰退する。

 漂着物に詳しい中西弘樹氏は、フイリッピンの東海岸沖の熱帯海域に源を発する黒潮は、「様々な物をベルトコンベアーの如く、日本列島へと運び続ける」という。対馬暖流は熱帯起源の漂着物だけでなく、中国大陸や朝鮮半島からの漂着物も多く存在するという。

 石材や漆の事実から、日本海の鳥浜の地を目指して、北から或いは南から航海してきた縄文人がいたであろうし、或いは大陸からはるばる危険をおかして渡来してきた人もいるのではないかと思われる原始時代における日本海の人の往来は、何も弥生時代からではないことが明らかになりつつあると思われる。

 縄文最古のムギはカラスムギか

 6年前に三内丸山遺跡の縄文前期(5.500年前)の泥炭層から出土、「縄文最古のムギ」と注目を集めたイネ科植物(一粒)は、カラスムギの可能性が高いことが、横浜市立大の辻本助教授(遺伝進化学)の分析で分った。

 カラスムギは西アジア原産で、オオムギやエンマコムギなど栽培用のムギ畑に雑草として生えていることが多い。世界各地への伝播の過程で栽培化したのが、現在飼料などに使われているエンバク(燕麦)。

 静岡大学農学部の佐藤洋一郎氏は、カラスムギがコムギ、オオムギなどの栽培植物に伴う点に注目「栽培植物の存在を指摘する傍証といえるのではないか。三内丸山の時代に既に、オオムギやクムギが存在した可能性を考慮する必要がある。非常に興味深い」としている。 

列島の人類史

    列島の人類史

   「岩宿の発見」による後期旧石器文化

 日本列島に旧石器文化が存在したこと、つまり日本列島に旧石器時代人が生活していて、最古の文化が旧石器時代に遡ることが明らかになったのは1949年(昭和24)の「岩宿の発見」によっており、戦後の日本考古学の最も大きな成果だといわれている。

 発見者の相沢氏は、この発見を伝えるために、東京の学者たちを訪ね歩いた。まず、当時明治大学の大学院生であった芹沢長介氏が、事の重大さに気付いた。それを受けて杉原荘介氏率いる明治大学考古学研究室が、岩宿遺跡の発掘調査を実施した。

 赤土の中から石器が出ることを確認して、日本列島にも旧石器文化が存在したことが明らかになった。

 二万四千年程前、鹿児島湾の噴火口(姶良・あいらカルデラ)として、火砕流や火山灰が大規模に噴出。そのときの火山灰は、偏西風に乗って北海道まで飛び、日本列島の大部分からユーラシア大陸にまで及ぶ広い地域が覆われた。

 戦前には、火山灰が降り積もったローム層と呼ばれる赤土層の中などには、人類の生活痕跡や石器が残されているはずが無いと考えられていた。

 降りしきる火山灰の中で、人類は生きていくことができない。堆積した火山灰は、「死の世界」を意味する、といった考えが考古学界の主流をなしていた。更に、東アジアのはずれにある孤島で、大陸と同じように太古の昔から人類が居住していたはずが無い、という歴史的偏見も強かった。

 地表面から黒土まで掘って、縄文時代の生活痕跡を見つけ、その下の赤土層に到達すれば、発掘調査は終了だった。

 ところが、火山活動が休止いた後には、植生が復活して動物も戻り、人間が生活していたのであった。

 岩宿で確認されたのは約三万五千年前から一万三千年前に属する現代型ホモ・サピエンス(新人)が残した後期旧石器文化であった。

 人類が日本列島に誕生した可能性は考えられない。となれば、列島最古の人類は何処からか移ってきて、最初の生活を始めたと考えるのが妥当であろう。世界的に見ても、海を渡る技術は五万年以上古くは遡らないと言われているから、それ以前は、日本列島と大陸が陸続きの時期しか、人類は渡来できなかったことになる。

 人類最古の時代である旧石器時代は、約一万年前より以前の更新世(氷河時代参照)と言われる地質時代に相当し、現代の自然環境とは大きく異なっていた。

 海水面が100m以上も低下し、列島周辺では西の朝鮮半島や北の間宮海峡・宗谷海峡などの海底が陸地化し、日本列島は大陸と陸続きの状態の時期もあった。

 日本列島や周辺の海底に印された地形、例えば海底に残された海岸段丘や川筋・河口などを調べて、海面が低下した寒冷期の状況を探る。更には、陸橋を渡ってきた新種の哺乳動物が日本列島に登場する時期、或いは西と北に陸橋が成立して日本海が湖のような状態になり、淡水に棲む珪藻や有孔虫の死骸が海底に堆積した時期を解明する方法などがある。

 これらの研究成果を総合して、既に百万年以上前に、東アジア東端の北緯40度を越す地域にまで進出していた「原人」が日本列島に渡来するチャンスは、約百二十万から百万年前、約四十三万年前、三十万年前、二十数万年前の四回あったと意見がある。いったい、最初に日本列島に現れた人類は、何時頃のどんな人々だったのだろうか。

(岡村 道雄著・日本の歴史「縄文の生活誌」抜粋

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