縄文土偶の神秘

太古の眠りから覚めた土器
スライド写真集

縄文土器の神秘

縄文の女達の様々な顔たちとプロポーションを持つ女達のざわめきが聞こえてくるような土偶群である。縄文の女達は何を喜び、何を憂えていたのでしょうか。

  具象を拒否された奇怪な造形感覚

 日本の土偶ほど面白いものはない。これはまさにピカソを感嘆せしめ、ヨーロッパの新しい抽象芸術を生んだ黒人の彫像に比して、勝るとも劣らない芸術なのである。人体をモデルにしたに違いないと思われるが、これは飛鳥・奈良時代の、中国大陸に起源をもつ仏教彫刻や、明治以降のヨーロッパに起源をもつ人体彫刻とも全く違う。まさにこれは日本の生んだ特異な彫刻に違いないが、その芸術性は飛鳥・奈良時代の大陸に端を発する仏教彫刻や、それらに勝るとも劣らないと思われる。そして、この土偶は、既に、縄文早期からあらわれ、縄文晩期に至るまで何千年の間に数限りなく生産され、そしてその種類も多いのである。土偶が大型になり、そして芸術性が高くなったのは、縄文中期からであり、後期、晩期の関東地方及び東北地方のものが特に優れている。例えば、群馬県郷原で出土した後期縄文土偶はどうであろう。ハート形の顔に巨大な目と鼻がついている。そして見事にデフォルメされた身体、肩はいかり、胴はくびれ、足は内に曲がっている。直線と曲線の配置が見事なプロポーションを作っている。そして、身体にはあたかも血管の線のように直線で文様が作られている。そしてこの線は肩のところとみぞおちのところと足のところで渦巻きを作っている。二つの隆起した乳房がはりつめて、その乳房の間には何か手術の跡のような深い切り傷がある。

これは一体何なのか。これは人間であり、女性であることは間違いない。そして、よく見るとこの体の線には女性の体の柔らかさがある。しかしこれが生身の女性であるとしたら、何故こんな形に表現しなければならなかったのだろうか。この土偶の作者は、恐らく具象的な女性像を作らせても素晴らしい女性像を作ったに間違いない。それは、その部分における人体把握の的確さを見ればわかる。にもかかわらず、彼或いは彼女のこのような奇妙な像を作った。この作家の背後に隠されている造形意識は一体何だったのか。この像を見てピカソなどの前衛画家の作品を思い出す人が多いかもしれない。岡本太郎の造った「太陽の搭」も、どこかこれと一脈通ずるものがある。ピカソなどの前衛画家がこのようなものを作った意図もよく理解できる。それはリアリズムの彫塑にあきて、できるだけデフォルメされた斬新な、或いは人の目を驚かす像を作ろうとする意思から作られたものであろう。しかしこの土偶の像には、何かもっと別の不思議な意思が働いているように思われる。

内部が中空で体形がずん胴な為、全体が筒状になっている。   放心、絶望、悲しみの表情

 ハート形土偶と呼ばれる土偶と同じように、縄文後期の初めに作られた土偶に「筒形土偶」というものがある
 茨城県戸立石遺跡出土の筒形土偶は、顔の作り方はハート形土偶と似た点もあるが、胴体は太くて内は中空に作られている。この土偶の表情の面白さ。目は大きく描かれ、眉毛の下で固く閉じられている。放心したように口を開き何かあきらめたような、何か絶望したような顔をしている。胸には巨大な乳房を突き出し、豊満な女体を示している。奇妙なことは、腹部の中央に真一文字の盛り上がった線があり、その線の上下に穴が開いていることである。これは何か。これは普通人間の体には自然には存在しないものである。一体この穴の中央にある盛り上がった線は何を意味するのであろうか。

ボタン状の目や口が貼り付けられ、顔があたかもミミズクのように見えることから、この俗称で呼ばれている。
縄文後期の関東地方に特殊な形態である。

  固く閉じられた巨大な目

 縄文後期も後半になると「ミミズク型土偶」と言うものが作られてくる。この埼玉県真福寺貝塚から出土した土偶もその一例である。この土偶は実に面白い。この時代の髪型なのだろうか、鳥の鶏冠のように髪をたてている。何となくユーモラスである。しかし、土偶が元々持っていた放心の表情のようなものが、ここにもまた存在しているのである。ここにも明らかに女性の特徴が作られているが、やはり胸から腹にかけて、あの線状のようなものがはっきり認められるのである。

 青森県平貝塚出土の土偶はその代表的なものであろう。この土偶は実に堂々たる乳房を有し、東北地方に多い豊満な女性を思わせる。そしてこの顔や体につけられた文様は、亀ケ岡式土器につけられた文様と同じである。アイヌ民族の着物や器物につけられた文様とも甚だよく似ている。しかしここで異様なのは、やはり目である。瞼はまさに顔の半分を占めるような大きさであるが、その目は堅く閉じられているのである。この特徴ある目が遮光器土偶という名を付けさせた原因になろうが、縄文人が遮光器をつけていたとは考えられない。とすれば、この大きな、しかも固く閉じられた目の意味は難であろうか。

堂々たる乳房の遮光器土偶。表面はまるで濡れているかのような光沢を有し、中が中空に作られている。下半身を
欠いているが、数少ない優品の一つである。
上は顔の付いて岩版、下は女性器のような土版。

  あらゆる土偶に共通する要素

 左の白めのうをはめた土偶は、五体の肝要な部分を白めのうで表現している。土偶に似た、石で作られた「岩偶」もあり、石は土偶のように精密な形を作ることが出来ないので、一層抽象的になる。例えば、青森県熊沢遺跡で発見された岩偶は、顔はあまりはっきりしないが、やはり手足らしいものが描かれている。注目すべき事は、やはりあの腹の真ん中に線が実にはっきりと描かれていることである。

縦線の鮮やかな岩偶。
乳房が大きく突き出た山形土偶で、ぴんと張り出した乳房は、腹の膨らみまでもなく妊婦のモデルであることを示している。更に臍が開き気味である点など、妊婦の兆候を細部まで捉えている。

「土偶は女性である」

  土偶は女性である。これはどう見ても間違いないことのように思われる。土偶の中には女性の特徴である乳房がはっきり彫られているものが多い。この乳房はボタンのように印として作られたものから、遮光器土偶のような豊満な乳房を表したもの、又、垂れ下がった乳房のようなものなど、様々である。それに土偶の中には女性性器が、或いは具体的に、或いは抽象的に描かれているものがある。

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妊娠初期の土偶、竹管など管状のものの断面で付けられた
小さな丸い文様で乳房を示し、更にせり出した腹を強調している。ふくらみ具合から見て、まだ妊娠3〜4ケ月と言ったところであろうか。
リアルな土偶である。頭と手足を欠くが、胸から腹にかけての妊婦を示す写実的表現は見事であり、縄文人の観察力の鋭さが現れている。

 「土偶は子供をはらんだ像である」

  女性像は子供をはらんだ女性像である。例えば、美々4遺跡から出土した土偶は明らかにお腹が大きい。これははっきり妊娠した婦人の像である。又青森県亀ケ岡遺跡から発掘された土偶にも、はっきりした妊娠のあとがある。それほど著しくはないが、色々な像に妊娠の印らしいものが何らかの形で付けられているものが多い。そしてこれらの土偶には幼女らしいもの、老女らしいものは無く、全て出産可能な婦人の肉体をもっていることを考えてみても、土偶はやはり妊娠した婦人の像を表していると言って良いと思う。

左の丸顔の土偶。顔の形は丸くふくよかであるが、目元の彫りの深さなどに「縄文顔」の特色が現れている。腹部の縦線はのど元にまで達している。右は、縦に線の入った土版。
人体のモチーフにしたとは思えないほどデフォルメされているが、縦に走る線と女性器を表す丸い穴だけは残されている。
@入墨をした土偶。左手を失っている。口の周りの「刺突文」
は入墨であろう。A下半分を欠く岩偶。腰から下が無く、丹念に加工された上半身のみ現存している。B腹部を欠く土偶。腹部の辺りに貼り付けられたものが取れた後がある。妊婦の腹を表現したのであろう。
三角形土製品は、乳房など土偶の属性を有し、土偶の一変形と考えられる。

   土偶は神像ではない

  神像説。なかんずく女神像という説は魅力ある説であり、ユーラシア大陸の各地で発見されえている「大地母神像」と似ているところがある点、神像説は魅力的である。普通考えられる神像と言うものは、やはり崇拝の対象であり、何処かへ置かれることが適当であるが、土偶はあまり安定が良くないものであり、どこかへ置かれる事は相応しくない上に、どのような形であれ、丁寧に埋葬されることも神像にあるまじきことであり、まして、頭や手足をもぎとらて廃棄されるということは、神像の尊厳を否定するものであろう。神像説には従いにくい。

無気味な顔は、入墨と思われる横線が顔全体に施され、表情の無気味さを増している。
腕組みをしてしゃがむ土偶。何かの儀礼の際の姿勢であろうか。或いは子供を授けてくれた祖霊に感謝を捧げる祈りの
ポーズなのであろうか。

 生まれてくる子供は祖先の生まれ替わりである

  縄文人にとって最高の価値は生産である。それは人間の場合は子供の生産であり、又、獣の生産であり、植物の生産であった。そして、その生産の中心に性があることを原始人達はよく知っていた。性の行為によって子供は生まれる。性の行為は人間にとって最大の快楽である。そして、その最大の快楽は同時に、子孫の生産という、人類にとっても、植物にとっても、動物にとっても最も必要なことを可能にするのである。彼らは出産を性の行為と関係させた。しかし単なる性行為だけで子供の出産ができるとは考えなかった。子供出産には、祖先の霊の助けが必要なのである。つまり、性行為によって子供が生まれようとすると、あの世の祖先たちが集まって今度誰を帰すかを相談する。そしてその祖先たちの相談によって、あの世にいる祖先たちの誰か一人がこの世に送り帰されてくるのである。遺伝子の法則と言うものを科学的に理解する事はできなかったが、しかし、生まれてくる子供たちが親の面影を深く留めているということに気づかざるを得なかった原始人達は、やはり祖先の霊が介入によって、祖先の誰かが新しい子供となって生まれ変わってくると考えたのである。ここで全く新しい生はあり得ない。生は全て祖先の再生に過ぎない。死は、やはり新しい再生のための中間の時期、霊があの世での一休みする時期に過ぎないのである。


この土偶は子供の出産に関わっているものであると考えねばならない。土偶は全て女性像であり、しかもお腹に子供を
はらんだ女性像に限られるのであろうか。
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臨月間じかの土偶。尖った乳房や豊満になった体つきなどは、産み月が近いことを物語っているようである。

 死への思いやりから生まれた「埋甕」の風習

  人間の魂は、全ての生きとし生ける魂と同じように、全てあの世へ送られなければならないのである。しかし、あの世へ送られにくい魂がある。それは子供の魂である。祖先の霊が帰ってきて新しく子供として生まれたのに、その子は早く死んでしまった。子供は十分にこの世を見ることも無く死んだのである。この世の楽しい様々な快楽を経験することなく死んだのである。そのような子供の魂を、あの世へやるのは可哀想だ。あの世へ行けば又、当分あちらに滞在せねばならない。それが何十年、或いは何百年と掛かるかもしれない。殆どこの世で楽しい目を味わう事が無かった子供の魂をあの世へやるのは可哀想だ、という考えから子供の骨は家の中に埋められる。土器の中に子供の骨を入れて、それを家の入り口のところへ埋める。そして、その上の土を人が踏めば踏むほど子供の霊は早く帰ってくるのである。それは決められたようにあの世へ行って又帰るのではなく、直接に母の胎内に宿って、そして直ぐに帰ってくるのである。これは古代人の早く死んだ子供に対する哀れみの心から起こっているのか。それとも、この世へ再び帰ってきた祖先の霊には殆どこの世での良い目を見せずにあの世へ送ることの失礼さを詫びる心から出たことであろうか。いずれにせよ、そこには、誠に人間らしい感情が表れていると思う。縄文人の人間的な気配りを感じる。

   現代に伝わる妊婦葬送の風習

  このいささか奇怪に思われることが北海道にも本州にも、比較的最近まで行なわれたという例証がある。例えばアイヌの社会では子供をはらんだ女性が死ぬと一度その女性を墓に埋めた後に、シャーマンの老婆がその墓の中に入り、その母親の腹を裂き、その子を取り出してその母親に抱かせると言うのである。それは恐らく血が流れ、老婆も又血まみれて世にも凄惨(せいさん)な姿になるに違いない。それは一見残忍きわまる風習のように思われるが、その根底にあるのは、霊の再生という信仰であり、そしてそれは、死んだ母親や子供に対する深い思いやりの心を、その根底に持っているのであろう。このようなことがアイヌ社会の風習としてあったという。この話を私はアイヌの老婆から聞いたし、アイヌ研究者の藤村久和氏も証言している。しかし、そういう風習はアイヌ社会のみではなく、ついこの間まで日本の本州にもあったのである。山口弥一郎氏の調べた「死胎分離埋葬事件」というのが氏の著書に「妊婦葬送儀礼」として、次のように書かれている。「会津の山村、大沼郡宮下村で日雇い業の粟城つめよさん(40才)が、懐妊後間もなく内縁の夫に捨てられ、妊娠10ケ月の身で子癇(しかん)(一種の妊娠中毒症)で死亡した。その後葬式を出すため集まった親類や村の人達は、腹の子がもう少しで生まれるまでになって死んだのだから、この仏は浮かばれない。必ず化けて7年間はこの家の棟にまつわりつくに相違ないと語り合うたものだった。これを真面目に考え込んだ長男の寅夫君(18才)は、早速、親族会議を開いて相談の結果、退治を摘出することに決め、佐藤医師に頼んで、腹の子供を出して貰ったところ、女の双子であった。それで一つの棺に三つの死体を納めて埋葬の上、役場に二通の死産届を出した。

 ところが、この噂を聞きこんだ警察は死体損壊罪として摘発、関係者の取調べを開始することになった。そして、この事件は法の解釈問題で、厚生省から法務局へと意見が問われることになり、首席参事官の植松正氏が、現地調査に来た」「これらの昔話や伝説は、既に俗信の域に深く入り込んで、迷信と言うべきものになっているように見える。即ち妊婦の死んだ時は、必ず子供を腹から出して葬らないという幽霊になって出る。妊婦はいつまでも成仏できない。母親は死んでも、腹の子は生きている。棺の中で生まれることができる。墓の中で生まれて、その鳴き声が聞こえることがある。これを葬る時は二度あることは三度あるから、人形を一つ加えて三つの葬式をすることか、又どうしても出してやれない時は、人形を抱かせて葬れとも言う。産婦人科医に聞いたら、母親が死んでも胎内の児は極短い時間生きていることはあるとか。これらの俗信のため、死体損壊罪になるかどうかが問題化したこの際、果たして類例事実の確証が挙げられるかどうかと思い、調査を進めてみたところ、藁人形を入れて葬る事は、殆ど何処でもやっている事だった。開腹手術を実行する事は、医師でないと出来ないのでそうするものであると言うだけで、事実はやっていないところもあった。しかし医師は妊婦が死んだときは身を二つにしてくれと頼まれて解剖した事はあるらしい。医師の手で出して葬った事もあることが解り、この俗信の意外に広い分布が想像された」(日本の固有生活を求めて)このように福島県のある地方では極近年までこのような風習が残っていて、それが野蛮な風習だといって法令によって禁止されなければならないほど、そのような風習はこの辺り一帯に残っていたのだろう。土偶はこのような風習と関係があるのではないか。この話の中の、身二つになった死体を人形と共に葬ったという点に注意する必要がある。それはどのような人形か知らないが、土偶こそこのような人形の原形ではなかったか。妊娠した女性が死んだとき、腹を切って胎児を取り出し、その女性を胎児と共に土偶をつけて葬ったのではないであろうか。

 そのように考えると、前記の条件が全て十分に説明できるように思われる。中でも12の、土偶は全て妊娠した女性像であるという条件は、まさにこの土偶が、このような風習と関係があるものと考えれば的確に解るし、3の条件はその決定的な証拠であるように思われる。あの胸から腹にかけて深くえぐった線は、腹を割った傷としか思われないのである。多くの土偶には、ぱっくりと開いた傷跡があるし、そしてあの盛り上がった線のようなものも、別の形の心の傷跡の表現に違いないのである。或いはこれは、一旦切った傷跡を縫い合わせた形であるかもしれない。

九州の土偶。極めて単純な円と線による構成の中から、何か魂の呼び込みが聞こえてくるような、奥深い表情を秘めてる。

  土偶が物語る「思いやりの哲学」

 私はこのような難問を考え抜いた結果、土偶は造られたに違いない。子供をはらんだ母親が死ぬと、やはりアイヌ社会や福島県で少し前まで行なわれたような、あのようなことをした上で、又、土偶の埋葬の儀式が行なわれたのか、それともあのような凄惨(せいさん)な儀式を行なう代わりに土偶の埋葬、或いは廃棄の儀式が行なわれたのかわからないが、私はそれがこのような死と再生の儀式と深い関係を持っているに違いないと思うのである。

泣いている遮光器土偶。目は遮光器土偶独特の形態であるが、口元の表情は悲しみに打ちひしがれて慟哭(どうこく)する人間のものであるように見える。

 又、土偶が完成品で出土せず、多く首や手足を欠いて出土するのは、この埋葬と関係があると私は思う。何故なら、今日日本の社会と、特に最近までのアイヌの社会では、はっきり認められることであるが、葬式の時に、人間は茶碗や道具など色々なものを死者に贈るのであるが、この場合、必ず何らかの傷を付けるのである。傷を付けるのは、あの世はこの世とあべこべの世界であるという思想による。この世で完全なものはあの世で壊れる。この世で壊れたものはあの世で完全になる。とすると、壊れた土偶は本来あの世へ送り届けられるものとして造られたのではないだろうか。それは幾つかの例に見られるように、丁寧に埋められるか、或いは何処か別に廃棄されるにせよ、いずれにしても葬儀と関係のあるものではないか。 勿論、土偶にはまだ解らないところがある。しかし私はやはり、それは胎児をはらんだ母親の死、或いは葬儀に深い関係を持っていると思う。母親の霊をあの世へ送り届けるためにか、それとも母親をつけて子供の霊をあの世へ送り届けるためなのか分らない。いずれにせよ、子をはらんだまま死んだ女性と腹の子を哀れんでの、縄文人の深い思いやりから生まれた宗教的儀式であるに違いない。

「王冠を被った遮光器土偶」。大きな目を重要な特徴とする遮光器土偶の中でもひときわ眼窩(がんか)が大きく
全体の大きさも最大の優品である。内側は中空になっており、全身にわたって入念に飾りの文様が施されているが、特に頭上の王冠状の装飾は特徴的である。
典型的な遮光器土偶。臍が大きく開き、出産が間じかに迫っていることを示している。脚部を欠くが、遮光器土偶の特徴を明瞭に備えている。

   土偶の目が語る現代へのメッセイージ

  再生可能な人間の死体をシク()アン(ある)ライクル(死体)といい、再生不可能な人間の死体をシク(目)サク(なし)ライクル(死体)というのである。目は再生の原理なのである。この風習はその後日本にもある。例えば大仏開眼の行事や、或いは選挙でダルマに目を入れる風習などの中に残っているのである。

  遮光器土偶の巨大な眼窩、それは私は再生の願いを表すものであると思う。遮光器土偶は巨大な眼窩と、かたくつむった目の取り合わせによって人々を驚かせている。それを遮光器と名づけたのは、実はそれは偶然にもユーモラス比喩であるが、恐らくそこに土偶と言うものがつくられる最も深い意味が隠されていたに違いない。

  「人間の美術」縄文の神秘   (梅原 猛、筆者)

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