長江流域における世界最古の稲作農業
(国際日本文化研究センター教授、安田 喜憲)
古代の稲作
1 世界最古の土器を作った人々が稲作を開始した
東アジア北部は乾燥気候が卓越し、レス(黄土)と乾燥した草原が広がっていた。一方、長江以南の中国大陸から海面の低下のよって陸化した東シナ海には、海沿いにカシやシイ類を中心とする照葉樹林が、内陸部と北方には針葉樹林と落葉広葉樹林の混合林が生育していた。最終氷期の東アジアには、北と内陸部の草原地帯、南の海岸部の森林地帯という異質な二つの生態地域が明白なコントラストをもって分布していた。
近年の中国考古学の発展によって、土器の起源について新たな発見があいついでいる。中国における土器の起源については、暦年代2万年〜1万8千年前の最終氷期最盛期後半にまでさかのぼり得るものが発見されている。広西チュワン族自治区桂林廟岩遺跡、同柳州大譚遺跡では暦年代2万年前に遡る土器が発見されている。
湖南省道県玉蟾岩遺跡
玉蟾岩遺跡から発見された最古の土器
世界最古の土器はこうした長江中流域の南部で最終氷期最盛期後半の2万〜1万8千年前に誕生していたとみなしてよいであろう。
一方、日本列島北部からシベリア極東地域においてもロシアのガーシャ遺跡やフーミ遺跡、さらには青森県大平山元遺跡(東北縄文文化の幕開け、青森県大平山元遺跡 青森県蟹田町の大平山元(おおだいやまもと) 遺跡は、東北の縄文文化の幕開けを語るに欠かせない遺跡である。昭和46(1971)年、青森県立郷土館に寄贈された一本の磨製石斧がその発見のきっかけとなる。それまで、中部地方や青森県長者久保遺跡で散見されていた刃部のみに磨いた部分のある大形な石斧。この石斧こそ、旧石器時代末期の特徴的な磨製石器であった。
当時、この時期の遺跡に関しては、東北地方ではまだ本格的な調査例がなかった。そのため、郷土館は早速に学術調査を企画、その結果、この石器と同じ包含層から予想だにしなかった土器が出土したのである。この土器は非常に脆く、細片ではあったが、無文で隅丸方形の平たい底部をもつ鉢形土器であることが判明、それまで土器の伴わない段階と見られていたこの時代に、既に土器がつくられていたことを初めて明確に知らしめることとなった。時あたかも、茨城県後野(うしろの)遺跡から、旧石器時代終末期の大陸起源の石器細石刃に伴う無文の平底土器が発見され、縄文土器が九州北部の“歴史的事件”として発生し次第に日本列島を東進していったというそれまでの考えに、再考が促された矢先でもあった。
大平山元遺跡から出土した土器は、縄文土器の祖源を示すものであると同時に、土器の起源が、かつて山内清男の主張したように、樺太・北海道経由の北方ルートを通って、遠くシベリアに求められる可能性を再び示すものともなった。ただ、現在でも、この土器の評価については研究者によってまちまちで、必ずしも定まってはいない。
縄文土器の起源は、口縁部にみみずばれ状の装飾のある「隆起線文土器」が、北海道以外の日本列島各地に分布した明確な様式を持つ最古のものとして語られるが、大平山元遺跡から出土した土器はそれに先行する、さらに祖源的な土器と目され、組み合う石器も旧石器時代末期のものである。しかし大陸側には、今のところ、1万年以上の古さを持つ土器の発見がないのである。
しかし、いずれにせよ、日本最古段階の土器のひとつが、津軽半島から出土している事実は、縄文文化黎明期の東北地方に、それを十分受け入れるだけの文化力が備わっていたことを意味し、重要である。「東北文化資料室」http://www.netcity.or.jp/michinoku/izakaya/jyomon/j32nagare1.htmlより)
中国河北省虎頭梁遺跡などから、1万6500年前に遡る土器が発見されている。
こうした世界最古の土器の出土地点を最終氷期の古地理図に落としてみると、興味深い事実が明らかとなる。大半の最古の土器の出土地点が森林地帯に近接して分布するのである。しかも、そこには小柄で短頭の湊川人とワジャク人に代表される「森の民」が生活していた。このことから、最終氷期最盛期が終末に近づいた頃、「森の民」が、いちはやく土器作りを開始し、世界に先駆けて定住生活に入ったということが出来るだろう。氷期から後氷期の気候変動の中で、いち早く森林環境が拡大した中国南部において、土器は2万〜1万8千年前の最終氷期最盛期後半に出現し、1万6500年前には日本列島北部から沿海州において土器づくりが始まった。
2 定住革命から農耕革命へ
土器づくりをいち早く始め、定住生活に入った「森の民」が、稲作農耕を開始した。これまで稲作農業の起源は雲南省を中心とする東亜稲作半月弧で、せいぜい遡っても5千年前に起源したとみなされていた。しかし、近年の発見によって、稲作は長江中流域で一万年以上前に誕生していたことが判明した。玉蟾岩遺跡から出土した最古の土器と4粒の稲籾が、これまでのところある程度信頼のおける事例である。玉蟾岩遺跡の土器の暦年代1万8000〜1万7000年前まで遡ることは間違いないだろう これまでの結果を見る限り、稲作は長江中流域で始まったとみなしてよい。最古の土器を作った人々が住んだ仙人洞遺跡や吊桶環遺跡などのタワーカルストの洞穴遺跡からは、暦年代1万5千年〜1万4千年前まで遡るイネのプラントオパール(イネ科の植物の細胞壁に珪酸が沈着して形成される植物珪酸体。物性安定しており、植物体が分解された後にも残る)の証拠が発見されている。しかし、プラントオパールだけでは、なかなかか確実な証拠とみなされない。
そうした中で玉蟾岩遺跡から出土した最古の土器と4粒の稲籾が、これまでのところある程度信頼のおける事例である。玉蟾岩遺跡の土器の暦年代1万8000〜1万7000年前まで遡ることは間違いないだろう。しかし、暦年代1万5300〜1万4800年前という稲籾の年代については稲籾そのものの年代測定値ではなく、稲籾を含む地層中の炭片の測定値であるために、絶対的なものとはみなしがたい。私は何度も、この稲籾そのもののAMS(加速器炭素14C年代測定法)による年代測定をお願いしたが、現時点ではいまだ実現できていない。従って現時点では、絶対的に信頼できるものではないが、最古の稲作1万4千年前にまで遡る可能性が高いという段階にとどめておくのがよいであろう。
麦作農耕の起源については、晩氷期の1万2800〜1万1500年前のヤンガー・ドリアス(晩氷期の寒冷期の一つ)の寒の戻りが、食料不足を引き起こし、これが人々を栽培に向かわせたという説がほぼ確実になった。我々の麦作農耕の起源に対する説を受けて、稲作農業もこのヤンガー・ドリアスの寒冷期に引き起こされたという説を唱える研究者もいる。しかし、それは納得できない。なぜなら、最古の稲作農耕遺跡の分布は、野生イネ(Oryza Rufipogon)の分布の北限地帯に位置しているからである。
現在においても、野生イネの北限地帯に相当する長江中流域において、ヤンガー・ドリアスの寒冷気に野生イネが生息できたとは、みなしがたいからである。玉蟾岩遺跡における最古の稲籾の年代である1万4千年前は、氷期の寒冷気候が急速に温暖化したベーリングの亜間氷期に相当しており、亜熱帯起源の野生イネが、拡大できる気候条件に備わっていた。
確実に稲作が行われていたとみなされるのは、湖南省陽平原に位置する八十遺跡や彭頭山遺跡である。これらは洞穴遺跡ではなく開地式遺跡であり、これまでの玉蟾岩遺跡などの洞穴遺跡とは異なる立地をしている。彭頭山遺跡出土の炭化米の年代は、暦年代8650〜7900年前、八十遺跡から出土した籾殻のAMS年代は7800〜7600年前であった。彭頭山遺跡は面積5〜6万平方メートルにも及び、大きな集落遺跡である。このような巨大な農耕集落が突然誕生するとはみなしがたいので、稲作の起源はそれよりはるかに以前であるとみなして差し支えないであろう。このことから長江中流域において稲作に立脚した稲作農耕集落の誕生が暦年代8千年前まで遡ることは確実であり、稲作農耕の起源はそれよりもはるか以前の1万年以上前、恐らく、1万4千年前頃まで遡る可能性が極めて高いといってよいであろう。
これまで中国最古の稲作遺跡として注目されていた長江下流域の浙江省河姆渡遺跡の暦年代7600〜7030年前よりは、長江中流域の稲作の起源は古いとみなしてよいであろう。稲作農業は長江中流域で8千年前には、確実に巨大な稲作農業集落を誕生させていた。
そして重要なことは、この稲作農耕は、ヒツジやヤギなどの家畜を伴っていなかったことである。稲作農耕民はタンパク源を森の中の野生動物や湖沼に生息する魚類に求めた。森の中で定住生活を開始し、土器作りを始めた森の狩猟・漁労民が、稲作を開始したのである。晩氷期から後氷期の気候の激動の時代に森を拡大してきた。人類はその森と湿地草原のおりなす環境に適応し、森の中で定住生活を開始する。この森の狩猟・漁労民が植物栽培の技術をマスターし、新たな食料の獲得戦略を必要として、稲作農耕を誕生させたのである。森の狩猟・漁労民が最初に出会った野生イネは、完熟するとその実は直ちに脱粒してしまい、食料にはならなかった。ところがその中に、突然変異で脱粒性を失ったものを発見したのである。彼らはその脱粒性を失ったものを選択的に集めることによって、栽培稲(Oryza sativa)を作り出し、稲作農耕への第一歩を踏み出したのである。
(厳文明・安田喜憲編著「稲作陶器都市的起源」)