稲作


古代の稲作

     稲作

  前400年頃   稲作が九州北部に定着

  縄文時代晩期、九州北部に中国大陸から効率的な水田稲作技術がつたわり、まもなく本格的な稲作が行われるようになった。そして前3世紀ごろになると西日本一帯で水田開発が急速にすすむ。この新しい稲作文化は前2世紀後半までに東北地方まで広まったと考えられ、弘前市の砂沢遺跡では弥生時代前期とされる本州最北端の水田跡が発掘されている。なお近年、全国各地の縄文時代の遺跡からイネの痕跡(こんせき)をしめす炭化米やプラントオパールが発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期はさらにはやまる可能性が指摘され、農耕の起源についても議論がつづいている。

菜畑遺跡・復元

稲作 いなさく イネ(稲)を栽培することで、西アフリカやアメリカ合衆国、イタリアなどでも栽培がおこなわれているが、日本をふくむアジアモンスーン地帯では主要な農業形態となっている。

田植え 苗代で育苗した成苗を1株ずつ手作業でうえる田植えの風景。日本でも昭和30年代までは、こうした風景がふつうにみられた。田植えは、人手が必要なだけでなく、長時間にわたる大変な重労働であった。

  栽培イネの起源地については東南アジア低湿地説にかわり、近年はアッサム?ヒマラヤ?雲南地方の高緯度地帯とみる説が有力になっていた。しかし最近、中国湖南省の彭頭山(ほうとうざん)遺跡から、野生種から栽培種への過程をしめす籾痕(もみこん)のある約9000年前の土器がみつかった。さらに、1997年に同省の長江(揚子江)中流域から栽培イネ1万2000粒が発掘されるなど、長江流域説が急浮上している。

   II  稲の種類と特徴

    1  インディカとジャポニカ

  イネ 東南アジア原産。米をとるために栽培される。ほとんどの品種が生育期の大半を通じてひじょうにしめった土壌を必要とする。現在では広くアジア、アフリカ、南アメリカで栽培され、コムギについで世界第2位の生産量がある。

  栽培されるイネには、大きくわけて日本型(japonica:ジャポニカ種)とインド型(indica:インディカ種)の2種類があり、それぞれ栽培されている地域がちがう。また、イネは変異性にとみ、世界に広く分布しているので、栽培方法によって水稲と陸稲にわけられるほか、栽培時期によってもさまざまな分類がなされる。

もみ(籾)が丸みをおびていて、味が濃厚でご飯にすると粘りの強い日本型のイネは、日本人の好みにあい、なじみの深いイネであるが、世界的には、もみの形が細長く、粘りの少ないインド型のイネのほうが多く栽培されている。

日本型のイネは比較的高緯度の地域で栽培され、日本をはじめ、朝鮮半島、台湾、中国大陸の長江以北の平坦地、アメリカのカリフォルニア州などで栽培されている。これに対してインド型のイネは、中国の長江以南、東南・南アジア各国の平坦地、アフリカ諸国など熱帯の主要米産国で栽培され、栽培面積や生産量は日本型のイネにくらべてはるかに大きい。

   2  水稲と陸稲

  灌漑水をもちいたり、水をたたえた耕地に栽培するイネが水稲である。灌漑をおこなわないで畑地に栽培するイネが陸稲である。もともとイネは水生植物であり、世界的にも水稲が圧倒的に多いが、東南アジアの山岳地帯などのように、水利がととのわず陸稲が重要な畑作物となっている地域もある。また、水稲の中には、東南アジアのメコン・デルタ(→ メコン川)やインドのガンガー(ガンジス川)流域のような洪水地帯で、深さ3mもの水におおわれた水田で栽培される浮き稲とよばれるものもある。

栽培時期の違いによっても、その時期の気候などにあわせて、いくつかの種類があり、インドやミャンマーで雨季に栽培する晩生種はアマンaman(冬米)、早生種はアウスaus(秋米)、乾季に栽培するイネはボロboro(夏米)とよばれている。

   3  三大穀物

  米は、コムギ、トウモロコシとならぶ世界の三大穀物のひとつである。とくに米はその栄養価値や食味上の特性のために、長い人類の歴史の中で世界各地へと広く伝播(でんぱ)し、保存されてきた。三大穀物のうち、米は世界でもっとも多くの人々の主食となっており、米を生産するための作物であるイネは、熱帯から温帯にかけて世界じゅうで広く栽培されている。栽培面積と穀実の生産量では、いずれもコムギについで第2位となっている。

   III  緑の革命と米

  コムギ、トウモロコシ、米という世界の主要三大穀物を品種改良することによって、在来種とくらべて2〜3倍もの高収量を可能にする品種が開発された。これは「緑の革命」とよばれ、第2次世界大戦後の世界の食糧増産にもっとも重要な貢献をした。この開発は、多くのラテンアメリカやアジア諸国で穀物の増産をもたらし、まさに画期的な技術革新となった。

  1  高収量品種

  1962年にはフィリピンで国際稲研究所(IRRI)が設立され、IR-8などのイネの高収量品種が次々と開発され、やがて多くのアジア稲作諸国に新品種が普及することとなった。

  技術的には、これらの新品種は矮小(わいしょう:背丈の低いこと)であり、多く肥料をあたえてもよく吸収するという耐肥性にとむ。また季節による日照量の変化に影響されにくい非感光性であるために、1年に2〜3回は収穫可能であるという特徴をもつ。

  しかし同時に、これらの高収量品種は、病害虫に対する抵抗力が弱く、しかも化学肥料をじゅうぶんに投入し、最適な水利条件を用意しなければ、高い潜在力を発揮できないという欠点をもっている。つまり、高収量という恩恵をえるためには、じゅうぶんな肥料と水、農薬による病害虫の化学的防除が不可欠の条件となるのである。

  IRRIで開発されたIR-8などのイネの高収量品種は、1960年代中ごろから普及しはじめ、改良品種の出現とともに、70年代末までに熱帯アジアの水田面積の約3分の1、コムギについては全面積の半分以上にまで高収量品種が普及し、食糧不足になやむ多くの途上国の増産に大きく貢献した。その結果、インドと中国では、80年代末までに食糧輸入国から輸出国となった。インドネシアやフィリピンでも米の自給が、そしてパキスタンではコムギの自給が達成された。

   2  その限界

   しかし、1980年代にはいると、緑の革命は新しい段階をむかえる。70年代末ごろまで順調にのびてきた灌漑面積と高収量品種の普及の伸び率は、多くの国で大幅に鈍化しはじめた。1ha当たりの化学肥料投入量についても、一部のアジア諸国をのぞけば、ほとんどの途上国で近年では伸びが鈍化しはじめている。緑の革命は、社会的経済的な制約にくわえて、資源や環境面での新しい制約をどのように克服するのか、一つの大きな転機をむかえている。

   IV  アジアモンスーン風土と米

   1  自給のための栽培

  米は生産量では三大穀物にはいるが、総生産量に対する貿易量の割合でみると格段に小さい。生産量に対する貿易量の割合を比較すると、コムギの場合は世界の生産量の約15〜20%、トウモロコシの場合は約10%であるのに、米ははるかに小さく、5%にみたない。コムギやトウモロコシが、おもに販売や輸出という商業目的で生産される傾向が強いのに対し、米はアジアを中心に自給目的の生産が中心となっているのである。

   2  米の重み

  タイの稲の刈り入れ 米はタイの主要農作物で、おもに東部のコラート高原やチャオプラヤ川流域が米作地帯となっている。しかし、河川の氾濫などで収穫量が不安定となるため、政府は洪水調整など科学的な水田開発計画を実施している。

  イネが湿潤な気候をこのむ作物であるために、米はアジア、とくにアジアモンスーン地帯で多く生産、消費され、世界の米食民族も大部分が日本など東アジアや東南アジアに集中している。世界の米生産の90%以上がアジアに集中しており、同時に、アジアで生産される穀物の大部分は米となっている。

  もちろん、欧米諸国においてもスペイン、イタリア、アメリカ合衆国などではわずかながら水田が存在し、稲作がおこなわれているが、日本やアジアの諸国では水田が圧倒的に多く、比較にならないほどの重要性をもっている。日本の歴史においては、これまで水田としてつかえる土地はすべて水田として開墾され、それが不可能な所だけが畑地としてつかわれてきたといえるほどである。

   3  乾田と湿田

  ところで、水田は、その状態や機能によって、次のように分類される。必要に応じてじゅうぶんに排水できる水田は乾田であり、これに対して、排水困難で常時水をたたえた湛水(たんすい)状態にある水田を湿田という。さらに、河川、池沼や地下水などを水源として、灌漑施設によって灌水される水田を灌水田という。また、灌水施設を欠き、もっぱら天水をあつめて水稲栽培に利用する水田を天水田という。  

  イネ(水稲)は、湛水条件で栽培される唯一の穀物で、生産力が高く、しかも安定している。これはイネそのものの優秀性のほかに、水田土壌が肥沃(ひよく)であることに由来する。アジア稲作地帯の人口密度の高さは、イネの高い生産性と安定性にささえられて生じたものである。

  水田は、土壌有機物が分解されにくい、土壌の酸化還元電位(pH)が中性近くにたもたれる、土壌中のリン酸がイネに利用されやすい形態となる、イネが吸収するかなりの量の無機養分が灌漑水から供給される、雑草の発生が抑制される、などの特徴をもつ。これらは、いずれも水田が水を湛(たた)えることからくる特性である。

  さらに、湛水下では有害な微生物センチュウが死滅し、有害物質もあらいながしてくれる。そのため、イネは同一の場所で何年もつくりつづけること(連作)ができる。同じイネでも、陸稲を同じ畑で2〜3年もつくりつづけると、連作障害をおこし、収量はいちじるしく減少してくる。

  一般に植物は、湛水条件では根が酸素不足となり生育できないが、水生植物であるイネは、酸素を地上部から根へ供給することのできる通気組織をもっているため、湛水条件でも生育が可能なのである。

   5  表作と裏作

  日本の水田においては、昭和40年代ごろまでは、夏季に水稲をつくった後、冬季には可能なかぎりムギ、ナタネ、野菜、牧草などが栽培されてきた。これらの水田の冬作物を裏作といい、夏作のイネは表作とよばれる。また、表作の水稲作の後につづいて裏作がつくられる水田は二毛作田であり、表作だけしか作付けされないものは一毛作田とよばれる。

   V  世界の米生産と貿易

  世界全体で生産されている米の生産量は約5億2300万t(1994年、籾ベース)である。そのうち9割以上がアジア地域で自給的に生産され、その貿易比率は生産量のわずか4.8%にすぎない。このため、生産量のわずかな変化や需要の動向によって国際価格は大きく変動する。

  たとえば、日本が1993年産米の不作から緊急輸入をきめた93年度についてみてみると、1t当たりの米価は、最低の220ドルから最高の420ドルまで上昇し、約200ドルもの変動がみられた。なお、同年の貿易量割合が18.2%だったコムギの場合には、最低の105ドルから最高の144ドルまで約40ドルの変動だった。このように、米の国際価格は相対的に乱高下しやすいという特徴がみられる。

  米の輸入国は、アジアとアフリカを中心に全世界で130カ国にものぼるが、そのほとんどが開発途上国である。日本が1993年におこなった米の緊急輸入(259万t)は、こうした途上国の人々の生活にも大きな影響をあたえてしまったことになる。

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   VI  日本の稲作

  日本の近代的な稲刈り 日本の農業は、はやくに機械化され、いまでは年寄りにでも田植えや稲刈りができるようになった。しかし、若者の農業離れがつづき、稲作も危機的な状況にある。

   1  日本の稲作の起源

  弥生(やよい)土器の中には表面に稲作農耕を裏づけるイネの籾痕のあるものがあり、研究者の多くは、日本での早期からの稲作文化の存在を予想していた。その後、各地で炭化米も発見され、低湿地などでみつかった農耕用木製品などとあわせて、戦前には日本での初期稲作農耕の規模や内容まで議論がすすんでいた。

  日本列島にはイネの栽培種が中国、長江下流域の江南地方からつたわったことがわかっているが、そのルートについては4つの説がある。

  第1は、陸路で朝鮮半島にはいり玄界灘をわたって北九州へ、第2は、陸路で山東半島から東シナ海をわたって朝鮮半島にはいり玄界灘をわたって北九州へ、第3は、江南から南シナ海をわたり朝鮮半島へ、さらに玄界灘をわたって北九州へ、第4は、江南から島伝いに沖縄・奄美諸島をへて九州へという説である。

  このとき日本にはいったのはジャポニカ種だが、今後、朝鮮半島の考古学調査などで同種のイネが発見されればルート問題は解決されるだろう。

   1A  初期の稲作の実態

  菜畑遺跡の復元水田 菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。佐賀県唐津市。唐津市教育委員会 

 

  石包丁 北九州で出土した磨製石包丁。包丁とはいうが、切るというよりはつむ収穫具である。2つの穴(あな)に紐(ひも)をとおして指にかけ、イネなどの穀物の穂首の部分に石包丁をそえて穂をつみとった。弥生時代後期になると根刈用(ねがりよう)の鉄製の手鎌がつかわれるようになり、きえていった。東京国立博物館所蔵

  縄文晩期から弥生初期に日本につたわった水稲は、当然、稲作耕作者かその技術を知る人をともなったはずで、当時の大陸や半島の最新レベルにあわせて稲作の耕作地がきめられたようである。これまでみつかった初期水田耕作跡の立地は、谷奥地や後背低地、氾濫原などさまざまである。弥生時代の水田ははやい段階から畦畔(けいはん)により区画され、福岡市の板付遺跡では幅約80〜100cm、高さ30cmの畦(あぜ)でかこまれ、群馬県の日高遺跡では丸太や小枝をくんで芯にした畦がつくられていた。

  垂柳遺跡の水田跡 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕を裏づける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。田舎館村歴史民俗資料館提供 

当時の水稲耕作の収量レベルは、出土例は少ないが、弥生前期から中期を中心とする福岡県の横隈遺跡や、奈良県の多(おお)、唐古・鍵両遺跡などでみつかった稲穂から、1反当たり約60kg以下という見解もでており、これは今日の平均である1反当たり約500kgの8分の1以下で、生産性はかなり低かった可能性がある。くわえて気候や病虫害などのマイナス要素があり、実際の収量はさらに低かったかもしれない。

   2  新田開発と品種改良

  日本の米の総生産量は、奈良時代が約100万t、江戸時代が約200〜300万t、明治時代が約600〜700万t、そして昭和20年代になると1000万tをこえるまでになった。これは、新田開発と土地改良、栽培技術の向上、そして品種改良によるものである。

   2A  新田開発

日本で新田開発が盛んにおこなわれたのは、条里制施行時代、戦国期から近世初頭、明治30年代の3つの時期である。

水田は谷間の沢田や山の棚田からはじまり、4〜5世紀に古代国家が形成されるころは、盆地や沖積平野の周辺部に進出してくるようになって、奈良時代の水田面積はおよそ100万haに達していた。

しかし、その後は大河川の制御が困難だったため水田面積の拡大は停滞する。

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   2A1  戦国期、江戸時代

  印旛沼干拓工事のようす 天保の改革で計画された第3回目の工事。これは鳥取藩がおこなった水抜きのための廻し堀工事で、右に水抜きする足踏み水車がみえる。「続保定記」より。東京大学史料編纂所所蔵 

  これをうちやぶったのが戦国大名たちである。彼らは築城や鉱山採掘技術を用水土木工事へ応用したのである。武田信玄は信玄堤を、加藤清正は乗り越え堤をきずいて治水をおこなった。

  徳川幕府も利根川の付け替え工事をおこなった。利根川はかつて現在の江戸川、中川筋をながれて江戸湾(→ 東京湾)にそそいでおり、関東平野は荒川、利根川、渡良瀬川がながれる不毛の低湿地であった。これを銚子方面に東進させ、荒川を西によせ、江戸川を開削することによって治水をおこない、新田が開発された。

  また、関西では大和川の付け替え工事がおこなわれた。大阪平野は北東からの淀川と南からの大和川の合流する湿地帯であった。1700年代初頭には、河内平野を北上していた大和川を、現在のように堺のほうへ西進させる工事がおこなわれ、大和川跡に多くの新田が開発された。

  こうして、1000年以上手つかずでのこされてきた大河川沿岸の沖積平野が、一挙に水田として活用されるようになった。

さらに、児島湾などのような浅瀬の海や印旛沼などの湖沼を干拓した新田開発もおこなわれた。

  その結果、江戸初期に120万haにすぎなかった水田面積が、江戸中期には160万ha、明治初期には250万haと大幅に拡大した。このような新田開発が可能になったのは、土木工事技術の飛躍的な進歩による。

   2A2  明治以後

  幕府の解体にあたっては、明治政府が士族授産のため大規模な開墾を実施した。また、第1次および第2次世界大戦前後も食糧の確保あるいは失業人口の吸収などのため、政府によって大規模な開拓がはかられた。

   2B  品種改良

  日本で組織的なイネの育種がはじまったのは、1893年(明治26)に国立農事試験場が設立されてからである。それまでの品種改良の主体は、もっぱらイネを栽培する農民自身で、お伊勢参り(→ 伊勢信仰)や善光寺参りを利用して種子の交換をしたり、在来品種の中で自然に生起した変異体の中から、優良個体をみつけて選抜する分離育種法がおこなわれていた。かつて、日本三大品種といわれた神力、愛国、亀の尾は分離育種法による民間育成品種である。

  しかし、分離育種法では、ある程度選抜をつづけると、それ以上は改良の効果が期待できなくなる。そこで、1904年ころからは人工交配によって新品種をつくりだす交雑育種法が開始され、育種の効果が一段と高められた。その結果、水稲の単位面積当たりの収量(単収)は1ha当たり江戸時代に1〜2tであったのが、1930年代では3t、さらに1980年代になると5tに達するようになった。

   2B1  耐肥性品種

  その内容をみていくと、明治の初めから今日までの単収のいちじるしい増加は、窒素施用量の増加と、この条件に適した品種、すなわち短稈(たんかん)、強稈でたおれにくく、草型が直立で受光態勢がよいなどの性質をもった耐肥性品種の育成におうところが大きい。

   2B2  耐病虫性品種

  同時に、多窒素がもたらす各種の病害虫の発生を抑制するために、耐病性品種も重要な育種目標となった。とくにイネの病害虫の中で、いもち病がもっとも重視され、これに対する抵抗性を強化する育種がすすめられてきた。

   2B3  耐冷性品種

   北日本や山間高冷地では、耐冷性品種の育成が冷害の軽減と克服に大きく貢献している。耐冷性品種は栽培限界の北進をもたらした。北海道の稲作は、明治初年は道南の一部にかぎられていたが、赤毛、農林11号などの早生(わせ)耐冷性品種が育成されるたびに北進をつづけ、1930年代後半には北海道のほぼ全域で稲作が可能になった。

   2B4  良食味米

   一方、米の自給率の向上とともに良質化の要求も高まり、1960年代後半からは食味が良好であることが重視されるようになってきた。一般に、タンパク質とアミロース含量の高い米は、粘りが少なく、かたい米飯になり、それらの含量の少ない米は粘りのある、やわらかい米飯になる。コシヒカリやササニシキなどが代表的な良食味米品種である。

   2B5  直播栽培用品種

  直播(ちょくはん)栽培は、所用労働時間の短縮と低コスト生産に有効な手段である。低温発芽性、初期伸育性、耐倒伏性などの特性をそなえた直播栽培用品種の育成がすすんでいる。

    2B6  超多収、ハイブリッドライス

   米の低コスト生産および飼料など他用途利用を可能にする超多収品種の開発がすすめられている。この研究で開発された品種の単収は、従来の品種の1.5〜2倍ときわめて高い。交雑によってつくられた雑種初期世代、とくに雑種第1代(F1)の植物は、両親の平均あるいはそのいずれよりも生育が旺盛で収量も増大する場合が多い。この現象(雑種強勢:ヘテロシス)を利用した品種開発もおこなわれている(→ 雑種)。

   2B7  これからのイネの育種

 近年では、組織培養、細胞融合、遺伝子組み換えなどバイオテクノロジーの育種への応用がこころみられている。
 今後、栽培地域のいっそうの拡大をめざした耐塩性や耐旱(たいかん)性など環境ストレス耐性にすぐれた品種の育成、あるいは農薬による残留毒性や汚染問題が深刻になってきた今日、農薬の使用量をできるだけ少なくすることのできる耐病虫性品種の育成などがさらに重要になってくるだろう。

    VII  水田の多面的な役割

  水田は、米という基礎的食料を生産しているだけではなく、集中豪雨から洪水をふせぐダムとしての役割をはたすなど、水源涵養(かんよう)機能とよばれる重要な役割をはたしている。日本の水田の総貯水能力は東京都民の水使用量の37年分に相当し、この貯水機能を経済的に評価すると年間4兆7000億円にも達すると計算されている。

  水田はこれ以外にも、水質を浄化させ、地域の生態系を保全するなど、国土や環境を保全するという重要な役割をはたしている。これらの目にみえない価値を経済的に評価すれば、年間12兆円の経済効果をもつとの試算がなされている。

   1  土砂流出をふせぐ

水田でつかわれる灌漑用水の75%は地下水や河川水となり、下流で再利用されている。また、水田は土砂の流出もふせいでいる。水田、畑、森林をふくめた農林地全体が流出をふせいでいる土砂の量は約58億m3、霞が関ビルの1万1000杯分に相当するといわれる。上流部の水田域をコンクリートでかためて市街化すると、集中豪雨により下流の都市部で浸水被害がおきやすくなるなど、下流の都市環境にもさまざまな悪影響がおよぶのである。

日本の水田面積は昭和50年代以降、年々減少しつづけており、しかも山間地域での棚田が次々と耕作放棄されている。そこで、これらの水田の多面的役割をみなおすとともに、水田を保全し維持管理するための新しい政策対応がもとめられている。

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   ユンナン省(雲南省)

  ユンナン省(雲南省) ユンナンしょう 中華人民共和国の西南端にある省。南はベトナム、ラオス、西はミャンマーと接する。東にユンコイ高原(雲貴高原)、西にシャン高原があり、メコン川の上流であるランツァン(瀾滄:らんそう)江、長江が省内をながれる。北高南低で、平均標高は約2000m。亜熱帯、熱帯モンスーン気候で、寒暖差が10°Cと小さく、「四季春のごとし」といわれている。中国で少数民族数がもっとも多い省で、イ(彝)、ペー(白)、ハニ(哈尼)族などの少数民族が全省人口の3分の1を占める。面積は39万4000km2。人口は4333万人(2002年)。省都はクンミン(昆明)である。

  クンミン(昆明)の石林 ユンナン省(雲南省)昆明市内から南東120kmの所にある名勝「石林」は、高さ20〜30mの奇岩、怪石がたちならんでいる。

 

   II  経済

  非鉄金属、香料、漢方薬材など産物の種類はきわめて豊富である。山間盆地などでは米、トウモロコシ、小麦が、ラオス・ミャンマーとの国境に近いシーサンパンナではゴム、サトウキビなどの亜熱帯作物が栽培されている。雲南のタバコは「雲煙」とよばれ、とくに有名である。プーアル茶や「雲南白薬」などの漢方薬材は特産品として知られる。昆明の発電、鉄鋼、精密機械、工作機械、化学、巻タバコ、トンチョワン(東川)の銅、コーチウ(箇旧)のスズ、ターリー(大理)の大理石加工などの工業が発達する。

  昆明からチョントゥー(成都)、コイヤン(貴陽)、ホーコウ(河口)へのびる3本の鉄道は交通の動脈で、昆明と省内各地をむすぶ道路網も整備されている。地元の雲南航空公司は国内線のほか、ヤンゴン、バンコクへの国際線も運営している。

   III  観光と文化

  タイ族の水かけ祭 太陽暦の4月中旬、シーサンパンナのタイ族は正月をむかえる。人々は寺院へおもむき、仏像に水をそそいだあと、老若男女たがいに水をかけあい、厄をはらって新たな福をむかえようとする。この正月行事を中国では撥水節(はっすいせつ)とよんでいる。鎌澤久也/(c) 芳賀ライブラリー 

  昆明の西山景勝区、円通寺、「天下第一の奇観」といわれる石林、大理の三塔、シーサンパンナの亜熱帯植物研究所など数多くの名勝史跡や名所がある。旧暦3月の大理のバザールやタイ暦の正月にあたる4月中旬のシーサンパンナの「水かけ祭」など少数民族の伝統的な祭礼には、内外から多くの観光客がおとずれる。

  州内には雲南大学など26の大学、166の国公立研究機関、10以上の民族歌舞団、民族映画製作所などがある。航海家の鄭和、中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲者で、亡命先の藤沢市鵠沼海岸で謎の水死をとげた聶耳(じょうじ)などの出身地である。

   IV  歴史

  雲南はもともと少数民族の地であり、昆明を中心とする地域には?(てん)国とよばれる少数民族の王朝があった。前109年漢の武帝は?国王に「?王之印」の金印をおくった。三国時代には諸葛孔明が南征し、この地の王孟獲を7度とらえ、7度ゆるしてついに蜀に帰属させたという。1274年元は雲南行中書省をもうけ、役所を昆明においた。ここから雲南が行政区域として使用されるようになった。1942年以降2年余にわたって日本は「ビルマ・ルート」をたつため占領下においた。49年、人民解放軍によって解放された。

  近年、ベトナム、ラオス、ミャンマーとの国境貿易が活発にすすめられている。1994年末までに省内の外資直接投資額は6500万ドルに達し、三資(合弁、合作、全額外資)企業は1018社にのぼった。

   フーナン省(湖南省) 

  フーナン省(湖南省) フーナンしょう 中華人民共和国の中南部、長江中流の南部、ナンリン山脈(南嶺山脈)の北部に位置する省。中国第2の淡水湖トンティン湖(洞庭湖)の南にあることから省名が生まれた。東、南、西の三方を山にかこまれ、北部には海抜50m以下の洞庭湖平野が広がる。漢民族のほか、人口が100万人をこえるミャオ(苗)、トゥチャ(土家)族をはじめとする40の少数民族が、おもに西部と南部の山地にすむ。面積は21万500km2。人口は6629万人(2002年)。省都はチャンシャー(長沙)。

  トンティン湖〔洞庭湖〕 フーナン省(湖南省)北部、長江(揚子江)の南側にある中国第二の淡水湖である。これは北東端のユエヤン(岳陽)の近くの景色。湖南の瀟湘(しょうしょう)は古くから景勝の地として知られ、瀟湘夜雨や洞庭秋月などが「瀟湘八景」とよばれて詩や絵画の主題となった。

 

   II  経済

  古くから「湖南と湖北で実りが多ければ、天下はみちたりている」といわれるほどの穀倉地帯として知られてきた。とくに稲作が盛んで、1993年の生産量は2343万tに達し国内で1位をほこる。養豚業も盛んで、長沙から毎日数千頭分の豚肉が国内各地、とくにコワントン(広東)省、ホンコン(香港)などにむけて出荷されている。洞庭湖周辺では淡水魚の養殖がおこなわれ、「湘蓮」という蓮根は国内的によく知られている。非鉄金属、機械、発電、採炭、鉄鋼、紡績などの工業が発達する。自動車の電装品製造は中国最大の規模をほこる。伝統的な工芸品としては長沙のししゅう、リーリン(醴陵:れいりょう)の磁器、シャオヤン(邵陽)の竹細工、リゥヤン(瀏陽)の花火などが有名である。

  洞庭湖を中心に水運が発達する。ペキン(北京)〜コワンチョウ(広州)鉄道など5本の幹線鉄道が省内をはしり、自動車網は長沙、ホンヤン(衡陽)を中心にして省内各地にのびている。

   III  観光と文化

  岳陽楼 トンティン(洞庭)湖のほとりにたつ岳陽楼は、唐代の716年に建立された城楼である。やがて李白、杜甫、白居易らがおとずれて詩にうたい、宋代には范仲淹(はんちゅうえん)が「岳陽楼記」をしたため、その名声は不動のものとなった。現在の建物は、清代の末に再建されたもので、1984年に改修され、周囲は公園として整備されている。山口直樹撮影 

  中国5大名山(五岳)のひとつ衡山(1211m)、洞庭湖畔にたつ岳陽楼、自然の宝庫であるチャンチアチエ(張家界)国立森林公園、シャオシャン(韶山)にある毛沢東の生家など数多くの名勝史跡がある。

47の大学、200近くの国公立研究機関、シャオシアン(瀟湘:しょうしょう)映画製作所(1977年創立)などがある。南部のチェンチョウ(?州:ちんしゅう)には中国女子バレーボールの訓練所がある。紙の発明家蔡倫、中国現代史で活躍した毛沢東、劉少奇、胡耀邦などの政治家、画家斉白石などの出身地である。

    IV  歴史

古くは、ミャオ、ヤオ(瑶)族の居住地だったが、春秋戦国時代には楚国に属した。前漢時代に長沙国がたてられた。元代には湖広行省の管轄下にあり、1664年洞庭湖を境にして南に湖南省がもうけられた。1949年に解放された。

1992年以降、対外経済交流が活発にすすめられている。94年末までに外資直接投資額は3億3114万ドルに達し、三資(合弁、合作、全額外資)企業は2966社にのぼった。滋賀県、アメリカのコロラド州などと友好関係をむすんでいる。

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   長江 ちょうこう

  長江 ちょうこう 中華人民共和国の中部を横断してながれる大河。中国語ではチャンチアン。全長は約6300kmで、中国では最長、世界でもナイル川、アマゾン川についで第3位。流路によってさまざまな名称をもち、日本では下流部の一名称であるヤンツー江(揚子江)の名で知られる。ターチアン(大江)とも、たんにチアン()ともよばれる。

    チャン江(長江)流域 タンラー山脈のグラダンドン山に発し、中華人民共和国の中部を横断する全長約6300kmの長江は、同国最長の川である。ヤンツーチアン(揚子江)の名は、河口に近いヤンチョウ(揚州)付近の局所的名称だが、日本では全流域をさす名称としてもちいられていた。

 

  チャン江(長江) 李白の詩にもうたわれた白帝城をさらにくだると、長江はスーチョワン(四川)とフーペイ(湖北)両省の境界付近で300km以上にわたってうつくしい峡谷地帯(三峡)をながれる。四川省のこの辺りは、古来、景勝地として名高く、おとずれる人も多い。写真は、その近くをながれる長江。

 

   II  源流と流路

  チベット高原の北東部、タンラ山脈にある標高6621mのグラダンドン山に源を発する。はじめトト河の名で東流、ダムチュ(当曲)と合流してトンティエンホー(通天河)と名をかえ、チンハイ省(青海省)南部を南東にながれる。ついでチンシャーチアン(金砂江)の名でスーチョワン省(四川省)とチベット自治区の境を南下、ユンナン省(雲南省)に流入する。その後屈曲しながらU字をえがくように四川省のイーピン(宜賓:ぎひん)にいたり、ミンチアン(岷江)と合流して長江となる。以後、蛇行、屈曲をくりかえしながら東方に流路をとり、フーペイ(湖北)・フーナン(湖南)・チアンシー(江西)・アンホイ(安徽)・チアンスー(江蘇)の各省をながれ、シャンハイ(上海)で東シナ海にそそぐ。

   III  流域と交通

  三峡 長江の中流域、イーチャン市(宜昌市)の近くにある三峡は、3つの大峡谷を総称したもので、中国の代表的な景勝地であり、観光地として人気が高い。今ここに三峡ダムが建設されている。ダムが完成すれば、巨大なダム湖ができ、上流の水位が上昇して多くの町や村が水没することになる。

  長江は最大支流のチアリンチアン(嘉陵江)をはじめ、ウーチアン(烏江)・ハンショイ(漢水)など数多くの支流があり、それらをあわせた流域面積は広大で180万8500km2になる。途中、三峡、トンティン湖(洞庭湖)、ポーヤン湖(?陽湖)などの景勝地をつくる。中・下流域は、広大な沖積平原をつくり重要な穀倉地帯になっている。河岸には、上海、ナンキン(南京)、ウーハン(武漢)、チョンチン(重慶)など工業都市があり、中国の一大工業地帯ともなっている。

  三峡ダムでしずむ歴史的建物 三峡ダムの建設による水没予定地で、張飛廟(ちょうひびょう)の解体にあたって儀式に参列している作業員たち。このあと、この廟は山中のもっと高いところに移築された。多くの重要な遺跡が水没してしまうため、史跡や人工遺物の救済活動がすすめられている。

  中・下流域には無数の水路が発達、水運に利用される。航路としての役割も大きく、武漢までは1万t、重慶までは1000t級の船が航行できる。古くからの重要な水路として、中国の政治・経済を左右する大動脈となっている。第2次世界大戦後、重慶、武漢、南京などに長江大橋がかけられ、現在、世界最大規模の三峡ダムの建設がすすめられている。

  ミャオ Miao   中国の貴州省、湖南省、四川省、雲南省、広西チワン族自治区、海南省海南島、およびベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーのおもに山地にすむ人々。中国内におよそ740万人、そのほかの地域にも50万人以上いると推定される。言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ語派のミャオ語。メオ、モン(Hmong)ともよばれる。自称としてモンをつかうグループが多い。女性の民族衣装の色などによって、青ミャオ、白ミャオ、黒ミャオ、花ミャオなどに細かくわかれる。中国の史書には古くから「苗」の記述があらわれるが、それとの関係もふくめてミャオ族の起源についてはいまだによくわかっていない。

  生業は焼畑農法による陸稲、雑穀、イモ類などの栽培である。一部では棚田式の水稲耕作もおこなう。ケシ栽培も所によってはみられた。同姓者による父系出自集団にわかれ、婚姻はその単位で外婚制をとる。一夫一妻婚、夫方居住がふつうである。村は同姓者によって形成されることが多い。日本の歌垣に似た慣習がある。

  歌垣 うたがき 日本古代の習俗。「風土記」「万葉集」「古事記」「日本書紀」「続日本紀」によれば、老若男女を問わず歌を掛けあって配偶者や恋人をもとめたり、歌競べをたのしんだりしたもの。春や秋に、山の上や温泉、水辺、市などでおこなわれたらしい。もともとの意味は「歌掛き」だったと思われるが、8世紀には、「人垣」をつくって歌を掛けあうという意味での「歌垣」の表記が一般化していた。東国では「かがひ(かがい)」ともよばれたが、その語源は「掛け(掛き)合い」と思われる。なお、宮中賛歌をともなう集団舞踊の踏歌(とうか:あられはしり)を歌垣と混同した資料があるが、宮中行事の踏歌と民間の歌垣とはまったく別なものと考えるべきである。

   ミャオの神話と歌垣

  漢民族がやってくる以前から、貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)は文字をもたず、豊かな口頭伝承の世界に生きている。神祭のとき巫師が語って聞かせる天地創造の神話では、万物の始祖「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」が黄卵を生みおとし人間が誕生したという。また日本でいう歌垣(うたがき)の風習がのこっている。爬坡節(パーポーチエ)、吃新節などの祭りや、日曜日に開かれる市のとき、若い男女は歌のやり取りをしながら気にいった相手をみつけ、したしくなる。ミャオ族では游方(ヨーファン)とよばれる。著者鈴木正崇(当時、東京工業大学助手)が、1983年(昭和58)フィールドワークをおこなった報告書。

   II  辺境の少数民族の歌垣

  歌垣は、日本では近年まで琉球諸島に類似のものがあったと思われるが、現在は民俗芸能としてのこされているだけである。古代日本の歌垣を考えるならば、むしろ雲南省など中国の西南地域、ネパール、ブータンなどの少数民族が現在もおこなっている、原型的な姿をのこした歌垣を参考にしたほうがいい。歌垣は稲作文化とともに伝播(でんぱ)した習俗だと思われ(→ 稲作)、また、歌垣をおこなっていた古代の日本列島の人々は、当時の先進国中国からみれば辺境の少数民族だったという点からも、現在、歌垣をおこなっている彼らと共通しているからである。

  現存する少数民族の例では、歌垣は、わかい人が大勢あつまるなら、どんな目的の集まりででもおこなわれる。葬式でおこなわれる例さえある。歌の掛け合い自体は、たずねてきた客と主人、交渉事での当事者どうし、創世神話をうたうシャーマンと聞き手の代表、その他さまざまな機会にかわされる。古代の日本でも、このように多様な場面で歌の掛け合いがおこなわれていたと思われるが、とくに、わかい未婚の男女が異性の相手をもとめる際の歌の掛け合いを「歌垣」とよぶことにしたのであろう。なお、古代日本の歌垣を、農耕の予祝や豊作感謝の行事に関連づける説が広まっているが、これは、後世(中世から近代にかけて)の農村の春秋の山入り行事にモデルをもとめすぎた論である。

  III  模擬的恋愛をたのしむ文化

  少数民族での実例からすると、歌垣の第一の目的は恋人や配偶者を獲得することであり、実際にかなりの男女がのちに結婚する。なかには、その日のうちにむすばれる男女もあるだろうが、基本的には、歌垣の場での情熱的な歌の掛け合いは、歌垣という祭式的な時間と空間における模擬的な恋愛表現ととらえたほうがいい。古代日本の歌垣は性的解放の場であったとする説が多いが、このような少数民族の歌垣の例からいえば、やはり模擬的恋愛歌の応答をたのしむのが主目的の場であり、このような恋愛表現の蓄積が、「万葉集」での多数の恋愛歌群(→ 相聞)を生みだす母胎となったのであろう。

鈴木正崇「中国貴州省 苗族の村」

漢民族がやってくる以前から、貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)は文字をもたず、豊かな口頭伝承の世界に生きている。神祭のとき巫師が語って聞かせる天地創造の神話では、万物の始祖「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」が黄卵を生みおとし人間が誕生したという。また日本でいう歌垣(うたがき)の風習がのこっている。爬坡節(パーポーチエ)、吃新節などの祭りや、日曜日に開かれる市のとき、若い男女は歌のやり取りをしながら気にいった相手をみつけ、したしくなる。ミャオ族では游方(ヨーファン)とよばれる。著者鈴木正崇(当時、東京工業大学助手)が、1983年(昭和58)フィールドワークをおこなった報告書。

[出典]国立民族学博物館監修『季刊民族学』第27号、財団法人千里文化財団、1984

 中国の西南部、雲南省の東隣に位置する貴州省は、人口1800万人のうち、26パーセントが少数民族で、苗(ミャオ)、布依(プイ)、?(トン)、水(スイ)、i?(コーラオ)、彝(イ)族などが住んでいる。貴州に漢民族が本格的にはいりこんだのは、明代(1368〜1644年)以降のことであり、それ以前この地は嶮岨な山岳と急流という自然の要害に守られた少数民族(非漢民族)の別天地であった。 一説によると、貴州の貴(gui)は、鬼(gu?)に由来し、この地は漢民族からみると、鬼をあやつる鬼師や巫師の跋扈(ばっこ)する辺境地帯として、恐れられていたらしい。貴州の漢化は、雲南にくらべるとはるかに遅れてはじまったのである。 (略) 「苗(ミャオ)」という民族名は、かれらの自称、ムウ、モン、ミャオなどに由来しているが、漢民族からみて南方にいる、いわゆる蛮族の総称として文献上にあらわれることもおおかった。ふるくさかのぼれば、中国の古文献『書経』の「舜典」に載る「三苗」が、かれらの先祖にあたるとされるが、これらについての確証はない。苗族は文字をもたず、いっさいを口頭伝承で伝えてきたので、かれらの歴史をあきらかにすることは、なかなかに困難なのである。 地元の人びとの意見にしたがえば、苗族は、揚子江(長江)中流域に居住し、稲作をいとなんで生活をしていたが、漢民族の南下にともなう圧迫により、山間部へと追いやられ、現在では山また山の貴州を主体として、山の尾根筋や、山麓(さんろく)の平地などにへばりつくように住むようになったのだという。その移動経路は、つねに東から西へであり、北タイの苗(メオ)族は、広西・雲南から、雲南の苗族は貴州から、貴州の苗族は湖南・湖北からといった移動の伝説が語られている。かれらの故郷は、つねに東方にあるとされ、死後、人びとの魂はその故地に帰っていくと信じられている。 (略)

卵から生まれでた人間

 苗族は、天・水・井戸・木・山・川・橋などに霊的存在が宿り、ふるい木にもいると信じている。木はとくにカエデの一種の「楓香樹」が好まれる。この木は、家の大黒柱に使用されるし、山の尾根上にある村の上(かみ)や下(しも)などにかならずといってよいほど、植えられている。「楓香樹」には数かずの伝説があり、人類の先祖とされる「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」もこの木から生まれたという。この人類起源神話は、神祭のときに、巫師が語るもので、凱里で実際に、巫師の語りの録音をきかせてもらった。戸外で集録したらしく、途中に小鳥のさえずりや、ニワトリの鳴き声もはいっていた。その内容は、次のようなものである。 万物の始祖、万物の母親とされる「蝴蝶媽媽」が、半神半人の鳥博(ウーボ)と恋愛して結ばれ、12個の卵を生んだ。12個の卵には色や形によって、白卵・黄卵・花卵・赤卵・長卵・斑卵などがあり、黄卵のなかから生まれてきたのが人類の始祖で、姜央という人である。12個の卵は、1羽の神鳥が暖めて孵(かえ)したが、いくつかは孵り、いくつかは孵らなかった。黄卵からは人類、白卵からは雷公、長卵からは龍、花卵からは虎、といったように生まれでてきたが、孵らなかった4つの卵のなかに、神や鬼が含まれていた。神は万能ではないが、ベーフと称し、山の裾に住んでいると信じられ、人類に幸福をもたらし、災いをなくして禍事(まがごと)を除去するのである。人びとにとって神は祭るが、鬼は除くのであり、概して鬼は悪いものとされる。ただし、神と鬼の区別の仕方が、苗族と漢民族とでは、ことなっている。 中◇寨(◇は土偏に貝)では神の祠は発見できなかったが、ある家の庭先で、祖先を祭る依代(よりしろ:神霊のよりつく物体。岩、樹木、御幣などの形態をとる)風のつくりものをみた。これは、田植えのあとから収穫まで、イネの豊作祈願のために立てておくといい、葉の裏が白いスギの木に、白い垂(しで)の紙(神祭りの結界に使用する注連(しめなわ)にさげる紙)をつけ、途中に白い土器を吊るし、下方に白いニワトリの羽をさしてあった。3年間は、その家で祭り、次はべつの家へ移るとのことで、焼畑の耕作地をかえる周期を、連想させると同時に、日本の若狭(わかさ)などにみられる依代のオハケや頭屋祭祀を思いおこさせた。 依代に関しては、雷山県の西江へいく途中で、田圃のなかに、御幣風の白い紙のついた棒がさしてある光景に出合った。これも祖先を祭るもので、「祭田」と称し、家ごとに田植えのあとに、アヒルを1羽供犠して供え、田にさした棒は、刈り取りまでおいておき豊作を祈る。この棒は、ティー・ハー・ヘェあるいは、ティエ・カー・ハイとよばれ、田圃のなかに白い切り紙をなびかせて、木の枝が立っているさまは、まるで日本の田の神祭りの依代のようであった。 凱里県の舟渓では、さらに形式が複雑で、家の玄関にあたるところの左右の軒先に供物台のような板を水平にわたして、その下にタケをとりつけ白紙や赤紙を巻いておく。稲穂をくくりつけてあるものもみうけられた。ここ舟渓では、ティー・ハー・ヘェをつくる目的はふたつあり、第一は全家族の平安無事を保護してもらう。第二は家族の子どもたちが健康で、家がゆたかに発展することを祈願するといい、イネをかけてあるときは、五穀豊穣を守ってくれるようにという意図がある。 ティー・ハー・ヘェの祭りは、巫師(鬼師)がおこない、今年の豊作を保護する目的で、ある家では1年に1回、べつの家では4、5年に1回執行する。ふつうは、祭りは2月におこなう。巫師は、1羽のニワトリをささげて、唱え言をして、祈念する。この依代風の木の意味あいは、各地でことなっているようであり、祖先を祭るといっても、多義的である。祖先には、「われわれの祖先」と称して、村・家共通のいわゆる始祖的存在をいうことがあり、その場合にも、山の開拓者と水田・畑の開拓者の区別をつけたりする。また「家族の祖先」をあらわすときには、家譜に記載するような系譜意識があり、個々の家に関わりをもってくるといえる。 祭りを担当する巫師は、村ごとに1人ぐらいずつはいるらしいが、われわれ外来者がかれらとあって話をきくことは、いまのところは不可能にちかい。民俗、とくに民間信仰は、長期間にわたって迷信弊習としていやしめられ、近代化を疎外するものとされてきたからである。複雑な政治の変動を経てきた中国で、こうしたことの調査はむずかしい。 舟渓でのききとりでは、豊作祈願、家族の保護の祭りのほか、人が死んだとき、病気がすごく悪くなったときにも巫師は頼まれる。清明節(陽暦の4月5日ごろ)や葬式にきて、招魂つまりタマヨビもおこなう。病気のときには、家の入口の上に、藁でつくった輪を7つつなげた、ミーヒュウとよぶものをつくる。ヒュウとは招魂のことである。丸い輪は、魂を家につなぎとめ、外にでられないようにしておくためだとされる。招魂のときは、巫師が1羽の雄アヒルまたは1匹の子ブタを殺して、唱え言を朗唱して、魂を招く。一般に病気になると、魂が離れると考えられているので、巫師は病人の魂を招き寄せる儀礼をおこなうのである。堂屋のなかで祝詞を朗唱し、供物などを飾り、巫師が離れた魂をみつけてくるという。 (略)

仙女伝説の山、香炉山

 旧暦6月19日(7月28日)は、凱里の西方にある香炉山に登る「爬坡節(パーポーチエ)」の祭りの日である。この日の午後、山麓の苗族や漢民族の若い男女は、香炉山に登って親しくなり、おたがいに対歌をして、恋愛する。苗語でいうヨーファン(游方)がこれで、苗族は、爬坡節、吃新節(イネの初穂の新嘗)などの祭りの日に、広場や村境の小高いところ、木の下、橋のたもとなどの、游方坪とよばれるところで対歌をして、自分の気にいった相手をみつける。対歌をしながら相手の性格などを判断して気にいると、女性が腕輪や首の銀環などを男性に渡して、約束事をかわす。対歌のおこなわれる時刻は、夕暮れや夕食後などのことがおおいが、日曜ごとに開かれる市、すなわち?場(ガンチャン)などでは、昼間にその広場でおこなったりもする。日本の『風土記』などに記載のある、いわゆる「歌垣」や「?歌(かがい)」にあたるものが、苗族の「游方」である。 香炉山の山名は、頂上近くに巨大な岩塊があり、それがまるで香炉のようにみえることに由来している。凱里にはじめてきた日は雨模様であったが、ちょうどこの大岩に雲がかかり、香炉から煙がたなびいているようにみえた。仙女が、この雲に乗って天上から降りてくるといういい伝えがあり、爬坡節のときには、毎年雨が降るといわれていることも、このことと関係があるらしい。香炉山の爬坡節の由来を語る伝説にこんな話がある。 むかし、仙女が天上から地上をみおろすと、人間の若い男と女が歌をうたい踊りをおどっていた。これをみてうらやましく思った仙女は、おもわず地上に降りたった。そこは山の上で、このときある若い男が山に登ってきて、仙女と出会い、おたがいに対歌をして愛情を深めあって結ばれ、仙女は1人の子どもを生んだ。それは女の子で、半分は人間、半分は仙女であった。その後、天上の王様、天王爺(苗語ではカー・ワン・ウェー)が、天上に帰るようにと命令をくだした。仙女は命令に従わず、そのために石にかえられた。子どもは、いまだ幼くて乳を必要としていたが、その石から泉水が流れでて、これが?水(乳)であったので、女の子はこれを飲んで成長した。のちにこの子どもは、仙女となり天上へいった。毎年旧暦6月19日に、仙女は下界の香炉山へ降りてきて、人間が彼女を出迎えにいくのが、爬坡節の祭りなのだという。 これに関しては、さらにべつのいい伝えもあり、地上が洪水になって、この山上に生き残った男性を仙女があわれんで、地上に降りてきて対歌をして夫婦になったことにちなむともいわれている。もともとこの山の岩峰中腹の洞窟には、観音様が祭られていて、病気なおし、人助け、貧乏をのがれることなどを人びとが祈願したとされ、そこには道教や仏教も習合していた形跡がある。6月19日は、道教によれば、観音菩薩成道の節日であり、香炉山の爬坡節には、苗族の山岳崇拝や女性と岩石を結びつける考え方のうえに、漢民族の民間信仰が習合していった様相がうかがえるのである。    (c)鈴木正崇

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