アイヌ文化
北海道では、縄文文化のあとに続縄文文化が展開し、さらに本州の影響を強く受けて擦文文化に移行した。現在知られているアイヌ文化の基本は、擦文文化のあとにみられ、考古学的にアイヌ文化期とよばれるのは13世紀以降とされる。
擦文文化に吸収されたと考えられるオホーツク文化にはアイヌ文化に連続する要素がみられるが、遺跡出土人骨を研究する形質人類学(→
人類学)では、縄文人とアイヌとに直接の形質的なつながりがあるという見方が定着している。
アイヌ民族がいつ成立したかについては、民族全体のアイデンティティの成立をめぐって意見の相違がある。しかし、15世紀半ばには、渡島半島においてアイヌと和人との戦争がおこなわれたという記録がのこっている。大規模な戦いはコシャマインの戦とよばれ、アイヌ側は敗北した。しかしその後も蜂起はつづき、優勢なアイヌに対して和人側は講和の際に指導者を謀殺することで終息させている。16世紀半ばになると、蠣崎(かきざき)氏がアイヌ首長と交易についての協定をむすび、和人側の体制をととのえた。
和人との関係は、当初は交易も対等で、政治的な支配もうけていなかった。しかし、北海道の資源の重要性がますにつれ、アイヌの労働力は和人商人による場所請負人支配下の産業にくみこまれ、強制的な移住などにより、従来のアイヌ社会の維持が困難になっていった。
また、アイヌ内部の紛争や略奪戦もみられた。ちょうどチャシとよばれるアイヌの遺跡が砦(とりで)としてつかわれた時期で、17世紀半ばにはシャクシャインの戦、18世紀後半にはクナシリ・メナシの蜂起がおきた。その経緯をしめす史料は和人側の記録であるため、アイヌ側の実態を知ることはむずかしいが、これらの戦いはいずれもアイヌ社会内部の葛藤(かっとう)をかかえこみながら発生。最終的にはアイヌ側が敗北し、松前藩の支配を政治的にも経済的にも強める結果をもたらした。
幕府はクナシリ・メナシのアイヌの背後にロシア人がいるのではという懸念から、蝦夷地を直轄地(→ 天領)にしたが、それはアイヌ文化の強制的改変を意味した。まもなく最初の幕領期は終了するが、再度の幕領期に改俗政策は本格化した。アイヌは抵抗したが、和人と接触する度合いの強い地域から日本語の使用、髪形や衣服などの日本化がすすんでいった。
近代国家の成立にともない、アイヌは日本国民とされたが、幕末以来の北海道開拓により、伝統文化の精神継承の基盤となる山林や河川をうばわれ、生活も困窮していく。しかし、アイヌの窮状に対する国の施策には先住民族の権利や少数民族への配慮はまったくなかった。1899年(明治32)には北海道旧土人保護法が制定され、アイヌは旧土人という名のもとに差別的に「保護」された。教育もアイヌ児童だけをあつめた旧土人学校で日本語による教育が実施され、民族教育はまったくおこなわれなかったほか、学習課程も差別的に低く設定された。
農業や漁業経営、牛馬の飼育などに成功した人もいないわけではなかったが、これらの差別的施策により、大部分は民族としての誇りすらもてない境遇におちいることとなった。20世紀前半になって、自民族の過去と将来を自覚する機運が高まり、生活改善運動や差別からの解放運動などがしだいに組織化されていく。戦後は、1961年(昭和36)に設立された北海道ウタリ協会を最大の組織として、民族の復権をもとめている。北海道旧土人保護法にかわる念願のアイヌ新法制定は実現したが、その真の評価は今後にかかっている。
縄文文化 じょうもんぶんか 日本の旧石器時代(→ 石器時代)につづく、狩猟・採集・漁労で生活し縄文土器をつかっていた文化。はじまりは炭素14法(→ 年代測定法)などによる研究から前1万1000年前後とされている。この時期は地質年代が洪積世から沖積世へうつるころで、世界史的には農耕や牧畜がはじまるなど新石器文化革命の初期にあたっている。
縄文文化もこれらの動きとひびきあい、食料確保手段の多様化、集落をつくった定住生活の確立、土器の発明などがみられた画期的な時代である。土器型式の変遷によって草創期(前1万1000〜前7000)・早期(前7000〜前5000)・前期(前5000〜前3000)・中期(前3000〜前2000)・後期(前2000〜前1000)・晩期(前1000〜前400)の6期にわける。最近の研究では、青森県外ヶ浜町にある旧石器時代と縄文時代の境界に位置する大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)からみつかった土器片が最新の科学的分析法で前1万4500年のものとされ、縄文文化の起源がこれまでの定説よりも数千年も古い可能性のあることが明らかとなっている。土器片と一緒に出土した鏃(やじり)もほぼ同じころのもので、弓矢の使用の起源も5000年以上さかのぼることとなり、日本の縄文文化だけでなく世界的にみても貴重な知見として注目されている。
続縄文文化 ぞくじょうもんぶんか 本州の弥生時代〜古墳時代に、北海道と東北地方北部で展開した狩猟、採集、漁労を中心とする文化。縄文土器(→ 土器)の研究者であった山内清男が、この文化が東北地方の縄文時代後期〜晩期の文化をうけついでいることから命名したもの。土器の型式から道南地域の恵山式(えさんしき)土器と、道北・道央地域の後北式(こうほくしき:江別式)土器および北大式土器分布圏にわけられる。
恵山式土器は文様や土器器種などに東北地方の縄文晩期の亀ヶ岡式土器(→ 亀ヶ岡遺跡)の影響が強くみられ、後北式土器は北海道の縄文土器の流れをついでいる。遺跡からは豊富な石器、木製品、骨角器などが出土しており、墓には石鏃、石べら、コハク玉、管玉(くだたま)などを副葬する。サケなどの骨が発見されていることも注目される。
この文化では金属器の出土もあるが、稲作関係の遺物はまだみつかっていない。7世紀になると、後続する擦文文化、オホーツク文化へ移行していった。
擦文文化 さつもんぶんか 北海道から一部東北北部に分布する文化で、擦文土器をともなう。擦文土器は胴部に刷毛(はけ)で擦(こす)った地文があることから命名された。昭和初期から研究がすすみ、現在では続縄文文化の終末期に本州の土師器(はじき)が影響をあたえ、7世紀ごろ成立したとされる。その終末期は12〜13世紀ごろと考えられている。
この文化初期に、江別市や恵庭市近辺で北海道式古墳とよばれる東北地方の終末期古墳に類似した、墳形が円形または楕円(だえん)形の墳墓が出現する(→ 古墳)。蕨手(わらびで)刀、鉄斧、土師器などをともない、分布は限定されるがこの文化に特徴的な墳墓である。
住居は1辺が4〜6mくらいの方形竪穴(たてあな)住居で、屋内に炉をおき、煙道が戸外に通じるかまど(竈)がつくこともある。海岸や河川、湖沼をのぞむ台地上に大集落をつくっていた。石器の出土例があまり多くないのは、鉄器が本州から移入されて普及したためと思われる。また、大麦、ソバ、アワなどの種子が出土しており、狩猟や漁労とともに栽培農耕が小規模ながらおこなわれていた。
擦文文化と同時期、北海道北部にはオホーツク文化が波及しており、道東のいくつかの遺跡では両文化の融合がみられる。最近の研究では、アイヌ文化を擦文文化までさかのぼらせる説もあるが、狩猟や漁労に関する民俗風習の祖型をオホーツク文化にもとめる説も根強く、定説はない。
オホーツク文化 オホーツクぶんか 北海道のオホーツク海沿岸や千島列島にみられ、奈良〜平安時代に並行する文化。クジラ・オットセイなど海獣の狩猟や漁労を中心に生活していた。住居跡は五角形か六角形で長軸10m以上の大型のものもあり、床面積は70〜80m2とひろい。1つの住居に数家族が居住していたと考えられ、これは生業形態とも関係すると思われる。住居の奥にはクマやシカの頭骨がまつられ、柱にクマの彫刻があることから、アイヌの熊祭りの源流がここにあるともいわれている。
網走市のモヨロ貝塚は戦前から知られた遺跡で、住居跡や石器・金属器・骨角器などを副葬する多くの墓が発見された。これらの墓は長軸1〜1.5mの土坑に頭を北西においた屈葬(くっそう)で、頭か胸の上に土器を埋納するものもある。この文化は、骨角器や石器にサハリン(樺太)やアムール川流域の文化と密接な関係があることが知られ、発見された人骨はアイヌ民族系統でなく、モンゴロイドで極北地方にすむアレウト族かともいわれている。
モヨロ貝塚 モヨロかいづか 北海道網走市にあるオホーツク文化の代表的な集落、貝塚、墓地遺跡。網走川河口付近の砂丘上にあり、貝塚の存在は明治中ごろから知られていたが、大正期に米村喜男衛(きおえ)らの調査および保存活動によって広く知られるようになり、1936年(昭和11)には国の史跡に指定された。
1941年に数百体の人骨が発見され、47年から数次にわたり、東京大学、北海道大学などが網走市立郷土博物館と共同調査をおこない、10以上の竪穴住居跡や貝塚を発掘した。
米村らの調査では竪穴住居跡が27確認され、上流部の住居跡は縄文時代晩期から続縄文時代(→ 続縄文文化)ので、河口部はほとんどがオホーツク文化期のものと推定される。貝塚と墓はオホーツク文化期のもので、甕(かめ)形土器を被葬者の頭にかぶせた墓、石を左右におく墓、木棺をつかった墓などが発見された。出土人骨は北西頭位の仰臥(ぎょうが)屈葬が特徴的で、モヨロ貝塚人と命名された。人骨鑑定の結果、アイヌ民族とは別種のエスキモー・アレウト語族かともいわれる(→ イヌイット)。
出土した土器は、細い粘土紐を何重にもはりつけた「そうめん文」をもつ厚手の深鉢が多い。ほかにも、石器や鉄器、骨角器、玉(ぎょく)類や大陸伝来の青銅鈴などが発掘された。
現在、遺物類は網走市立郷土博物館に保管、展示され、現地にある同館分館のモヨロ貝塚館では、貝層部や竪穴住居跡の一部が復元されている。
アムール川 アムールがわ Amur アジア北東部をながれる川。シルカ川、アルグン川が合流してアムール川になる。はじめロシアと中国の国境に沿って南東におよそ1600kmながれ、つづいて北東に転じ、ニコラエフスクナアムーレ付近でタタール海峡(間宮海峡)にそそぐ。長さは本流のみで2850km、源流部をくわえると4350kmにおよび、世界最大級の河川である。
河口からシルカ、アルグン川の合流点まで航行可能であり、さらにシルカ川はロシア領スレチェンスクまで遡上(そじょう)できる。ただし、冬季の6カ月間は航行不能となる。おもな支流は、ゼーヤ川、ソンホワチアン(松花江)、ウスリー川など。
アムール川は、中国ではヘイロンチアン(黒竜江)とよばれ、沿岸にトンチアン(同江)などの都市が、またロシア領では、ニコラエフスクナアムーレのほか、ブラゴベシチェンスク、ハバロフスク、コムソモリスク・ナ・アムーレなどの都市がある。
タタール海峡 タタールかいきょう Tatarskii Proliv アジア大陸東部のロシア連邦のハバロフスク地方とサハリン(樺太)との間の海峡で、間宮海峡ともよばれ、かつては韃靼(だったん)海峡とも称した。1808〜09年(文化5〜6)に江戸幕府の命で樺太を探検した間宮林蔵によって、樺太が島であることが明らかにされた。シーボルトはこの海峡を「マミヤの瀬戸」の名でヨーロッパに紹介した。広い海域をさす場合にはタタール海峡とよび、北部のもっとも狭い部分をさす場合には間宮海峡と区別してよぶこともある。また、この最狭部は1849年に調査したロシア人の名前からネベリスク海峡とよばれる場合もある。海峡の北方はオホーツク海、南方は日本海へと通じている。長さは約850km、幅は南部では約300kmと広いが、北部の最狭部では約7kmと狭い。深さは最浅部で約8mしかない。冬季には結氷して大陸とサハリンとの氷上の往来が可能となる。
海峡にのぞむ港湾としては、サハリン側にホルムスク、トマリ、レソゴルスクなど、ハバロフスク側には、バム鉄道(→ シベリア鉄道)の起点ソビエツカヤ・ガバニなどがある。海峡の北部にはアムール川がそそぐ。
間宮林蔵 まみやりんぞう 1775または80〜1844 江戸後期の北方探検家。常陸(ひたち)国上平柳村(茨城県伊奈町)の農家に生まれる。近くの岡堰(おかぜき)の工事に従事していた幕府役人に、数学的才能をみとめられ、江戸で村上島之允(しまのじょう)に地理学をまなんだ。1799年(寛政11)村上が蝦夷地御取締御用掛松平忠明に随行した際にはじめて蝦夷地にわたった。翌年、蝦夷地御用雇としてふたたび渡航。このとき、蝦夷地を測量中の伊能忠敬にあって、測量術をまなんでいる。1803年(享和3)には西蝦夷地を測量、のち御雇同心格となり、08年(文化5)には松田伝十郎とともにサハリン(樺太)を探検。サハリンが離島であることをはじめてたしかめた。翌年にはサハリンにすむニブヒ(ギリヤーク)にしたがってアムール川下流域やサハリンと大陸間の海峡を探索し、離島であることを再確認した。この海峡をシーボルトが間宮海峡と名づけたため、現在も地図に名前がのこっている。その後は幕府役人として東北・伊豆諸島などの調査にあたり晩年は幕府隠密として活躍した。
蝦夷地 えぞち 蝦夷の居住地。古代に中国から華夷(かい)思想がはいってくると、日本の大和政権も、東北地方にすみ、政権にしたがわない者を蝦夷(えみし)とよんで、異民族としてあつかった。当時は関東北部と新潟県をむすぶ線より北の地をいい、蝦夷はアイヌ民族にかぎらず、ひろく東北から北にすむ人々をさした。のちに中央政権の支配地がひろがると、蝦夷地の範囲も北へおいやられ、鎌倉末期には津軽海峡以北にせばまった。室町時代に渡島(おしま)半島南部に和人(本州系日本人)が進出すると、蝦夷地は和人居住地以北の北海道本島と樺太(サハリン)および千島列島となり、しだいに蝦夷もアイヌ民族をさすようになる。
和人の進出にともない、1457年(長禄元)コシャマインの戦でアイヌがはげしい抵抗運動をおこなうが、武田信広によって制圧された。信広は蠣崎(かきざき)氏を名のり、のち和人地の小領主も統一した。その子孫の蠣崎慶広(よしひろ)は、1590年(天正18)豊臣秀吉から蝦夷地支配を公認され、さらに99年(慶長4)には松前氏と改称し松前藩が成立する。
松前藩の領地は和人地(松前地)だけで、はじめは西は熊石、東は亀田(函館市)までの範囲だった。和人は松前藩の許可なく蝦夷地への往来と永住を禁止されたため、実質的に蝦夷地はアイヌのすむ土地となったが、いっぽうで蝦夷地に関する交易などさまざまな権益は松前藩が独占することになった。→ 蝦夷地交易
蝦夷地は、松前から海岸沿いに西にすすんで知床岬に達する西蝦夷地と、反対に東にむかって同岬に達する東蝦夷地、さらに樺太の北蝦夷地の3つにわける。また、東の襟裳(えりも)岬と西の神威(かむい)岬を境に、松前に近い地域を口(くち)蝦夷、遠い地域を奥蝦夷とよぶこともあった。
江戸後期、たび重なるロシア人の南下により海防の必要性が高まり、幕府は1799年(寛政11)に東蝦夷地、1807年(文化4)には全蝦夷地を直轄としたが、21年(文政4)にはこれをやめている。54年(安政元)日本の開国によって箱館(函館)の開港がきまると、翌年、幕府は蝦夷地をふたたび直轄地とし、箱館奉行に支配させ、蝦夷地への和人居住もみとめた。69年(明治2)明治政府は開拓使を設置し、蝦夷地を北海道とあらためる。
蝦夷地交易 えぞちこうえき 蝦夷地すなわち、アイヌ民族の居住地である北海道を中心にそれ以北の島々をふくむ地域を対象にした和人(本州系日本人)の交易。
北海道の擦文(さつもん)文化の遺跡からは、本州産の鉄製刀剣が発掘されており、平安時代には交易があったことがわかる。鎌倉時代以降、津軽安東氏の拠点である十三湊(とさみなと)を中継地に、日本海沿岸地域と蝦夷地の交易が発展する。
室町時代、渡島(おしま)半島南西部に小領主が館(たて)をかまえるようになって、館主がアイヌなどから手にいれた物産は、京都・大坂方面まではこばれた。これらは蝦夷の三品とよばれたサケ・ニシン・昆布が中心で、当時の手習い本「庭訓往来」にも、箱館(函館)近くでとれた宇賀(うが)昆布や蝦夷サケがでている。
江戸時代には1604年(慶長9)徳川家康の公認をえて、松前藩が蝦夷地交易権を独占する。藩自身が、アイヌ首長を城下によんで、朝貢形式のウイマムという交易をおこなった。瀬棚町にあるセタナイチャシの調査によって、17世紀初頭、舶来の青磁のほか、肥前・唐津・瀬戸などの陶磁器、刀・ハサミなどの金属製品、ガラス玉などの装身具が蝦夷地にもちこまれたことがわかる。
二風谷アイヌ文化博物館 にぶたにアイヌぶんかはくぶつかん 北海道平取町にある町立博物館。「アイヌ伝統文化の今日的継承」をテーマに、1991年(平成3)に開館、アイヌ伝統文化の保存、伝承、研究、普及につとめている。
所蔵資料を中心とする常設展示では、アイヌ文化を「アイヌ」、「カムイ」、「モシリ」の3つのゾーンにわけて解説する。展示ゾーン1の「アイヌ」の展示では、衣食住に関する民具類や、彫り物や縫い物にほどこされた技術や文様をとおして、人々の暮らしや、その知恵を知ることができる。ゾーン2の「カムイ」は、祈りや信仰、物語といった精神文化にふれる場で、アイヌに伝承されるユーカラ(叙事詩)、神々のユーカラ(神謡)、ウエペケレ(昔話)をビデオ・ブースで聞くことができる。ゾーン3の「モシリ」では、自然の恵みと深くかかわりあった、伝統的な農耕や狩猟のようすや、日本一の大きさの丸木舟をはじめ現在活躍するアイヌの工芸家たちの作品が展示されている。各ゾーンでは、展示の理解をたすける解説者のコタンコロカムイ(シマフクロウ)の声がテープでながされている。
ほかに、特別展示をおこなう伝承サロンや、野外に復元家屋、樹木園もあり、民具類約3000点、文献資料等約2500点、視聴覚資料約5000点を収蔵する。所在地は北海道沙流郡平取町二風谷55。
松浦武四郎 まつうらたけしろう 1818〜88 江戸末期の北方探検家。幼名は竹四郎、本名は弘(ひろむ)。伊勢国一志郡須川村(三重県松阪市小野江町)の郷士、松浦桂介の4男として生まれる。16歳で全国遊歴をはじめ、1838年(天保9)からは長崎、平戸で僧侶(そうりょ)となり、文桂と名のった。長崎の津川文作より蝦夷地の話を聞いて興味をもち、44年(弘化元)僧籍をすてて帰郷したのち、ひとりで北に旅だつ。当時、蝦夷地は自由に旅行できなかったため、場所請負人の和賀屋孫兵衛の手代庄助(しょうすけ)と偽名をつかったという。
1845〜58年(弘化2〜安政5)の間に、6回にわたって東西蝦夷地、北蝦夷地(サハリン)および国後島、択捉島をくまなく探検してあるき、紀行文「蝦夷日誌」などを刊行した。この間、55年に蝦夷地がふたたび幕府の直轄地(天領)となると、蝦夷地御用掛(ごようがかり)に任命されている。
「蝦夷日誌」は武四郎の踏査日記をもとにした地誌で、アイヌ語で表現された蝦夷地のほとんどの地名を収録するとともに、当時の北海道の風土やアイヌ文化(→ アイヌ)をしるした貴重な資料である。1869年(明治2)開拓使判官に就任。蝦夷地に新しい行政区画を実施するにあたり、武四郎が「北海道」と命名、北海道内の国名、郡名を選定した。しかし、アイヌ解放がすすまなかったために判官を辞職している。
アイヌ文化振興法施行、旧土人法廃止
1997年7月1日、「アイヌ文化振興法」(アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律)が施行され、同時に北海道旧土人保護法、旭川市旧土人保護地処分法が廃止となった。新法施行に先だつ6月27日には、同法の趣旨にそって、アイヌ文化の振興や民族の誇りが尊重される社会の実現にむけた事業をおこなう財団法人「アイヌ文化振興・研究推進機構」(本部・札幌市)が発足。7月1日から業務を開始した。北海道旧土人保護法制定からほぼ1世紀。日本人以外の少数民族の存在がはじめて法的に位置づけられた。
新法の柱は文化事業推進
1899年(明治32)に制定、公布された「旧土人保護法」は、すでに主食のサケをとることなどを禁じられていたアイヌに農業を奨励し、それまでの伝統的な狩猟・採取生活から一変した農耕生活を強要、日本人との「同化」をおしすすめる役割をはたしてきた。旧土人法の廃止、新法の制定は、アイヌの最大組織「北海道ウタリ協会」が1984年5月の総会でその原案(「アイヌ民族に関する法律(案)」)をきめて以来の悲願であった。
北海道ウタリ協会がまとめた新法原案は、前文で「日本国に固有の文化をもったアイヌ民族が存在することをみとめ、日本国憲法のもとに民族の誇りが尊重され、民族の権利が保障されることを目的とする」とうたい、つづく制定の理由の中で「アイヌ民族問題は、日本の近代国家への成立過程にひきおこされた恥ずべき歴史的所産」と日本政府の責任をきびしく指摘している。
その上で、(1)基本的人権(2)参政権(3)教育、文化(4)農業、漁業、林業、商工業等(5)民族自立化基金(6)審議機関の6項目をあげ、この法律がアイヌに対する差別の絶滅を基本理念にし、国会や地方議会での議席の確保、アイヌ文化の振興、経済自立の促進などをめざす、としている。
しかし、7月1日施行の新法にとりいれられたのは6項目のうちの「教育、文化」だけだった。法の中身は文化政策にほぼ限定された「文化事業推進法」という性格が強く、アイヌが「先住民」であるかどうかについてもふれていない。
根強い国の警戒感
日本の統治がおよぶ前からアイヌは居住していたという先住性については、1997年3月、二風谷(にぶたに)ダム訴訟で札幌地方裁判所が「アイヌ民族は先住民族」と明確に認定し、国が民族独自の文化を不当に無視してきたと批判した。
二風谷ダム訴訟は、北海道平取町の二風谷ダム建設をめぐり、アイヌ地権者2人が北海道収容委員会を相手に土地強制収容などの裁決取り消しをもとめた行政訴訟。判決は、「アイヌ民族は先住民族に該当する」とし、ダム建設地がアイヌの伝統的な舟下ろしの儀式「チプサンケ」がおこなわれるなどしていた「アイヌ民族の神聖な土地」であるとみとめた。その後のアイヌ新法をめぐる国会審議の中で、政府はアイヌの先住性をみとめる姿勢を明らかにし、「アイヌ文化振興法」は、1997年5月8日成立した。
しかし政府には、民族自決権や土地、資源などの権利とも密接にからむ「先住権」認定への警戒感が根強く、衆参両議院も内閣委員会で「先住性は歴史的事実」とする付帯決議を可決するにとどまった。アイヌがもとめてきた先住民族としての権利の保障は先送りにされたかたちだ。
問われる新法の意義
一方、北海道開発庁と文部省が所管する「財団法人アイヌ文化振興・研究推進機構」は、北海道と道内62の市町村が出資した1億円を基金に運営される。初代の理事長には前国立民族学博物館館長の佐々木高明が就任した。財団は研究者やアイヌ語の指導者育成、小中学生向け副読本の作成などを手がけながら文化振興を具体的にすすめ、「イオル(伝統的生活空間)の再生」の事業もすすめる計画だ。
アイヌ初の国会議員となった萱野茂・参議院議員は、アイヌ文化振興法成立にあたり、「アイヌと和人の歴史的和解の第一歩」と話した。「民族の誇りが尊重される社会の実現をはかる」とうたった新法に対する期待をしめすものだが、その一方で日本人がアイヌに対しておこなってきた差別と同化政策への歴史認識はあいまいなままのこされた。
北海道が1994年におこなった調査によると、北海道には2万3800人のアイヌがすみ、前回調査時の7年前にくらべて高校、大学の進学率は向上したが、1世帯当たりの平均収入は約300万円で5人のうち4人は生活苦をうったえている、という結果だった。ウタリ協会が新法制定をもとめたのは、ひとつには、こうしたアイヌの生活や差別にくるしむ現状の打開をめざすためだった。97年7月1日に施行されたアイヌ文化振興法は、これからその意義が問われていくことになる。
エンカルタ 百科事典 イヤーブック 1997年7月号より