城頭山遺跡と苗族 楓香樹と棚田

(「古代日本のルーツ」安田喜憲)

フウ(楓)の木と苗族(みゃおぞく)

    金属器を持たない文明

 長江文明のもう一つの特色は、金属器を持たないことである。現在に至るまで金属器は発見されていない。

 西洋的な文明史観においては、金属器がなければ文明ではないと言われている。だが、それは稲作農業地帯の畑作牧畜民の概念でしかない。

 金属器は、農耕器具としても利用されてきたが、それ以上に人を殺す武器として発展してきた。人を殺し収奪する社会では金属器は不可欠だろうが、人から収奪の必要のない社会なら、金属器を必要としない。長江文明は、収奪と人殺しを必要としない文明だったのではなかろうか。

 同じことは、文字にも言える。文字を持つか持たないかで文明かどうか決まるのは、やはり麦作農耕社会の畑作牧畜民の文明概念しかない。

 逆に金属器や文字がないということは、収奪や殺し合いの少ない社会ということが出来るのではないだろうか。長江文明を作り上げた稲作漁撈民は、畑作牧畜民のように争いを好まなかった。それが現代に問いかける意味は大きい。

恐らく、長江文明が金属器を持たなかったのは、あまりに早く金属器を持たない高度な文明を発達させたからであろう。そのため、金属器の時代への対応が遅れてしまった。

 長江文明が誕生した頃、インダス川流域の人々は、長江文明と同じく金属器を持たなかった。彼らの生活は細石刃を使用する中石器さながらの段階に留まっていた。一方、長江の人々は精巧な玉器を作り、インダス川流域の人々よりも高度な文明を築いていた。

 インダス川やエジプトのナイル川流域の人々が文明を急速に発達させていくのは、金属器を使い始めてからである。長江文明より遅れていた彼らは、遅れていたからこそ金属器の導入に積極的になれたのではないだろうか。既に金属器なしに高度な玉器文明を築いていた長江文明は、金属器の必要性をあまり感じることはなかった。

 しかし、金属文明を手にした人々の血生臭い収奪の歴史を見ると、金属器を利用しなかったことが彼らにとって不幸であったかどうかは疑問である。丁度我々が核エネルギーを手にしたように。

    出土した多数のフウの木

 城頭山遺跡からは1.000点近い木材が出土している。その材木を米延仁志氏が調べると、80%以上がフウの木であった。フウの木は、中国名で楓香樹(ふうこうじゅ)という。マンサク科の落葉高木であり、大きいものになると高さ40mにもなる。

 城頭山遺跡の人々は、何故フウの木をよく使ったか。米延氏によれば、フウの木は乾燥すると非常に硬質になるが、生木の状態では柔らかく切りやすいという。当時の長江文明には金属器がなかったので、石器で木を切らなければならない。生木の状態のフウは石器で切りやすかったのである。

 これに似た話は、日本の縄文時代にもある。石器を使っていた縄文時代には、クリの木が多用されている。クリの木と言うのは乾燥すると硬くなって切りにくいものの、生木の時は切りやすい。そのため、クリの木が縄文時代にはよく使われたのだが、これと同じ理由で、城頭山遺跡の人々はフウの木を使っていたと考えられる。

 しかし、守田益宗氏の花粉分析などによって調べて見ると、城頭山遺跡の周辺にフウの木はそれほど生えていなかったということである。城頭山遺跡の人々は、わざわざ遠くまで出て、フウの木を切り出していたのである。

 城頭山遺跡の人々は、遠くまで探しに出かけるほどフウの木に執着していた。それでは、フウの木にまつわる文化や神話が、何処かに残されているはずだと調べて見ると、長江流域とは別の土地に残されているのを発見した。中国西壮族自治区の少数民族である苗族の中に、フウの木への崇拝があったのである。

 苗族の村では、蘆笙柱というものが立っていた。その蘆笙柱はフウの木で作られたもので、苗族の生命世界の根幹を司る宇宙観(萩原秀三郎氏「稲と鳥と太陽の道」)らしい。毎年正月や春分、秋分のお祭りを迎えると、苗族の男女は着飾って蘆笙柱の周りに集まり、踊る。

 城頭山遺跡の人々に大切にされたであろうフウの木は、今は、長江から離れた広西壮族自治区の山中で崇拝されていたのである。

    長江文明を受け継ぐ苗族の存在

 フウの木を崇拝する苗族の村を訪れると、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたかのような風景を見ることになる。あたりには高床式の倉庫が立ち並び、倉庫に上がると木の階段は弥生時代の登呂遺跡のものと同じである。苗族は、日本の弥生時代と共通するものを持っていた。苗族も稲作の人々である。これも更に長江文明とも共通する。

 苗族は、急勾配の山地に棚田を作っている。初めて目にしたときは、よくこのような急斜面に苦労して水田を開いたものだと思ったが、苗族の村長の話を聞いて納得した。

 この地に暮らす苗族は200〜300年前までは長江流域の湖南省北西部の洞庭湖の湖畔などに住んでいたという。明代から清代にかけての漢民族の圧迫から逃れて、この地にやって来た。現在でも村の入り口には、敵から身を守るために築かれた土塁の名残りが残っている。

 苗族は、かつて長江の中流域に住んでいたことを示す伝承や習俗を持っている。苗族には鼓社節という13年に一度開かれる祖先の霊を祀る大祭がある。この祭りでは水牛をかつては100頭ちかく殺したという。水牛を祖先に送る為である。

 水牛は低湿地に住むもので、苗族が暮らすような急斜面の山中にはまずいない。苗族は、山奥の土地では飼いにくい水牛をわざわざ飼っているのである。それも祭りのために殆どである。彼らが山間部では飼いにくい水牛を飼っているのか。それはかつて平野部で暮らしていたときの名残であろう。彼らは、かつて水牛の生育に適した低湿地に住み、水牛を犠牲にする祭りを営んでいた。その当時の風習が今も残っている。

 水牛を生贄にする鼓社節は、フウの木とも結びついている。鼓社節はフウの木を刳り貫いて作った太鼓に祖先の霊を封じるところから来ている。これを山の洞窟に収めるのである。

 また、苗族のシンボルである蘆笙柱の下には、必ず水牛の角か、水牛の角を木でかたどったものがつけられている。

 フウの木で出来た蘆笙柱の上には、鳥の飾りが付けられている。その鳥は、太陽を昇る東の方向を向いている。鳥は、苗族の祭りの舞台にも登場する。彼らが祭りのときに着る百鳥衣には、その裾に鳥の羽が一杯縫い付けてある。昔、苗族に稲穂をくわえて運んできてくれたのが鳥だから、その鳥に感謝する為だといわれている。そして、百鳥衣を着て蘆笙柱の周りを回りながら、踊る時に鳴らす銅鼓の真ん中には、必ず太陽が彫金されている。

 フウの木、平野部の湿地帯にいた水牛、鳥信仰の銅鼓の太陽。これらは苗族が長江文明の末裔であることを指し示している。三峡の渓谷を抜けると長江は湖北省宣都市から巨大な平野を蛇行し、北から流れてくる漢水と合流する。長江と漢水と合流する一帯は広大な湿地帯となり江漢平原と呼ばれている。かつて苗族が暮らしていた洞庭湖はその江漢平原の中にあり、城頭山遺跡も同じ江漢平原に出現した中国最古の都市である。江漢平原こそ長江文明の発祥地であり、雲南省や貴州省、広西省などの山間部にひっそり暮らす苗族は、江漢平原で誕生した長江文明を受け継ぐ者たちだったのである。

    苗族が長江流域を離れた理由

 長江文明を担った人々の末裔だった苗族。何故、彼らは長江流域から離れなければならなかったのか。その原因を作ったのは、北方からの民である。

 北方の民は、稲作漁撈の長江の民と違い、畑作牧畜の民である。彼らが長江流域の巨大な平野である江漢平野に出現するのは実に古く、約4.000年前のことだった。4.000年前に気候の変動が起き、寒冷化・乾燥化が起こった。これに耐えられず、中原にいた畑作牧畜民は南下し、長江流域にまで入ってきたのである。

 気候の寒冷化・乾燥化は約4.000年前だけでなく、その後も何回も繰り返しあった。その度に北方の民は長江流域に進出してきたようだ。特に、約3.000年前の寒冷・乾燥化は厳しいもので、北方の民は大挙して長江流域に押し寄せた。その結果、森の民・稲作漁猟民たちが築いた長江文明は次第に衰退していったのである。

 度重なる北方の民の侵入によって、長江流域にいた人々の全てが追われたわけではない。多くの人々は北方の人々と暮らしはしたが、次第に雲南省や貴州省の山奥に移り住むことになった。その一つが苗族である。他に海を渡り、台湾にも行っている。更に、日本列島にも渡り、日本の弥生文化の成立に大きな影響を与えたと考えられる。苗族の村は、日本の弥生時代を思わせるかのような村だったのである。

 苗族は、長江流域にあった故郷を捨てざるを得なかったが、その伝統文化と風習は残した。フウの木にまつわる風習もその一つであり、そこから苗族と長江文明の関係が見えてきたのである。

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