海を渡った モンゴロイド

海を渡ったモンゴロイド

「海を渡ったモンゴロイド」(後藤 明)

    海人とは何か

   海人とは海岸に住み、移動を繰り返しながら、海に密着した生活をする人々のことを意味する。海人は普通、漁民のように定着し村を構えない。そのため権力者の側からは、漁民と異なった扱いを受ける人々である。

   海人の生活の基本は、漁撈、海岸の資源を利用した食料調達や工芸、更にそれらの運搬や交易などで成り立っている。又、海人たちは、しばしば特殊な技能を持つ。例えば特殊な漁法(突き漁、潜水漁、或いは特殊な網)、航海術、工芸などにおいてである。又、彼等は熱帯雨林からマングローブ、砂浜、磯浜、河口部、珊瑚礁という具合に、多様な環境に住み、存分に利用する。

   海人には、陸上に定着した民とは区別された、ある種の象徴的な位置づけがなされる。海と陸の二元論は神話などにしばしば登場する、文化の深層に潜む世界観である。そこでは、決して、海が下位ではなく、むしろ優位の象徴性があった。日本古来の常世思想などがこれにあたる。或いは、海が王権の基礎を提供する、即ち王は海を越えてやってきた、という海側優位の思想である。

   現代人類の起源は単一か

  アフリカでは最古の人類「猿人」に次いで、今から180万〜160万年前ごろ、新しい種類の人類、通称「原人」が登場した。この段階で特筆すべきはアフリカで発生した人類がアフリカから出て、ユーラシア大陸に進出したことである。人類の「アウト・オブ・アフリカ」である。その証拠が有名なジャワ原人である

  「ピテンカントロプス」と命名されたジャワ原人は、現在は「ホモ・エレクトゥス(原義は直立原人)」が正式名称である。その年代は確実なところでは、150万年前頃であるというのが大方の見方である。

  東南アジアに人類が到来したのは、人類史上重要なできごとであった。アフリカのサバンナで産声を上げた人類が、熱帯雨林、特に海岸線や河川が複雑に入り組む環境に適応したことを示すからである。このような新しい生活形態が、やがて東南アジアやオセアニアで活躍する海人集団を生み出していったのである。

  今から30万年前ほど前に、各地で原人は旧人に進化したと言われてきた。例えば、中近東からヨーロッパにはネアンデルタール人が出現した。当時は何度か氷河期が訪れたために、彼等は寒冷気候に適応した一種族であったと考えられる。同じ頃、アフリカにはカブウェ人、中国にはダーリ人、インドネシアにはソロ人などが生まれた。

  ところが、今から15万年前に再び、アフリカで我々に直接繋がる新人類が出現した。それが10万年から3万年前くらいの間に、瞬く間にユーラシアにまで広がり、あちこちの旧人と入れ替わり、現代人になった、という仮説が提唱された。旧約聖書の「ノアの箱船」神話の人類学版のような説。この学説「アフリカ単一起源説」は指示する学者も少なくはない。

   モンゴロイドの形成

   今から10万年前ごろには、ヨーロッパやアフリカの人類とはやや異なった人類が既にアジアにはいた。この基礎からモンゴロイドが生み出されたと言える。モンゴロイドには、狭義と広義の二種類があり、狭義では極東アジアから東アジアの諸民族を指す。一方広義では、容貌などの外部形態にとらわれず、アジア大陸とその周縁部に起源した人類集団を全てモンゴロイドと考える「大モンゴロイド」概念を意味する。

    スンダランドと人類遺跡

   今から約13.000年前、最後の氷河期が終った。その最盛期には海水面が低下し、その結果、西部インドシナの島々は東南アジア大陸と連続し、スンダランドを形成した。一方、ニューギニアとオーストラリアも一つになり、こちらはサルフ大陸を形成した。スンダランドとサルフ大陸の間には、生物学で有名なウォーレス=ハックスレー・ライン及びウェーバー・ラインが走っている。二つのラインで分断されるスンダランドとサルフ大陸の間では、動物相が大きく異なる。

   スンダランドにおける初期の人類遺跡は、まずボルネオ島のニア洞穴やフィリピン・バラワン島のタボン洞穴からは、4万年から2万数千年前の人骨が見つかっている。中には、オーストラリア・アボリジニーのような特徴を持つ人骨が見つかっている。

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   海岸部を移動して形成された海人集団

   新しい人類は、獲物としてのジュゴンなどを追って、海岸線と浅瀬の連なる、島や湾へと進出して行ったのではないかと言われる。

   東南アジアの海岸は、世界的に見ても海と陸との交差が最も細分化した地方です。東南アジアの人類は、水のそばが、潜在的に最も豊かな食料資源を持っていた。

 このようにスンダランドへの進出は、人類全体にとっての画期であった。

   日本へ

   アジアに進出した新人類は、移動する民であった。彼等は数万年前、オーストラリアやニューギニアへと渡海した。日本列島では、確実なところでは今から3万年程前、旧石器時代の遺跡が存在する。

   南方に限れば、鹿児島県の種子島や徳之島では旧石器時代の遺物が発見されている。旧石器時代に人類が島伝いか、或いは、氷河期に陸橋になった琉球列島やトゥンハイランドを移動してきた証拠であろう。徳之島の遺跡は2万から3万年前のものである。

   琉球列島においては、それ以外の旧石器時代の証拠は人骨である。日本の確実な最古の人骨とされる港川人である。これは沖縄本島で発見された化石人骨です。年代は2万年前である。この人骨の特徴は、スンダランドの古モンドロイドの形質を受け継ぎ、彼等と沖縄人の橋渡しになると考えられる。

   最終氷河期が終わり、日本が完全に島となったのが、今から1万2千年ほど前のことである。その時花咲いたのが縄文文化である。日本列島の地理的特徴を考えると、縄文文化には北から、或いは朝鮮半島から、色々な影響が及んだと思われる。更に海を越えて、南方から文化が及んでいた証拠もある。

   例えば、鹿児島県の栫ノ原遺跡上野原遺跡だ。今から1万1千年から9千5百年前の縄文遺跡である。これらの遺跡からは、丸鑿(まるのみ)型の石斧や、石蒸し料理の跡が発見されている。丸鑿型石斧は、手斧としてカヌーのように木を彫りぬく道具と考えられている。石蒸し料理とは、主にオセアニアの民族が行なっていた調理法だ。穴を掘って焼けた石を入れ、其の中に葉でくるんだ肉やイモを並べて蒸し焼きにする方法である。

   更に、上野原遺跡からは大きな壷型土器が出土している。主に弥生時代に出土し、用途的には穀物の貯蔵用と考えられている土器形式である。遺跡では土中のプラントオパールの分析により、アワ、ヒエ、ジュズダマのような雑穀類が利用されていたのではないか、と推測されている。これらの雑穀には、台湾周辺のオーストロネシア民族が持っていたとされる種類が含まれている。遠くオセアニアで後にポリネシア人を生み出した海人文化が、日本列島に既に及んでいた可能性がある。

    「海上の道」論

   柳田國男は「海上の道」の著作で、日本人の起源に関して、日本人の祖先は、稲を携えて、琉球列島を伝って日本列島に到来したと考えている。

   稲作は揚子江流域に起源を持つが、中国南部から直接に北九州へ、或いは、朝鮮半島を経由して北九州へ伝播した、と言うのが現在の定説である。従って、琉球列島沿いにジャポニカ型が入ってきた、という柳田の仮説は今は受け入れられていない。

   しかしその後、幾人かの研究者が柳田の「海上の道」のアイディアを発展させてきている。例えば、熱帯性のジャバァニカ型米、或いは、米以外の文物がこのルートで日本列島に入ってきたということは十分にあり得るからである。

   柳田は「人間が何故海を越えるのか?」という問いの主体として、魚を捕り貝を愛でる漁労民であると同時に、畑を耕す農耕民でもある人々を想定したところにある。

   弥生時代の初期の遺跡は海岸部や低地に多く、又稲も低地を中心に栽培されたらしい。そして西日本特有とされてきた遠賀川式土器が、青森・秋田・山形の各県でも発見されている。この土器は東北地方の太平洋側でも発見されているが、その移動してきたルートは日本海側であると考えられている。稲作は北九州から近畿地方へ瀬戸内海を通って伝えられ、次いで日本海沿いに伝わったのだろう。

 つまり、初期の稲作が伝わった主なルートは「海の道」であったのではないか。又弥生時代には、日本海沿いに「タマの道」があったことが知られている。糸魚川のヒスイや佐渡島の碧玉製の珠が、日本海側を通って、九州や北海道に運ばれている。

 このような事実は、私たちが常識的に「農民」「漁民」と分けるような枠組みでは捉えきれない人々の存在を意味している。私は、日本に稲作をもたらしたのも、南太平洋に根栽農耕をもたらしたのも、農民でもない、「海人」ではなかったかと考える。そして、柳田國男の「海上の道」論の真の価値は、そのような海人に関するモデルを提供していたことになるのである。

   農耕社会おける海人の活躍

    農耕社会での弥生時代においても、漁撈活動は続いた。西九州の五島列島や島原半島では、農耕の限界もあって漁労活動が引き続き行なわれていた。この地方から壱岐・対馬にかけて、捕鯨や製塩の考古学的証拠もあり、農耕社会の中で海浜集団が特定の役割を担っていった可能性が指摘できる。

   又日本列島の各地で行なわれる捕鯨やカジキマグロのツキンボ(離れ銛モリ)漁は、縄文時代から弥生時代に受け継がれてゆくことが、銛頭の研究によって知られている。そして、銛や大型の結合式釣り針は縄文時代の東日本に分布の中心があると考えられていた。しかし、西日本、特に九州西岸、山陰、又は朝鮮半島や中国大陸でも、先史時代の遺跡から発見が増えている。青銅器時代に属すると思われる朝鮮半島の大谷里遺跡の線刻画には、陸獣だけでなく鯨をはじめとする海獣類の集団猟の様子が克明に描かれている。

   ところで「魏志倭人伝」に記された潜水漁法は、台湾から南方にかけての最も一般的な漁法であり、日本や朝鮮半島、中国の周山列島などの海女・海士文化とつながる。特に潜水漁法は、鮑(あわび)・サザエなどの宗教的価値、或いは後には商品価値を持つような貝類を採る方法でもある。さらに奄美・沖縄などの珊瑚礁地帯では、潜水漁法、魚類や亀などを突く漁、又は集団で行なわれる追い込み網漁にも用いられる。このような漁法の分布は、台湾から東南アジア、オセアニアと南方一帯に連続するものである。

   更に「倭人伝」に記される倭の水人の活躍は、対馬の弥生時代遺跡から具体的にも推測できるものである。この「倭人伝」に記された入墨の風習は、後世の宗像族(むなかたぞく)などに受け継がれたようだ。これは元々中国南部、呉越地方の水人間の風習であったと考えられる。それは体に鮫ないし鰐の鱗のような模様を描き、水獣の害を防ぐというものだが、これは呉越地方のトーテム的な思考にも関連するのであろう。

   このような「倭人伝」の内容や、其の他に日本語・日本神話の研究から、今から2.000年前、即ち弥生時代に呉越地方と西日本には、オーストロネシア語系民族の活躍があった可能性が指摘されている。

   2.000年前、日本に到来した倭人集団にはオーストロネシア系が含まれていた可能性が高い。オーストロネシア語系海人は、男性が外交的で外洋漁撈を行い、女性が内向的で農耕や珊瑚礁漁撈を行う傾向がある。倭人も、オセアニアの遠い同胞のように、海上活動に長けた、外交的な農耕・漁撈民であったと思われる。

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