興隆溝遺跡共同開発へ(2000年4月)
かつて満州と呼ばれた中国東北部に海外の研究チームが入るのは初めて。7.000年前、日本列島北部と大陸との間に存在したとされる「北の文化交流」。その謎を解く扉が、青森県(Web東奥・企画)を起点に大きく開かれようとしている。
青森市の三内丸山を始めとする縄文研究の進展に伴い、近年注目を集め始めたのが、縄文文化と大陸先史文化の関連性。共同発掘は両文化の共通性の意味を北東アジアの視点から解明すると共に、更に一歩踏み込んで縄文のルーツを探るのが狙い。
北京飯店で行なわれた調印式には、同実行委員から佐々木会長、塩越東奥日報社編集局長、県教育委員三内丸山遺跡対策室の岡田主幹。
共同開発にかける期待について、佐々木会長は「青森の三内丸山と興隆溝とはどこかで“血”がつながっていると確信している」と。
未発掘遺跡である興隆溝の規模を確認すると共に、竪穴住居などの遺構の精。遺構内から出土する動植物を分析することで、7.000年前の時点で植物栽培と家畜の飼育が行なわれていたかどうかを突き止める。興隆溝は8〜7千年前に内モンゴル自治区から遼寧省にかけて広がった興隆窪文化を代表する集落遺跡で、規模は100軒程度と推定される。同文化は三内丸山と同様、定住生活が高い狩猟採集生活を営んだのが特徴で列状に並ぶ住居や楔状耳飾り、円筒土器など青森県の縄文遺跡と類似する要素が多い。
顕微鏡の中でしか見ることの出来ない小さな世界。しかし、指先にやっと乗るような種子の断片こそが、当時の食生活を物語る雄弁な証拠となる。そして、種類は勿論、形態やDNAを分析することで栽培製も確認できる。
クリ、マメ、アワ、ヒョウタン、ヒエ等。三内丸山遺跡で見つかった種子の数々は、縄文人が農耕の入り口に立っていたことを証明して見せた。「興隆溝はアワなどの雑穀類が出土してもおかしくない環境にある」と植物学者らは指摘する。
100軒以上の大規模集落の出土が見込まれる興隆溝。その中から一粒でも植物の種子が見つかり、栽培性が確認されれば、「黄河以北で確認された最古の栽培植物」(岡田氏)となる。「中国考古学はこれまで、規模や形など遺跡の外観にだけ重点をおき、土壌分析は怠ってきた。だからこそ、自然科学を重視する日本の最新の研究法を導入したい」と中国側のリーダーが言う。中国か求めようとしている新しい血。それは科学の力に他ならない。
家畜の飼育では、イノシシはブタか。興隆溝と同時代の周辺遺跡の住居跡から見つかるイノシシの骨。中国側はこれを人間が飼育管理したブタと解釈している。種子類と共に、出土が予測されるイノシシの骨の分析には、動物考古学の第一人者国立歴史民俗博物館の西本氏が当たる。
「縄文時代には家畜は存在しないというのが日本の定説。しかし、同時代の中国東北部では飼育が当然視されている。果たして、三内丸山など日本の縄文遺跡から見つかるイノシシは野生なのか、ブタ以上に飼育しやすいとされるウサギの家畜化の可能性はないのか。結果次第では、縄文の新しい形が見えてくるかも知れない」と岡田氏は調査の意義を説明する。
歴史観の見直し。植物栽培と家畜の飼育。このような二つの文化要素から導き出される結論は「定住」という生活スタイルだ。北の回廊を中心に数千年前の北の文化は、「狩猟採集」という既存の歴史観だけでは捉えきれない複雑な社会を営んでいた可能性を示唆している。
「ムギとコメの栽培のみが農耕の始まりと考える世界の考古学は今、見直しを迫られている。その意味でも、植物栽培と家畜の起源に迫る日中共同調査に注目される。縄文文化のエッセンスを理解する為には、縄文という日本独自の概念、そして、国境という枠を取り払う必要がある。その点を捉えても、北東アジアを一つの文化と考える共同調査は意義が深い」。
劉副研究員「当時、興隆窪の研究チームは世界の考古学の流れを知りませんでした。DNAやAMS(最新の年代測定法)を駆使して、最大限の情報を遺跡から引き出す、しかも、モノではなくヒトの営みに焦点を当てるという手法。それを積極的に取り入れ、成功したのが三内丸山です」という。