環日本海環境考古学・特別講演 国際日本文化センター教授 安田喜憲)
縄文時代の人間や弥生時代の人間というものは、物凄く移動している、特に日本海を縦横無尽に移動している。古代の人々は東シナ海をかなり自由に行き来をしていたことが最近の研究でわかってきました。
1994年に青森県の三内丸山遺跡、本州の最果てで高い文化が発展していたことがわかってきました。我々が環境考古学、特に花粉分析、或いは酸素、炭素の安定同位体でもって過去の気候を復元すると、三内丸山遺跡が発展した約5.000年前という時代は、現在より寒い時代なのです。約6.000年前という時代は、現代よりも気候が暖かったのです。縄文海進があった時代で海面が現在より2〜3m高くて、温度が2〜3度高いという温暖な時代であったのです。ところが三内丸山遺跡が発展する時代というのは、その温暖な時代が終って、気候が可也寒くなりました。
何故寒くなるときに、このような北の端、東北地方に文化が発展したのか、それを証明するためには日本のことだけを考えていたのでは駄目だということが分かってきたのです。
実は、この日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。その縄文時代の文化を考える時に非常に重要なことは、遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期に相当するのです。今から約6.000〜7.000年前に紅山文化という非常に高い文化がありました。(紅山文化=北方地区の新石器文化の中で最も重要な文化です。ここで言う北方地区とは、東北3省―遼寧・吉林・黒龍江で内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区を指します)
大連、遼河が、この遼寧省から内モンゴル自治区の東部にかけて沢山の新石器時代の遺跡がみつかってきたわけです。今では、全く森がありません。黄土の大地で、森のない大地がずっと広がっているのです。実は、昔は深い森があり、花粉を分析してボーリング調査で土の中に含まれている花粉の化石を取り出して分析した結果、かつてこの大地には、深い落葉のナラ・ニレ・カエデの仲間、満州グルミというような落葉の広葉樹と松の針葉樹が混交した森があったということが分かってきました。即ち、現在は殆ど森のない大地の森の中で、今から約7.000から6.000年前に高い新石器時代の文化が発展していたのです。
今から約8.000年前の遺跡、査海遺跡。打製石斧が沢山出土しました。これは恐らく畑を耕すために使ったと考えられています。(査海遺跡=集落のほぼ中央で、赤褐色の石で積んだ龍形配石遺構が発見された。長さ19.7m、龍の体は幅2mぐらいである。その遺構の下で、成人の土抗墓と祭祀抗が発見され、副葬品のない墓が多いものの、22点の石器や副葬した墓もある)サドルカーンという石器も発見され、雑穀をすりつぶして、粉にするものです。恐らく粟を栽培していたと考えられます。
7.800年前の土器が出土しているわけで、縄文時代の土器と同じです。三内丸山遺跡の円筒土器と非常に良く似ているのです。縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使っていました。材質もそっくりです。遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、紅山文化の時代に作られていたのです。
この査海遺跡から中国での最古の玉製品として、けつ状耳飾りが出土しています。この玉製品と同じものが、福井県の鳥浜遺跡から、玉塊(たまかい)と言っているものが、縄文時代前期のものが見つかっています。中国のものよりは質的には劣りますが。即ち形も材質も査海遺跡のものと同じものが。査海遺跡のものは約7.800年前、鳥浜貝塚の玉は約6.000年前です。即ち、日本海を渡って、当時既に文化の交流があったと考えざるを得ないのです。
査海遺跡から又、中国最古の竜が発見されています。石の長さは19.3m、幅3.8まります。頭も胴も尻尾もです。足もあります。これは7.800年前の石組みの石を置いて作った竜なのです。査海遺跡では既に7.800年前に、竜の信仰というものが誕生していたようです。
紅山文化で、約6.000年前「ピラミット」と書いてあった敷石があります。石で周りが敷かれていて、高さ20m位で、14m位のピラミットと言われるものです。そして、女神の神殿というものがあり、それが大地母神だったのです。縄文時代の土偶と同じで、女神の神殿がありました。そして、竜の信仰も。
この積み石塚はお墓なのです。既に、階級社会に入っているようです。約6.000年前の紅山文化のお墓なのです。お墓の中に遺体が埋葬されていて、そこからやはり竜が出てきます。
この竜は、イノシシの顔をした竜です。猪竜と言いました。今まで竜というのはヘビが進化して、竜になったと考えていました。ところが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけては、実は原型はヘビではなく、森の中に住んでいる動物です。猪や豚です。或いは鹿です。森の中にいる鱗というのは、魚で、魚鱗、こういうものが合体したものとして、一番最初に中国の人々は竜を作ったようです。
今は河北省一帯は森というものが全然ありません。黄土平原が広がっていて、一つも森はありません。ところがかつては、そこに深い森があったのです。6.000〜7.000年前にはあったのです。
縄文時代の東北地方と同じような、落葉のナラやクリ、クルミなどが生えている森があったのです。そういう森の中に住んでいた人が、最初に竜というものを作り出し、その竜の原形が猪、鹿或いは魚だったわけです。これらを合体したものとして竜が発想されたらしい。
この文化が、実は約5.000年前に突然崩壊するのです。三内丸山遺跡が寒冷化した時代は約5.000年前に気候が寒冷化するのです。約6.000年前というのは気候が2〜3度高くて、温かく南から湿った空気が入り、森の成育に適した環境でしたが、約5.000年前には寒冷化によって、内モンゴルでは、冬はマイナス11度とか、20度に下がるのです。
この寒冷化が、紅山文化に大変大きな影響を与え、恐らく、紅山文化を担っていた人々が、寒さを避けて、恐らく、南へ、或いは南東部海岸地帯へ逃れ、その一部が三内丸山遺跡へ来たのではないか。と私の仮説です。
丁度、紅山文化が崩壊する時代、約5.000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。縄文時代中期というのは非常に特徴のある時代です。例えば、長野県の八ヶ岳山麓には、火炎式土器。新潟県にも火炎式土器といって、炎のように盛り上がる土器があります。あの炎はヘビなのです。縄文中期土器、三内丸山遺跡でも、まず一番信仰が大規模になるのがヘビ信仰です。特に八ヶ岳山麓というものは、ヘビ信仰の中心地なのです。ヘビ信仰が大変盛んです。
また土偶では、三内丸山遺跡から大量の土偶が出土しています。大量の土偶が作られているということは、大地母神を信仰するような信仰が、この縄文時代中期から盛んになるのです。
ということは、突然約5.000年前に大地母神の信仰やヘビ信仰が盛んになります。それは、中国の東北部に非常に優れた新石器文化がありました。それが紅山文化なのです。それが、大地母神や竜信仰という世界観があったのです。それが崩壊して、大量の人々が三内丸山や新潟県の中期火炎式土器に影響を与えたのではないかと、私は考えております。
三内丸山へ来た以外の一派が、約5.000年前から大きく発展してきた長江文明に竜がでてきます。この竜が紅山文化から出ていた猪竜なのです。玉で作った竜が突然出現してきます。
こういうように日本海を取り巻く北方の文化と日本の関係も分かりましたが、南の関係も非常に大きな関係があることが最近分かってきました。
其の一つは、福井県若狭湾沿岸の鳥浜貝塚です。縄文時代前期の貝塚で、約6.000年前の層から、鹿角斧(ろっかくふ)というものが出土しました。鹿の角の又の部分を残して、作っているのです。100本が出土しているのです。それは、三内丸山遺跡からも5〜6本出土しています。
中国の淅江省の河姆渡遺跡というのは約7.000年前から稲作が行なわれていました。そこに同じものを私は見ました。これは、畑を耕す農耕具だと説明していました。即ち、鍬だったわけです。それで鳥浜貝塚から、エゴマ、ヒョウタン、麻、リョクトウ、などの栽培作物が見つかっています。ヒョウタンというものは、南のものです。既に淅江省の河姆渡遺跡と鳥浜貝塚の間には、縄文時代前期の約6.000年前にも交流があったということです。
雲南省の昆明の町のそばにテン池あり、今から約3500年前からのテン王国という青銅器文化の素晴らしい王国が発見されました。そのテン王国の青銅器の中に、「貯貝器」というのがありました。
貯貝器とは、当時は貝がお金だったのです。アラビアやインド洋という南の海で取れる貝を雲南省まで運んできて、それをお金にしたのです。そのお金を貯える青銅器の器を貯貝器といいますが、円筒形の器なのです。その上には色々な模様や人間などが造形されています。横にも色々な彫像は彫られています。その模様に船に乗った人間が船を漕いでいます。何人かの人間が櫂で船を漕いでいるのです。その船を漕いでいる人の頭にあるのが、羽根です。「羽人」といいます。羽根の冠を被っているのです。魚も泳いでいるところを船を漕いでいるのです。船頭がおって、前方に号令をかけて、太鼓を鳴らしています。その太鼓を「銅鼓」といいます。銅で作った太鼓です。そういうものが描かれています。揚子江下流の淅江省にも羽人という羽根の頭を描いた船を漕ぐ人々がいるのです。
それが、日本でも見つかっているのです。淅江省と同じものが、鳥取県の淀江という弥生時代の遺跡から見つかっています。上に太陽と思われるものと、この船を漕ぐ人、頭に羽飾りを付けているのです。
揚子江流域の雲南省から下流域の淅江省、そして、日本海側周辺にかけて、羽飾りをもった人々が船を操って来ていたのではないかということです。
佐賀県の川寄吉原という遺跡が見つかっています。これには銅鐸の形をした鋳型に書かれたもので、土で作った銅鐸です。銅ではないのです。銅鐸の形に似せた土製品で、やはり人間が武器を持っているのですが、武器を持っている人の頭には羽飾りが付いているのです。
福岡県の珍敷塚古墳の壁画に描かれたのは、船の舳先の左の方に鳥が止まっている絵があります。雲南省からも船の舳先に鳥が留まっているのがあります。これは水先案内人として鳥が止まっているのです。それと同じものがこの珍敷塚古墳にもあります。
この越人に重要なものは何かといいますと、この羽根です。羽根は何か、鳥です。そして淀江遺跡、珍敷塚古墳でもありますが、船の上にあるのが、太陽です。船に乗って、鳥を舳先に置いて、羽根飾りの帽子を着けて、そして太陽を神様として崇める。こういう人々が、実は揚子江の南の方にかけておるわけです。これを「越人」と呼ぶことを中国の考古学者の間で決まりました。
昔は越人というのは、此の辺に住んでいる人をいいました。「呉越同舟」の呉越の越です。雲南省にいる越人とは、テン王国ですからテン越と決まりました。つまり、かつて揚子江流域には、羽飾り帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。
この越人は、淅江省から実に鳥取県の淀江だけでなくて、越前、越後の国へ。
この越前、越後の国の越は、まさにこの越です。それはまさに日本海です。揚子江流域の人々が、羽飾りを付けて船に乗って、新しい文化を持ってきたのです。
3.500年前に突然来たわけではないのです。揚子江の下流域と日本海側との交流は、6.000年前の鳥浜貝塚の時代に河姆渡遺跡の間には、深い交流があったわけです。その海のルートというものは、代々伝承されますから、3.500年前にはもっと航海の技術も発展して、若狭や北陸地方と中国揚子江の下流域には、深い文化的な交流があったのです
終わりに、東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区。此の辺一帯に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルートは8.000年も前に遡り、7.800年前にはそこで竜が生まれたのです。それが、5.000年前の気候変動での寒冷化です。その寒冷化によって、一部は日本に来たのです。そして日本の縄文時代中期の文化の発展に貢献したのです。長江文明もこの紅山文化の影響があったのです。其の時代長江文明にも竜が生まれ始めたのです。
元々、長江流域には越人と言われる人々が住んでいました。その越人は鳥を神様にして、ヘビをも、太陽も神様にするという世界です。しかも、彼らは畑作の粟と猪や豚などの家畜で主たる生業にしていたのです。環境は落葉の広葉樹林でした。これを「ナラ林文化」と言われています。これに対して、稲作を行なって、魚を食べたり、ヘビを神様にしたり、太陽を神様にしているようなところは、照葉樹林です。カシやシイの森の中で。
このように二つの大きな文化圏が存在したのです。5.000年前に一回目の寒冷化と3.500年前に再び気候の変動が起きたのが、大きかったのです。北方から大挙して繁栄していた長江流域に南下したのです。長江流域に住んでいた越人、羽飾りを持って、船に乗って、魚を食べて、お米を栽培して、鳥やヘビや太陽を崇めていた人々が、漢民族に追われるのです。追われて一部は雲南省の山奥へ逃れ、別の一部は船に乗って、ポートピープルとして日本に来たのです。そしてもう一つは南の東南アジアの方へ行ったのです。
我々は雲南省の人々との間には非常に共通性が在ると言います。もともと同じ越の文化を持っていたからです。とりわけ、北陸の人は越人だろうと思います。そして、日本にやってきて弥生時代という新しい時代が出来てくるのです。
こういう風に見ていきますと、今まで我々は、日本列島というのは海に囲まれていて殆ど交流がなかったと思われますが、鳥浜貝塚の6.000年前から、淅江省の揚子江下流域と日本の間には航海ルートが作られていたのです。また5.000年前には、3.500年前などには民俗の大移動と共に文化の交流が行なわれていたのです。
縄文文明の時代に長江文明の担い手であった人々が太平洋も渡ったのではないかという仮設も考えられるのです。長江文明の玉器の中から南米のペルーから出土したチャビンデワンタルという石像の正面の顔がヘビに絡まれて髪の毛を持って、牙をむいている像が全く同じように思われるのです。これを「環太平洋文明論」といいます。