日本人・其の1
日本人 にほんじん 日本人という語の意味は、大きく3種類にわけることができる。第1は日本国籍を有する日本国民という意味で、人間を国家単位で、政治的に分類したときのグループである。第2は日本人種という意味で、人間を生物学的・身体的特徴によって分類したときのグループである。第3は日本民族という意味で、文化を基準に人間を分類したときのグループである。また、文化のなかで言語はとくに重要なので、日本民族は日本語を母語としてもちいる人々とほぼ考えてよい。これら3種の日本人が同義ではないことはいうまでもない。
人種としての日本人はモンゴロイド(黄色人種)に属し、明色から黄褐色までをふくむ黄色い肌、黒色の直毛、うすい体毛、短頭、内眼角ひだ(蒙古ひだ)、小児斑(蒙古斑)などの一般的なモンゴロイドの特徴をしめしている。ただし、地方差もかなりある。たとえば血液型では、全体にA型がもっとも多いが、A型遺伝子の頻度は東北地方から西日本にむかってしだいに高くなっている。日本人をほかのモンゴロイドと明確にわける身体的特徴をあげることは不可能であり、モンゴロイド人種内の1グループとして「日本人種」というたしかな集団が存在するわけではない。
(モンゴロイド Mongoloid おもに東アジア(中国、日本、ベトナム、南北朝鮮、モンゴルなどのほか、シベリアや東南アジアのかなりの地域もふくむ)にすむ人種集団。形質的な特徴は、明るい褐色の肌、暗褐色で直毛の髪の毛、褐色の目、小児斑(蒙古斑)や内眼角ひだ(蒙古ひだ)があることなどである。みかけ以外の遺伝子的特徴としては、B型の血液型が多いことがあげられる。しかし、東南アジアのモンゴロイドは他地域のモンゴロイドと形質的にやや異なっており、ほかの人種集団同様、人種の区分を明確にするのはむずかしい。
アメリカの先住民も、広い意味ではモンゴロイドにふくまれ、その多くは、形質的に東アジアの人々と同じ特徴をもっている。しかし、血液型については違いがあり、遠い祖先がシベリアからアラスカにわたった過程で、生物学的な変化が生じたことをしめしている。極北地方にすむアレウト、イヌイットなどは、東北アジアの人々との類似がより強くみられるので、ほかの集団よりもおくれてアメリカに移動したと考えられる)
日本人の起源
日本列島には旧石器時代の3万〜4万年ほど前から人類が生活していたことが、考古学によって明らかになっている。しかし、旧石器時代から、縄文時代、弥生時代、それ以降と時代がうつるにつれて、出土した人骨からわかる身体的特徴は変化している。その理由として、アジア大陸からの移住と混血、また生活変化が考えられる。古い時代にかぎっていえば、旧石器時代と縄文時代の人骨には大陸南部とのつながりを示唆するような身体的特徴が(ただし最近では縄文人の北方起源説も論じられている)、弥生時代のものには北方アジアの人々と類似した特徴がみられるとされている。つまり、人種的な日本人の起源は複数のルートを考えなければならない。
同様のことが、民族としての日本人をみたときにもいえる。日本の伝統的な文化には、北アジアと共通する要素と、中国南部や東南アジアと共通する要素がみられる。たとえば日本神話には、天孫降臨神話のように北アジアとの関連が考えられる要素と、女神の死体から最初の作物が生じたとする作物起源神話のように、東南アジアに類似のものがみられる要素の、両方がある。食物には、赤飯、餅(もち)、納豆、塩辛、儀礼食としてのサトイモなど、南方との関連がうかがえるものが少なくない。
(縄文人 じょうもんじん 縄文時代にその文化をになった人々。日本列島全体で数千体の人骨がみつかっているが、多くは中期〜晩期の貝塚・洞窟遺跡から出土している。平均身長は男性で158〜160cm、女性147〜150cmと比較的低い。一般的なイメージでは、丸顔で鼻が高く鼻筋がとおり、筋肉もよく発達している。歯も丈夫だが、奥歯は砂まじりの食物を食したり、動植物のかたい繊維質をなめしたりしたため磨耗している。しかし早期・前期の人骨にはきゃしゃなものもあり、この時期は気候不順などによる食料不足で発育の不良もあったと推測する研究者もいる。後期・晩期には貝塚などから食料資源が豊富にあったことが知られ、骨格も頑丈になっていく。
大陸との関係では後期旧石器時代(→ 石器時代)の華南の柳江人との類似が指摘されている。沖縄の港川人(旧石器時代)も柳江人に近いことから、2万〜3万年前ごろに陸続きだった大陸からモンゴロイド系人種が現在の日本列島に渡来したが、その後海水面が上昇、列島に孤立して縄文人になったとの説がある。弥生時代に大陸系種族が渡来し、縄文人と大規模に混血したが、現代日本人の根幹の一端が縄文人にあることはまちがいない。 縄文中期〜弥生時代には抜歯の風習がみられる。成人となる10代後半に、口をあけたときにみえる切歯(せっし)や犬歯、小臼歯(きゅうし)のうちどれかをぬく。これは、歯をぬく苦痛にたえることで大人への一歩とする通過儀礼と考えられている。抜歯の形態で出自集団がわかるという見方もあり、西日本では東日本より形態が複雑なため、出自をより細かく区別していたと思われる)
(弥生人 やよいじん 弥生文化をになった人々。形質人類学的にみて、日本では弥生時代になって大きな変化がおこる。前代の縄文人の特徴は現代人よりも大頭で、顔の幅は広く眉隆起(びりゅうき)が高い。鼻も高く隆起し、歯並びはただしく、虫歯も少ない。これに対し弥生人は頭が長く、鼻根も幅広くなり、目は切れ長で一般的に扁平(へんぺい)な顔となる。反っ歯も虫歯もみられる)
弥生時代前・中期の山口県の土井ヶ浜遺跡は砂丘上にある共同墓地で、1953年(昭和28)以来の発掘調査で300体もの弥生人骨がみつかっているが、男性の平均身長は162.8cmで、縄文人とは約3cm、次の古墳人からも約1cm高い。
北部九州や山口県で確認されている、こうした急激な骨格形態の変化は、大陸にいた集団の大規模な移住によって生じたと考えられている。九州の縄文人も、本州の縄文人と同じような形態的特徴をしめすのに対し、これらの弥生人は、このころに朝鮮半島や中国にすんでいた集団と類似しているからである。
1957年(昭和32)におこなわれた第5次調査で発掘された人骨。あおむけにねて膝(ひざ)をまげて両腕を腹部か胸部においているものが多く、人骨の四隅には石がおかれていた。骨の遺存状況もよかった。これらの人骨の研究から、渡来人系の人々がすんだ集落の墓だったと考えられ、弥生時代の日本人のルーツと大陸や朝鮮半島との関係を知る手がかりとなった。山口県下関市豊北町。Encarta Encyclopedia土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムさらに近年の研究では、むしろ北部九州や山口県などに限定的と考えられてきた大陸集団の移住の影響が、じつは日本列島全体におよんでいたことが明らかになってきている。
たとえば、頭骨の複数の計測値(さまざまな部位の長さや幅など)をひとまとめにして解析する、多変量解析とよばれる統計的手法をもちいた研究では、現代日本人は縄文人よりも弥生人に類似することが判明した。そして、この1982年に発表された研究以降、日本人の起源に関するさまざまな実証的研究がなされるようになってきた。その中で、頭骨の神経をとおす孔の形状など比較的に後天的変化が少ないと推定される形質を中心に調べることや、歯の大きさや細かな形態について調査することがおこなわれた。いずれの研究調査でも歴史時代の本土日本人と北部九州・山口地域の弥生人との間と、縄文人とアイヌとの間にそれぞれ強い類似性があるとの結論がえられている。
渡来系弥生人と在来系弥生人
一方で、弥生人にも地域的な変異があることが新たな発掘人骨の調査によってわかってきた。大陸集団と類似する人骨は、北部九州・山口地域に集中しているのに対し、九州西北部や南部では、縄文人と類似した弥生人骨が多くみつかっている。こうした2つのタイプの弥生人を区別するため、前者を「渡来系弥生人」、後者を「在来系弥生人」とよんでいる。本州でも、たとえば千葉県や群馬県の遺跡などで、在来系弥生人と考えられる人骨が発見されている。ただし最近では、渡来系弥生人の影響は、比較的はやい時期に西日本からさらに東日本の一部地域にまでおよんでいた可能性も指摘されている。
古墳時代以降、これら渡来系と在来系の集団間の混血が、比較的に渡来系が優勢な状態のもとに徐々に進行することによって、歴史時代の本土日本人が形成されていったとするのが、現在多くの研究者の間での一致した見方である。
日本人誕生の時代
日本人にとっての神話と現実
旧約聖書の世界では、アダムとイブが禁断のリンゴを食べるという「罪」を犯したことから人間の歴史が始る。
日本神話でも、スサノオを筆頭に乱暴狼籍の限りを尽くす様子が、描かれている。
神話に語られた人間の「原罪」。私たち日本人が誕生するまでのプロセスにも、実は目を覆いたくなるような淒惨な出来事が起こっていたことが、近年の研究で明らかになってきたのである。
それは縄文人と渡来人の間で起こった。
縄文人は、三〜二万年前ごろから、アジア各地からやって来た人々が混じりあって生まれた日本列島の「先住民」である。 豊かな森を舞台に独自の文化を花開かせ、一万年以上にわたって日本列島の主人公であり続けた。 生活のペースは狩猟採集にあるものの、一部であるが稲作を行っていた人々がいたことも最近分かってきた。
ところが今から二千年前辺りの弥生時代、縄文人とは全く別の人々が日本列島に現れる。 大陸からやって来た新たな渡来人である。
勿論、縄文時代やそれ以前の旧石器時代にも日本列島には大陸から様々な人々が渡ってきていた。 即ち、縄文人だってアジアの北や南からやって来た人々の末裔である。
だが弥生時代の渡来は、それ以前の渡来とは量的にも持続期間の面でも比べ物にならない大規模なものだった。
人々の渡来の歴史が繰り返されてきた日本列島の歴史の中でも最大の変化を生んだ渡来の波が押し寄せたといっていい。
弥生時代の渡来人は、それまでやってきた人々とは全く違う生活様式やものの考え方を持つ異質の人々だった。
第一に、彼らは日本列島に始めて現れた農耕民だった。縄文時代も主に焼畑によって細々とイネや雑穀などを栽培していたが、基本的には狩猟採集民である。 しかし、渡来人は水田稲作を生活の基盤に据えた完全な農耕民であった。
狩猟採集民と農耕民は、単に食料の確保の仕方が違うだけではない。自然に対する考え方もまるっきり違うのだ。 狩猟採集民は基本的に自然のメカニズムを壊さぬように維持しながら食料を獲得する。自然が与えてくれる恵みの範囲内でつつましく暮らす人びと、と言えようか。一方、農耕民は畑や水田という人工的な空間を作り出し、そこで食料を生産する。つまり、自然を意のままに作り変え人間の支配下に置くという発想を持っていた。
第二に、弥生時代の渡来人は日本列島に初めてクニを誕生させたという点で、縄文以前にやってきた人々と大きく違っていた。クニと言うのは、人が人を支配するひとつのシスティムである。これは、ムラの中に頭と手下がいるというような、縄文時代にも見られた素朴な上下関係とはわけが違った。
農耕、そしてクニ。それまでの日本列島になかった文化を携えてやってきた渡来人は、弥生時代に入って急速に列島全体に広がり、縄文人と入れ替わるように日本列島の主人公になっていく。
その過程では凄惨な殺し合いが起こっていたことも近年明らかになってきている。縄文人が一万年にわたってわが世の春を謳歌していた日本列島は、わずか数百年で渡来人に乗っ取られてしまったかのような様相を呈したのである。
2000年前の異文化接触
縄文人は本当に渡来人に駆逐されてしまったのだろうか。私たち日本人の過去は、しかしそこまで血塗られたものではなかったようである。
人類学の研究から、現代日本人には縄文人の遺伝子が三割程度残されているというデータが出されている。 この三割と言う数字が大きいか小さいかは、議論が分かれるところだろう。 残りの七割の遺伝子は渡来人に由来するわけだから。縄文人はやはり多数派の渡来人に追い落とされたと捉えられなくもない。しかし、別の見方のよれば、渡来人の圧倒的な優位の中でよくぞここまで勢力を保ったとも言えるのではないだろうか。
実はこの問題は、私たち日本人を考える上においてだけでなく、「異文化接触」という人類普遍のテーマを考える上でも示唆に富んでいる。
異質な文化を持つ人々の間の対立は人類の歴史のなかで幾度と無く繰り返されてきた。そして現在も人類はいまだにその課題を克服していない
人間の歴史上、異質な人びとと利害関係が生じたとき、どのような行動をとってきたのか。日本誕生のプロセスを詳細に見ることによってこのことをきちんと分析しておくことは、現代を生きる上でも意味の無いことではないだろう。二千年ほど前というのは決して大昔ではない。
縄文人と渡来人、二つの集団の間に一体何があったのか。その中から私たち日本人はどのようにして誕生したのか。二千年あまり前というの意外に近い過去に日本列島で起きた出来事は、どこかで現代の日本人の行動様式や価値観を想定する「無意識の記憶」となって、私たちの精神の奥底に刷り込まれているに違いない。