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はるかなる 日本

環濠作付稲作文明
安田嘉憲
はるかなる
稲作文明の旅

スライド写真
其の壱 其の弐 其の参 其の四
長江文明
(河姆渡遺跡)から
カンボジャ
(プンスナイ)
其の五 其の六 其の七 其の八
長江文明 河姆渡遺跡 幻の仮面王国 蜀王国 テン王国 雲南省
博物館


    4000年頃    西ヨーロッパに巨石文化があらわれる

   新石器〜青銅器時代初頭の西ヨーロッパに巨石文化があらわれた。各地にのこる遺跡のうち、著名なものにブルターニュ地方(フランス)のカルナック列石、ソールズベリー平野(イギリス)のストーンヘンジがある。前4000年までさかのぼるとされるカルナック列石については神殿説と墓地説が、前3000〜前1000年ころとされるストーンヘンジについても、今日なお墓場説、祭祀(さいし)説、天文台説などがあり、定説はない

      13,000年前 - 400年頃    縄文時代

   日本列島では、旧石器時代につづいて13000年前ごろから土器がつくられるようになり、縄文文化がはじまった。食物の煮炊きや保存につかえる土器の使用は、当時の人々の生活を大きくかえ、生活文化の一大転換となった。縄文人たちの多くは日当たりのよい台地上の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)にすみ、主として狩猟や漁労、採集によって生活をしていた。

   最近十数年の研究の進展から、彼らの生活は狩猟や採集以外にも原始的な農耕やクリ林の管理栽培、活発な交易などをおこない、また高度な漆工芸や大型建築物など多様な生活技術を駆使して環境変化に適応していたことがわかってきた。集落もこれまで考えられていたものより、はるかに大規模で長期間にわたるものが次々にみつかっている。

   また縄文時代前期の地層からイネやムギの存在をしめすプラントオパールが検出されるなど、原始的な穀物生産の可能性をひめた証拠もみつかっており、縄文時代の生活・文化といった全体像について再評価がすすめられている。青森県の大平山元T遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で前14500(16500年前)ごろのものとされるなど、縄文時代のはじまりもさらに古くなる可能性がある。

    前2300年頃 - 1700年頃    インダス文明

   古代の世界4大文明にかぞえられるこの文明に関しては、インダス川流域のハラッパーやモヘンジョ・ダロ、ドーラビーラなどの大都市遺跡を中心に大小300ほどの遺跡が発見されている。日干し煉瓦の建物からなる小規模な村落遺跡が多いが、大都市では、焼成煉瓦造りの建物が道路によって区画されており、大きな公共の建物も多い。高度な工芸技術もあり、土器や土製の玩具、彫像、青銅・金・銀など貴金属の装飾品、道具類などが発掘されている。インダス文字を陰刻した印章も多数出土している。

       1800年頃   大湯環状列石

   秋田県鹿角市(かづのし)にある縄文時代後期の代表的な配石遺構である大湯環状列石は、直径約40mの野中堂(のなかどう)と約90m北西にある直径約46mの万座(まんざ)2基が中心である。環状列石内には、形から「日時計」とよばれる中央に立石をもつ遺構がいくつかずつ配されている。配石下にある土抗(どこう)の土の分析から、これらは共同墓地だったと考えられている。

       1500年頃 - 100年頃    マヤ文明の黎明

   ユカタン半島の熱帯雨林地域にも前1500年ごろには土器をもつ人々が焼畑など小規模な農耕社会をきずいていた。前900年ごろからは祭祀(さいし)の建造物もみられるようになるが、マヤ文明の特徴がかなりはっきりしてくるのは、前300年ごろにはじまる形成期(先古典期)後期からである。石碑や基壇、神殿をもつ都市があらわれ、前150年ごろのエル・ミラドールではピラミッド神殿がたちならぶ大都市へと発展する。そして2世紀には、マヤ文字やマヤ暦などを特徴とするマヤ文明が誕生するのである。

       700年頃    東北北部で亀ヶ岡文化隆盛

   縄文時代晩期、東北地方を中心に亀ヶ岡文化とよばれる高度に発達した文化がさかえた。とくに東北地方北部が一大中心地で、青森県八戸市の是川遺跡(これかわいせき)はもっとも代表的な遺跡として知られる。漆(うるし)をぬって彩色したさまざまな形の精巧な土器や豊富な木器、漆器などは、縄文時代の技術文化のひとつの到達点をしめすものである。遮光器土偶(しゃこうきどぐう)で有名な青森県木造町(きづくりまち)の亀ヶ岡遺跡は、江戸時代から土器片の出土する所として知られ、この文化の由来地となっている

    前400年頃    稲作が九州北部に定着

   縄文時代晩期、九州北部に中国大陸から効率的な水田稲作技術がつたわり、まもなく本格的な稲作が行われるようになった。そして前3世紀ごろになると西日本一帯で水田開発が急速にすすむ。この新しい稲作文化は前2世紀後半までに東北地方まで広まったと考えられ、弘前市の砂沢遺跡では弥生時代前期とされる本州最北端の水田跡が発掘されている。なお近年、全国各地の縄文時代の遺跡からイネの痕跡(こんせき)をしめす炭化米やプラントオパールが発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期はさらにはやまる可能性が指摘され、農耕の起源についても議論がつづいている。

      400年頃 - 250年頃    弥生時代

    縄文時代につづく弥生時代は水田稲作を中心とする農耕社会となり、稲作によって安定した食糧生産が可能となって、生産性も高まり富の蓄積と階級の分化がもたらされた。この時代は、朝鮮半島や中国大陸との交渉が活発化し、青銅器や鉄器、ガラスの輸入・製作などもはじまっている。縄文土器にくらべてうすくて機能的な弥生土器も生まれた。階級社会になったことで、ムラやクニを統率する卓越した首長層があらわれて各地で勢力争いがおき、やがてそれらが統合されて邪馬台国に代表される国ができていく。そして畿内を中心とする大和政権の時代すなわち古墳時代へと移行していくのである。

       27 - 395    帝政ローマ

   アウグストゥス以後、五賢帝の時代がおわるころまでのローマ帝国は、約200年間の「ローマの平和」とよばれる最盛期を謳歌した。領土はトラヤヌス帝のとき最大となり、帝国内にはロンディニウム(ロンドン)、ルテティア(パリ)をはじめ、多くのローマ風都市がつくられた。しかし2世紀末にはゴート族、ゲルマン諸族が定住をもとめて南下し、帝国内の政治がみだれはじめた。3世紀には各地の軍が勝手に皇帝を立ててあらそうようになった(軍人皇帝の時代)3世紀末のディオクレティアヌス帝は、帝国を正帝2人、副帝2人に4分割して支配の安定をはかったが、地方的な独立性はますます強まり、395年のテオドシウス帝の死によって帝国は東西に分裂した。

       前50年頃    吉野ヶ里遺跡に大環濠集落

    佐賀県の筑紫平野中央部で、弥生時代の日本最大級の環濠集落といわれる吉野ヶ里遺跡が最盛期をむかえた。この環濠集落は弥生時代前期の前3世紀ごろにはじまり、1世紀ごろには約40haもある大環濠集落へと発展した。復元高が約12mとされる物見櫓(ものみやぐら)や高床式倉庫の跡などが発見され、支配階層の墓と考えられる墳丘墓も発掘されている。墳丘墓内には特殊な飾りをつけた銅剣や薄絹(うすぎぬ)、細形(ほそがた)銅剣などを副葬(ふくそう)した甕棺(かめかん)がうめられていた。また、一般の甕棺群からは頭骸骨のない遺体や戦傷をうけたと思われる遺体が発見され、これは「魏志倭人伝」や「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝に記載された、2世紀後半ごろの「倭国の乱れ(大乱)」に関係するものとみられている。

       57    倭(日本)の奴国王が後漢に使者

  「後漢書」東夷伝によると、倭人(日本人)のうち奴国(なこく。福岡市付近にあった国)の王が、57年に後漢の光武帝(こうぶてい)に使者をおくり、貢物(みつぎもの)を献じて印綬(いんじゅ。印章)をうけとったという。江戸時代に志賀島(しかのしま)で発見された委奴国王印(わのなのこくおういん)がこれにあたる。なお同書の107年の記事には、倭国王の帥升(すいしょう)が後漢の安帝(あんてい)に使いをおくったともみえ、このころ西日本に分立していた国が高度な文明をもつ中国に使いをおくって首長の権威をたかめようとしていたことが知られる。

     前 50年頃 - 100年頃   倭(日本)に漢字が伝わる

    このころ中国大陸から倭(日本)に漢字がつたえられたと考えられているが、断片的なものだったのか、すでに漢字を理解しつかえる人がいたのかなど、その内容は不明である。どちらにしても、漢字伝来前の日本列島に文字はなく、漢字は倭とよばれていた日本が中国と外交交渉をするなかでもたらされたか、朝鮮半島からの渡来人がつたえたらしい。漢字が表記された最も古いものには、江戸時代に北九州の志賀島(しかのしま)で発見された紀元後57年の委奴国王印(わのなのこくおういん)がある。また奈良県天理市の東大寺山古墳出土の大刀(たち)の銘文は184年ごろのもので、古墳出土の3世紀の銅鏡にも紀年銘などが鋳込まれている。4世紀後半に百済から倭王に贈られたといわれる七支刀は、石上神宮(いそのかみじんぐう。天理市)につたわる特殊な刀だが、朝鮮半島、中国大陸と日本の通交をしめす漢字が象嵌(ぞうがん)されている。しかし、漢字の普及はかなり後のことで、役人が日常的な仕事に漢字使うようになるのは、飛鳥(あすか)、奈良時代になってからであった。

    前 150年頃    登呂遺跡で水田農耕

   弥生時代後期、静岡平野の安倍川の扇状地に大規模な水田開発がおこなわれ、農業集落がいとなまれた。杭や矢板をうちこんだ畦畔(けいはん)や水路で区画された水田は広く、当時の卓越した灌漑技術をしめしている。

     390年頃 - 470年頃 大和政権による統一がすすむ

   4世紀半ば、畿内各地の有力豪族が同盟して大和政権の基礎がつくられ、その政権は朝鮮半島からの鉄の供給と渡来人の特殊技能を独占して力をたくわえていった。391404年には朝鮮半島に渡海して高句麗とあらそうほどの国力をもつにいたり、5世紀前半になると倭国(日本)の盟主としての立場から中国の宋王朝に使節を派遣している。倭王武(わおうぶ。雄略天皇)のころには地方豪族を統治するための政治組織がととのい、5世紀末ころまでに大和政権の影響下に入った地域は、前方後円墳の分布や三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)の出土からみて、九州中部から東北地方南部まで広がっていたと考えられる.

     420 - 500 巨大な前方後円墳がきずかれる

    このころ畿内の大和政権や、大和政権の影響をうけた地方の豪族により、巨大な前方後円墳がきずかれた。古墳時代前期(4世紀)に奈良盆地で築造されていた大型前方後円墳が、5世紀初めから大阪平野にうつり、さらに巨大化した。この中期古墳の代表的なものは応神天皇陵(420年頃。誉田山古墳:こんだやまこふん)や仁徳天皇陵古墳(440450年頃。大仙古墳)である。またこのころ、岡山県の造山古墳(つくりやまこふん)や群馬県の太田天神山古墳(おおたてんじんやまこふん)など、大王陵に匹敵する巨大前方後円墳が地方でつくられている。

     592 推古天皇即位

崇峻天皇(すしゅんてんのう)が蘇我氏(そがうじ)をきらったため、専制を強める蘇我馬子(うまこ)と対立して暗殺され、その後に額田部皇女(ぬかたべのこうじょ)が推古天皇として即位、女性としてはじめての女帝となった。額田部はすでになくなっていた敏達天皇(びだつてんのう)の后(きさき)であった。また母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘の堅塩媛(きたしひめ)で馬子の姪(めい)にあたり、蘇我氏とは深い血縁があった。

     592 - 710 飛鳥時代

    592年の推古天皇の即位から、710年に平城京に都をうつすまで、おおむね大王(おおきみ。7世紀後半以降は天皇)の宮都が飛鳥の地にあった約117年をさす。なお645年の大化の改新や天智天皇のころ以降を白鳳時代(はくほうじだい)とよぶ文化史の呼び方もある。政治的には氏姓制度(しせいせいど)と部民(べみん)支配から律令制へとうつりかわる時期にあたり、大王(天皇)中心の国づくりがおこなわれた。文化的には中国の隋、唐王朝への遣隋使、遣唐使派遣によって大陸文化を導入し、国際的な地位の確立もはかっている。またこの時代は古墳文化から仏教文化への転換期でもあった。

     593 聖徳太子が摂政となる

    推古天皇(すいこてんのう)の即位の半年たらずのち、甥(おい)の聖徳太子(厩戸皇子:うまやどのおうじ)が摂政(せっしょう)となり、蘇我馬子(そがのうまこ)とともに政治にあたることとなった。推古天皇には敏達天皇(びだつてんのう)とのあいだに竹田皇子(たけだのおうじ)がいたが、崇峻天皇(すしゅんてんのう)の在世中に死んでいるため、血縁的にも蘇我氏に近く、后(きさき)も蘇我氏からいれている聡明な太子が抜擢されたもの。実際、積極的に政治に関与するのは602年ごろ以降とする説もある。

     596 飛鳥寺の建立

   蘇我馬子(そがのうまこ)発願(ほつがん)の、本格的寺院としては日本最古の飛鳥寺が、一応の完成をみた。別名を法興寺、元興寺(がんごうじ)、本(もと)元興寺ともいう。百済(くだら)の大工の指導で588年に起工され、1塔を中心に東・西・中()3金堂がとりまく飛鳥寺式伽藍(がらん)配置をとったもの。606年には、鞍作止利(くらつくりのとり)のつくった釈迦如来像(飛鳥大仏)が本尊として安置されている。蘇我氏の氏寺ながら大化の改新後も官寺として尊重され、川原寺、本(もと)薬師寺、大官大寺とともに藤原京四大寺のひとつだった。1196年に落雷の火災で塔と金堂が焼失し、以後おとろえる。なお、現在地の安居院(あんごいん)の大仏は原位置をたもっている。

     603 冠位十二階制定

    推古天皇の摂政(せっしょう)、聖徳太子が小墾田宮(おはりだのみや。奈良県明日香村)で、氏族(氏姓)制度の制約をのぞき家柄にとらわれない有能な人材を登用しようと12階による官人(役人)の階位を発表した。徳・仁・礼・信・義・智を大小の2階にわけ、これに対応する6つの色とその濃淡によって色分けした12種の冠(かんむり)がそれぞれの官人たちに授与された。授与の対象となったのが、蘇我氏ら有力豪族以外の、中・下級豪族という限界はあったが、はじめての冠位制度として、氏族などの家柄ではなく個人の功労や能力による昇進も可能となり、のちの律令官制の源流となった。なお、647年には13階にあらためられている。

    694 藤原京に遷都

   持統天皇が現在の奈良県明日香村にあった飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)から、奈良県橿原市の藤原宮に都をうつした。奈良盆地南部の畝傍(うねび)、耳成(みみなし)、香具(かぐ)の大和三山にかこまれた藤原の地につくられたためこの名をもつ。この宮をふくめ南に広がる新益京(しんやくのみやこ)が藤原京とよばれ、中国の条坊制を採用した日本で初めての本格的都城だった。以後約16年間、持統・文武・元明の3代の天皇の宮都としてさかえる。701年には大宝律令がこの地で完成、施行されたほか、本薬師寺(もとやくしじ)、紀寺(きでら)、大官大寺がいとなまれた。

     607 法隆寺建立

   法隆寺は、607年に用明天皇の遺志をついで推古天皇と聖徳太子によって建立されたが、670年に焼失、現在の建物(西院伽藍)は和銅年間(708715)に再建されたものと考えられる。夢殿を中心とした上宮王院(東院伽藍)739年の造営。

  文化財に、世界最古の木造建築とされる金堂をはじめとする建築物群、金堂の釈迦三尊像と薬師如来像、百済観音、夢殿本尊の救世(ぐぜ)観音などの仏像、玉虫厨子(たまむしのずし)をはじめとする絵画・工芸品などがある。

     700年頃 高松塚古墳壁画

   1972年に発掘された奈良県明日香村の高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭のものと推定されている。石室内部の壁面には、四神のうちの青竜、白虎、玄武や、男性4人の群像、女性4人の群像などが色鮮やかにえがかれている。その図案から、中国・朝鮮の装飾古墳との密接な関係が明らかになった。

       710 - 794 奈良時代

   元明天皇が710年に平城京(奈良市)を都としてから桓武天皇が平安京(京都市)に都をうつす794年までの、8代の天皇の約84年間をさす。聖武天皇(しょうむてんのう)のとき740年から約5年間、恭仁(くに)・難波(なにわ)・紫香楽(しがらき)に都をうつしたほか、桓武天皇は784年から長岡京(京都府向日市、長岡京市、大山崎町など)に都をうつした。しかし造営事業の責任者が暗殺され、事業は中断し完成にいたらなかった。

  この時代は、天皇を頂点とする律令国家(りつりょうこっか)の最盛期にあたり、経済的には班田収授法が機能し、租や調庸、雑徭(ぞうよう)の税をあつめ、これを背景として唐の影響を強くうけた独自の仏教文化である天平文化(てんぴょうぶんか)などが花開いた。いっぽう天皇の後継ぎの問題から、武力による有力者どうしの争いがたびたび争乱に発展し、長屋王の変(729)、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱(740)、藤原仲麻呂の乱(764)などの争いがおこっている。こうしたなかで大化の改新の功労者である藤原鎌足(かまたり)の子孫である藤原氏は、娘を天皇の后(きさき)にたてるなどして、律令制のなかで着実に力をのばしていった。

     710平城京に遷都

   元明天皇のとき、唐の都、長安にならって大規模な条坊制をしいた平城京が奈良盆地北部に建設され、盆地南部の藤原京から都がうつされた。京域の規模は長安の3分の1程度だったが、藤原京のほぼ3倍となった。遷都の理由として、権力者であった藤原不比等(ふじわらのふひと)が、保守的な豪族たちの本拠に近い藤原京をきらったため、あるいは律令国家(りつりょうこっか)体制の充実とともに、役所の施設を広げることがのぞまれたためなど、さまざまな見方がある。また都をつくるのに必要な大量の物資を船ではこぶのに都合のよい川があったことも選択にあたって考慮されたであろう。