輪島塗

   輪島塗 わじまぬり 

  石川県輪島市において生産される漆器。起源は定かではないが、世につたわる最古の輪島塗は、1524年(大永4)に製作された、輪島市内の重蔵(じゅうぞう)神社につたわる朱塗扉である。江戸初期には、珪藻土を原料とする輪島地の粉(じのこ)をもちいた漆塗技法が確立され、享保期(1716〜36)には沈金(→ 漆工芸の「沈金」)技法が、文政期(1818〜30)には蒔絵技法が導入され、高級実用漆器としての名声を確立した。

  輪島塗の特徴は、布着せや本堅地(ほんかたじ)とよばれる堅牢(けんろう)な下地塗技法と、沈金や蒔絵技法による優美な加飾にある。昭和初期からは、のちに人間国宝に認定される前大峰(まえたいほう:1890〜1977)や塩多慶四郎(1926〜 )をはじめとする漆芸作家を数多く輩出し、産業面においても美術工芸的傾向を強めた。1977年(昭和52)に重要無形文化財の指定をうけた。

   輪島市 わじまし 

  石川県北部の商工業・観光都市。能登半島北岸にあり、能登外浦の産業と交通の中心。市南部に能登町と穴水町にまたがって能登空港がある。1954年(昭和29)輪島町と西保村、大屋村、三井村(みいむら)、河原田村、鵠ノ巣村(こうのすむら)、南志見村(なじみむら)の6村が合併して市制施行。

  輪島塗は質、量とも日本最高級の漆器で、地場産業としても重要な地位を占める。

  能登外浦の西保海岸や曽々木海岸は能登半島国定公園を代表する景勝地。高洲山(こうしゅうざん、こうのすさん)からは日本海の舳倉島や白山、立山がよくみえる。町野町にある上時国家住宅(かみときくにけじゅうたく)と下時国家住宅は国の重要文化財。市街中心地でおこなわれる朝市は日本屈指の規模で、住吉神社境内の夕市とともに観光客の人気が高い。国名勝の白米(しろよね)の千枚田は海岸の傾斜地に1000枚以上の田が階段状に幾重(いくえ)にも重なり、うつくしい棚田(たなだ)となっている。

   瀬川清子「舳倉島」

  瀬川清子が民俗学をこころざすきっかけとなったのは、いきいきとうつっていた海女(あま)の写真に感動したことによるという。本編は1933年(昭和8)の稿だが、能登半島の北端の舳倉島(へぐらじま)の海女の暮らしをはじめ、全国をあるきフィールドワークをおこなった。舳倉島の海女は輪島市海士町(あままち)などで1年の半年以上はくらし、初夏から秋にかけて全家全住民をあげて舳倉島にわたり海藻とりや鮑(アワビ)とりなどをいとなむ。女が主役である海女のおおらかで、たくましい暮らしぶりをつたえている。

[出典]瀬川清子『十六島紀行 海女記断片』、未来社、1976

    日本海に面した、能登半島の北端に、輪島という町があります。有名な輪島塗りの産地ですが、この町の一部に、海の中に潜って、鮑や寒天の材料になる海藻を採って暮す一団の人々の住んでいる海士町があります。 (略)  海士町の人たちの祖先は、幕末までは、伸し鮑(のしあわび)をつくって、領主加賀の殿様に献上して、そのかわり、米や塩やお金をいただいておったそうですが、いまは、生のまま売り出しています。また、日本の名産として輸出されている寒天をつくるエゴという海藻を採っています。

  その鮑や海藻が輪島町の北に遠く浮かんでいる舳倉島から、たくさんにでるので、ここの人たちは、昔も今も、毎年夏から秋にかけて、そちらに移り住んで採取するのであります。 それで、六月頃?十八夜の頃になりますと、海士町の人たちは一同打ち揃って、海の向こうの舳倉島に、島渡りをするのであります。当日は港いっぱいに浮かんだ小船に家財道具を積み込んで、大人も、子供も、文字通り全家全村が、いっせいに島へ引っ越しするのであります。国民学校の先生三人、お寺様、お医者様、おまわりさんも付き添うて、非常な混雑と賑わしさで島渡りをするのであります。舳倉島の海藻や鮑は、村民共同の財産なのですから、勝手に、一日でも早く島渡りをすることはゆるされません。

  昔は、この島渡りの途中で、風波に遭って、難船することがたびたびありましたので、一家族の親子兄弟を、別々の船に分乗させて、一船が遭難しても、一家全滅ということがないようにと、悲しい用意もしたということであります。 渡りついた舳倉島には、輪島の海士町の家よりも、もっとよい柾屋根、瓦屋根の家が二〇〇戸あまりありまして、島渡りの人々は、また非常な混雑と賑わしさで荷揚げをして、島の別宅に落ちつきます。そして準備ができると、一定の期日から、いっせいにエゴとりをはじめるのであります。

  (略)  エゴの次に大事な仕事は鮑の採取であります。やはり、男女が一組になって船に乗り、婦人が「あの瀬がよい、この瀬がよい」と鮑のいそうな位置を注文して、適当な場所に船をとめてもらいます。海にはいる時には、魔除けになるといって、観音髷(かんのんまげ)という髪を結ぶのですが、その上をガーゼの手拭でしばり、水眼鏡をかけます。腰にはハチコという所々に鉛のついている腰縄をつけ、それに命綱を結びます。岩に吸い付いている貝を起こす貝金という一尺以上の金を後腰にさし込んで、さて海中に飛び込む。両手と両足を一ぱいに伸ばして、すうっと波の底に沈んで行って、藻をかきわけたり岩を覗いたりしている姿は、まことにきれいで、物語りの人魚のようであります。婦人の、どんな姿態の美しさも、あの青い水の中に白く輝く人魚の美しさにまさるものはないと思います。 

  一分間もたたないうちに、水中からの合図で、船上の男が命綱をたぐり上げるのですが、海の底から上がって来た彼女は、船端に手をかけて、身体を浮かしながら、ピュウピュウッと笛のような音をたてて深い呼吸をいたします。人の息づかいとは思われないその音は、まことに苦しそうで船の上におって命綱をたぐり上げる夫の心も、さぞつらかろうと、いたわしくって気の毒でたまりませんが、こうして水中で堪えておった不自然な呼吸を調整するのだそうであります。一分間休んで、また潜りますが、その度ごとに鮑がとれるのではありません。漁の少なくなったこの頃では、五、六度潜って一つ当たるだけで、午前一ぱいは、船に上がって休むこともせずに潜りを繰り返すのであります。

  鮑がたくさんとれない日には、嫁さんは姑に悪いと思うし、一船の中の男女二人のあいだも自ら気まずくなるそうであります。上手な海女衆は並の人の一〇倍もとるそうで、そういう人は金持にお嫁にもらわれるといいます。鮑の時も、男は四割女が六割という分け前であります。 夕方、鮑とりの船が沖から帰ってくる頃には、親方の家のおじいさんとおばあさんが、浜に出て待っておって、おばあさんは一人一人の鮑を手籠にあけさせて、目方にかける。おじいさんは矢立の筆をなめなめ帖面をつけて受け取るのであります。海女たちは、鮑を親方に納めて、米、味噌、銭を親方から借りて暮しをたてているのでありました。

  毎日、自分のとり高が目方にかけられるので、この人たちは、よると触ると、とり高の多い少ないの話、潜水のときの息の長さの話ばかりしております。一呼吸の長さは、潜る時間、仕事の能率を意味するので、お前は息が長い、私よりもずっと長い、誰それの息の長いのには驚いた、などと、それはそれは高い声で熱心に話しております。日本海は波が荒いので、こんなふうに男女一組で本式の鮑とりをする日は、在島四ヵ月間に、四〇日しかないそうです。あとの日は、女房たちだけで、「かちから」をいたします。 

  この地方では女房というのは女子の総称です。「かちから」というのは、歩いて行ってする漁という意味で、この言葉は、舳倉の人たちが、先祖の国筑前の鐘ヶ崎(福岡県)から持って来た言葉だといっております。直径三尺もある大盥(おおだらい)をカチカロゲといい、それを背負って徒歩で行き、やや浅い、海岸近い海に浮かべて漁をするのであります。風があって、船で沖に出られない日に、女たちだけで貝をとる日の作業であります。この島の海岸はだいたい黒い岩石なのですが、かちからをするあたりは、草も生えない岩ばかりです。

  一しきり潜って、寒くなった人たちが海から上がって、さんらんと輝く真夏の太陽の下で、焚き火を囲んで談笑している光景は、まことにすばらしいものです。太陽も岩石も人間も、一つになって呼吸しているような、この世ならぬ逞しさを感じさせられます。こちらには、笊(ざる)に入れた食べ物をつまんでいる少女たちの一群のさざめきがあるかと思えば、向こうには、年盛りの娘たちの一群が何がおかしいのか転げまわって笑いながら、一段と賑やかなおしゃべりをしています。

(c)岩船

輪島塗の歴史

 

漆文化のはじまり
 japanと呼ばれる漆器の歴史は、近年の考古学的調査によって約6800年前にさかのぼることが、明らかとなりました。その最古の漆塗り製品は、能登半島・田鶴浜町三引遺跡から出土した竪櫛です。16本の櫛歯(ムラサキシキブ材)に横木を渡して、植物繊維でより合わせ、頭部を半円形にしています。すでにベンガラ(赤色塗料)が含まれた漆を4層塗り重ねるなど高度な技術が駆使されています。縄文時代の櫛はシャーマン(呪術者)の頭部を飾る呪具で、多くは赤色漆塗りです。赤色は生命の色、再生の色であり、精製された漆に赤色顔料(ベンガラ・朱)を混ぜることによって、より光沢と深みをました麗しい赤色に変化します。またその強い粘着性は朽ちることなく物質の永遠性を保ちます。

このようにして漆は呪具を飾る必須の塗料となりました。かぶれる漆に恐れを抱きつつも、鮮やかな永遠の生命をたたえる漆は、カミが宿る樹木として信じられたのではないでしょうか。こうした森の民の思想は今日にいたるまで受け継がれています。本物の漆器にふれたとき、何者をも優しく包み、深い異次元の世界に引きこまれます。漆はまさにいやしの塗料なのです。


田鶴浜町三引遺跡出土の縄文竪櫛

古代・中世の漆器
 平安時代の説話文学集『今昔物語』に、あらゆる願いがかなえられるという「通天の犀角帯」入りの漆桶が、輪島の海岸に漂着したという話が収められています。輪島と漆を結びつける文学上の最古の記録ですが、潮が運ぶ能登の文化的位置を示しています。同時代の輪島で漆器が作られていたことは、石川県輪島漆芸美術館前の釜屋谷B遺跡から、漆盤(大皿)と漆パレットが出土したことからも、裏付けられています。

 漆器の生産はいくつかの分業を総合した高度な技術で、古代においては律令国家や有力寺院などに掌握されていました。平安時代も後期になると国家権力は衰え、漆工技術者たちは保護を求めて地方の富豪層のもとに身を寄せたり、山々を漂泊して簡素な漆器作りを行う木地師たちが出現しました。こうして平安時代末期から中世にかけて爆発的に漆器の普及が始まり、飯椀・汁椀・采椀の組み合わせ(組椀)が食膳の主流となりました。富豪層の居館跡と考えられる山岸遺跡からは多量の漆器が発見され、輪島においてもかなり普及していたことが知られます。


漆盤

輪島塗のおこり・産地の形成
 中世後期の輪島は大屋荘の中心であり、日本海側を代表する「親の湊」をひかえた中継港湾都市として栄えました。
 富山湾側の中核集落・穴水町西川島遺跡群御館遺跡から出土した線刻椀(室町前期)には輪島沈金と同じ技法がみられるとともに、顕微鏡分析から珪藻土の下地が確認されました。つまり今日の輪島塗の特徴を備えた最古の漆器ということになります

 輪島塗と他産地とを識別する最大の特色は、下地に地の粉(珪藻土)が用いられていることです。これを焼成粉末にして下地塗りに用いますが、微細な孔を持つ珪藻殻の粒子に漆がよくしみこみ、化学的にも安定した吸収増量材になることと、断熱性に優れていることが重要な特色です。つまり漆とガラス質の微化石・鉱物による固く堅牢な塗膜によって柔らかいケヤキの木地が包まれ、くるい(変形)がなく熱に強い漆器の基礎ができあがるのです。輪島塗が堅牢無比といわれる理由はここにあります。

 従来このような下地技法は江戸時代の寛文年間に生まれたとの伝承から、輪島塗の起源をここに求める考えが定説化していました。しかし室町時代にさかのぼる考古資料が発見されたことや輪島市内の重蔵神社に残る文明8年(1476)の棟札に塗師たちの名前がみえること、明和5年(1768)に修理された同社奥の院の朱塗扉は、大永4年(1524)造替時のものといわれていることなどを総合すると、室町時代には国人領主・温井氏の保護のもとに漆器生産が行われ、小規模な商圏が形成されていたと考えられるようになりました。

朱塗扉


線刻漆椀


線刻漆椀・塗膜の顕微鏡写真


地の粉の焼成
機械化以前は野焼きにしていた

輪島塗の発展 江戸時代
 17世紀以降、輪島近辺に産する漆、アテ(ヒバ)、ケヤキ、輪島地の粉(珪藻土)などの豊富な材料を用いて分業的生産による堅牢な漆器作りを行い、港湾機能を生かして広域的な市場を形成して発展したものが近世輪島塗です。

 すでに江戸時代前期の寛文年間(1661〜1672)には敦賀をへて、京・大阪に販路を広げていました。正徳3年(1713)の塗師数は25名ほど、天明7年(1787)には河井町50人、鳳至町12人、天保14年(1843)には鳳至町だけで塗師28軒、塗師職人79軒となりました。生産組織も塗師、椀・曲物・指物木地、蒔絵、沈金の六職となり、分業化がいっそう進展しました。こうした状況を反映して18〜19世紀にはご膳や椀・櫃が、西は山口県(赤間ヶ関)から、北は北海道にまで運ばれており、天保12年(1841)にはエトロフ島からも注文が入るほどでした。このため漆が不足し新潟方面から調達していました。

 輪島塗が大きく発展した要因をいくつかあげてみましょう。
1.漆や地の粉など豊富な素材に恵まれ、気候が漆器制作に適していました。
2.17世紀後半(寛文年間)には今日と同じ堅牢な技術が確立し、これが評判を呼びました。
3.徹底した品質管理を行いました。天明年間(1781〜1788)には、笠屋佐次右衛門ら10名が発起人となり「大黒講」を組織し、塗物の製造工程を定め、価格、販売区域の協定、違反者への罰則などを決めました。これが信用を呼び「場所」とよばれる販路拡大につながりました。


4.六職とよばれる生産の分業化がはかられ、量産体制が整いました。また輪島の周辺には木地師の集落がいくつもありましたが、安価な陶磁器の普及によって彼らの生活がなりたたなくなると、輪島塗の木地師となって生産を支えました。
5.「椀講」「家具頼母子」とよばれる販売方法によって京・大阪方面での販路が拡大しました。これは行商先で10人の顧客を募り一講を組織するとすれば、商品の価格の1/10を各人10回出資することと定め、商品は抽選順番によって10年間にわたり毎年納品される方法です。顧客にとっては求め易く、塗師にとっても安定した需要が見込める合理的なものです。もちろん販売は塗師屋が直接購入者に納める行商制であり、対話を通しての信用販売でした。
6.日本海側を代表する良好な港をひかえ、廻船で各地に大量に製品を運ぶことができました。


輪島港


江戸時代のロクロ

  輪島塗の発展 明治・大正時代
 
  
明治維新によって大名・武士、公家などの需要を失った京都、江戸、尾張、加賀などの漆器産地は大きな打撃を受けました。しかし飯田善七はじめ藩のお抱え職人が輪島に移住したこともあって、富裕な農家や商家を主な顧客とし、独自の生産・販売形態をもっていた輪島塗は、かえって生産を発展させることになりました。
  
明治後期から大正時代にかけては、三代沈佐・橋本雪洲や黒川碩舟、舟掛宗四郎、舟掛貞二らの沈金の名工が輩出し片切彫や沈金象嵌などの新たな技術も開発されました。また伝統的な家具(膳椀セット)の製産に加えて、料亭や旅館で使用される業務用の需要を開拓し、製品の種類に変化が生まれています。

  明治18年(1885)には、輪島地の粉(珪藻土)の管理、漆樹の植栽、職人の技術向上を目指して、輪島漆器同業者組合が結成されました。明治36年(1903)の河井町の塗師屋は157軒、鳳至町の塗師屋は61軒。明治43年(1910)の輪島漆器同業者組合加入の漆器業者は255軒を数えるまでになりました。

  輪島塗の発展 昭和〜現代
 昭和2年(1927)には帝展に工芸部門が新設されました。輪島では蒔絵師竹園自耕や、沈金の前大峰などが帝展を舞台に漆芸作家として活躍を始めます。昭和5年(1930)には、前大峰が帝展特選を受賞。戦後は毎年のように中央展での受賞を重ねる作家たちが多数輩出しています。

   昭和29年(1954)に工芸展が日展と伝統工芸展に分かれると、今日まで日展では張間麻佐緒、榎木盛、三谷吾一、井波唯志、角野岩次らが指導的な役割を担い、大きく工芸界に貢献しました。一方、伝統工芸展では昭和30年(1955)に前大峰が、(漢字なし-髪の下半分が休っつー字-)漆の塩多慶四郎が平成7年(1995)に、沈金の前史雄が平成11年(1999)にそれぞれ国の重要無形文化財保持者(人間国宝)の指定を受けました。他に漆や木などの素材美を生かした作品を手がける角偉三郎らがいます。

   昭和50年(1975)には輪島塗が伝統的工芸品に、昭和52年(1977)には重要無形文化財に、昭和57年(1982)には輪島塗の制作用具など3804点が重要有形文化財に指定されました(輪島漆器資料館で常設展示中)。平成3年(1991)には、全国初の漆芸専門美術館として石川県輪島漆芸美術館が開館しました。

  常設の輪島塗、現代漆芸作品やアジアの漆芸品の他、おりおりの企画展などによって漆工芸の名品に接することができるようになりました。

Copyright (C) 2004 輪島漆器商工業協同組合 All Rights Reserved.

このページのトップへ