東北最古の稲作地

    東北の最古の稲作

   砂沢遺跡 すなざわいせき 青森県弘前市の市街地から北へ約20kmの砂沢池の底、約40haに広がる遺跡で、弥生時代の前期にさかのぼる水田址が検出された。この遺跡は、1984年(昭和59)から87年まで、4年間にわたって、発掘調査が行われ、発見された2枚の水田址が、弥生前期までさかのぼることが判明した。弥生前期の水田址が東日本で発見されたのは初めてであり、同県田舎館村の垂柳遺跡(弥生中期)とともに日本最北端の弥生時代水田址として注目される。日本の稲作は、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る新発見である。

  垂柳遺跡 たれやなぎいせき 青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。遺跡は、旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれる。

  1956年(昭和31)に籾痕(もみこん)のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。水田跡は656面で、大きなものは11m2以上あり最大のもので22m2、中が9m2前後、小が4m2前後だが、平均では8m2ときわめて小規模である。

   各水田をくぎる畦畔(けいはん)もあり、注水、配水のための水口もつくられていた。水路も12本みつかっている。112面の水田跡からは人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。水田脇から発見された土器群は、田舎館式と命名されている。

  東北地方では、垂柳遺跡の発見前から籾痕のある土器片や炭化米、焼けた米がみつかっていたことから、早い時期の水稲農耕説が一部の研究者から提唱されていたが、定説にはなっていなかった。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播(でんぱ)を考えるうえで大きな問題提起となった。   稲作

  その後、1987年に弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。現在、遺跡の一部はうめられて高架橋がかかり、遺物は田舎館村歴史民俗資料館で保管されている。2000年(平成12)4月に国の史跡に指定された。

  弥生文化 やよいぶんか 日本列島で稲作を生活の中心とした最初の文化。鉄器や青銅器がもちいられ、階級が成立し、国家誕生の前段階となった社会。前5世紀末から後3世紀半ばにあたる。前代の縄文時代が食料採集を経済基盤とするのに対して、水稲農耕を主とする生産経済体制が本格的に成立した時代である。

弥生文化の領域は南は薩南諸島から北は東北地方におよび、同時期に北海道では続縄文文化、沖縄諸島では貝塚時代とよばれる食料採集段階がつづいていた。弥生時代の区分は古くは3期(前・中・後期)にわけていたが、最近は稲作農耕の始原問題などから早期をおいたり、古墳の発生とからめて弥生末〜古墳初頭期をおく説も提起されている。また前期や中期の幅も、北九州と畿内の研究者の間で差異があるため混乱も生じている。

「弥生時代の新しい年代観」

   石川日出志 AMS14C年代測定法による新しい年代観

  これまで、弥生時代の年代は西暦紀元前(BC)6〜4世紀から紀元後(AD)3世紀までと考えられてきた。これは、青銅鏡などおもに中国で製作時期がわかる文物が、弥生時代の日本列島にもちこまれたことを手がかりにもとめられた年代である。しかし、本格的に中国の文物が日本列島に流入するようになるのは、前108年に前漢の武帝が現在の平壤(ピョンヤン)付近に楽浪郡を設置してからで、それは弥生中期後半であることから、弥生時代の開始年代をしぼりこむのはむずかしいのが実情であった。

  国立歴史民俗博物館(以下、歴博)の研究チームは、2003年(平成15)5月19日に文部科学省で記者会見し、加速器質量分析法(AMS:accelerator mass spectrometry)による放射性炭素(14C)年代測定法をもちいることによって、弥生時代の開始時期がBC900〜BC1000年ころにさかのぼることが判明したと発表した。

   AMS14C年代測定法の原理と方法

  炭素には、質量12の12C(炭素12)のほかに、中性子が多い13C(炭素13)と14C(炭素14)という同位体がある。中性子が12Cより2つ多い14Cは、原子核が不安定であって放射壊変をおこす。放射性壊変によって14Cが2分の1に減じるのに5730年(半減期)かかり、さらに2分の1、つまり当初の4分の1になるのにさらに5730年かかる。大気中の存在比は、12C:13C:14C=0.989:0.011:1.2×10-12であり、生物は大気中の炭素をとりこんで成育するが、死後は炭素の供給が絶たれて、14Cは一定の速度で壊変し、その量を減じてゆく。この原理を利用して、遺跡から出土した木炭や、かつて木材をもやしてついた煤(すす)などの14C濃度を測定し、現在から何年前に利用されたのかを知るのが14C年代測定法である。すでに1950年代に実用化され、世界的に活用されてきた。

  1970年代後半になると、従来のβ線法にくわえてAMS法が新たに開発された。β線法が14C壊変時に放出されるβ線を計測するのに対して、AMS法は試料中の14C自体を測定するもので、微量の試料を、しかも短時間測定するだけで信頼性の高い測定値がえられるようになった。

   測定値を較正する

  14C年代は、大気中の14C濃度が一定であるという前提(理論)のもとにもとめられたものだが、実際には宇宙線や地磁気の変動によって14C生成率は変動するので、実際の年代値をしめしてはいない。そこで、世界各地で樹木の年輪やサンゴ化石、年縞(水域の縞状堆積物)を測定して、過去の大気中の14C濃度変動曲線をもとめ、これをもちいて測定値を実年代に換算(較正(こうせい):calibration)する方法をとる。現在は1998年に発表されたINTCAL98という較正曲線をもちいている。

  測定値は、かならず1950年を起点とするBPと、誤差として±1δ(1標準偏差)を付して表記される。つまり、たとえば「2590±40BP」という表記は、1950年から2590年前を中心とする前後各40年(1δ)内である確率が68%、前後各80年(2δ)内にはいる確率が95%であるという意味である。こうした確率数値を較正曲線と照合して較正値を出す。

  したがって、年代値は確率的な幅をもつし、較正曲線が直線ではなくて小刻みに上下動する点にも注意が必要である。2590±40BPの場合、較正値は2δとして830calBC〜750calBC(確率69.3%)・680calBC〜650calBC(同8.8%)・640calBC〜580calBC(同11.3%)・580calBC〜540calBC(同6.5%)となり、確率的には紀元前(BC)の830〜750年がもっとも高いが、広い年代幅をもつこととなる(cal表記は較正値であることをしめす)。

   発表の概要と年代観

  じつは、これまで弥生時代開始期をAMS法でしぼりこむのはむずかしいとされてきた。それは紀元前(BC)の6〜4世紀という弥生時代開始期は、較正曲線が700〜400calBCで水平線をえがくために較正値がえられないからであった(仮にミステリーゾーンとよぶ)。

  歴博チームは、2001年から科学研究費により「縄文時代・弥生時代の高精度年代体系の構築」という研究プロジェクトを始動させ、全国の縄文・弥生時代試料の分析をすすめてきた。その中で、福岡県福岡市雀居遺跡(ささいいせき)・同市橋本一丁田遺跡、佐賀県唐津市梅白遺跡(うめしろいせき)などで出土した弥生早期・前期初頭の土器外面に付着した煤を測定したところ、900〜800calBCに確率曲線の高いピークがくることを確認した。つまり、ミステリーゾーンの前にさだまり、先の問題はクリアできたことになる。その結果、従来弥生時代がはじまる時期は、中国では春秋戦国時代(前770〜前221)に相当すると考えてきたのが、西周時代(前1050?〜前771)にまでさかのぼることになり、東アジア世界の中で弥生文化の成立を考えるときに、大きな変更を要する、と発表された。

   考古学界の受け止め方と今後の問題

  こうした発表をうけて考古学界でも、賛否両論、さまざまな反響が出ている。従来の年代値のままで問題はないとみる意見、朝鮮考古学の成果と対比すると今回の発表年代値は適正であるとみる意見、従来の年代法からAMS法に切りかえるべきだという意見、ひたすら静観という場合もある。また、年代がさかのぼっても縄文・弥生の時代区分はかわらないとのべる意見もあるが、これは年代論と歴史評価を混同したものであろう。

  私見をのべると、AMS法の体系とその成果の大枠は支持するが、較正値を細部にいたるまで採用するほどに較正曲線は万能ではないとみる。たとえば800calBC部分はまだ較正曲線の極端な急傾斜部分に該当しておりミステリーゾーンの範囲にあるし、確率論であることをわすれがちな傾向がある点にも注意したい。

  しかし、重要なのは、14C年代測定法と、考古学が採用してきた暦年代策定法とがまったくことなる方法・体系にもとづいていることである。したがって、ズレが生じるのは当然であり、どちらが正しいかを決する前に、それぞれズレの原因を再度点検することこそが必要である。

  考古学は、つねに型式の新古という相対年代を基準として年代関係を考え、体系づける。年代測定はそこに年代数値を付与するものである。中国で製作年代のわかる遺物が九州で出土する場合も相対年代法の一環としてもちいる。

  歴博の研究チームの発表から1カ月あまりをへた現在、考古学界では従来の年代値を再検討する個人的試みが始動した段階である。今後、議論を建設的にすすめるには、考古学的に暦年代が議論できる時期の試料を測定し、相互の方法のクロスチェックが必要である。較正曲線の上下動が少ない250calBC〜100calADは、中国や朝鮮半島からもたらされた文物が九州でも確認できる。この時代の測定が必須であろう。 (Encarta)