2003年 舞鶴・若狭 遺跡探索

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

鳥浜貝塚

                                             縄文人の交易・  森の日本文化環日本海文化 

「鳥浜貝塚」(縄文人のタイムカプセル) (福井県教育委員会・抜粋)

 本貝塚の発掘は極めて神秘的である。発掘に携わっている者しか味わえない感激の対面である。それぞれの遺物が元の色のままで出土し、昨日埋めたものではないかと目を疑うほどである。木の葉は葉緑素が残存した緑色で、昆虫の羽も青色や金色で出土してくる。しかし、光と空気に触れると見る見るうちに変色し、ついには真っ黒になってしまう。この瞬間は、歴史の重みというか、タイムカプセルと呼ばれる本貝塚の存在を強烈に印象づけられる時でも有る。その一つとして、大半が人間の排泄物と考えられる糞石をとっても、約3千点以上の出土である。この秘密は、水中投棄された遺物が底に鎮められ、大自然の形成した保存庫の中に納められたようになったことに起因する。豊富な地下水と冷暗所が腐敗の進行を遅らせた為であろう。ヒョウタンは西アフリカ原産といわれ、鳥浜貝塚では、縄文時代早期の層から果皮が出土している。また最近、1980年出土の縄が大麻であろうと結論付けられた。京都繊維大学名誉教授布目氏の数年間に及ぶ研究の成果である。布目氏によれば、本貝塚の縄文時代前期の縄・編み物の中にも大麻の製品があった。

  縄・編み物

 縄文時代の縄や編み物が出土することは、現在では珍しいことではない。しかし、鳥浜貝塚のように多種多様な製品を出している遺跡は無く、縄文時代の名に相応しく、植物繊維を取り出し水にさらして糸を撚る技術があったことや編み物を多用していたことを物語っている。かつて、是川遺跡出土の木製品に巻き付いていた樹皮などから、縄文時代には自然のツルや樹皮を使うことが多いと考えられていたが、鳥浜貝塚の縄は、太いものから細いものまで各種が用途に合わせて作られていたことを物語っている。土器の補修孔に細い糸が通されて結びつけられている実例が出土し、使用された痕跡もあるのは、縄類の役割を具体的に示す好例である。編み物は、素材の色調を利用して文様を編みこんだ敷物から、口の部分を太く作ってカゴ状にしたもの等が出土している。編み物もモジリ編みやアンペラ編みなど多様で、用途に応じての技術を持っていた。敷物には、住居址内で用いたり、また植物の種子や果皮などを干したり魚介類を干したりする祭に用いられたと考えられる。カゴ類は当然、海の幸・山の幸の運搬や収蔵・保管に使われたものである。

 赤色漆塗り飾り櫛   縄文時代の古い段階に、漆があったことが知られるようになったのは、最近のことである。その象徴的な遺物が、昭和50年(1975)に出土した「赤色漆塗り飾り櫛」であった。縄文時代前期の逸品として注目を集めた。9本の歯をもち、あたかも動物の角をデザインしたような飾り櫛で、勿論日本最古の櫛である。8月の暑い日、一緒に掘っていた高校生の男子が発見した。水漬けになって、縄文の原色である爽やかな真紅の光沢を保ってきた櫛である。掘り出したとき、その真紅の輝きは、空気に触れて酸化し、やがて黒ずんだ赤色に変色していった。5500年の歳月が、一瞬の内にタイム・スリップするのを見る思いであった。材質は、極めて緻密でかたいヤブツバキが使用されていることがわかった。中国・かぼと遺跡の漆の古さと鳥浜貝塚のそれとは、同じような古さを示しているのであるが、両者の漆工の内容を比較した場合、器の種類といい、赤色・黒漆の使い方など、鳥浜貝塚のほうが、より多彩で内容の濃い漆文化を築いていたといえるのである。

  漆の精製技術とエゴマ

 漆はウルシノキから採取する樹液である。一旦乾燥して固まると、強力な接着剤になる。また優秀な塗料として熱や酸に強い特性がある。樹液はウルシノキの幹にキズをつけて採取する。採取したままの樹液は生漆(きうるし)と呼ばれ、これを精製する。精製には二通りありろ過して不純物を除き、水分を抜く「くろめ」(黒め漆)と、何度もかき混ぜて精製する「なやし」とがある。この「なやし」の工程にエゴマが使用される。漆にエゴマを混ぜると、粘度を高め、のりがよくなり、乾きが早い。そのエゴマは既に鳥浜貝塚から検出されていた。鳥浜貝塚のエゴマの存在は、漆工技術との関連で重要であるという。平安時代の「延喜式」には、漆器製作の際に、漆の樹液とエゴマ油(荏(え)の油)を混合するという記載があり、その混ぜ合わせる割合までが規定されているという。つまり、ウルシノキが一本生えているからといって、漆製品が作り出されるわけではなく、やはり漆工技術の存在がカギのようである。恐らく、エゴマが鳥浜の地で栽培されていて、樹液の採取から精製、塗りまで一貫した漆工が既になされていたものと想像している。

 「鳥浜貝塚」(奥田千代太朗著)              

  縄文の「縄と糸

 縄文文化の原点である、縄目の文様土器を東京・大森貝塚でモースによって発見され、「索文土器」と和訳されて、その後「縄紋」と改訳され、縄文文様はではなくであると指摘され、今日では「縄文土器」という名称が学会に定着している。ところが、不思議なことに土器の多種多様なデザインを圧痕したの実物出土例は殆どなく、特に前期のものは皆無である。ひそかなあこがれの縄文の縄が現実になったのは197510月、前期の有機物層の中から6種類の縄が出土した。これまでの発掘調査では水面下23mの汚泥との戦いに心を奪われて気付かなかったのが、発掘技術の進歩と慎重な作業により、縄の原体を見つけ出すことに成功したのである。縄は断片もあわせて23点。稲作のない時代だけに材質は木の皮かツル、植物の茎とみられる。単に撚っただけのもの、二段撚りにしたもの、三つ編みなど現代の縄作りに引けをとらない。もう一つの糸。縄の出土と前後して発掘の手伝いをしていた高校生が土器や石器を水洗いしていた際に拾い上げた。長さ3cm、直径2mmほど、色は白っぽい灰色。調査委員らが、「測量に使った糸が混入したのではないだろうか」とわが目を疑ったくらい、艶やかな出現だった。この時代の糸の実物も初めてであった。

  丸木舟の登場

 漁労具では骨製ヤス、石錘、魚網などが新たに出現、丸木舟や櫂も本格的に登場する。中でも丸木舟は超大型遺物である。1975年の調査で、板目材を用い、火で焦がし、削器で整形した長さ122cmの櫂と共に丸木舟の断片が見つかったに過ぎないが、それでも調査団が完形品の出土に期待を膨らませるに十分な遺物であった。その夢が6年後、1981年の夏の発掘。全長6m、最大幅60cm、深さ21.5cm、木材の厚さ3.5cm、直径1mほどのスギの大木を二つに割り、シンの部分を削り取ってくり抜いた、いわゆる割竹型の丸木舟である。加工しやすいように舟の表面にや底部を火で焦がし、削っていく方法がとられ、波が舟に侵入しないよう波返しも作られている。丸木舟が漁猟の範囲を大幅に広げたことは容易に想像できる。縄文の三方五湖は三方水月久久子湖を経て日本海に抜け出ることは可能で、鳥浜人が丸木舟を大海に走らせるルートでもあった。これを裏付ける証拠品は外洋系の回遊魚であるマグロ、カツオの骨が出土しているし、ブリやクロダイ、アシカのほか鋭い歯でクジラを襲うシャチ、イルカなどの骨の出土も丸木舟の活躍に負うところが多い遺物である。

  栽培植物

 文化的革新という点では、栽培植物の可能性があるヒョウタン、緑豆、エゴマ、シソ、ゴボウなどの種子、果皮があげられる。

  ヒョウタン

 植物栽培が伝来していたことが確実になった。縄文早期の押型文土器と共に直径15cm、短径13cm、の楕円形、深さ5cmの成熟したヒョウタンの底の部分がでた。推計すると、大きさは長さ約20cm、大きいふくらみの直径約15cmのものと判明した。 鳥浜ヒョウタンが話題を呼んだのは、原産地はアフリカ西部のニジェール川流域で、もともと日本には野生種はなく、栽培しないと育たないといわれているからだ。つまり、アフリカ原産のヒョウタンが海を渡って8500年も前に日本にたどり着き、それが縄文人によって栽培していた、ということである。

  シソ・エゴマ

 共にシソ科の一年草で、大陸から移入された栽培植物か帰化植物と見られる。鑑定した笠原氏は「シソは照葉樹林文化の代表的文化遺産のひとつである」といい、古代の日本でも稲作又は雑穀栽培以前に縄文前期からエゴマやシソが栽培され、前者はカユにもなり、後者はエゴマの粒を混ぜて食用にするとか、釣手土器の出土から見て灯用にもなったと推定できる、としている。

  ゴボウ

 古く大陸から渡来した栽培植物で、食用野菜としてはわが国独特のもの。これまで佐賀県唐津市菜畑遺跡などで出土しているが、何れも縄文晩期のもので、鳥浜ゴボウがわが国最古といえる。

  

 栽培植物の渡来を裏付けるもう一つの物証は漆。鳥浜の漆は誠に艶やかで、とりわけ赤色漆を施した櫛は、縄文人の木工技術、装飾技術、精神生活の高さを忍ばせ、5000年前後の今日でも、なお深紅に輝いて色あせていない。長さ9.2cm、幅7.9cm。9本の歯を持つ飾り櫛。木を縦に使い、木目を利用して歯が作られており、仕上げは入念な磨きのあとに全面に赤色漆を施してある。漆製品はこれだけではない。縦35cm、横23cmの盆状木器。赤色漆を全体に塗った跡、今度は黒漆で太さ1mm前後の曲線模様をあしらった土器片や木器片。さらに弓に直接、赤色漆を塗ったものや、木に桜の皮を巻いた上から塗った弓もある。漆製品は全部で100点近くあり質量共に他の遺跡を圧倒している。その漆の原産は中国。樹木の表皮にキズをつけて採った樹液が、あの上品な塗り物になる。漆製品は青森県八戸市是川遺跡などで縄文晩期の漆塗り耳飾り、腕飾り、櫛などが見つかっているが、鳥浜の漆は、是より更に3000年遡るばかりか、決して特殊な用途ではなく、日常生活の中でふんだんに使われていたと見られる。

   鳥浜貝塚の漆工芸と編み物

 鳥浜貝塚では、漆の塗られた遺物は多い。木製容器にはよく塗られているし、飾り弓に赤い漆を塗ったものもある。出色の製品は、ヤブツバキの板材の木目を利用して9本の歯を削り出した、幅7.9cmの飾り櫛である。入念に磨いたあとに塗られた赤色漆が美しい。土器の器面に黒漆を塗り、更にその上に赤色漆で文様を描いたものがあるように、鳥浜の人たちは赤漆と黒漆を用いている。漆に顔料を加えるには、漆原液から水分を取り除く工程などが必要で、漆を扱う一定の技術体系を確立していたものと思われる。このような漆の技術は、日本の中で生まれたのか、或いは大陸の影響を受けているのだろうか。縄類には、直径が13cmぐらいのものが多いが、直径が5cmもある太いものや、極細の糸もある。繊維をただ束ねて撚ったものや、撚り糸にしたものを2ないし3本撚り合せたもの、三つ編みにしたものなどがある。用途に合わせて、使い分けられているのです。土器の補修孔に細い糸が結びつけられたまま出土したものもある。

 編み物は、もじり編みや網代編みの技術でつくられている敷物やかご類などがある。素材は、ヒノキと大麻が同定されているが、クワ科の樹皮繊維と想定できるものもある。

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   若狭・三方町

    三方町は、越前国と若狭国からなる福井県の南西部、日本海に面しリアス式の海岸線を呈する若狭湾沿いに位置します。北に若狭湾へ突き出した常神半島、そのふところに三方湖・水月湖・菅湖・久々子湖・日向湖からなる三方五湖を抱き、そのまわりを梅丈岳などの山々がかこみ、町域総面積97キロメートルのうち75%を山と湖が占めています。気候は、比較的温暖な海洋性で、三方湖・水月湖・菅湖岸には特産の梅林が広がり、春には白い花と甘い香りに包まれます。三方湖からさらに南には、縄文時代に古い湖(古三方湖)が存在し、その湖の周りには鳥浜貝塚、ユリ遺跡など12箇所の縄文遺跡が確認されています。海と山、そして湖に恵まれた三方町には、縄文時代からの人々の活発な営みがみられます。

     ○鳥浜貝塚 
   縄文時代草創期から前期(約12,000年から5,000年前)にかけての遺物包含層を残す低湿地遺跡。縄文時代当時、湖に突き出た岬の先端部に前期の住居跡が確認され、住居のまえの湖には貝塚が形成されています。湖に形成された貝塚は、縄文時代のタイムカプセルといわれ、全国各地の遺跡から出土している有機質遺物のルーツをたどれば鳥浜貝塚に行き着きます。
【木製品】 石斧の柄、丸木舟、櫂、赤ウルシ塗櫛、各種容器類
【繊維製品・栽培植物】 各種縄、各種編物類、ヒョウタン、リョクトウ

     ユリ遺跡
  鳥浜貝塚の西側縁辺山沿いの水田部に広がる縄文時代早期、中期から晩期の遺物包含層を残す低湿地遺跡。縄文時代当時の湖辺の浅瀬から後期に属する丸木舟が3艘、晩期に属する丸木舟が1艘出土しています。

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浦入遺跡

    浦入遺跡(舞鶴)

   丸木舟の全長は約8mと推定され、幅0.8m、舟底の厚さは5cmで、造られた時に付いた焦げ跡実見できる。縄文時代の丸木舟は50数例発見されているが、前期は5例(長崎・伊木力遺跡や福井の鳥浜遺跡など)で、浦入遺跡の丸木舟は中でも特別大きく、湾口近くで発見されたことから、外洋航行に使用されたと推測されている。外洋航海用としてはわが国でも最古級と判断される。縄文人の広域的海上交易は今や定説になっているが、日本海側で出土した船着場・集落跡などから日本海沿岸の交易起点の一つと考えられる。これまでの発掘調査によれば、丸木舟は、僅かな例を除き、殆どが日本海側の遺跡から発掘されていて太平洋側からは出土していない。福井県鳥浜貝塚からも「最古の丸木舟」が見つかっているが、滋賀県近江八幡市の元水茎遺跡)も外洋舟ではないかと見られている。日本海側では、日本全国のいろんな地域と「海の道」を通じて交易をしていたことがわかり、遠くシベリアと交易があった痕跡も確認されている。日本列島の縄文人は、一万年に渡り相当高度な「海の文化」を築いていたと察しられる。

     縄文漆  縄文人の植物利用法

   縄文人は、漆の利用を最初にどんな事から思いついたのであろうか。食用にもならず、触るとひどいかぶれを起こす漆のような植物を、どうやって利用するようになったのかは興味ある問題である。今日の漆の利用法の一つに、漆を接着剤として利用する方法がある。これは茶碗や花瓶といった美術価値の高い陶磁器の修理に使われている。縄文時代でも、石のやじりや矢柄に固定するために漆を用いた例がある。この他、マツヤニその他の樹脂類を土器・籠などの接着剤や防水材として塗る事は、多くの民族例から知られている。やがて縄文人はその中で漆が優れた塗料としての性質を持つことを見出し、工芸品の域にまで育てあげていったのであろう。このように見てくると、縄文人の植物利用の水準は極めて高かったということができる。日本列島の植生が今日のような状態になったのは、今から約1万年前と言われているが、縄文人はその日本列島の植物資源の中から、ドングリ・クリその他の食用植物の利用に留まらず、漆のような優れた塗料を開発したり、丸木舟や木製容器の製作に見られるような木工技術、籠や組み物、縄や網への加工となった。

   日につながる文化伝統

  漆工芸は代表的な日本の伝統工芸であり、陶磁器がチャイナと言われるのと同じく、ジャパンは漆器を意味する。日本の漆工芸は、主として古代において中国から伝来した技術が中心となって発達してきたと従来は考えられてきたけれども、数千年の古さを持つ縄文漆の存在が明らかになった結果、漆の技術は縄文人が独自に育てあげてきた固有の文化伝統だと考えられるようになってきたのである。縄文人は、魚や貝などの水産資源を盛んに食料として利用していた。この伝統は日本人が世界中で最も魚を消費する国民であるという統計結果にも現れているように、今日の我々の文化の中に生き続けている縄文の文化伝統が、水産物の利用だけではなく、植物資源の利用においても存在した事を示している。このことは縄文時代という数千年前の過去の文化が、今日の我々の文化の形成に少なからざる寄与を果たしていることになる。従来、日本文化の主要な部分は、弥生文化以降の稲作農耕文化から受け継いできたと考えられてきた。縄文漆の存在は、このような従来の考え方に反省を迫ると共に、現代文化の根底としての縄文文化の持つ歴史的役割を再評価すべきであることを、我々に教えてくれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

     浦入遺跡の丸木舟・縄文時代の外洋舟

日本でも縄文時代には、人々が海と深くかかわっていたことを示す証拠があります。京都府舞鶴市浦入遺跡は、日本海に面した舞鶴湾の外海との出入口に位置しています。この丸木舟は舳先(前の方)を南の海側に向けて約50cmの深さに埋まっていました。丸木舟をよく観察してみると、材料は直径2m前後のスギ材を半割りしたものであり、焼いた石を表面に置いて木材を焦がしながら、磨製石斧でくりぬいたものであることがわかりました。
遺跡周辺からは、桟橋の杭の跡、錨として使った大石なども発見され、当時の船着場と考えられます。遺跡の位置からして外洋漁業の基地だったのでしょう。

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