千歳市

    千歳市

   千歳市 ちとせし 北海道南西部、石狩平野の南端にある都市。新千歳空港をはじめ、JR千歳線、石勝線、道央自動車道、道東自動車道、国道36号、234号、337号が連絡する交通拠点である。1958(昭和33)市制施行。面積は594.95km2(一部境界未定)。人口は89477(2003)

千歳空港は、1961年から民間航空路が開設され、北海道の空の玄関口となった。札幌市に近く、空港を核とする輸送手段が発達しためぐまれた立地条件から、盛んに工場が進出した。工業用地の需要もふえつづけ、79年からは、空港から10分の地に臨空工業団地と住宅団地を造成し、89(平成元)には、道央テクノポリス地域の指定をうけて先端技術産業の誘致につとめている。98年には光科学技術を専門とする千歳科学技術大学が開学した。

おもな生産品目は、ビール、ウィスキーなどで、とくに電気機器は全道の23.9%を占め(2000)、北海道最大の内陸工業都市である。1993年には千歳・苫小牧地方拠点都市地域にも指定され、さらに重要性が高まっている。

旧千歳空港の南東に新設された新千歳空港は、1992年に新ターミナルビルが完成、94年からは24時間運用を開始した。年間乗降客1800万人をこえ、国内線では羽田についで第2位である。

市西部は支笏洞爺国立公園(しこつとうやこくりつこうえん)にふくまれ、支笏湖からながれでる千歳川は、古くからサケののぼる川として知られる。上流河畔にあるさけ・ます資源管理センター千歳支所は東洋一の規模といわれる。支笏湖のヒメマス養殖も全国的に有名。千歳川沿いには「千歳サケのふるさと館」などのあるサーモンパークが整備され、観光名所となっている。

支笏湖

市の西部にある支笏湖は、北東を恵庭岳(えにわだけ)、南東を風不死岳(ふっぷしだけ)にはさまれた繭形(まゆがた)のカルデラ湖である。周囲は急崖(きゅうがい)で、千歳川の流出口のある東岸に道内有数のモラップキャンプ場など、観光施設が集中している。写真正面にみえる山は風不死岳()と、溶岩ドームをいただく三重式火山の樽前山。Encarta Encyclopedia世界文化フォト/黒田績生

明治初期から開拓がはじまり、小さな宿場となっていたが、第2次世界大戦中に海軍航空隊の基地が設置された。戦後は米軍が進駐、その後、自衛隊の移駐がつづいて人口が増加した。現在も、自衛隊関係の住民が多い。

美々4遺跡出土の海獣形土製品

1976(昭和51)に北海道千歳市の美々4遺跡(びびよんいせき)で発掘された。縄文晩期初頭のもので文様の特徴などから東北地方でつくられたものと考えられている。ところどころに赤色顔料がのこり、墓地内の祭祀(さいし)をおこなう場所から出土しているため、死者の葬送儀礼につかわれた可能性が高い。高さは31.7cmEncarta Encyclopedia千歳市教育委員会所蔵

  支笏湖 しこつこ 北海道西部、千歳市の西端にあるカルデラ湖。支笏洞爺国立公園内にあり、田沢湖についで日本第2の深さをもつ。面積78.76km2、最大水深363m、水面標高250m

樽前(たるまえ)山、恵庭(えにわ)岳などの支笏火山群の山々が湖岸にせまり、原始的景観をもつ。冬季も凍結せず、洞爺湖とともに日本の不凍湖の北限となっている。

1894(明治27)に阿寒湖からヒメマスを移殖し、人工孵化(ふか)により繁殖させた。これはアイヌ語カパチェップの略称チップの名で親しまれ、68月の解禁期にはチップ釣りでにぎわう。また、周辺にはヒメマス料理をだす食堂や旅館がたちならぶ。丸駒温泉やオコタン温泉のほか、大規模なキャンプ場、公営ユースホステルなども付近にあり、東畔には遊歩道、テニスコートなどが整備された国民休暇村がある。

支笏湖

支笏湖は、北東を恵庭岳(えにわだけ)、南東を風不死岳(ふっぷしだけ)にはさまれた繭(まゆ)形のカルデラ湖である。周囲は急崖(きゅうがい)で、千歳川の流出口のある東岸に道内有数のモラップキャンプ場など、観光施設が集中している。写真正面にみえる山は風不死岳()と、溶岩ドームをいただく三重式火山の樽前山。Encarta Encyclopedia世界文化フォト/黒田績生

  石狩平野 いしかりへいや 北海道西部の平野。石狩支庁と空知(そらち)支庁にまたがり、日本では関東平野についで広い。

北を天塩山地、東を夕張山地、西を暑寒別(しょかんべつ)火山群、南を支笏湖周辺の火山群でかぎられる。石狩川が多くの支流をあつめて北東から南西に蛇行しながらながれており、各地に三日月湖(河跡湖)や分流をつくっている。かつて太平洋にながれていた石狩川は、火砕流によって日本海側に流れをかえるようになったと考えられる。平野は、上流部の空知低地帯と下流部の沖積平野にわけられる。各河川は氾濫をくりかえし、その背後に湿原ができ、泥炭層が厚くつもっている。

明治初期に屯田兵が入植して開拓がはじまったが、湿原と泥炭地、きびしい気候がわざわいして開発はすすまなかった。初めは畑作が中心だったが、大正期にはいって大規模な土地改良と用水の確保、品種改良がおこなわれ、稲作が可能になった。現在では、耕地面積の3分の2あまりを水田が占め、農家1戸当たりの平均耕地面積も全国有数の経営規模をほこる稲作地帯となっている。

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