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モヨロ貝塚

  モヨロ貝塚 モヨロかいづか 北海道網走市にあるオホーツク文化の代表的な集落、貝塚、墓地遺跡。網走川河口付近の砂丘上にあり、貝塚の存在は明治中ごろから知られていたが、大正期に米村喜男衛(きおえ)らの調査および保存活動によって広く知られるようになり、1936年(昭和11)には国の史跡に指定された。

 1941年に数百体の人骨が発見され、47年から数次にわたり、東京大学、北海道大学などが網走市立郷土博物館と共同調査をおこない、10以上の竪穴住居跡や貝塚を発掘した。

 米村らの調査では竪穴住居跡が27確認され、上流部の住居跡は縄文時代晩期から続縄文時代(→ 続縄文文化)ので、河口部はほとんどがオホーツク文化期のものと推定される。貝塚と墓はオホーツク文化期のもので、甕(かめ)形土器を被葬者の頭にかぶせた墓、石を左右におく墓、木棺をつかった墓などが発見された。出土人骨は北西頭位の仰臥(ぎょうが)屈葬が特徴的で、モヨロ貝塚人と命名された。人骨鑑定の結果、アイヌ民族とは別種のエスキモー・アレウト語族かともいわれる(→ イヌイット)。

 出土した土器は、細い粘土紐を何重にもはりつけた「そうめん文」をもつ厚手の深鉢が多い。 ほかにも、石器や鉄器、骨角器、玉(ぎょく)類や大陸伝来の青銅鈴などが発掘された。

 現在、遺物類は網走市立郷土博物館に保管、展示され、現地にある同館分館のモヨロ貝塚館では、貝層部や竪穴住居跡の一部が復元されている。


  アムール川 アムールがわ Amur アジア北東部をながれる川。シルカ川、アルグン川が合流してアムール川になる。はじめロシアと中国の国境に沿って南東におよそ1600kmながれ、つづいて北東に転じ、ニコラエフスクナアムーレ付近でタタール海峡(間宮海峡)にそそぐ。長さは本流のみで2850km、源流部をくわえると4350kmにおよび、世界最大級の河川である。

河口からシルカ、アルグン川の合流点まで航行可能であり、さらにシルカ川はロシア領スレチェンスクまで遡上(そじょう)できる。ただし、冬季の6カ月間は航行不能となる。おもな支流は、ゼーヤ川、ソンホワチアン(松花江)、ウスリー川など。

アムール川は、中国ではヘイロンチアン(黒竜江)とよばれ、沿岸にトンチアン(同江)などの都市が、またロシア領では、ニコラエフスクナアムーレのほか、ブラゴベシチェンスク、ハバロフスク、コムソモリスク・ナ・アムーレなどの都市がある。

   モンゴロイド Mongoloid おもに東アジア(中国、日本、ベトナム、南北朝鮮、モンゴルなどのほか、シベリアや東南アジアのかなりの地域もふくむ)にすむ人種集団。形質的な特徴は、明るい褐色の肌、暗褐色で直毛の髪の毛、褐色の目、小児斑(蒙古斑)や内眼角ひだ(蒙古ひだ)があることなどである。みかけ以外の遺伝子的特徴としては、B型の血液型が多いことがあげられる。しかし、東南アジアのモンゴロイドは他地域のモンゴロイドと形質的にやや異なっており、ほかの人種集団同様、人種の区分を明確にするのはむずかしい。

  アメリカの先住民も、広い意味ではモンゴロイドにふくまれ、その多くは、形質的に東アジアの人々と同じ特徴をもっている。しかし、血液型については違いがあり、遠い祖先がシベリアからアラスカにわたった過程で、生物学的な変化が生じたことをしめしている。極北地方にすむアレウト、イヌイットなどは、東北アジアの人々との類似がより強くみられるので、ほかの集団よりもおくれてアメリカに移動したと考えられる。

モンゴロイド

モンゴロイド系の人々と帆船

モンゴロイドは90%以上

  小児斑 しょうにはん Mongolian Spot 乳幼児の背部、とくに尾仙骨(脊柱)部を中心とした部分に、大小さまざまで形も不規則な灰青色の斑紋がみられる。これを小児斑という。組織学的にみると、通常の皮膚色をつくるメラニン色素(→ メラニン:色素)が表皮深層および真皮(→ 皮膚)に分布するのに対して、小児斑をつくるメラニン色素は真皮深層にみられる。

この色素はコーカソイドでは10%余りに存在するが、色素量が少ないので、実際に外見上斑紋がみられるのは1%以下にすぎない。ネグロイドでは約80%に真皮深層の色素がみられるが、表皮性のメラニン色素が全身にいきわたっているので、外見的には小児斑自体は識別できない。しかし、モンゴロイドのほとんどすべての赤子に本色素が存在し、外見的にも90%以上小児斑がみられる。アメリカ・インディアン(→ アメリカ先住民)にも小児斑はみられる。白人たちに反発するアメリカ合衆国のあるアメリカ・インディアンが、日本の赤子の尻(しり)にも青い痣(あざ)があるときいて、日本人研究者ににわかに親近感をしめしたという挿話もある。

斑紋は0〜3歳でもっとも多くみられるが、以後はしだいに減少し、10歳ごろにはほとんど消失する。まれに成人でもみられることがあるが、その理由は不明である。これまで英語名をそのまま訳して蒙古斑とよんでいたが、最近はドイツ語における別称Kinderfleckをとって、小児斑もしくは児斑とよばれる。

  網走市 あばしりし 北海道北東部のオホーツク海沿岸にある都市。網走支庁所在地。流氷で知られるオホーツク圏の中心都市である。気候は海洋性で降水量が少なく、比較的温暖。1947年(昭和22)市制施行。面積は470.88km2。人口は4万1427人(2003年)。

 農林、畜産、漁業が中心産業。とくに漁業は、スケトウタラ、ホタテガイ、サケ、マス、ホッケ、タラなどの水揚げが多い。沖合には大漁場がある。毎年1〜3月には流氷が沿岸をうめつくす。そのため船の航行ができなくなり港は閉ざされるが、プランクトンの増殖をうながし、冬の禁漁期間とあいまって資源保護に役だっている。藻琴湖(もことこ)ではカキの養殖がおこなわれている。蒲鉾をはじめとする水産加工業も盛んで、魚のすり身の発祥地でもあり、北海道の約50%を生産する。おもな農産物は、小麦、ジャガイモ、テンサイなど。

 資源保護に貢献している流氷は、観光資源ともなっている。道立北方民族博物館、オホーツク流氷館など文化施設が多い。明治期からの流刑地で、現在も網走刑務所がおかれているが、赤レンガ造りの旧網走監獄庁舎は博物館として公開されている。また、能取湖、濤沸湖、網走湖などの湖や海岸部は網走国定公園域となる。

博物館網走監獄

網走刑務所は1890(明治23)から使用され番外地といわれた。現在は1912年にたてられた網走監獄が天都山麓に移築され、博物館として受刑者に関する資料などを公開している。赤煉瓦(れんが)の門、放射状五翼平屋舎房をはじめとする諸施設が忠実に復元されており、建築史学的にも貴重である。Encarta Encyclopedia小田洋二郎/世界文化フォト

  網走川河口付近にある国の史跡のモヨロ貝塚はオホーツク文化を代表する遺跡で、モヨロ貝塚人とよばれる人骨も出土している。アイヌとは別種で、その歴史は数千年前にさかのぼる。和人が入ったのは江戸時代からで、タラやホッケ、ニシン漁をおこなった。1879年(明治12)網走郡役所がおかれ、明治期に釧路、旭川へ通じる道路が、大正・昭和期に鉄道が開通した。大正期から網走港がつくられ、木材輸入に重要な役割をはたした。1985年(昭和60)には新女満別空港(しんめまんべつくうこう)が開港し、東京と100分でむすばれた。

  網走湖 あばしりこ 北海道北東部、網走市南西部と女満別町北部にまたがる海跡湖。海岸砂丘の発達によりオホーツク海から分離されて生まれた湖で、南北に細長い形をしている。網走国定公園の主要部をなす景勝地である。面積32.87km2、最大水深16.8m。

南岸から網走川と女満別川が流入し、北東岸の湖尻から網走川を通じてオホーツク海にそそぐ。ふだんは淡水に近いが、冬季に北からの強風がふくと網走川が逆流して海水がはいる。東岸中央部に洪積台地の呼人(よびと)半島がつきでている。また、湖畔の温泉は泥炭層からわきだしてくるため、チョコレート色をしている。

ワカサギやシジミガイなどがとれ、北東岸にはサケとマスの孵化場がある。とくに冬季に氷に穴をあけてさおをたてる、ワカサギ釣りは有名である。呼人半島の台地上は耕地化され、リンゴ園なども造成されている。呼人集落近くの湖畔にはヤチダモ樹林の下にミズバショウの大群落があり、4〜5月に乳白色の大きな花をさかせる。

  能取湖 のとろこ 北海道東部、網走市北部にある潟湖。オホーツク海沿岸に位置し、網走国定公園に属する。ノトロとは、アイヌ語の「ノツオロ(岬のところ)」に由来する。面積58.51km2、湖岸線延長33.30km、最大深度21.2m、平均深度8.6m、水面標高1m。透明度は約5.5mで、富栄養型の湖沼である。約0.70km2が干拓されている。

東西は北見山地の末端にあたる標高200m前後の丘陵で、北岸は砂州でオホーツク海とへだてられている。かつては外海と通じる開口部分が毎年秋になると海流ではこばれる漂砂で閉じられ、春に「砂きり」とよばれる方法で人工的に開かれていた。しかし、1977年(昭和52)、外海と通じる永久湖口が完成した。

湖畔は花の名所として知られ、北岸の能取原生花園ではアヤメ、ハマナスの花々がさきみだれ、南岸の卯原内(うばらない)地区は9月中旬になるとアッケシソウの群生が真っ赤な絨毯(じゅうたん)をしきつめたようなうつくしい景観をみせる。

湖上には漁をする舟がうかび、マガレイ、コマイ、チカ、ウグイなどの水揚げがあるほか、ツブガイやカキなども採取できる。近年は周辺のサロマ湖などと同様に、ホタテガイの養殖が盛んにおこなわれている。春から夏にかけて湖水の一部が開放される潮干狩りや、北東岸のキャンプ場が観光客に人気である。

  砂嘴と砂州 さしとさす Spit and Bar 砂嘴は、河口から運搬された砂礫(されき)や、海食崖(がい)付近で波食によって生産された砂礫が、沿岸の波と流れによってはこばれて、湾に面した海岸や岬の先端などから細長くつきでるようにのびている砂礫の州のことをいう。北海道の野付崎や三保松原などが例にあげられる。砂州はこの砂嘴がさらにのびて対岸にほとんどつながるようになったものをいう。京都の天橋立など好例である。また、海岸線に平行してできた砂州をバリア(沿岸州)といい、海岸近くの島と陸をつないでいるような砂州をトンボロ(陸繋砂州:りくけいさす)という。函館や潮岬の串本の街はこのトンボロの上に立地している。

砂嘴や砂州は、沿岸流と上流からはこばれる土砂のバランスで形成される。上流の砂防ダムにより土砂が下流へとはこばれなくなり、そのために砂礫の供給と波食のバランスがくずれ海岸浸食が生じる。その対処法としてテトラポットなどで護岸堤や離岸堤をつくる。しかし、これらも沿岸流や波浪によって基底の砂礫が移動したりすることによって、その上につみあげられたテトラポットが倒壊したり、変形したりする。このため護岸堤や離岸堤の維持管理に費用がかかると同時に、自然景観との不調和が問題にされることもある。

  サロマ湖 サロマこ 北海道北東部、常呂、佐呂間、湧別の3町にまたがる海跡湖。幅150〜1000mの砂嘴でオホーツク海とへだてられ、砂嘴の中央部にひらいた幅200mほどの水路で外海に通じている。網走国定公園にふくまれる。琵琶湖と霞ヶ浦についで日本で3番目に広い湖。面積152km2、最大水深20m。

1929年(昭和4)、オホーツク海側に水路が開削(かいさく)され、海水が流入した結果、淡水魚が減少し海水魚が増加した。カレイやワカサギなどがとれ、ホタテとカキの養殖が盛んである。

佐呂間町にはキムアネップ岬やピラオロ台、湧別町には竜宮台やアッケシソウの大群落で知られるサンゴ岬などの景勝地がある。常呂町栄浦のカキ島は6〜10月に潮干狩り、釣り、ハイキング、キャンプにおとずれる人々でにぎわう。砂州にはワッカ原生花園があり、シーズンにはエゾスカシユリやハマナスなどがさきみだれる。

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