草原の道

   草原の道    そうげんのみち 

   ユーラシア大陸の東西をむすぶ交流の道は、交易品の代表的な名をとってうつくしくシルクロードとよばれるが、それはふつう北から、ユーラシア草原地帯をとおる草原ルート、その南の砂漠地帯とオアシスをつらぬくオアシスルート、そして大陸の南縁をまわる海上ルート(海の道)の3本に大きくわけられる。このうち一般に広く知られているのはオアシスルートであり、このルートだけがシルクロードとよばれることさえある。しかし文献資料にもっともはやく登場するのは草原ルートである。

  シルクロード 前2世紀から、アジアとヨーロッパをむすぶ陸上交易路網が存在した。もっとも古く、もっとも近道で、とくに頻繁に利用された陸上の道は、中国製の貴重な絹織物が盛んに交易されていたことから、シルクロードとよばれるようになった。何世紀もの間に政治情勢や環境が変化するにつれ、シルクロードには何本かのルートができた。15世紀後半にヨーロッパからアジアまでの海上ルート(海の道)が発見されると、陸上ルートはしだいにつかわれなくなった。

    II  はやくから知られていた草原ルート

    バザール(イスタンブール)

  バザールはペルシア語で市場の意味。アラビア語ではスークといい、狭い通りをはさんで雑多な小店や工房がひしめきあうイスラム文化圏特有の市場をさす。英語のバザーbazaarもこれに由来する言葉で、雑貨市、慈善市などのこともいう。イスタンブール旧市街のグランド・バザールはオスマン帝国のメネフト2世が原型をつくったといわれ、東西交流の一大拠点であった。

   著者鈴木董(東京大学東洋文化研究所教授)は、世界史の中のイスタンブールの役割と、今なお旧市街に位置するグランド・バザールのにぎわいを紹介している。ここは約3万平方メートルの敷地に、宝石屋通り、仕立屋小路、トルコ帽屋通り、布団屋通りと名づけられた通りが縦横にはしり、少なくとも3000軒をこえる店がならんでいるという。

  前450年ごろ、ギリシャの歴史家ヘロドトスが「歴史」の中でその存在を指摘している。それによれば、黒海北岸の騎馬遊牧民、スキタイからはじまって東方にはさまざまな遊牧民がおり、もっとも遠い所にすむアリマスポイ人は黄金をまもるグリフィン(ワシとライオンを合体させたような空想上の獣)の目をかすめて黄金をうばってくるという。

   このアリマスポイの居住地は今日のモンゴル高原西部のアルタイ辺りだろうというのが通説である。アルタイとは黄金を意味するトルコ語のアルトゥンあるいはモンゴル語のアルタンに由来する言葉で、今日でもアルタイでは金やさまざまな宝石が産出する。

  これに対し、オアシスルートについてはじめて言及したのは「史記」をあらわした司馬遷で、前90年ごろのことであり、海上ルートは後70年ごろに成立した「エリュトゥラー海案内記」(著者不明)の中にでてくる。

  なぜ草原ルートがはやくから知られていたのだろうか。その理由としてまず距離が短いという利点があげられる。北半球で東西に遠くはなれた2地点をむすぶ場合、最短コースは緯度線上ではなく、中間で北にふくらむいわゆる大圏コースをとおる。

  たとえばローマ(北緯42度)と北京(40度)を直線でむすぶと、まずローマをでてアドリア海をわたり、ドナウ川をこえ、ルーマニアとウクライナを斜めに横切り、ウラル山脈の南部をこえてカザフスタン北部を横断し、アルタイ山脈の北側をとおってモンゴル高原にはいり、ゴビ砂漠の東端をかすめて北京にいたる。ドナウ川からモンゴルまで、このコースはほとんど草原地帯をとおっている。距離は8000km弱で、南回りのオアシスルートより確実に2000km以上短い。

  次にイスタンブール(41度)から西安(34度)にむかうと、黒海を斜めに横切り、カフカス山脈の北側をとおってカスピ海とアラル海の北部をわたり、カザフスタン南部を横断して中国領にはいり、天山山脈を東端でこえると敦煌など甘粛省のオアシス地帯をへて西安にいたる。このコースでも北カフカスから天山をこえるまで、すなわち半分以上が草原地帯をとおっているのである。通行の難易度からみても、オアシスルート上には炎熱の砂漠やけわしい山脈がまちかまえているのに対し、草原ルートにはそれほど高い山はなく砂漠も少ない。

    III  騎馬遊牧民の活躍

   以上の地理的条件にくわえて、草原ルートにはもうひとつ有利な人為的条件があった。それは、そこにすむ人間が遊牧民であったということである。前1000年以降、ユーラシア草原の遊牧民は馬を常用する騎馬遊牧民となっており、広範囲に移動する手段をもっていた。

  また遊牧民の間では、ときとして強力なリーダーシップを発揮する英雄があらわれると、またたく間に大帝国ができあがることがあった。遊牧民のリーダーは富の蓄積の手段として各地から商人をよびよせ、彼らの安全確保の見返りとして10分の1程度の低い関税を課した。このような条件がととのったとき、草原ルートは真価をしめしたのである。

  そのもっともはやい例は前7〜前4世紀のスキタイ時代にみられ、ついで前2〜前1世紀の匈奴とサルマタイ(サルマート)の時代、後3〜5世紀の民族大移動時代、6〜7世紀の突厥時代、そして13世紀のモンゴル帝国時代にひとつの頂点をむかえた。その後はロシア人がこのルートを利用して東方に勢力を拡大し、現在ではソ連の解体と中国の改革開放政策によってふたたび脚光をあびつつある。

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