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シルクロードー1

    シルクロード

  シルクロード Silk Road 

   中国から中央アジア、西アジア、ローマをむすんだ古代の東西交通路。シルクロード
(絹の道)とよばれるのは、このルートをとおって中国特産の絹が交易されたことによるもので、「シルクルート」ともよばれる。ドイツの地理学者リヒトホーフェンが1877年、著書「支那」で、このことばをつかったのが始めである。

   古代の東西交通路は、細部をふくめれば何本かのルートがあったが、海路をのぞくと大きくは、中国の長安や洛陽から天山山脈、パミール高原をへて西アジアからヨーロッパにいたる道(オアシスの道)と、モンゴル高原から黒海北方の広大な草原地帯をとおってヨーロッパにいたる道(→ 草原の道)があった。

   シルクロードは、前130年ごろ、中国の漢の武帝が、征服と同盟を通じて、中央アジアの広い地域を傘下(さんか)におさめたあとに使用されはじめた。この地域が安定して、漢による行路建設がすすむと、長距離におよぶ隊商の往来が可能となり、中国からは絹や製紙法、西方からはガラス製品、羊毛、金、玉(ぎょく)などが交易された。

   ただし、隊商は、シルクロードを端から端まで完全に往来したというより、シルクロード上で個別の隊商がおちあい、交易をおこなうことが一般的だった。知識もまた、シルクロードにそって中国へつたわり、あるいは中国からつたえられた。キリスト教の
1派ネストリウス派の教義がヨーロッパから中国に伝道され、仏教がインドから中国へ伝来した。

   5世紀にローマ帝国が崩壊すると、シルクロードは荒廃し、遊牧民族がこのルートを支配するようになると、安全な状態はたもたれなくなった。しかしその後も、平和が到来するつど、断続的にではあるが使用された。モンゴル帝国の支配下にあった13世紀に、イタリアの商人マルコ・ポーロが、ペルシャ湾岸のホルムズを経由して、あとはほぼシルクロードにそって中国に到達したが、その旅程はおよそ3年にわたった。

シルクロード

  前2世紀から、アジアとヨーロッパをむすぶ陸上交易路網が存在した。もっとも古く、もっとも近道で、とくに頻繁に利用された陸上の道は、中国製の貴重な絹織物が盛んに交易されていたことから、シルクロードとよばれるようになった。何世紀もの間に政治情勢や環境が変化するにつれ、シルクロードには何本かのルートができた。15世紀後半にヨーロッパからアジアまでの海上ルート(海の道)が発見されると、陸上ルートはしだいにつかわれなくなった。

シルクロードの隊商

  シルクロードをいくラクダ、ロバ、ウマの隊商を描いた6世紀の壁画。中国の敦煌で発見された大規模な装飾石窟群、莫高窟(ばっこうくつ)の第420窟にある。

    長安 ちょうあん  

    中国古代の歴代王朝が都をおいた地で、現在の陝西省西安市およびその近郊。中国西北にある関中平野の中央部に位置し、北には黄河の支流、渭河をのぞむ。西周、秦、前漢、前趙
(ちょう)、前秦、後秦、西魏、北周、隋、唐などが都をおいた。

  西周の都、豊と鎬京は西安の西近郊に、秦の都、咸陽
(かんよう)は北近郊に位置した。前漢の長安城は西安市の北西近郊に位置し、宮殿の基壇や版築による城壁はいまなおのこっている。城内は里に区画整理され、南部に未央(びおう)宮や長楽宮といった皇帝や皇后がすんだ宮殿があり、その他の区域には市(いち)や住宅がたてられた。里は160余りあったとされる。

  その後、五胡十六国や北朝の諸王朝が同城を都としたが、隋代になると、その南東に新たな都として大興城が造営された。唐の都長安はこの大興城をひきついだもので、東西9.7km、南北約8.6km、中央を南北に走る幅150mの朱雀街を中心に碁盤の目状に区画され、区画は坊とよばれた。坊の周囲には土塀がめぐらされ、夜間は門がしめられて通行できなかった。

  皇帝がすんでいる太極宮、皇太子のすむ東宮、また妃たちがすむ掖庭(えきてい)宮などの宮城は、それまでとはことなり都の北部にたてられた。さらに太宗は大明宮を、玄宗は興慶(こうけい)宮をつくった。

  皇帝が政務をとる太極殿からみて町の左側を左街、右側を右街と称し、左街は貴族・官僚の邸宅が多く、右街には商人などが多くすんだ。都全体ではおよそ
100万人がいたとされており、経済活動の中心だった市の周辺の人口密度がもっとも高かった。

  長安はまた、シルクロードを介して西域との間で人や物がゆきかい、国際都市としてもにぎわった。西域の商人の中には長安にすみついたものも少なくない。日本からの留学僧・留学生も数多く長安をおとずれている。長安は唐末、朱全忠によって破壊され、以後、都となることはなかった。

    ルオヤン(洛陽)   

   中華人民共和国ホーナン省
(河南省)北西部、黄河の支流ルオホー(洛河)の北岸にある都市。黄河が黄土高原からホワペイ平原(華北平原)にながれだす出口にあたり、シーアン(西安)とならぶ中国屈指の古都として知られる。面積は15200km2(市区は544km2)。人口は628万人(市区は146万人。2001)

   ティエンシャン山脈(天山山脈) ティエンシャンさんみゃく  

    中華人民共和国のシンチアンウイグル
(新疆ウイグル)自治区中部からキルギス南東部にまたがる大山脈。東西約2500kmにわたってつらなる。天山山脈によって、北のジュンガル盆地と南のタリム盆地にわけられ、南西部はパミール高原につながる。最高峰は国境付近に位置するポベーダ峰(「勝利」の意)で標高は7439m

  断層運動でできた山脈が数列ならび、標高は
40006000m。谷氷河が発達していることでも知られ、その数は約6900条にものぼる。

    天山山脈の北麓はシルクロードの天山北路、南麓は天山南路とよばれる交通路がひらかれ、古くから周辺のオアシス集落をつなぐ東西交通の要路として知られる。山麓のステップでは牧畜がおこなわれ、オアシスを利用した農業もいとなまれている。

ティエンシャン山脈

  ティエンシャン山脈中の最高峰(標高7439m)のポベーダ峰は、中国西部、シンチアンウイグル自治区とキルギス共和国との国境近くにそびえる。標高が高いため、常に山頂部は雪におおわれている。

ティエンシャン山脈の秋

  雪が谷間にむかって山肌をすべりおちる。ここはティエンシャン山脈(天山山脈)の西部で、ここからカザフスタン南東部までのびてアルマトイの南にいたる。中国国境近くにあるアルマトイからみる天山山脈の眺めはすばらしい。天山山脈の主峰ポベーダ峰は標高7439mで、一年じゅう氷河でとざされている。

    パミール高原 パミールこうげん Pamir  

    中央アジア南東部に広がる高地。大半がタジキスタンに位置し、アフガニスタン北東部、中国北西部にのび、パミールアライ山系の一部をなす。トランスアライ山脈、ピョートル
1世山脈、科学アカデミー山脈もこの山系に属する。平均高度は3965m。西部の最高峰はイスモイル・ソモニ(旧コミュニズム峰。

  7495m)
とレーニン峰(7165m)、中国に属する東部の最高峰はコングル(公格爾)(7719m)。乾燥寒冷を特徴とするが、西部はやや湿潤温暖で、現地の遊牧民には「世界の屋根」とよばれている。パミール高原によって、ティエンシャン(天山)山脈、クンルン(崑崙)山脈、カラコルム山脈、ヒンドゥークシュ山脈がむすばれている。

イスモイル・ソモニ

  中央アジア、パミール高原北部にあるタジキスタンの最高峰。標高は7495m。斜面は氷河と万年雪におおわれ、東側には、内陸氷河で世界最大規模といわれるフェドチェンコ氷河がある。旧ソ連ではコミュニズム峰とよばれていたが、1999年にサーマーン朝の支配者の名前にちなんでイスモイル・ソモニと改称された。旧ソ連の最高峰でもあった。

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    オアシス Oasis   

   砂漠やステップなどの乾燥地域の中で、淡水がえられ、植物が生育し、持続的な人間生活も可能な場所。その規模や位置に応じて、人工的な灌漑
(かんがい)システムのもとにオアシス農業がいとなまれたり、交易上の拠点となってオアシス都市などが発達している。

  モンゴル高原 モンゴルこうげん Mongolian Plateau   

   アジア大陸北東部の内陸に位置する高原。モンゴル国の全域から中国の内モンゴル自治区にかけて広がる。東は大興安嶺、南は万里の長城からチーリエン山脈
(祁連山脈)、西はアルタイ山脈、北はタンヌオーラ山脈、ヤブロノイ山脈によって区切られる。

  全体としては比較的起伏の緩やかな隆起準平原であるが、もっとも高い北西部には
4000mをこえる高山もある。中央部から南部にかけては標高10001200m、砂礫質(されきしつ)のゴビ砂漠となる。

   高原北部のセレンゲ川やその支流のオルホン川は北流してロシアのバイカル湖にそそぎ、東部のヘルレン川はアムール川(黒竜江)に合流する。南端部を黄河の中流がながれる。高原上の凹地はタラとよばれる盆地となり、内陸河川が流入してウブス湖などの塩湖やフブスグル湖などの淡水湖が数多く形成されている。

  モンゴル高原は内陸にあるため大陸性の気候で、とくに冬の寒さがきびしい。1月の平均気温は高い所で-10°C前後、低い所では-30°C以下にさがる。7月の平均気温は1525°Cで、冬との気温差(年較差)は約40°Cに達する。また昼と夜との気温差(日較差)も大きく、20°C前後におよぶ。降水にもめぐまれず、年降水量はゴビ砂漠で100mm以下、その周辺の草原地帯では250mm前後で、ヒツジ、ヤギ、馬などの放牧、遊牧がおこなわれている。高原を区切る山地に近づくと、年降水量は250500mmにふえ、植生は森林ステップとなる。

  モンゴル高原は古くから匈奴、突厥、ウイグル人などトルコ系遊牧民の活躍の舞台となり、強大な国家が形成された。オルホン河畔で発見された8世紀のオルホン碑文( トムセン)は突厥文字で書かれており、当時をさぐる貴重な資料である。9世紀にウイグル族が中央アジア方面へ移動して以降、モンゴル族がしだいに勃興(ぼっこう)し、13世紀初めにはチンギス・ハーンによりモンゴル帝国が建設された。オルホン川右岸のカラコルムは2代皇帝オゴタイ・ハーンがきずいた都の遺跡である。

   モンゴル帝国を継承する元はモンゴル高原から中国全域にまで版図を広げた。元が明にほろぼされてからは、逆に漢民族が高原南部に進出し、清代には南部が内蒙古、北部が外蒙古とよばれ、清の支配下に入った。
1911年の辛亥革命に乗じて外蒙古は自治を宣言し、21年に独立した(現モンゴル国)。しかし、内蒙古との統一はならず、モンゴル族は2つの国家にわかれたままである。

   黒海 こっかい Black Sea 

  
  ヨーロッパ南東部と小アジアの間によこたわる内海。ボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を経由してエーゲ海とむすばれる。黒海西岸にはルーマニア、ブルガリア、ヨーロッパ・トルコがあり、北岸から東岸はウクライナ、ロシア、グルジア、南岸一帯はトルコ領となっている。

  黒海の東西の長さは約1200km、南北は最大で610km、面積は、アゾフ海をのぞいて約436400km2。

  黒海北岸からはクリミア半島が突出し、その東側にアゾフ海、西側にカルキニト湾が広がる。アゾフ海はケルチ海峡で黒海に通じている。黒海には、東ヨーロッパ方面からドニエプル川、ドニエストル川、南ブーグ川、ドナウ川などが流入する。ヨーロッパ・ロシアからはドン川が、カフカス地方からはクバン川がいずれもアゾフ海をへて流入する。ほかにも、小アジアからのクズル川、サカリヤ川など多くの川が流入する。

  中央部には黒海唯一の海盆があり、深度は約1830m、最大深度は2135m。冬季には、しばしば海上をはげしい嵐がふきあれる。冬の季節風は北からふく。

  表層と沿岸域にはプランクトンや魚類が豊富で、アンチョビーをはじめとしてアジ・イワシ・ニシン・チョウザメなどの漁獲量が多い。また、交易上も重要であり、沿岸のおもな港としては、ウクライナのオデッサ、ヘルソン、セバストポリ、グルジアのポチとバトゥーミ、ロシアのノボロシースク、ルーマニアのコンスタンツァ、ブルガリアのブルガスとバルナ、トルコのサムスン、シノプ、トラブゾンなどがある。

  黒海ははやくから航海に利用されてきた。ギリシャやローマ、のちにはビザンティン帝国の交易および植民活動で要衝となった。

  1453年、ビザンティン帝国の首都であり最後の砦(とりで)だったコンスタンティノポリスをオスマン帝国が奪取すると、その後約300年にわたって、他国の船はしめだされることになった。18世紀になると帝政ロシアがトルコの黒海支配にいどみはじめた。

  1856年、クリミア戦争後のパリ条約で黒海が中立化され、すべての国の通商利用に開放されたが、70年になってロシア皇帝アレクサンドル2世はこれを否定し、黒海に海軍を配備した。翌年、ヨーロッパ列強は会議をひらき、この行為をみとめるいっぽう、トルコのスルタンには、軍艦に対してダーダネルス海峡、ボスポラス海峡を閉鎖する権利をふたたびみとめた。7778年のロシア・トルコ戦争でトルコが敗北すると、ロシアは黒海の交易権を獲得した。

オデッサの海岸部

  黒海にのぞむオデッサは、ウクライナの主要な港湾都市である。1905年に、戦艦ポチョムキン号の水兵の反乱の舞台となった場所としても知られる。

  草原の道 そうげんのみち   

   
ユーラシア大陸の東西をむすぶ交流の道は、交易品の代表的な名をとってうつくしくシルクロードとよばれるが、それはふつう北から、ユーラシア草原地帯をとおる草原ルート、その南の砂漠地帯とオアシスをつらぬくオアシスルート、そして大陸の南縁をまわる海上ルート(海の道)の3本に大きくわけられる。このうち一般に広く知られているのはオアシスルートであり、このルートだけがシルクロードとよばれることさえある。しかし文献資料にもっともはやく登場するのは草原ルートである。

  シルクロード 2世紀から、アジアとヨーロッパをむすぶ陸上交易路網が存在した。もっとも古く、もっとも近道で、とくに頻繁に利用された陸上の道は、中国製の貴重な絹織物が盛んに交易されていたことから、シルクロードとよばれるようになった。何世紀もの間に政治情勢や環境が変化するにつれ、シルクロードには何本かのルートができた。15世紀後半にヨーロッパからアジアまでの海上ルート(海の道)が発見されると、陸上ルートはしだいにつかわれなくなった。

   バザール(イスタンブール)

   バザールはペルシア語で市場の意味。アラビア語ではスークといい、狭い通りをはさんで雑多な小店や工房がひしめきあうイスラム文化圏特有の市場をさす。英語のバザーbazaarもこれに由来する言葉で、雑貨市、慈善市などのこともいう。イスタンブール旧市街のグランド・バザールはオスマン帝国のメネフト2世が原型をつくったといわれ、東西交流の一大拠点であった。

   著者鈴木董
(東京大学東洋文化研究所教授)は、世界史の中のイスタンブールの役割と、今なお旧市街に位置するグランド・バザールのにぎわいを紹介している。ここは約3万平方メートルの敷地に、宝石屋通り、仕立屋小路、トルコ帽屋通り、布団屋通りと名づけられた通りが縦横にはしり、少なくとも3000軒をこえる店がならんでいるという。

  前450年ごろ、ギリシャの歴史家ヘロドトスが「歴史」の中でその存在を指摘している。それによれば、黒海北岸の騎馬遊牧民、スキタイからはじまって東方にはさまざまな遊牧民がおり、もっとも遠い所にすむアリマスポイ人は黄金をまもるグリフィン(ワシとライオンを合体させたような空想上の獣)の目をかすめて黄金をうばってくるという。このアリマスポイの居住地は今日のモンゴル高原西部のアルタイ辺りだろうというのが通説である。

  アルタイとは黄金を意味するトルコ語のアルトゥンあるいはモンゴル語のアルタンに由来する言葉で、今日でもアルタイでは金やさまざまな宝石が産出する。

  これに対し、オアシスルートについてはじめて言及したのは「史記」をあらわした司馬遷で、前90年ごろのことであり、海上ルートは後70年ごろに成立した「エリュトゥラー海案内記」(著者不明)の中にでてくる。

  なぜ草原ルートがはやくから知られていたのだろうか。その理由としてまず距離が短いという利点があげられる。北半球で東西に遠くはなれた2地点をむすぶ場合、最短コースは緯度線上ではなく、中間で北にふくらむいわゆる大圏コースをとおる。

  たとえばローマ(北緯42)と北京(40)を直線でむすぶと、まずローマをでてアドリア海をわたり、ドナウ川をこえ、ルーマニアとウクライナを斜めに横切り、ウラル山脈の南部をこえてカザフスタン北部を横断し、アルタイ山脈の北側をとおってモンゴル高原にはいり、ゴビ砂漠の東端をかすめて北京にいたる。ドナウ川からモンゴルまで、このコースはほとんど草原地帯をとおっている。距離は8000km弱で、南回りのオアシスルートより確実に2000km以上短い。

  次にイスタンブール(41)から西安(34)にむかうと、黒海を斜めに横切り、カフカス山脈の北側をとおってカスピ海とアラル海の北部をわたり、カザフスタン南部を横断して中国領にはいり、天山山脈を東端でこえると敦煌など甘粛省のオアシス地帯をへて西安にいたる。このコースでも北カフカスから天山をこえるまで、すなわち半分以上が草原地帯をとおっているのである。

  通行の難易度からみても、オアシスルート上には炎熱の砂漠やけわしい山脈がまちかまえているのに対し、草原ルートにはそれほど高い山はなく砂漠も少ない。

   III  騎馬遊牧民の活躍

  以上の地理的条件にくわえて、草原ルートにはもうひとつ有利な人為的条件があった。それは、そこにすむ人間が遊牧民であったということである。前1000年以降、ユーラシア草原の遊牧民は馬を常用する騎馬遊牧民となっており、広範囲に移動する手段をもっていた。また遊牧民の間では、ときとして強力なリーダーシップを発揮する英雄があらわれると、またたく間に大帝国ができあがることがあった。

   遊牧民のリーダーは富の蓄積の手段として各地から商人をよびよせ、彼らの安全確保の見返りとして
10分の1程度の低い関税を課した。このような条件がととのったとき、草原ルートは真価をしめしたのである。

  そのもっともはやい例は前7〜前4世紀のスキタイ時代にみられ、ついで前2〜前1世紀の匈奴とサルマタイ(サルマート)の時代、後35世紀の民族大移動時代、67世紀の突厥時代、そして13世紀のモンゴル帝国時代にひとつの頂点をむかえた。その後はロシア人がこのルートを利用して東方に勢力を拡大し、現在ではソ連の解体と中国の改革開放政策によってふたたび脚光をあびつつある。

  鈴木董「イスタンブールのグランド・バザール」

  バザールはペルシア語で市場の意味。アラビア語ではスークといい、狭い通りをはさんで雑多な小店や工房がひしめきあうイスラム文化圏特有の市場をさす。英語のバザーbazaarもこれに由来する言葉で、雑貨市、慈善市などのこともいう。イスタンブール旧市街のグランド・バザールはオスマン帝国のメネフト2世が原型をつくったといわれ、東西交流の一大拠点であった。著者鈴木董(東京大学東洋文化研究所教授)は、世界史の中のイスタンブールの役割と、今なお旧市街に位置するグランド・バザールのにぎわいを紹介している。ここは約3万平方メートルの敷地に、宝石屋通り、仕立屋小路、トルコ帽屋通り、布団屋通りと名づけられた通りが縦横にはしり、少なくとも3000軒をこえる店がならんでいるという。

 [出典]国立民族博物館監修『季刊民族学』第75号、財団法人千里文化財団、1996

「絹の道」と「香料の道」の交差点

  ビザンティオン〔ビザンティウム〕、コンスタンティノポリス、そしてイスタンブル〔イスタンブール〕と、つぎつぎと名を変えつつ、3つの大帝国の帝都ともなったイスタンブルの街は、アジア大陸とヨーロッパ大陸をへだてるボスポラス海峡のほとりに立つ。ヨーロッパとアジアの接点に位置するこの街はまた、「旧世界」の3大陸を結ぶ海と陸の交通と交易の大動脈の一大ターミナルであった。  

  古代以来、「旧世界」の東西は、陸上では、遥かシベリア南縁にひろがる「草原の道」と、中国西辺から発してタリム盆地をはさんで天山北路、天山南路にわかれ、のちふたたび合流して西方にむかう「オアシスの道」によって結ばれていた。とりわけ、後者は、いわゆる「絹の道」であり、東西交易の陸の大道であった。そして「絹の道」の西の一大終点こそ、コンスタンティノポリス、イスタンブルであった。 そしてまた、ユーラシアの東西を結ぶ陸のいまひとつの大道、北方遥かなる「草原の道」もまた、ユーラシア西半の南北の大道のひとつにつらなることによって、君府
(くんぷ)、コンスタンティノポリスにつらなったのであった。

  すなわち、北はバルト海沿岸に発し、その名産たる琥珀
(こはく)を南方へともたらす「琥珀の道」がある。この道は、ロシア平原をへつつ、近隣の森林からの黒貂(くろてん:ルシアン・セーヴル)をはじめとする貴重な毛皮をもさらに南方にもたらす「毛皮の道」と化しつつ、一路南下して黒海北岸に至り、黒海と東地中海を結ぶ海上の南北路に接する。そして、この海上の路を通じて、君府は、「毛皮の道」の一大ターミナルともなったのであった。  海上に目を転ずれば、「旧世界」の3大陸を結ぶ海の大道は、まず中国南岸に発してシナ海を南下し、マラッカ海峡をへてインド洋にはいり、インドに達する。

  その後、
3つにわかれ、そのひとつはペルシア湾に接し、いまひとつは紅海にはいり、最後のひとつはアフリカ東岸に至る。そのうち右のふたつの道、とりわけ紅海ルートは、陸路をへてふたたび地中海に出て海路と接する。この東地中海の海の道の一大中心もまた、イスタンブルであった。  南中国、東南アジア、インドをへてインド洋を西進するこの海上の道は、東南アジア、インドからの貴重な香料、生薬を西方にもたらしたため「香料の道」とよばれ、また中国の白磁、青磁、染め付け、赤絵等々の高価な陶磁器を将来したことから、「陶磁の道」とも称される。そして、この道の一大ターミナルもまたイスタンブルであったのであるから、この街は、まさに「絹の道」と「香料の道」の交わるところであったといえる。 

  古都らしからぬ古都、イスタンブルのいまもかわらぬ活気の源泉は、それがユーラシアの海陸の交通と交易の要
(かなめ)に位置した過去をもち、いまも港も国際駅も有し、商工業と交通の一大中心たりつづけているところにあるのである。そして、かつて「絹の道」と「香料の道」の交わるところであったイスタンブルの街の、そのまた「へそ」こそ、グランド・バザールなのである。

    征服者によるイスタンブル再建

 かつて、ローマ、ビザンツの時代に、東西交易の中心として栄えたコンスタンティノポリスの街も、11世紀後半以降のビザンツ帝国の衰退とともに、その地政学上の位置の重要さにもかかわらず、一時、荒廃へとむかった。

   しかし、
13世紀末に、当時のイスラム世界の西北の辺境であったアナトリアの、そのまた最西端に誕生したトルコ系のムスリム(イスラム教徒)王朝オスマン朝の第7代君主メフメット2世〔メフメト2世〕が、1453年にこの街を征服し、これを新帝都とするにおよび、かつてのキリスト教的ローマ、ビザンツの街コンスタンティノポリスは、ムスリム・トルコ的な街イスタンブルとして、見事に再生した。  

  この征服により「征服者」の異名を得たメフメット
2世のイスタンブル再建策の目玉のひとつは、市の中心部における一大商業施設群の形成の試みであった。これが、今日、欧米人がグランド・バザールとよぶものの淵源(えんげん)である。  征服者メフメットは、ビザンツの衰退とともにすでに衰えていたうえに、2ヵ月近い攻防戦と、征服直後の大略奪により荒廃し尽したイスタンブルの再建に着手した。かれは、一方では、著しく減少した人口を回復すべく、まだ無傷で残っていた一部のコンスタンティノポリスの住民を保護するとともに、オスマン帝国の各地から、あるいは自発的に、あるいは強制的に、トルコ系ムスリムはもとより、ギリシア系、アルメニア系のキリスト教徒、さらにはユダヤ教徒まで含めた多種多様な人びとを新帝都に移住させた。

   それとともに、他方では、都市施設の修復・新築にも着手した。ムスリムにふさわしい街とすべく、キリスト教徒用に特に残すものを除き、市内の数おおくの教会を改造してムスリムの共同礼拝所であるモスクに転用するとともに、モスクの新築をも奨励した。これにより、イスタンブルは、キリスト教的都市から、イスラム的都市へと変貌していった。 これに加えて、帝国の新都として宮殿
(サライ)を築き、さらに、東西交易の中心をなす商業都市としての再生をめざして、隊商宿としてのキャラヴァン・サライ(ケルヴァン・サラユ)、ビジネス・センターもかねた個室と倉庫をもつ隊商宿としてのハン、市場(バザール)、そしておおくの商店の建設整備にも着手した。

  今日のグランド・バザールの原点ともいうべき、「旧ベデスタン
(エスキ・ベデスタン)」とよばれる堅牢な耐火構造の集合商業施設もまた、その一環として誕生したのであった。

   ベデスタンとカパル・チャルシュ

   ベデスタンとは、元来はペルシア語で「布市場」を意味し、オスマン朝では、絹などの高価な布や布製品を扱う商店や、さらに貴金属商や両替商なども収容する堅固な耐火建築の商店街をさすようになった。今日、グランド・バザールの中央に位置する「内のベデスタン(イチュ・ベデスタン)」とよばれる区画こそ、この「旧ベデスタン」である。

   「内のベデスタン」ないし「旧ベデスタン」については、ビザンツ時代にすでにその原型が存在していたともいわれるが、現代トルコの研究者のおおくは、メフメット2世の創設にかかるものとしている。メフメット2世時代以来の4世紀半近い歳月のなかで、何回もの地震と火災により修理再建をへてはいるが、現況では、この「内のベデスタン」は、東西約45メートル、南北約29.5メートルで、1.5メートルの厚さの壁に囲まれ、8つの大ドームと7つの小ドームを頂く堅牢な建物である。

    旧ベデスタンの周囲には、おおくの商店も建てられ、まもなく、その一帯は、市中の中心的商店街となっていった。
15世紀末ころには、旧ベデスタンのやや東南方に、今日、小ベデスタン(キュチュク・ベデスタン)ないし新ベデスタン(イェニ・ベデスタン)ともよばれるサンダル・ベデスタンも設けられた。これは、南北約40メートル、東西約32メートルで、20の小ドームで飾られた建造物である。

   さらに、このふたつのベデスタンの周囲には、多数の商店と、そして、ビジネス・センターをかねたハンがつくられていった。
 こうして、15世紀末から16世紀前半には、今日のグランド・バザールの原型が成立し、これが、市内の商業の中心となっていった。ただ、今日では、グランド・バザールは、すべてが屋根でおおわれ、ひとつの巨大な建造物となっているが、当初は、ふたつのベデスタンを中心に、その周囲の道路沿いに、多数の独立の商店とハンの建ちならぶ、一大商店街にすぎなかった。

    これらの諸施設が、さらに拡大しつつ、屋根でおおわれたアーチ状の通路で結び合わされ、共通のいくつかの出入口をもつ一大施設となったのは、かなりのちのことであるが、18世紀初頭にはほぼ今日の形となっていた。そして、「カパル・チャルシュ」、すなわちまさに「屋根つき市場」とよばれるようになった。  こうして、まず一大商店街として出発し、次第に「屋根つき市場」へと発展していったグランド・バザールは、イスタンブルの街の繁栄とともに、イスタンブルの中心的商業施設であるとともに、東西交易上の一大センターの中心をなす国際商業の場として栄えたのであった。
  (c)鈴木

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