最終氷期の日本列島と東アジアの古環境
(「モンゴロイドの地球」3 日本人のなりたち 百百幸雄)
レス(黄土)と呼ばれる風成の堆積物
氷期と氷床
約400万年前、アフリカに人類が誕生して以来、地球には様々な環境変化があった。
なかでも氷期・間氷期というグローバルな気候変化にともなう環境変化は、アフリカからアジアへ、又アジアからアメリカへといった人類の拡散に最も大きな影響を与えるものであった。
最終氷期に限らず、氷期には、北半球に氷床と呼ばれる大規模な氷河が広がった。反対に、氷期と氷期に挟まれた温暖な間氷期には、北極や南極にしか氷床は見られない。
現在も一つの間氷期であり、今の地球上には南極氷床とグリーンランド氷床しか見られない。
氷期を作り出す氷床とはどんなものだろうか。氷床とは、氷河が次第に厚みを増して、山や谷といった元々の地形をすっかり覆い尽くし、現在の南極大陸のように、中心から周縁に向かって緩やかに傾く、広大なドーム状の地形である。
山岳地域では、カール(圏谷)やU字谷といった特徴的な氷河地形をつくる氷河が発達するが、谷の中を埋めるこうした氷河が厚くなってお互いに繋がりあうと、高い山頂もついには氷河の下に埋もれてしまい、山脈全体を覆う“山岳氷床”ができる。
現在の南極氷床を見れば分かるように、氷床は3,000〜4,000mもの厚さをもっている。これだけの厚い氷体が大地の上に乗ると、大地はその重みで数百mも沈むほどである。
氷床は緩やかなドーム状をなして広がっているから、標高の最も高い中心部は最も寒く、そこに冷たい高気圧ができる。
この高気圧からは周囲に向かって冷たい強風が吹き出し、氷床の傾斜を吹き降りていく。このため、氷床の周りは寒冷で乾燥した気候となり、植物の生育できないツンドラが広がっていた。
氷床や氷床の溶け水によって運ばれた砂や礫は、氷床の上を吹き降りてきたこの冷たい強風によって上空に巻き上げられ、風下へ運搬さえた。特に砂より細かいシルトと呼ばれる大きさの粒子は、風に乗って遙か遠方まで運ばれ、少しずつ落下して堆積した。
これがレス(黄土)と呼ばれる風成の堆積物である。レスは中緯度地域の上空を吹いている偏西風に乗って氷床や砂漠の広がった地域の風下(東)側に広く分布している。
(「モンゴロイドの地球」3 日本人のなりたち 百百幸雄)
黄土 こうど Loess
おもに細砂と粘土からなる黄褐色の風積土壌。黄土(おうど)、レスともいう。ケイ酸、アルミ、カルシウムを多くふくみ、細孔性で、乾燥時は固結しているが、水の浸食をうけやすいので谷壁の表層部分をくずして大量の泥の流出をおこしがちである。
ヨーロッパや北アメリカの大陸氷河周辺地域のほか、中国の北部一帯に広く分布し、中国のものは西方の砂漠地帯から風ではこばれてきたと考えられている。
中国の黄土地帯(レス・ベルト)は、カンスー(甘粛)、シャンシー(陝西)、シャンシー(山西)3省および内モンゴル自治区の古い黄土層と、これらの黄土が河川によってはこばれ、下流に堆積(たいせき)してできたホーナン(河南)、ホーペイ(河北)、シャントン(山東)3省一帯の比較的新しい黄土層とに大別することができる。
地形的にはタイハン(太行)山脈を境に、西側が古い黄土層からなるいわゆる黄土高原である。この地域は降雨のたびに黄土の大量流出を生じ、長年にわたる開墾と柴刈(しばかり)の影響もあって、土地生産性は一般に低い水準にとどまっている。
黄土高原では、土壌流出を防ぐため、傾斜畑の段々畑への改造、急斜面への植林、防砂堤の建設などがおこなわれてきたが、深刻な被害をうけているところだけでも約28万km2におよび、いわゆる「水土保持」計画の達成は容易なことではない。
一方、太行山脈の東側には、大小の扇状地が発達し、排水のよい河北平原が広がっている。黄土高原の黄土層が最大180〜200mの厚さに達するのに対し、河北平原の黄土層はうすく、一般に10m以下である。河北平原は、中国における畑作の一大中心地であり、小麦、トウモロコシ、イモ類などの食糧作物のほか、綿花、葉タバコ、テンサイなどの工芸作物、さらにはリンゴ、ブドウ、ナシなどの果樹作物の大産地でもある。このような畑作地帯形成の背景には、4000年にわたって黄土の性質を利用し克服してきた人々の英知と技術の蓄積があったといえる。
黄土地帯
中国北部、黄土が堆積(たいせき)した丘陵に段々畑が広がっている。黄土とは、風ではこばれた黄褐色の細砂や粘土からなる土壌で、肥沃(ひよく)な耕地になることから、中国などさまざまな国の経済面でも重視されている。
カンスー省(甘粛省) カンスーしょう
中華人民共和国北西部にある省。チンツァン(青蔵)、ホワンツー(黄土)、モンゴルの三大高原の中間に位置し、南東から北西に長くのびる内陸の省。漢族のほか、回、チベット(蔵)、トンシャン(東郷)、ユーグ(裕固)、ボウナン(保安)など11民族がすむ。面積は45万4000km2。人口は2593万人(2002年)。省都はランチョウ(蘭州)。
トゥンホワン(敦煌)の莫高窟
莫高窟(ばっこうくつ)はミンシャー山(鳴沙山)につくられた仏教石窟群で、千仏洞ともよばれている。1900年に4万点以上の古文書などがみつかり、世界的に敦煌学がおこるきっかけとなった
漢の武帝が河西回廊一帯を支配下におさめ、敦煌、酒泉など4つの郡をおいた。前59年に西域都護府の設置でシルクロードの通行が確保された。
清代の1666年甘粛省が設置され、その後、新疆、寧夏、青海などの省の分離や、内モンゴル自治区、ニンシア回族自治区(寧夏回族自治区)の両自治区との合併・分離などをへて、今日にいたっている。秋田県と友好関係をむすんでいる。
シャンシー省(山西省) シャンシーしょう
中華人民共和国ホワペイ平原(華北平原)の西部、ホワン河(黄河)中流地域にある省。地勢は北東から南西にむかって傾斜し、平均標高は1000m前後である。タイハン山脈(太行山脈)の西にあたるので山西と名づけられた。面積は15万7099km2。人口は3294万人(2002年)。省都はタイユワン(太原)。
タートン(大同)の九竜壁
中国最大の九竜壁 (チュウロンピー:竜をえがいた陶製の壁)で、長さ46m、高さ8m。明の洪武年間(14世紀後半)につくられ、もともと大同王府の目隠しの壁だった。
中国最古の文化が発達した地域のひとつ。伝説上の聖王である尭(ぎょう)の都のあった平陽、舜(しゅん)の都の蒲坂、禹(う:夏王朝)の都の安邑(あんゆう)はすべて省の南部にあったとつたえられる。
春秋戦国時代は晋国の地とされ、7世紀初め、李淵は太原に挙兵して隋をたおし、国号を唐とした。明は山西行省を太原におき、このときはじめて山西の名が生まれた。
1984年に大幅な対外貿易自主権が政府からあたえられて以来、対外経済・文化交流が盛んになった。94年末には省内の外資直接投資額が3170万ドルに達し、三資(合弁、合作、全額外資)企業は1323社にのぼった。
埼玉県、アメリカのテネシー州などと友好関係をむすんでいる。
内モンゴル自治区 うちモンゴルじちく
中華人民共和国北西部にある自治区。中国語ではネイモンクー自治区(内蒙古自治区)。北はロシア連邦、モンゴルと国境を接する。北東部はターシンアンリン(大興安嶺)山脈、西部はゴビ砂漠が占め、中央を黄河がながれる。
シ ンチアンウイグル自治区(新疆ウイグル自治区)、チベット自治区についで3番目に大きく、国内の8割のモンゴル族が居住する。面積は117万7500km2。人口は2379万人(2002年)。首府はホフホト(呼和浩特)。
この地は中国王朝やさまざまな遊牧民による支配の歴史をへている。7世紀にはすでにモンゴル族がすんでいたといわれ、13世紀の初めチンギス・ハーンの出現を契機にモンゴル族の統一国家が生まれた。その後、第5代のフビライの時代に全中国の統一がなされ、1271年に国号も元にあらためられた。中華人民共和国成立の2年前、1947年に内蒙古自治区が生まれた。