土井ヶ浜遺跡

   土井ヶ浜遺跡

     土井ヶ浜遺跡 どいがはまいせき 山口県下関市豊北町神田上(かんだかみ)の響灘に面した砂丘で発見された弥生時代の墓地遺跡。1953年(昭和28)以来、11次以上にわたる調査で300体近い人骨が出土している。遺跡の範囲は約1万m2と推定され、時代は前〜中期が中心で、前期の墓域は東寄り、中期の墓域は西寄りである。

埋葬方法でもっとも多いのがあおむけに膝(ひざ)などをまげる仰臥(ぎょうが)屈葬で、例は少ないが、あおむけて足をのばす仰臥伸展葬や、うつ伏せで膝などをおる俯臥(ふが)屈葬もあった。埋葬施設をともなうものは少なく、砂に土坑をつくってうめたもの、四隅に礫石(れきせき)をおいたものが主体だが、石囲いや5体をいっしょに埋葬した箱式石棺墓(→ 石棺墓・木棺墓)もあった。

遺物類は、遺体がつけていた碧玉製管玉(くだたま)、腕輪(貝輪)、指輪、ガラス製小玉などの装身具が中心だが、これらの遺物をもつのは全体の約3割にすぎない。そのうち、カワウ(→ ウ)をだいた女性は唯一鉄製品をともなっており、巫女的な人物と推定されている。また、13本もの石鏃のささった男性は貝輪を2本はめており、戦いで死亡したと思われる。

遺跡から出土した人骨については、平均身長が男性で約162.8cm、女性が約150cmと縄文人より高く、扁平(へんぺい)な顔つきだったことがわかっている。また、人骨には抜歯風習もみられた。土井ヶ浜遺跡の発見により、弥生時代における民族学と人類学的研究は飛躍的にすすんだといえる。1962年に国の史跡に指定され、現在、出土遺物を収蔵する土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアムが設立され、遺跡の一部がドームによって保存されている。

土井ヶ浜遺跡の人骨出土状況

1957(昭和32)におこなわれた第5次調査で発掘された人骨。あおむけにねて膝(ひざ)をまげて両腕を腹部か胸部においているものが多く、人骨の四隅には石がおかれていた。骨の遺存状況もよかった。これらの人骨の研究から、渡来人系の人々がすんだ集落の墓だったと考えられ、弥生時代の日本人のルーツと大陸や朝鮮半島との関係を知る手がかりとなった。山口県下関市豊北町。Encarta Encyclopedia土井ヶ浜遺跡人類学ミュージアム

   日本の石棺墓は、弥生時代の方形周溝墓や集団墓内から単独でみつかるものと、古墳時代になって古墳内部の埋葬施設につかわれたものがある。弥生時代の石棺墓は、同時代の木棺墓と同じように組合せ式の箱式石棺で、数枚の板石で側壁・床・天井(蓋:ふた)をかこみ、棺を箱のようにつくる。板石をまっすぐたてるため穴をほり、その中におさめることが多い。砂丘上につくられた山口県の土井ヶ浜遺跡で弥生時代の集団墓から約300体の人骨が発掘され、十数体が箱式石棺墓からみつかった。

古墳にみられる石棺は、組合せ式の長持形石棺と刳抜き式の割竹形石棺が代表的である。長持形石棺は兵庫県南部でとれる竜山石(たつやまいし)という流紋岩質凝灰岩でつくられ、畿内周辺の古墳からでている。割竹形石棺は舟形石棺ともよばれ、熊本・福岡・香川・島根・福井・群馬県などでつくられた。

  石棺墓・木棺墓 せっかんぼもっかんぼ 死者をおさめるために石製・木製の棺をつかった墓。石棺墓は前3000年の古代エジプトのピラミッド内で埋葬のためにつかわれており、有名なツタンカーメン墓(前14世紀)も、石棺の中に純金のミイラ形棺と二重の黄金貼り木棺がおさめられていた。ギリシャ・ローマ時代になると1個の大理石を刳(く)り抜いてつくる刳抜き式石棺墓がみられ、シリアのシドン王陵のアレクサンドロス大王の浮彫のある石棺(前4世紀)もこの形であった。中国では後漢代の刳抜き式石棺墓がみつかっているが、中心は木棺墓で、数枚の石材をくみあわせた組合せ式石棺墓があらわれるのは南北朝時代(5〜6世紀)である。

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