縄文時代

    縄文時代―1  縄文文化 13,000年前 - 前400年頃

    日本列島では、旧石器時代につづいて1万3000年前ごろから土器がつくられるようになり、縄文文化がはじまった。食物の煮炊きや保存につかえる土器の使用は、当時の人々の生活を大きくかえ、生活文化の一大転換となった。縄文人たちの多くは日当たりのよい台地上の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)にすみ、主として狩猟や漁労、採集によって生活をしていた。

   最近十数年の研究の進展から、彼らの生活は狩猟や採集以外にも原始的な農耕やクリ林の管理栽培、活発な交易などをおこない、また高度な漆工芸や大型建築物など多様な生活技術を駆使して環境変化に適応していたことがわかってきた。集落もこれまで考えられていたものより、はるかに大規模で長期間にわたるものが次々にみつかっている。

   また縄文時代前期の地層からイネやムギの存在をしめすプラントオパールが検出されるなど、原始的な穀物生産の可能性をひめた証拠もみつかっており、縄文時代の生活・文化といった全体像について再評価がすすめられている。青森県の大平山元T遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で前1万4500年(1万6500年前)ごろのものとされるなど、縄文時代のはじまりもさらに古くなる可能性がある。

   縄文文化 じょうもんぶんか     

   
日本の旧石器時代(→ 石器時代)につづく、狩猟・採集・漁労で生活し縄文土器をつかっていた文化。はじまりは炭素14法(→ 年代測定法)などによる研究から前1万1000年前後とされている。この時期は地質年代が洪積世から沖積世へうつるころで、世界史的には農耕や牧畜がはじまるなど新石器文化革命の初期にあたっている。 

    縄文文化もこれらの動きとひびきあい、食料確保手段の多様化、集落をつくった定住生活の確立、土器の発明などがみられた画期的な時代である。土器型式の変遷によって草創期(前1万1000〜前7000)・早期(前7000〜前5000)・前期(前5000〜前3000)・中期(前3000〜前2000)・後期(前2000〜前1000)・晩期(前1000〜前400)の6期にわける。最近の研究では、青森県蟹田町にある旧石器時代と縄文時代の境界に位置する大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)からみつかった土器片が最新の科学的分析法で前1万4500年のものとされ、縄文文化の起源がこれまでの定説よりも数千年も古い可能性のあることが明らかとなっている。土器片と一緒に出土した鏃(やじり)もほぼ同じころのもので、弓矢の使用の起源も5000年以上さかのぼることとなり、日本の縄文文化だけでなく世界的にみても貴重な知見として注目されている。

   II  生業

    縄文人の生活復元模型 これは豪雪地域にある縄文集落の秋の1日を再現したものである。越冬のためにクリやドングリなどをあつめ、日にあてて乾燥させている。右は土器作りをする女性。その後ろには、イノシシの子とあそぶ、子供がみえる。十日町市博物館提供  

    真脇遺跡出土の土器 縄文前期の末期から中期初頭の土器。この時期の土器は、さまざまな器形がみられるようになり、装飾も派手なものが多い。前期後葉から中期初頭にかけて、丸木弓や編籠(あみかご)などの有機質の遺物が多く、大量のイルカ骨が出土したのもこの時期の層であった。もっとも後ろの土器が1番大きく、高さは50.2cm。能都町教育委員会所蔵

    加曽利貝塚出土の縄文土器 加曽利貝塚は、千葉市にある縄文時代の日本最大級の貝塚である。これは関東の縄文時代後期を代表する加曽利B式土器のセット。南貝塚のB地点から数多く出土した。千葉市立加曽利貝塚博物館   

    縄文晩期の土器 佐賀市の丸山遺跡から出土した西日本最後の縄文土器。朝鮮半島の影響をうけて北九州西北部でおこなわれた支石墓内からみつかった供献土器である。本遺跡からは、稲作をうらづける籾(もみ)の跡がついた土器なども出土しており、この時代を弥生時代とする説もある。右の高坏(たかつき)の高さは11.5cm。佐賀県教育委員会提供

    狩猟は、弓矢・槍(やり)・投弾などをつかっておもにシカ・イノシシなどをとった。動物は60種以上、鳥もガン・カモ・キジなど15種以上がみつかっている。鳥をおとすほど弓術がすぐれていたことがわかる。漁労のようすは貝塚などからよくわかり、貝はハマグリ・シジミ・アサリなど200種以上、魚はカツオ・クロダイ・スズキなど70種以上、クジラ・イルカも捕獲していた。丸木舟をあやつって集団でおこなっていたのだろう。

   植物もクリ・クルミ・トチなど木の実を中心に60種以上が採集されていた。ほかにゼンマイ・キノコなども採集されたことは確実で、たんに食料としてだけでなく薬用にもつかわれたと思われる。春には貝類採集、秋はのぼってくるサケ・マスなどを河川の上流で捕獲し、クリやドングリを冬前に大量保存するなど、計画的に食料をとっていた。

  中部山岳地方の縄文中期の遺跡から土をほるための打製石斧が大量に出土したことから、この時代すでに農耕がおこなわれていたとする説がだされ、その後、照葉樹林文化論の展開で、この文化にあたる縄文時代には半栽培・雑穀栽培段階の原始農耕が可能だったとの説もしめされた。

  遺物にもエゴマやヒョウタン・リョクトウなどの栽培植物が発見されて、縄文時代に農耕がおこなわれていたことはほぼ確実になりつつある。近年は北九州でも晩期にあたる水田遺構が発掘され、水稲農耕もあったと考えられる。

  照葉樹林文化 しょうようじゅりんぶんか   

   照葉樹林帯に生活する民族に共通してみられる文化。ヒマラヤ山系アッサムから雲南山地、東南アジア北部から中国江南・華南にかけての地域には常緑広葉樹林がひろがり、これらはカシ・シイ・クスノキなど葉の表面がひかるため照葉樹林とよばれる。照葉樹林は海をわたり、日本の中南部にもひろがる。民族学者の中尾佐助・佐々木高明らは、この地帯にくらす人々の生活文化に共通項が多い点に着目、照葉樹林文化を提唱した。

  3つの発展段階にわけられ、第1段階は狩猟・漁労・採集活動が生業の中心のプレ農耕段階とよばれる。水さらしによるアク抜き技法やウルシの活用、食べ茶の習慣などが特徴。一部ではエゴマ・ヒョウタン・リョクトウなどの原始的な栽培農耕がおこなわれていた。

   第2段階は雑穀・イモなど根栽型の焼畑農耕を中心とする雑穀栽培焼畑農耕段階で、茶をのむ風習、漆器製作、マユから絹をつくる、ミソ・ナットウなど発酵食品、コンニャクの食用などがはじまり、モチなどが儀礼でつかわれるようになる。洪水神話や羽衣伝説など共通の説話・習俗もひろがった。第3段階は水田農耕がはじまる稲作ドミナント段階で、魚と米でつくる馴(な)れずし(→ すし)の慣習、鵜飼の習俗、焼米の製造、高床建物の建設などがくわわる。

   日本へは第1段階が縄文前期ごろ伝播(でんぱ)し、典型的な照葉樹林文化の第2段階が縄文後・晩期につたわって本格的に醸成されたと考えられる。第3段階は第2段階から発展したもので縄文終末〜弥生時代に朝鮮半島経由で北九州に伝来したとされる。この文化論はそれまで日本列島だけを対象としていた傾向に対し、東アジアさらには地球規模の視点を提起した点で重要である。民族学・人類学・考古学などが複合的に展開するその後の研究方法を創始した功績もある。

   III  すすむ定住化

  竪穴住居 たてあなじゅうきょ 地面をほりくぼめて床をつくり、そこに柱をたてて上に屋根をかけた半地下式の住居。縄文時代草創期に出現し、古墳時代まで住まいの主流として採用された。以降、平地住居に交代するが、東日本では中世まで竪穴住居がのこる。

  発掘された竪穴や、柱穴の位置と太さ、屋根をささえる垂木(たるき)の位置などから建物構造を復元すると、屋根を地面までふきおろした伏屋式(ふせやしき)と、竪穴の壁にそって細い柱を狭い間隔でたてならべ側壁をつくる壁立式(かべだちしき)がある。

  屋根にふく材料には草、樹皮、茅(かや)などのほか、土も広く使用された。屋内には炉やかまど、貯蔵穴、間仕切りなどがもうけられた。

    縄文時代の復元住居 長野県茅野市の尖石縄文考古館(とがりいしじょうもんこうこかん)にある復元住居。この復元された竪穴住居は、与助尾根遺跡のものだが、隣接する尖石遺跡とあわせて尖石遺跡とよばれることも多い。両遺跡は、八ヶ岳西山麓(さんろく)に広がる縄文時代中期の大集落遺跡である。写真提供:茅野市縄文尖石考古館 

 

    住居は竪穴住居を基本とし、5〜6人ほどの1家族単位で住んでいたと思われるが、はっきり夫婦関係をしめす史料は少ない。数軒で1集落をつくっていたが、中期以降、環状集落・馬蹄形集落のような中央に広場をもつ定住集落があらわれる。この時期には同じような形の貝塚も東京湾周辺や関東地方を中心にみられる。

    栃木県の寺野東遺跡では焼土・土器片・獣骨片などでつくられたドーナツ状土塁遺構が発見された。ストーンサークルで有名な秋田県の大湯(おおゆ)遺跡のように円形の墓地遺構も各地にあり、円形につくることになんらかの意味があったと推測される。富山県不動堂遺跡をはじめ日本海側を中心に100〜150m2もの超大型竪穴住居がいくつも発見され、このあたりは豪雪地帯であることから冬期の共同作業場とする説もでている。近年は掘立柱建物の存在も確認され、さまざまな建物が用途別にたてられていた。

不動堂遺跡の復元大型竪穴住居

    この大型住居の平面は小判形をしており、東西が約17m、南北が約8mである。不動堂遺跡は現在、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)が3棟復元され、縄文時代の集落景観が実際に体験できる史跡公園となっている。富山県新川郡朝日町。

吉野ヶ里遺跡の竪穴住居(復元)

  大地の上にじかにのっている竪穴住居。そのためそこにすむ古代人は、大地の広がりと深さを実感しながら生活した。

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    IV  葬制と精神世界

     棚畑遺跡出土の「縄文のビーナス」 長野県八ヶ岳山麓(さんろく)は、尖石遺跡(とがりいしいせき)など、縄文中期の集落遺跡が多い。茅野市米沢の棚畑遺跡(たなばたけいせき)もそうした中期の遺跡で、この土偶は集落中央の小さな穴に完全な形でうめられていた。妊娠しているようなおなかをした豊満な下半身には、縄文人の豊穣をねがう気持ちが表現されているといわれ、世界各地の古代遺跡からみつかる地母神「ビーナス」の一種と考えられる。高さ27cm。国宝。茅野市尖石縄文考古館所蔵 

 

    貝塚内には埋葬された人骨がみつかっている。死体の手足をのばしたままの伸展葬、せまい穴の中に手足をおりまげる屈葬、土器や石を頭にのせる抱石葬、四肢骨を方形の「井」の形にくみ、その上に頭骨をのせる盤状集積葬などがあり、本来は木製の墓標などがあったのかもしれない。

   住居の出入り口床面に幼児・乳児・胎児などの骨をおさめた甕(かめ)形土器をうめる埋甕(うめがめ)の風習や骨をあらったあとに埋葬した例など特殊な葬制もあった。

  埋葬された頭骨には成人通過儀礼のひとつである抜歯がおこなわれているものがある。これは特定の歯をぬくことで同族意識を高め、成人の証明とするものである。耳飾・首飾・腕輪・髪飾など各種の装身具をつけた人骨もある。縄文時代の特殊遺物として知られる土偶も装身具をつけた姿をリアルに再現しており、装身具がたんなる装飾ではなく呪術(じゅじゅつ)的な意味をもっていたことがわかる。

  御物(ぎょぶつ)石器や独鈷(どっこ)石・土版・土製仮面のような用途不明の遺物類も同様の用途だったと思われる。

    V  多様で高度な技術

    三内丸山遺跡の盛土遺構 南の盛土遺構は、縄文中期の約1000年間に土や土器などを2〜3mの高さにつみあげている。これはその断面で、ところどころ出ているのは土器片である。青森県教育庁文化課三内丸山遺跡対策室 

    三内丸山遺跡 さんないまるやまいせき 

  青森市南西にある縄文時代前〜中期を中心とする複合集落遺跡。1992年(平成4)から青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査をおこない、3年間で約5haの範囲で住居跡約600棟のほか、祭祀(さいし)にかかわる大型掘立柱建物跡・墓群・盛土(もりつち)遺構などを検出。遺物も土器・石器・木製品など数万点を出土した国内屈指の遺跡である。遺跡の範囲はおよそ35haもあり、約5500年前から4000年前ごろまでの約1500年間、継続して集落があったと考えられている。

  もっともさかえた縄文中期には500人前後が定住生活をしていた可能性があるとされ、その規模は従来の縄文時代像を大きくぬりかえた。さらに栽培されていたと考えられるクリやマメ、ヒョウタンなどもみつかり、新潟県糸魚川産のヒスイや北海道産の黒曜石の発見は広域な交易圏をものがたるものであった。

  直径1m以上のクリの木柱を6本もつかった大型掘立柱建物は、縄文人の聖なるモニュメントとする説や集落のシンボルタワーとする説などもある。また、土や土器、焼土を最高で約4mつみあげた盛土遺構は南北約70m、東西約60mにもおよび、ここまでつみあげるのに約1000年かかったと推測される。約220mにもなる2列の大人用土坑墓群、盛土状にかたまった2カ所の子供用土坑墓群も検出され、従来発見された縄文遺跡とはかなりことなっている。

    このため縄文時代のこの地に計画的な集落づくりがおこなわれていたと説く研究者もおり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とともに日本古代の文明論・文化論両面で盛んに議論されている。また、2001年3月には遺跡北西部からみつかったクリの木柱の放射性炭素年代測定法(AMS法)による測定結果が出て、約4800年前のものと判明した。

  これで同時にみつかった土器の年代がわかったことになり、縄文時代の土器編年の重要な資料になると期待されている。

  現在、大型掘立柱建物や竪穴住居などが復元整備され、青森県総合運動公園遺跡区域として公開されている。1997年に国の史跡に指定され、2000年12月にはとくに重要として特別史跡指定された。

   金属器の使用をしめす確実な例はない。木製品は丸木舟や弓・容器類など多種多様なものがつくられた。石川県のチカモリ遺跡、青森県の三内丸山遺跡で発見された直径80〜100cmもの巨大木柱などは、当時の木工技術の高さをよくしめしている。石製品では黒曜石などを大量採掘していた長野県の鷹山遺跡が発見され、予想以上に大規模な原材交易がおこなわれていたことがわかる。

   石鏃を矢に固着するアスファルト、晩期の亀ヶ岡文化(→ 亀ヶ岡遺跡)に多くみられる漆工芸なども発見され、従来のような縄文人イコール原始人のイメージは大きくかわりつつある。

  亀ヶ岡遺跡 かめがおかいせき 

   青森県西津軽郡木造町にある縄文晩期の低湿地遺跡。丘陵の端部、標高4〜16mの地点にある。発見は江戸初期と古く、その後、かなり乱掘された。明治期になり、神田孝平の紹介により中央の研究者が発掘調査を実施。1950年(昭和25)慶応義塾大学考古学研究室が本格的な調査をおこない、報告書をまとめた。

    遺構には土坑群と泥炭層があり、多種・多彩な遺物が豊富に出土した。亀ヶ岡式土器の名で知られる土器群は、現在は晩期大洞(おおぼら)B〜A'式と細分されている。ほかにも石器・石製品・骨角器・玉類・漆塗櫛(くし)・籃胎(らんたい)漆器、さらに植物遺存種子、鳥・獣・魚骨類、貝類などがみつかっている。なかでも遮光器土偶と命名された土偶は、目の表現が独特なものである。

  遮光器土偶    

   この特異な形をした土偶は、イヌイットらが雪原でつかう遮光器をつけた姿にみえるところから命名された。亀ヶ岡遺跡からは、このような土偶をはじめ、信仰に関係すると思われる道具も多く出土しており、縄文人の豊かな精神世界をうかがわせる。

    青森県是川(これかわ)遺跡とともに東北の縄文晩期文化研究に重要な遺跡であり、その後、この時期の文化は亀ヶ岡文化とよばれるようになった。近年、稲籾殻(もみがら)と炭化米もみつかり、稲の伝播問題にも新たな提起をなげかけている。国史跡。

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  貝塚 かいづか Kitchen Midden  

   人々が食べた貝類の殻が堆積
(たいせき)してできた遺跡。貝塚は世界各地にあるが、そこから人骨や獣骨、土器、石器などさまざまな遺物が出土する。貝塚は日本の縄文時代〜弥生時代をはじめ、ヨーロッパの石器時代〜初期鉄器時代や北アメリカ先住民など文字をもたなかったり、後世にのこるような建物をほとんどもたなかった社会の研究上、とくに重要である。

   考古学者による最初の貝塚の調査と発掘は、19世紀半ばにデンマークでおこなわれた。それらの貝塚は大きくまた古くからあったため自然の堆積と思われていたが、発掘によって貝殻や動物の骨などのほか、錐(きり)やナイフ、掻器(そうき)、ハンマー、投石器用の石、土器類が出てきた。海岸沿いには長さ305m以上、厚さが3mもの大貝塚もある。

   貝塚は、貝類の豊富な海岸に定期的に居住した遊牧民や半遊牧民の生活記録として重要である。北アメリカでは東海岸や西海岸の各地で大貝塚の調査がおこなわれ、とくに南部地域では、スペイン文化の影響を強くうける以前の生活文化を知る貴重な手がかりをえている。

    II  日本の貝塚

     加曽利貝塚の貝層 加曽利貝塚は、千葉市桜木町の台地上にある日本最大級の貝塚である。これは縄文中期の北貝塚の貝層断面。ハマグリやアサリが2〜3mの厚さに堆積(たいせき)している。
千葉市立加曽利貝塚博物館 

 

   1877(明治10)アメリカの動物学者モースが東京で大森貝塚を発見し発掘調査を実施したのが、日本の貝塚研究の最初である。その後、関東地方を中心に全国的に縄文時代の貝塚が発掘調査され、現在では北海道から沖縄まで2000以上の貝塚が報告されている。縄文時代を中心に弥生時代〜古墳時代のものがあり、一部の地域で奈良時代〜平安時代までのこっている。

 

    アメリカの動物学者エドワード・S.モースは1877年(明治10)6月、腕足類研究のために来日し、横浜から東京にむかう途上の大森村で、車窓から貝塚とおぼしきものを発見した。そして9月16日、モースの指揮のもとで貝塚の発掘調査が開始された。この遺跡はやがて大森貝塚と名づけられ、日本における近代考古学発祥の地として、人々の記憶に深くきざまれることになる。79年、モースは調査の成果を“Shell Mounds of Omori”にまとめて刊行し、その邦訳版は『大森介墟古物編』(矢田部良吉訳)として出版された。もちろんこれは、日本ではじめての発掘調査報告書である。ここに掲載したのは、時の文部大輔(たいふ:文部大臣)田中不二麿が発掘のようすを上申した報告書である。

  東京湾沿岸部にあった縄文時代の貝塚には、数十年から数百年間にわたって形成された馬蹄形貝塚とよばれるU字状の特殊な例がみられる。貝塚内からは食料としていた貝の殻、魚骨、獣骨、植物遺物はもちろんのこと、石器、土器、骨角器、木製品など人工遺物も多数出土する。

  これらの遺物の詳細な分析から、たとえば貝の採集は時期をえらんで春ごろに集中していたこと、幼魚・稚魚などは比較的とっていなかったこと、犬をかっていたことなどが判明している。また埋葬された人骨もたびたび発見されることから、貝塚がたんなるごみ捨て場ではなく、縄文人の葬送祭祀(さいし)ともからむ神聖な場所だった可能性も指摘されている。

モース、大森貝塚を発見

  アメリカの動物学者エドワード・S.モースは1877年(明治10)6月、腕足類研究のために来日し、横浜から東京にむかう途上の大森村で、車窓から貝塚とおぼしきものを発見した。そして9月16日、モースの指揮のもとで貝塚の発掘調査が開始された。この遺跡はやがて大森貝塚と名づけられ、日本における近代考古学発祥の地として、人々の記憶に深くきざまれることになる。79年、モースは調査の成果を“Shell Mounds of Omori”にまとめて刊行し、その邦訳版は『大森介墟古物編』(矢田部良吉訳)として出版された。もちろんこれは、日本ではじめての発掘調査報告書である。ここに掲載したのは、時の文部大輔(たいふ:文部大臣)田中不二麿が発掘のようすを上申した報告書である。

  [出典]『朝野新聞』1877年(明治10)12月16日

    一昨十四日田中文部大輔より上申になりし大森村古物発見概記の写

     考古学ノ世ニ明ラカナラザルヤ久シ、曩(さき)ニ漸(ようや)ク古物学ノ一派欧米各国ニ起リシヨリ、古代ノ工様ヲ今日ニ徴スベキ者ハ普(あまね)ク之ヲ採集シテ博物館ニ貯蔵シ或ハ之ガ為メ特ニ列品室ヲ設クル等競テ下手セザルハナキニ至レリ。現ニ東京大学理学部教授米国人エドワルド、エス、モールス氏亦夙(つと)ニ意ヲ此ニ着シ、乃(すなわち)大学ニ於テ特ニ列品室ヲ創置センヲ明シ、嘗(かつ)テ古物採集ノ挙ニ拮据セシニ、本年九月中汽車ニ駕シ東京府下大森村ヲ駛行(しこう)スルノ際、玻璃窓〔ガラス窓〕ヲ隔テテ、一丘崖ノ貝殻ヲ堆挟シ隠々トシテ含有物アルノ兆象ヲ瞥見(べっけん)シ、心頭頗(すこぶ)ル感触ヲ発シ他日二三ノ生徒ヲ率ヰテ其地ニ至リ更ニ確鑑スル所アリ。因テ□〔1字不明〕掘ノ工ヲ起セシニ、果シテ古代人種ノ製造ニ係レル物品ノ埋セルヲ発見セリ。其種類ハ凡(およ)ソ奇形ノ陶器或ハ牙角及石製ノ器具等ニテ其他未ダ何状何用タルヲ詳(つまびらか)ニセザルモノ若干アリ、是ニ於テ該品ハ悉皆大学ノ所有ニ帰セシメ、其中各色ノ文彩ヲ存シ、体質苟完ナル部類ヲ撰択シテ教育博物館ノ儲備トナセリ。茲(ここ)ニモールス氏ノ所見ニ拠ルニ、此発見品ノ中同種ニシテ複出スルモノハ、之ヲ海外著名ノ博物学士ニ逓与シ其国剰余ノ古物ト交換セバ、互ニ地球上往古人種ノ実蹟ヲ徴照スルノ利益アルベク、且(かつ)此種ノ品類ハ務メテ之ヲ悠久ニ保存シ、私利ヲ営ズルノ徒ヲシテ或ハ海外ニ濫出セシムル等ノ弊害ヲ未萌ニ防止スベキ緊務トナセリ、今謹デ該品ヲ把テ聖覧ニ供スルニ方(あた)リ、聊(いささ)カ事由ヲ概記シテ進呈ス。 明治十年十二月

  文部大輔 田中不二麿

   丸木舟 まるきぶね  

    
1本の木をくりぬいてつくった舟。独木舟とも書き、刳舟(くりぶね)ともいう。木を加工して大きな浮力をえる点が筏(いかだ)とは根本的にことなっている。後世に鋼鉄船まで発達する、船の初期形式の典型。現在でもオセアニアや東南アジア、アフリカなど世界各地でみられる。磨製石斧がつかわれる新石器時代になると造舟技術も進歩し、焼き石を木にのせて穴をつくるくりぬき法も併用された。のちに青銅器・鉄器の使用でさらにつくりやすくなった。

    丸木舟のカヌー 人類が最初に舟をつくったときは、ほとんどが丸木舟だった。写真は太平洋岸北西部で北アメリカの先住民がつかっていたもので、大木の幹をくりぬいてつくられた。

 

    丸木舟 かつおぶし形にくりぬいた丸木舟は、世界各地でつくられ、現在も使用しているところがある。筏(いかだ)や葦舟などとともにもっとも原初的な舟である。

 

  丸木舟の作り方 1本の大木をくりぬいてつくる丸木舟は、舟の基本型である。世界じゅうでつくられていたが、ここでは、北アメリカ北西海岸にくらす先住民の丸木舟の作り方をスライドショーでみることができる。

    II  日本の丸木舟

    日本では縄文時代〜鎌倉時代によくつかわれ、全国でこれまでに140隻以上が発掘されている。そのうち縄文時代のものが8割以上を占め、伊豆半島などから伊豆諸島へ丸木舟をつかって渡海するなど、外洋航海にも使用されていたと考えられている。弥生時代になるとくりぬいた材木を組み合わせてつくる「準構造船」が出現、航海距離がのびて大型化もする。しかし、小型の船としては鎌倉時代ごろまで丸木舟が使用されていた。

   丸木舟は平面図の形によって大きく2つの形式にわけられる。1つは細長い長方形をした割り竹形で舟の前後は細く加工せず底は原木のままで上部をくりぬいたもの。もう1つはかつおぶし形をしているもので、1本の丸太の上部をくりぬき、舟の前後をけずり、ほそくとがらせたタイプ。割り竹形より発達した形式で、このタイプの発見例は多い。とくに関東地方の縄文時代の舟のほとんどを占め、弥生時代には割り竹形がほとんどといっていいほどみられなくなる。

    日本最古の丸木舟は縄文時代前期の福井県鳥浜貝塚と千葉県の加茂遺跡出土のもので、これまでもっとも丸木舟の出土が多かったのは千葉県、とくに九十九里浜沿岸の中小河川流域である。

  出土地点の標高や出土状態、形、舷側板の大きさなどから、河川・内湾用の舟と沿岸漁業・交易用の舟にわける説がだされている。

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