吉野ヶ里遺跡と環濠

   吉野ヶ里遺跡と環濠

   吉野ヶ里遺跡 よしのがりいせき 

  佐賀県神埼郡
(かんざきぐん)三田川町・神埼町などにまたがる弥生時代( 弥生文化)の集落遺跡。筑紫平野の中央部、脊振山地南麓(なんろく)の丘陵上にあり、1986(昭和61)からの発掘調査では、旧石器時代(→石器時代の「日本の旧石器時代」)から中世までの遺構が発掘された。

    なかでも、弥生時代の始まりから終わりまで、前
3世紀〜後3世紀の長期間にわたっていとなまれた日本最大級の集落跡と墓地跡は、全国的に話題をよび、多数の見学者が遺跡をおとずれている。

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里遺跡は弥生時代の大規模な環濠と墓地を特徴とする遺跡である。これは環濠集落内の復元建物で、左の高い建物が物見櫓(ものみやぐら)である。

空からみた吉野ヶ里歴史公園

環濠(かんごう)にかこまれたふたつの地点がみえる。手前が北内郭(きたないかく)で、奥が南内郭。北内郭の中にみえる大きな建物は、指導者たちが重要な話し合いをしたり、儀式をしたところ

   濠をめぐらして防御するクニ

   弥生時代、有明海沿岸を中心とした筑紫平野には、多くのムラがあり、やがて有力な集団を中心に、いくつかのムラをとりまとめたクニが生まれていった。吉野ヶ里遺跡はこうしたクニのひとつと考えられている。

 吉野ヶ里遺跡の集落は、周囲を濠(ほり)でとりかこんだ環濠集落で、その規模は弥生中期後半(1世紀後半)にもっとも大きくなる。集落のある丘全体をかこむように、総延長2.5kmの濠がほられ、敵の侵入をふせぐ土塁や逆茂木(さかもぎ)をめぐらしている。

  その面積は約
40ha、甲子園球場のほぼ10倍の大きさにあたる。その後も二重以上の環濠をめぐらして防御をかためた集落がつくられ、厳重にまもられた濠の内側からは竪穴住居跡や高床倉庫跡のほか、有力者が「まつりごと(政治や祭祀(さいし)など)」をおこなっていたと考えられる高床式の建物跡、濠の四方には見張りのための物見櫓(ものみやぐら)と思われる建物跡もみつかっている。

  これらの発見は中国の史書にえがかれた、倭人
( )のクニのようすを彷彿(ほうふつ)とさせるものとして注目された。

  遺跡からは、大きな土器に遺体を埋葬した甕棺が2000基以上発見され、中には数百基の甕棺を列状に埋葬した共同墓地もある( 甕棺墓)。甕棺からは、刀傷がついたり、頭骨のないものなど、戦いによる犠牲者と思われる人骨もみつかっている。

  一方、多くの人々を埋葬した共同墓地からはなれて、遺跡の南北2カ所からは墳丘墓が発見されている。南北46m、東西27m、高さ推定4.5mの長方形をした北の墳丘墓には、14基の甕棺がうめられ、墳丘中央部の甕棺には朝鮮半島製の銅剣やガラス製管玉(くだたま)などがおさめられていた。

  墳丘墓は、クニのリーダーである首長とその一族が埋葬されたものと考えられている。

  弥生時代の筑紫平野は、青銅器の生産をいちはやく開始した先進地域でもあった。吉野ヶ里遺跡でも、それを裏づけるように、青銅器の工房跡や、青銅器の鋳型(いがた)、鋳造関係の遺物が多数出土している。

また、墳丘墓から出土した銅剣やガラス製管玉をはじめ、銅鏡、絹布、貝製腕輪など、製品やその技術が、中国・朝鮮半島、南西諸島との交流によってもたらされた物も多くみつかっている。

2001(平成13)4月、117haの広大な敷地のうち約47haが、国営・県営吉野ヶ里歴史公園としてオープンした。2世紀の環濠集落を復元した環濠集落ゾーン、復元水田のある古代の原ゾーンなどがあり、「弥生のテーマパーク」となっている。国の特別史跡。

環濠集落 かんごうしゅうらく 

  まわりを濠
(ほり)でかこんだ集落。弥生時代に九州から関東の各地でみられ、中世では町村の自治や防衛のため幅45mの環濠でかこむ集落が畿内を中心にでてくる。同様の環濠集落は日本だけでなく、ヨーロッパでもみられる。古代都市のバビロンなどもその例である。

 弥生時代では、周囲すべてに環濠をつくるものと、台地上に集落があるとき台地先端の付け根部を横断するように溝や濠をつくるものなどがある。大規模な環濠集落としては、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡が知られ、ともに何重もの環濠をめぐらせ、内部の面積は2540haにもなる。一般に環濠の断面はV字かU字形で、深さは23m、上幅が24mもあった。

  濠底には愛知県の朝日遺跡にみられるように逆茂木
(さかもぎ)が設置されていたものもあり、環濠内側には土塁(どるい)や板塀など防御施設も完備していた。環濠の目的は対外防御、防衛がおもだが、村落内の精神的連帯感を強める面もあった。環濠集落がつくられた時期が、古代では弥生中〜後期に集中していることから「魏志倭人伝」にある「倭国乱れ」や、「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝にある「倭国大乱」の記述の考古学的証拠とみる意見が強い。

大塚遺跡の環濠

  大塚遺跡は弥生中期の環濠集落で、周囲にはヒョウタン形の深さ1.52m、上幅4mほどの環濠がめぐる。長径は約200mで、その外側には土塁があったと考えられている。遺跡内には、90軒の竪穴住居跡と10軒の倉庫跡と思われる掘立柱建物跡があり、弥生土器や石器のほか、炭化米などもみつかっている。

甕棺墓 かめかんぼ 

  弥生時代に北九州を中心におこなわれた、甕形土器に成人遺体をいれて地中にうめる埋葬方法。弥生前期にはじまって中期にもっとも盛んになり、後期末までつづいた。甕棺は時期ごとに形態・規模がそろっているため、かなり大規模な甕棺工房があったと考えられる。

  ふつうは2個の甕の口をあわせ中に遺体をおりまげておさめる。ふたに高坏(たかつき)・壺形土器や石・板をつかうこともある。甕棺は小型で小児用のものから、大型で口縁径80cm以上、高さ1m以上のものまである。土に穴をほって斜めにうめられることが多いが、甕棺をたてるものや横にしているものもある。

 甕棺墓地は大規模にあつまっていることが多く、福岡県の金隈(かねのくま)遺跡では300以上が密集し佐賀県の吉野ヶ里遺跡では20003000が列になってみつかった。甕棺内にはしばしば貝輪・石剣・青銅製品・銅鏡などがおさめられ、墓地内の埋葬位置とこれらの遺物から被葬者の身分を推測することができる。

金隈遺跡の甕棺墓

  金隈遺跡(かねのくまいせき)は福岡平野東部にある弥生時代中期を中心とする遺跡である。丘陵上に甕棺墓307基のほか、木棺墓や石棺墓などもみつかっている。それらは、前期に土坑墓、木棺墓が、中期を中心に甕棺墓が、そして後期に石棺墓がつくられており、九州での弥生時代の墓制の変遷を明瞭にしめしている。福岡市博多区。

   佐原真 さはらまこと 19322002 考古学者。

   専門は弥生時代。それ以前の旧石器〜縄文時代や海外の考古学・人類学などの研究にもくわしく、「だれにでも理解できる考古学」を提唱した。

  大阪市に生まれる。少年時代から遺跡や遺物に興味をもち、1957(昭和32)に大阪外国語大学ドイツ語学科を卒業後、京都大学大学院で考古学をまなんだ。64年に奈良国立文化財研究所(現、奈良文化財研究所)に入り、弥生土器や銅鐸など遺物を中心に弥生文化の研究をおこなった。

  とくに銅鐸上部の鈕
(ちゅう:つり手)に着目してその新旧を明らかにし、新しい銅鐸の編年体系をつくったことで知られる。

 同研究所埋蔵文化財センター長をつとめたあと、1993(平成5)に国立歴史民俗博物館の副館長となり、97年から2001年まで館長をつとめた。

 近年は、現代と古代とのかかわりや、世界の文化を日本文化の理解に役だてようとする比較文化的な方向に関心をしめし、該博(がいはく)な知識をもとに、銅鐸や土器などにえがかれた絵画の意味を読み解いたり、食器、戦争、環境、ジェンダーなどの分野で独自の論を展開、その研究領域の広さは並はずれていた。江上波夫による、有名な騎馬民族征服王朝説(略して騎馬民族説:→騎馬遊牧民の「騎馬民族説について」)には、否定の立場をとった。

 著作や講演会では、「考古学は、現在をよりよく理解するためのもの」との考えから、考古学の成果をもとに現代的な問題も熱くかたった。専門的な内容をやさしい言葉で解説する軽妙な語り口は、考古学の研究者をめざす若い学生たちだけでなく、一般の人々にも人気があった。遺跡や文化財の保存にも力をつくし、吉野ヶ里遺跡、荒神谷遺跡、妻木晩田遺跡などの保存活用に貢献している。

  おもな著書に、「銅鐸」(「日本の原始美術」71979)、「騎馬民族は来なかった」(1993)、「斧(おの)の文化史」(1994)、「銅鐸の考古学」(2002)などがあり、共同監修に「考古学の世界」(5巻。1993)、共同編集に「発掘を科学する」(1994)や「日本考古学事典」(2002)がある。

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