青森県津軽市

   青森県津軽市

  つがる市   つがるし 

  青森県西部、津軽平野北西部にある市。津軽半島の南西部に位置し、東は五所川原市、南の一部は弘前市と接する。西は日本海に面し、東端を岩木川が北にながれて十三湖にそそぐ。弘前藩(津軽藩)の新田開発以来の穀倉地帯となっている。

   2005年(平成17)2月11日に西津軽郡の木造町(きづくりまち)、森田村、柏村(かしわむら)、稲垣村、車力村(しゃりきむら)の1町4村が合併して成立した。面積は253.85km2。人口は4万974人(2003年3月時点の合計)。

   岩木川によりはぐくまれた広大な津軽平野が開け、中央を山田川が縦断し、田光沼(たっぴぬま)、牛潟池、狄ヶ館溜池(えぞがだてためいけ)など多くの溜池が散在。西部には屏風山(びょうぶさん)とよばれる砂丘地帯と湿原群があり、津軽国定公園に属する直線状の七里長浜(しちりながはま)とよばれる海岸がつづく。南部には岩木山につらなる丘陵地がある。

   南部を川部(青森県田舎館村)〜東能代(秋田県能代市)間をむすぶJR五能線と、国道101号が並行して東西にはしり、沿線に人口があつまっている。

   基幹産業は農業で、稲作を中心に、丘陵地でリンゴ栽培がおこなわれるほか、屏風山では砂丘の特性を生かしたスイカやメロンなども生産されている。漁業は車力漁港などで沿岸漁業がおこなわれるが規模は小さい。

  亀ヶ岡遺跡出土の遮光器土偶 縄文晩期の亀ヶ岡遺跡からはたくさんの洗練された土器や石製品、漆器などが発見された。この特異な形をした土偶をはじめ、信仰に関係すると思われる道具も多く、縄文人の豊かな精神世界がうかがえる。東京国立博物館所蔵 

 

   代々の藩主により、不毛の湿地帯であったこの地に新田が開かれた。4代藩主の津軽信政は、新田を砂丘や風からまもるために植林をし、クロマツやスギでできた防風林をつくった。しかし、岩木川の氾濫(はんらん)や夏にふく冷涼な風による低温などのため、稲作条件はきわめてわるかった。

  昭和初期から水害と取水紛争の対策を目的に国営西津軽農業水利事業が実施され、現在は県内でも有数の米の産地となっている。

  七里長浜の出来島海岸(できしまかいがん)には、2万8000年前の最終氷期の埋没林がのこる。近くのベンセ湿原(約23ha)は海岸高層湿原(→ 高層湿原)の南限で、日本の自然100選に指定されている。

  市内には縄文時代の遺跡が数多くある。宇宙人を連想させる遮光器土偶(→ 土偶)で有名な亀ヶ岡遺跡は縄文晩期を代表する遺跡で、北隣の田小屋野貝塚(たごやのかいづか)とともに国の史跡。狄ヶ館溜池近くの石神遺跡からは口縁部に人面様の文様を付した円筒土器などが多数出土している。

  1889年(明治22)、牛潟町の沖合でアメリカ合衆国の帆船チェスボロー号が遭難し、乗組員19人が死亡、住民の献身的な活動によって4人が救助された。日本海をのぞむ高台にあるチェスボロー号記念公園には、その慰霊碑がたつ。南部の「つがる地球村」には、野外劇場やスポーツ施設、オートキャンプ場、温泉入浴施設などがある。西部の平滝沼公園も自然を生かした公園としてしたしまれている。

  津軽平野 つがるへいや 

  青森県西部、津軽半島から白神山地にいたる平野。北西部の七里長浜(長さ28km)で日本海に面している。

  七里長浜にいだかれた内海に、岩木川がはこんだ土砂がつもってできた平野で、全体に低平である。岩木川とその支流の間にはりめぐらされた水路・池が平野をうるおし、津軽米と日本最大のリンゴの産地となっている。リンゴ栽培面積は全国の約40%に達している。南西部に岩木山(標高1625m)がそびえる。

    JR奥羽本線・五能線、津軽鉄道、弘南鉄道、国道7、101、102、339号が通じる。東北自動車道の開通によって、東京方面との連絡が容易になった。おもな都市に弘前市、黒石市、五所川原市、つがる市がある。弘前市は津軽(弘前)藩10万石の城下町としての歴史をもつ風格ある都市で、津軽平野の中心として発展している。津軽国定公園の一角を占め、観光資源にもめぐまれる。

   津軽半島 つがるはんとう 

  青森県の西部から北につきでた半島。東津軽郡、北津軽郡、つがる市、五所川原市、青森市にまたがる。西は日本海に面し、北は津軽海峡をはさんで北海道、東は陸奥湾をはさんで下北半島とむかいあう。北部から南東部にかけては、増川岳や袴腰岳(はかまごしだけ)など標高300〜700mの山々がつらなり、津軽山地を形成している。南西部には津軽平野が広がり、平野を北流する岩木川が潟湖の十三湖にそそぎこむ。

  半島の地質は、大部分が第三紀層からなり、津軽山地の一部には第三系の火山岩類が分布する。また南西部には第四系の沖積層、北西部の小泊岬(こどまりみさき)には先第三系の地質もみられる。津軽山地とほぼ平行に、津軽断層などいくつかの断層がはしっている。北部の海岸には海岸段丘が発達し、西部には七里長浜(しちりながはま)という砂浜がつづく。

  同じ県内でも、太平洋側の地域より対馬海流の影響をうける津軽半島側にタブノキなどの暖地性の植物が多い。津軽山地には、日本三大美林のひとつにかぞえられるヒバ(ヒノキアスナロ)林があり、これをもちいて良質の木材が産出されている。また標高400m以上の山地にはブナ林がみられる。

  年平均気温は10°C前後で、津軽海峡周辺の地域はやませというつめたい偏東風によって、夏季に冷害をおこすことがある。

  半島のほぼ中央を津軽山地がとおるため、交通は長い間東西に分断されてきた。現在は、東海岸を北走するJR津軽線が、北端の竜飛崎から青函トンネルで北海道につながり、津軽山地の西部には中泊町まで津軽鉄道がとおっている。また国道280号と339号が山地をめぐり、東西間の交通の便は好転した。

  おもな産業は農林業で、津軽平野で米作がおこなわれているほか、リンゴの栽培が有名である。

  北西部の十三湖はハクチョウの渡来地として知られる。つがる市の亀ヶ岡遺跡など、多くの史跡や名所があり、竜飛崎や小泊岬をふくむ北海岸や西海岸は津軽国定公園に指定されている。

  五所川原市 ごしょがわらし 青森県北西部、津軽平野の中央部にある市。東は青森市、西はつがる市に接する。中泊町をはさんだ飛地の市浦(しうら)地域は津軽半島の北西部にあり、西は日本海に面する。

  1954年(昭和29)五所川原町が松島村、長橋村、飯詰村(いいづめむら)、三好村、中川村、栄村の6村と合併して市制施行。55年に嘉瀬村(かせむら)の一部、56年に七和村(ななわむら)の一部を編入。2005年(平成17)3月28日に北津軽郡の金木町(かなぎまち)、市浦村と合併した。

  面積は404.58km2(一部境界未定)。人口は6万5081人(2003年3月時点の合計)。飛地の市浦地域は面積111.75km2だが、人口は5%にみたない。

  東に大倉岳(677m)や梵珠山(ぼんじゅさん。468m)などの津軽山地(中山山脈)が南北にのび、西に津軽平野が開ける。西端を岩木川が北にながれ、各所に灌漑用の溜池がみられる。

  市浦地域の北には青森県の自然環境保全地域に指定されている四ツ滝山(670m)がそびえ、南に岩木川がそそぎこむ十三湖がある。中心市街地は南西部の岩木川右岸の自然堤防上に広がり、南東部では青森市に隣接するため、宅地化がすすんでいる。

  JR五能線と津軽鉄道が五所川原駅で分岐し、国道101号と339号が交差。津軽自動車道(101号)は浪岡インターチェンジで東北自動車道に直結する。市浦地域には国道339号が通じる。

  南部市域は岩木川中流の平坦(へいたん)な低湿地に広がり、農業は稲作が中心で、水田単作地帯になっている。リンゴ園は津軽平野南部にくらべて少ないが、リンゴジュースやジャムの工場がある。野菜のハウス栽培や肉牛などの畜産もおこなわれている。

  林業は日本三大美林のひとつの青森ヒバを産し、加工するが、規模は小さい。漁業は日本海での沿岸漁業のほか、十三湖でのヤマトシジミ(→ シジミ)が特産品。工業では青森テクノポリスハイテク工業団地漆川で、半導体製造などの工場が操業する。

  金木川の中流域や藤枝溜池周辺の台地、十三湖周辺などには旧石器時代以降の古代遺跡が多数ある。十三湖は、十三潟ともいい、中世には「とさ」ともよばれた。鎌倉〜室町時代には、日本海貿易の拠点港である十三湊(とさみなと)を中心に、豪族安東氏の本拠地としてさかえた。

  近年の発掘調査により、安東氏の本拠と思われる領主館や家臣の屋敷、町屋、寺社など中世国際港湾都市を思わせる遺構(→ 遺構と遺物)が発見されている。江戸時代には、弘前藩(津軽藩)が用排水路をもうけるなど新田開発を積極的にすすめ、広大な田地が生まれた。

  金木町(かなぎちょう)には作家太宰治の生家、旧津島家住宅の斜陽館(→ 斜陽)がある。国の重要文化財で、太宰治記念館「斜陽館」として全国からファンがおとずれている。また、金木町は津軽三味線(→ 三味線)の元祖「神原の仁太坊(にたぼう、本名は秋元仁太郎)」の出身地であることから津軽三味線発祥の地とされ、近くには生演奏が楽しめる津軽三味線会館がある。南西部の湊地区には津軽藩の郷士豪農の旧平山家住宅があり、主屋と表門は国の重要文化財。毎年8月には五所川原立佞武多(たちねぷた)が開催される。

  立佞武多の館では、常時大型ねぷた(→ ねぶた)が3台展示されているほか、製作過程をみることができる。冬には津軽鉄道のストーブ列車がはしり、地吹雪ツアーが人気をよんでいる。サクラの名所の芦野公園や、中の島ブリッジパークなどの観光施設も整備されている。

  十三湖 じゅうさんこ 

  青森県北西部、津軽半島の西部にある潟湖。七里長浜として知られる砂嘴で日本海とわけられる。五所川原市に属する。南から岩木川ほか数本の河川が流入し、三角州が湖に大きくのびている。面積18.07km2、最大水深3m。

  1948年(昭和23)から湖周辺の湿田を改良する国営干拓事業がおこなわれ、新田の開発がすすめられた。これにともない湖の面積は明治初期とくらべるとほぼ半分になっている。海水と淡水がまざりあう汽水湖で、特産のシジミは全国有数の出荷高をほこっている。

  湖の出口にある十三集落は、十三湊(とさみなと)として知られたところで江戸時代に日本海の西廻り海運(北前船)の寄港地、津軽米の積み出し港としてにぎわった。

   田舎館村 いなかだてむら 

  青森県中西部、南津軽郡の村。東は黒石市に、西は平川をはさんで弘前市に接する。津軽平野南部に位置し、中央を岩木川支流の浅瀬石川がながれる。東西に広がる村全域が平坦地で、山林はない。

  地名は大和言葉の「稲家」が由来ともされる。1889年(明治22)村制施行した田舎館村が、1955年(昭和30)、光田寺村(こうでんじむら)と合併して成立。面積は22.31km2。人口は9028人(2003年)。

  古くから水田地帯として開けており、村の南東にある垂柳遺跡では、弥生時代中期の水田遺構が発見されている。米とリンゴを中心とする農業が基幹産業で、副産品の稲藁(いなわら)を利用した筵(むしろ)などの生産もおこなわれていた。近年はイチゴやブドウ、花卉(かき)などをとりいれた複合経営のほか、リンゴジュース、野菜入りうどんなど農産物加工品の開発もおこなわれている。

  南北朝〜戦国期に一帯をおさめていた田舎館千徳氏(せんとくし)の居城だった田舎館城跡があり、胸肩神社(むなかたじんじゃ)には円空作の木造十一面観音像がのこる。垂柳遺跡の出土品は、村の歴史民俗資料館に展示されている。また、小正月に野菜に紙の服を着せた人形をもった子供たちが厄払い(やくばらい)してまわる「カパカパと福袋」、4頭の獅子が独特の頭振りでおどる垂柳獅子踊りなどめずらしい行事もつづけられている。

   垂柳遺跡 たれやなぎいせき 

  青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。遺跡は、旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれる。

  垂柳遺跡の水田跡 青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕をうらづける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。田舎館村歴史民俗資料館提供 

    1956年(昭和31)に籾痕(もみこん)のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。水田跡は656面で、大きなものは11m2以上あり最大のもので22m2、中が9m2前後、小が4m2前後だが、平均では8m2ときわめて小規模である。

  各水田をくぎる畦畔(けいはん)もあり、注水、配水のための水口もつくられていた。水路も12本みつかっている。112面の水田跡からは人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。水田脇から発見された土器群は、田舎館式と命名されている。

  東北地方では、垂柳遺跡の発見前から籾痕のある土器片や炭化米、焼けた米がみつかっていたことから、早い時期の水稲農耕説が一部の研究者から提唱されていたが、定説にはなっていなかった。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播(でんぱ)を考えるうえで大きな問題提起となった。→ 稲作

  その後、1987年に弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。現在、遺跡の一部はうめられて高架橋がかかり、遺物は田舎館村歴史民俗資料館で保管されている。2000年(平成12)4月に国の史跡に指定された。

   亀ヶ岡遺跡 かめがおかいせき 

  青森県つがる市木造(きづくり)にある縄文晩期の低湿地遺跡。丘陵の端部、標高4〜16mの地点にある。発見は江戸初期と古く、その後、かなり乱掘された。明治期になり、神田孝平の紹介により中央の研究者が発掘調査を実施。1950年(昭和25)慶応義塾大学考古学研究室が本格的な調査をおこない、報告書をまとめた。

   遺構には土坑群と泥炭層があり、多種・多彩な遺物が豊富に出土した。亀ヶ岡式土器の名で知られる土器群は、現在は晩期大洞(おおぼら)B〜A'式と細分されている。ほかにも石器・石製品・骨角器・玉類・漆塗櫛(くし)・籃胎(らんたい)漆器、さらに植物遺存種子、鳥・獣・魚骨類、貝類などがみつかっている。なかでも遮光器土偶と命名された土偶は、目の表現が独特なものである。

  青森県是川遺跡(これかわいせき)とともに東北の縄文晩期文化研究に重要な遺跡であり、その後、この時期の文化は亀ヶ岡文化とよばれるようになった。近年、稲籾殻(もみがら)と炭化米もみつかり、稲の伝播(でんぱ)問題にも新たな提起をなげかけている。国史跡。