神奈川県小田原市・中里遺跡

中里貝塚

国指定史跡
平成1296日指定
中里貝塚の貝層断面写真
 中里貝塚は平成129月に、国指定史跡として指定されました。最大約4.5メートルの厚さの貝層をもち、長さ約1キロメートル、幅約70100メートルにわたる日本最大級の貝塚です。

  年代

  縄文時代中期中頃から後期初め(約46003900年前)

   指定理由

  最大で厚さ4.5m以上の貝層が広がる、縄文時代の海浜低地に形成された巨大な貝塚。焼き石を投入して水を沸騰させて貝のむき身を取ったと考えられる土坑や焚き火跡、木道などが確認されている。生産された大量の干し貝は、内陸へ供給されたものと想定され、縄文時代の生産、社会的分業、社会の仕組みを考える上で重要である。

詳細解説1 中里貝塚想像図(約4000年前)

中里貝塚想像図
中里貝塚では、役割分担をおこない、共同作業で貝を加工処理していたと思われます。貝を採るのに適した季節になると、台地上のムラから海岸に下りてきて集中的に貝を採っていました。
 むき身にした貝は、そのまま、あるいは干し貝に加工されて、内陸の村々との交易に用いられていたことが考えられます。

詳細解説2 特徴

中里貝塚の貝層

 第1の特徴は、なんといっても貝塚の規模の大きさです。周辺地域の発掘調査、分布調査、江戸・明治時代の古文書や文献などによると長さ1m前後、幅70100mにわたると推定されます。厚さも最大で4.5mもあります。

中里貝塚の貝層

 第2の特徴は、専業的な性格にあります。中里貝塚からは、土器、石器などの道具類や骨類などはほとんど出土しませんでした。しかも出土する貝のほとんどが、カキとハマグリです。これは、一般の貝塚のように、動物・魚の骨や土器などを捨てるために使われた、日常生活のゴミ捨て場とは違うことを物語っています。
 また、貝類を加工するための遺構や遺物しか見られないことから、大規模な貝類加工専用の作業場であったと考えられます。

詳細解説3 採集

 中里貝塚で食用として採られたと考えられる貝は、ほとんどマガキとハマグリです。
 ハマグリを分析した結果、ほとんどが春の前半から夏の前半に採集されたことがわかっています。そして、ハマグリの大きさも平均43ミリと、大型のハマグリを選んで採集されていて、35ミリ以下のハマグリはほとんどありませんでした。
 マガキは、泥干潟に形成されていたカキ礁の一部を採集しそのまま加工処理場へ運んだようです。カキの幼貝や、カキ礁に生息する小型の貝類も多くみつかっているからです。

カキとハマグリ
中里貝塚のハマグリとマガキ

詳細解説4 加工

採った貝は、ストーンボイリングと呼ばれる焼き石を使った調理法により、むき身にされたと考えられています。
 これは、砂地を掘りくぼめ粘土を貼り、木枠を設置した施設(木枠付き土坑)の発見により明らかになりました。この中からは、炭化物や焼け石が見つかりました。

木枠付き土坑
木枠付き土坑

ストーンボイリング説明図

ストーンボイリング

方法A 蒸し焼き
焼いた石を敷き、その上に貝を置く。水をかけ草木などでフタをして蒸気で蒸し上げる。

方法B ゆであげ
水を張ったところに焼いた石を投げ入れて沸騰させ、ゆであげる。

詳細解説5 交易

 中里貝塚の膨大な貝殻の量からは、加工された貝の身が、この付近の集落だけで消費されたとはとても考えられません。中里貝塚で加工された貝の身は、その後どのようにされたのでしょうか? おそらくは、中里貝塚の付近の集団が、大量の貝を採集・加工して、それを交易品として内陸部に供給していたのだと考えられています。

中里遺跡出土縄文土器

東京都北区指定有形文化財(考古資料)
平成13410日指定

中里遺跡出土縄文土器

  縄文時代中期から後期初頭にかけての土器群です。五領ヶ台式土器42点、阿玉台式土器15点、勝坂式土器32点、加曽利E式土器44点、称名寺式土器4点の計137点を数えます。このうちの多くは深鉢と呼ばれる土器で、高さ20センチ未満の小型のものから40センチ以上の大型のものまであり、土器の表面には煮炊きに用いられた際に付着した炭化物が認められます。
 中里遺跡は低地に立地する遺跡で、土器群のほかに丸木舟(東京都指定有形文化財)が見つかっており、また中里貝塚(国史跡)も存在し、当時の低地における人々の活動を物語っています。

中里遺跡出土丸木舟

東京都指定有形文化財(考古資料)
平成16310日指定

中里遺跡出土丸木舟の写真です。

 この丸木舟は落葉高木(らくようこうぼく)のニレ科ムクノキの一木を刳()りぬいて作られたものです。全長5.79メートル、最大幅0.72メートル、最大内深0.42メートルの大きさです。また、厚さは舟べりで2センチメートル、舟底で5センチメートルと薄く、丁寧な作りです。舟の表面を観察すると、所々焦げた個所があることから、火を使って焦がしながら石器で削り、刳り貫いたようです。縄文時代中期の中里遺跡は砂浜の海岸で、丸木舟はその渚に据えられたような状態で出土しました。おそらく縄文人はこの舟に乗って海へ出て、網などを使って漁をしていたのでしょう。中里遺跡からは壊れた土器の破片を網の錘として再利用した土器片錘(どきへんすい)も出土しています。

Q 中里貝塚はどこへ行けば見ることができるの?

A 現在、国の史跡として指定されている中里貝塚は、保存のために埋め戻されています。3000年、4000年も土の中にずっと埋まっていたものを空気中にさらしたままにすると、酸化が進行してしまいます。この先100年後、200年後、さらに先まで保存していくためには、今まであったとおりに、土の中に埋まった状態で保存されるのが最も理想的であると考えられるのです。

中里貝塚の剥取り標本写真

一方で、この貴重な文化財を多くの人に知ってもらうために、北区飛鳥山博物館内のホワイエに、貝層断面をはぎ取って保存処理した標本が展示されています。ぜひ、ご覧ください。

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