黒曜石産出地

 日本の黒曜石の出土地域

   黒曜石 こくようせき Obsidian 

   
黒っぽい、半透明のガラス質の火山岩(→ 火成岩)で、化学的成分は流紋岩とほぼ同じである。とけたマグマが地球表層にむかっておしあげられ急速にひやされるため、内部のイオンが結晶化する時間がなく、ガラス質になる。ふつうは黒色であるが、赤や茶色のものもある。割りやすく、成形しやすいため、先史時代の人はこれで武器や道具をつくっていた。

 

   黒曜石は加工が比較的容易なため、昔から武器や道具につかわれていた。おもな構成元素はどこで産出したものでもほとんど同じだが、わずかにふくまれる微量元素が産地によってことなることがある。そのため、どこの火山から産出されたものかを正確に知ることができる。考古学者は、昔の物資の流れをつきとめるためにこれを利用している。

    相沢忠洋による「岩宿」の発見

1946年(昭和21)秋、相沢忠洋(ただひろ)は、群馬県新田郡笠懸村(現在は町)岩宿の赤土の崖(がけ)から黒曜石の剥片(はくへん)石器を発見した。以後、49年の春までに10個以上の石片を採集し、夏には長さ約7cmの槍先形石器を発見。縄文時代以前の先土器文化が日本に存在したことを確信する。同年、これらの石器をみせられた杉原荘介、芹沢長介ら明治大学考古学研究室のメンバーが現地をおとずれ、岩宿が旧石器時代の遺跡であることを確認した。69年に刊行された相沢の回想記は、この発見の模様を克明につたえている。

[出典]相沢忠洋『「岩宿」の発見―幻の旧石器を求めて』(講談社文庫)、1973年

   黒曜石の槍先形石器発見

うっとうしかった梅雨期もいつかすぎて、照りつける太陽はもうすっかり初夏になっていた。 

  私はほぼ三ヵ月ぶりに笠懸村の赤土の崖へ向かってペダルをふんでいた。前橋県道(国道五〇号線)にそって、両毛線の岩宿駅前から西へ進むと間もなく右手に、岩石が切り立ったように露頭する丘陵の突端があった。

  ここは金比羅山とよばれていた。そのすそを通り、少し行って右へ曲がって丘陵のすそをまわるようにして進むと、ケヤキの大木が繁る森があった。 ここはかつて石灰を製産した工場のあった場所でもあった。やがて目の前に静かな沼が見えてきた。この沼を沢田沼とよんでいた。 

  ケヤキの繁みのなかから沼越しに遠く黒檜山(くろびやま)を中心とした赤城山の一部が、稲荷山と鹿田山の間から、まるで額ぶちの絵のように見えていた。いつきてもここは閑静なところであった。沼の岸辺では三、四人の近くの子どもたちが水遊びに興じていた。その無邪気な声が水の波紋とともに大自然のなかへ吸いこまれていく。 

  ひと休みしながら水面を見おろしていると、むかし鎌倉の滑川で遊んだころのことが思いだされた。私はまた山すその小道を自転車を走らせて、稲荷山前の村道に出た。 そこでいつものように、崖の断面を一方の側から、詳細に観察しながら歩いた。 そこにはまた小さなブロック状のくずれたところが見られ、一メートル五十センチほどの赤土層と、その下に黒褐色の帯状を呈した粘土層が露頭していた。 

  その黒褐色の粘土層のなかに、人の頭ほどの大きさの河原石が顔をのぞかせているのが見つかった。「はてな? 」と考えながら、小枝でまわりを注意深く掘り削ってみた。石をやっとのことでとりだしてみると、それは三十センチほどの卵型をした河原石だった。 私は粘土層をなおよく念を入れて見たが何も見当たらない。  

  こんな地層の底に河原石(礫:れき)が入っている。ふつうなら、こんな粘土層に石が入っているはずはなかった。それもただの河原石なので、不思議に思いながらなお気をつけて見ていくと、四センチほどの長さの角岩をひきさいたような石剥片が出てきた。これは確かに人工品であった。赤土層のなかからだけでなく、その下の粘土層のなかからも、石剥片が出ることがわかったのだ。 そこから離れてもう一方の崖面を注意深く目を光らせながら見て歩いた。

  山寺山にのぼる細い道の近くまできて、赤土の断面に目を向けたとき、私はそこに見なれないものが、なかば突きささるような状態で見えているのに気がついた。近寄って指をふれてみた。指先で少し動かしてみた。ほんの少し赤土がくずれただけでそれはすぐ取れた。それを目の前に見たとき、私は危く声をだすところだった。じつにみごとというほかない、黒曜石の槍先形をした石器ではないか。完全な形をもった石器なのであった。われとわが目を疑った。考える余裕さえなくただ茫然として見つめるばかりだった。「ついに見つけた! 定形石器、それも槍先形をした石器を。この赤土の中に……」 私は、その石を手にしておどりあがった。

  そして、またわれにかえって、石器を手にしっかりと握って、それが突きささっていた赤土の断面を顔をくっつけるようにして観察した。たしかに後からそこへもぐりこんだものでないことがわかった。そして上から落ちこんだものでもないことがわかった。 それは堅い赤土層のなかに、はっきりとその石器の型がついていることによってもわかった。 もう間違いない。赤城山麓の赤土(関東ローム層)のなかに、土器をいまだ知らず、石器だけを使って生活した祖先の生きた跡があったのだ。ここにそれが発見され、ここに最古の土器文化よりもっともっと古い時代の人類の歩んできた跡があったのだ。

感激の夜

この二年余り、私はただ一つ、この石器を見つけだすために、そして赤土の崖の謎を解くいとぐちをつかむために、探し求め、歩きつづけてきたのだった。しかも、長いようでもあり短いようでもある、私の手探りの道であった。 私は泥んこになった手と、その貴重きわまりない石器を洗うために沢田の沼辺へ引きかえした。 子どもたちはまだ遊んでいた。私が沼辺で石を洗っていると、子どもの一人が近寄ってきた。「おにいちゃん、石なんか洗ってどうするの」  と話しかけてきた。

  「この石はねえ、大むかしの人が使ってた石なんだよ」 子どもは黙って、私の石を洗うしぐさを見守っていた。槍先形の石器には赤土が付着していたが、洗い落とすと、掌の上で輝くようにつや光りがして美しくなった。「わあ、きれいな石! ガラスみたいだ、ぼくもほしいな」  と子どもは身を乗りだして、沼辺にしゃがんでいる私ににじりよってきた。 その石器は、長さ七センチ、幅三センチほどの長菱形で、周縁全体がきれいに加工され、一端は鋭くとがり、一辺はまた鋭く打ち割り刃がついていた。 

  空にかざして太陽にすかしてみると、じつにきれいにすきとおり、中心部に白雲のようなすじが入っている。私にはその美しさが神秘的に思えるのだった。 このときの感激こそ、私の生涯忘れることのできないものであった。思えば、一片の黒曜石の細石剥片に気をとられてから三年余の赤土の崖がよいの末に、ついにこの感激にめぐりあえたのであった。 子どもたちはいつのまにか私をとりかこんで、私とその石器とを目をかがやかせて見守っていた。みんなでかわるがわる石器を手にし、西にかたむいた太陽の光にすかして見ながら、感歎の声をあげるのだった。 帰り道のペダルをふむ足は軽かった。私は一刻も早くわが家に帰って、これまで採集してきた石剥片と並べくらべてみたかった。それだけを思って心がはずんだ。 

  その夜おそくまで、家のなかいっぱいに石剥片をならべて、詳細に比較し検討しつづけた。その日の大成果である槍先形の石器が、夜の電灯の光にも、ひときわ、かがやきを増すばかりだった。 赤城山麓に、火山灰の関東ロームの堆積時代に、すでに人類の祖先が住んでいた。しかし、その祖先はまだ土器を知らない、石器だけで生きていた!  しかも、黒曜石という、いまで考えるとダイヤモンドにも匹敵するであろう石を手に入れていた。そしてそれを生活の利器として使用していた!  私の抱きつづけた黎明期(れいめいき)への夢が、その一片の槍先形石器から、何千年、何万年の遠古の天地へさかのぼって、くりひろげられていくのだった。

   さあ、赤土と石剥片の謎はもう解けたも同然だ。だが、これからこそたいへんなことなのだ。まずこのような石器文化がほかにもあるのだろうか。それに答えるには、私の知識経験はあまりにも薄弱であった。 なんとかしてこのことを専門の先生に聞いてみたい。聞かなければならない。しかし、うかつなことをいおうものなら、また一笑に付されるか、物笑いのタネになるかもわからない。私はこの私だけの大きな夢、大切な夢をだれにもこわされたくなかった。しばらくは、じっと、私の胸のうち深くしまっておきたい、と願った。

(c)相沢千恵子

    サヌカイト 

  マグネシウムの対鉄比率が異常に高い黒色の輝石安山岩で、ガラス質で緻密、かたい特性をもつ。打製石器(→ 石器)の主原材のひとつ。讃岐石(さぬきいし)、讃岐岩、カンカン石などともいう。

  1916年(大正5)地質学者の小藤文次郎が瀬戸内海周辺の玄武岩、安山岩をサヌキトイドとよんだが、日本ではサヌキトイドをふくめたサヌカイトは、黒曜石、頁岩、珪岩(けいがん)などとともに石器時代の石材としてしばしばもちいられている。

 原石産地は西日本が中心で、奈良県と大阪府境の二上山(にじょうさん)、岐阜県下呂、香川県金山(かなやま)や五色台付近などが知られる。大正期に、浜田耕作が大阪府国府遺跡(こういせき)の調査で出土した石核を二上山産と指摘した例もあった。

 旧石器時代の瀬戸内海地方で独自にみられる横剥ぎ技法(よこはぎぎほう:瀬戸内技法)は、サヌカイトの剥離(はくり)しやすい特徴と強くかかわっている。また、長崎県の福井洞窟出土の古い段階の石器もすべてこの石材をもちいていた。弥生時代になってからも、石槍や石剣の石材としてつかわれた。

    交易 こうえき Trade 

  ある物をほかの物と交換する行為。貨幣を媒介としてなされる商業取引ではなく、直接に物と物とが交換される取り引き、とくに物々交換をさす。しかし貨幣的なものが媒介物としてつかわれる交易もある。ふつう貨幣というと、さまざまな物の共通の価値基準となり、たくわえられて富となり、交換、支払いにもちいられる多目的貨幣をいうが、それらの働きのうち1つか2つしかもっていない貨幣もある。

  これは特定目的の貨幣といわれる。つまり、価値基準用、支払い用などに別々の特定目的貨幣がつかいわけられている社会である。たとえば塩とか子安貝がとくに遠隔地間の交易媒介物としてもちいられることがあった。

多目的貨幣の使用によって成立する商業取引以外の物の交換を広く交易といっている。その意味では、近代以前の商業取引全般をさす概念と考えることもできる。また交易は、人間社会において重要な意味をもつ交換行為の一部である。交換には、交易のほかに贈与や儀礼的交換などもふくまれる。

   II  共生のネットワーク

  石器時代の遺跡からその土地には産出しない物、たとえば武器や道具をつくる黒曜石とか装飾用のヒスイなどが発見されることから、交易の歴史は古いと考えられる。交易の形態には、直接に交換相手と交渉することなく、特定の場所に物をおき、相手がそれと等価と思われる物と交換する沈黙交易から、常設的な交易の場として市がつくられているものまである。また物の交換を必要とする当事者どうしで直接に交換されるものから、交易に専門的にかかわる人や集団が生まれ、彼らをとおして交換するものまで、さまざまである。

  ことなる生業形態の集団と集団、たとえば山地住民と平地住民、狩猟民と農耕民、農耕民と漁民の間でそれぞれの収穫物を交換しあう共生関係にある例も多い。そのような交換のネットワークが形成されることによって、複数の集団からなる大きな社会が成立する。また、交易はたんに物の交換だけでなくさまざまな情報の交換をともなっていることも多い。その意味でも交易は、古くから人間の文化、社会にとって重要な行為であった。

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白滝遺跡群 しらたきいせきぐん 

  北海道紋別郡の白滝村から遠軽町にかけて広がる旧石器時代の遺跡群。湧別川(ゆうべつがわ)とその支流の段丘上に密集して分布し、約90カ所の遺跡が発見されている。白滝村の北北西約6.5kmにある標高1147mの赤石山一帯は黒曜石の露頭が多く存在し、日本有数の黒曜石原産地として知られる。

 遺跡の存在は昭和初期ころから知られ、遠間栄治(とおまえいじ)によって石器の収集がおこなわれていた。1952年(昭和27)に旧石器時代の遺跡であることが確認されて以来、本格的な調査がおこなわれている。北海道の旧石器研究の出発点となった遺跡である。

 1959年、考古学、古生物学、地質学、地形学、年代測定などの関連分野で組織された白滝団体研究会の調査では、細石刃(→ 細石器)を製作する湧別技法の存在を明らかにした。この技法は、大形の石槍(いしやり)状の石器を縦割りにして、舟底のような形をつくりだし、そこから細石刃を大量にはぎとる技術である。この技法は北海道のみならず、沿海州(プリモルスキー)やカムチャツカなど北東アジアに広くみられる。

赤石山の標高600m付近には幌加川遺跡(ほろかがわいせき)の遠間地点があり、100m2の範囲から40万点もの石器や剥片(はくへん)が出土している。赤石山から原石をはこびだし、石材の一次加工をおこなった遺跡と考えられている。最近では遺跡群全体の、黒曜石の採取から石材の加工、石器製作、搬出などの流通システムの研究がすすめられている。

 白滝産黒曜石の旧石器は、津軽海峡に面した知内町の湯の里4遺跡、函館市の石川1遺跡からみつかっているほか、400kmはなれたサハリン南部のソコル遺跡からも出土した。また新石器時代の遺跡ではあるが、沿海州のマラヤ・ガーバニ遺跡から出土した黒曜石も白滝産であることがわかっている。おもな遺跡は国の史跡に指定されている。

    白滝村 しらたきむら 

  北海道北東部、網走支庁紋別郡南西部の村。湧別川(ゆうべつがわ)上流域に位置し、北西部は北見山地の南端、南東部は大雪山系の一部を占め、村域の大部分は国有林などの山林地帯である。1946年(昭和21)、遠軽町から分立して村制施行。村名は湧別川の上流部にかかる滝の名に由来する。面積は342.96km2。人口は1189人(2003年)。

 1912年(大正元)和歌山県から54戸が団体入植して本格的な開拓がはじまり、この年を村の開基としている。この団体には合気道の開祖である植芝盛平がおり、のちに大東流合気柔術の宗家武田惣角も植芝の勧めで入植をはたした。農林業が主産業をなし、ジャガイモやトウモロコシ、テンサイなど寒冷地作物を栽培する畑作と乳牛、肉牛の飼育が盛ん。資源の減少によりきびしい状況にある林業は、まもりそだてる林業を前提に森林の植栽や保育、付加価値の高い木材加工などに力をそそぐ。

  高山植物がみごとな平山(ひらやま)や北面に北大雪スキー場がある天狗山(てんぐやま)など、登山やハイキングなどがたのしめる山岳レクリエーション地として人気がある。中心集落には白滝温泉がわき、宿泊施設も整備されて観光基地となる。湧別川の流域では大量の旧石器時代の遺跡が発見されており、巨大な石器や露頭がみつかった黒曜石の一大原産地の白滝遺跡を中心に周辺地域をふくめ、1997年(平成9)白滝遺跡群として国の史跡に指定された。

   置戸町 おけとちょう 

  北海道北東部、網走支庁常呂郡(ところぐん)南西部の町。石狩山地の東端、常呂川の最上流部に位置し、東をのぞく三方を山にかこまれた山間にある。気候は内陸性のため寒暖の差がはげしく、冬季の寒さはきびしい。1950年(昭和25)町制施行。常呂川流域はアイヌの狩猟場であったといわれ、町名はアイヌ語のオケトゥウンナイ(川尻に獣皮をかわかす木のある川)によるという。面積は527.54km2。人口は3856人(2003年)。

 エゾマツやトドマツなどにおおわれた山林が町域の8割以上を占め、農林業が主産業の町である。農業は河川流域の平地を利用したビートやジャガイモ、タマネギなどの畑作と、酪農、肉牛飼育をおこない、経営規模が年々大型化する傾向にある。「木の国」の異名をもち、豊かな資源にささえられる林業は原木出荷や製材のほか、オケクラフトと名づけられた木工芸も盛んである。鹿ノ子沢(かのこざわ)一帯は原生林につつまれた観光地として開発され、キャンプや釣りのできる鹿ノ子ダムや小さな温泉などがある。毎年7月におこなわれる人間輓馬(にんげんばんば)は町をあげての行事として有名。

 常呂川沿いに先土器〜続縄文期の遺跡が多くのこり、黒曜石原産地であった安住遺跡(あずみいせき)などから、各種石器が多数出土した。第2次世界大戦中は置戸鉱山から水銀が産出され、中国人、朝鮮人の強制労働がおこなわれた。現在は廃鉱となり、慰霊碑がたっている。

  鷹山遺跡群 たかやまいせきぐん 

  長野県小県郡
(ちいさがたぐん)長門町にある旧石器時代から縄文時代の遺跡群。霧ヶ峰一帯は、和田峠、星ヶ塔(ほしがとう)、男女倉(おめくら)など代表的な黒曜石の産出地があり、それに隣接して旧石器時代を中心とした遺跡群が存在することで知られる。八ヶ岳の北西、霧ヶ峰高原の北に位置する鷹山遺跡群も、星糞峠(ほしくそとうげ)とよばれる黒曜石産出地の直下にある。

 1986(昭和61)以来の調査で、旧石器時代の遺跡は、鷹山川の中流域に広がる湿地帯に十数カ所にわたって確認され、山にころがっている大量の原石を採取し、集中的に石器製作をおこなっていたことがわかった。ナイフ形石器や槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)などの製品や、素材である剥片(はくへん)を他の地域へ搬出していたことも指摘されている。

 1991(平成3)の調査では、虫倉山(むしくらやま)から星糞峠にむかう標高約14901545mの山の斜面に、直径数メートルから最大20mをこえる皿状の窪地(くぼち)が約80カ所以上確認された。

 1992年に1カ所の窪地の発掘調査がおこなわれ、地下3mにある白色粘土層にふくまれる黒曜石原石を採掘するための縄文後期の採掘跡であることがわかった。以来、継続的な調査がおこなわれ、黒曜石を採掘しはじめたのは縄文早期あるいは縄文草創期にまでさかのぼることが判明している。2001年に国の史跡に指定された。

   和田峠 わだとうげ 

  長野県中部、和田村と下諏訪町の境にある峠。筑摩山地南部の鷲ヶ峰と三峰山の鞍部に位置し、中山道の難所として知られた。現在、峠下を国道142号の新和田トンネルが通じている。標高1531m。

  II  歴史

  峠付近は黒曜石の産地で、中部、関東地域にある旧石器時代や縄文時代の遺跡からここの黒曜石でつくられた石器が多数みつかっている。中山道のこえる峠の中ではもっとも標高が高く急峻で、冬季の積雪は3m以上にも達する。江戸時代の峠は現在の峠より北西約500mの所にあり、古峠と称する。峠をはさんで和田宿と下諏訪宿の間は約21kmもはなれていたため、道中には施行所や避難所が設置されていた。

  幕末には皇女和宮が降嫁のために大行列でこの峠をこえ、また、天狗党の乱の一舞台にもなり、水戸藩士の墓が浪人塚として今ものこる。明治期には諏訪地方で生産される生糸の輸送でにぎわい、諏訪製糸工場へはたらきにでる多くの女工たちがかよった。このころ、2度にわたる峠道の付け替えがおこなわれ、現在の峠が開削されている。明治末期、中央本線の開通で峠道は一時衰退するが、道路の舗装、南方の新和田トンネルの開通によりふたたび交通路の機能をとりもどした。

  III  観光

和田宿の手前から古峠にいたる旧中山道は本陣屋敷、一里塚、施行所などが復元保存され、歴史の道として国の史跡に指定されている。黒曜石は、アクセサリーなどに加工され土産物として販売されている。尾根沿いのハイキングコースは富士山、浅間山、飛騨山脈(北アルプス)などの眺めがたいへんうつくしい。峠上の国道142号から南北に分岐して、美ヶ原と霧ヶ峰をむすぶビーナスラインがはしる。近くに和田峠国設スキー場がある。

   下諏訪町 しもすわまち 

   長野県中部、諏訪郡北西部の町。西は岡谷市、東は諏訪市、北は松本市に接し、南は諏訪湖に面する。和田峠などのある北部山間地は八ヶ岳中信高原国定公園(やつがたけちゅうしんこうげんこくていこうえん)にふくまれ、諏訪市にまたがる八島ヶ原高層湿原(→ 高層湿原)などには国の天然記念物の霧ヶ峰湿原植物群落がみられる。その山々を発した砥川(とがわ)や承知川の扇状地に市街が発達し、北端に諏訪大社の下社(しもしゃ)春宮が、東端に秋宮がある。1893年(明治26)町制施行。面積は66.90km2。人口は2万3319人(2003年)。

  和田峠から産出される黒曜石の石器が先土器時代からつくられ、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の発見された東山田小田野駒形遺跡があるのをはじめ、青塚古墳には7世紀の築造とされる前方後円墳がある。古く「古事記」にもみえる諏訪大社の下社の門前に町が形成された。国指定の重要文化財である現在の社殿は、1780年(安永9)築造の春宮、81年築造の秋宮の幣拝殿および左右片拝殿は豪華な彫刻のほどこされた壮麗なものである。また秋宮の銅印や太刀なども国の重要文化財であり、貴重な蔵品も多い。

  むきあうようにおかれている諏訪市内の上社とともに、寅(とら)と申(さる)の年の4〜5月には境内の神木の立て替えにともない、木落しなど御柱祭(おんばしらまつり)の一連の勇壮な行事がつづく。毎年の例祭は8月に御舟祭がおこなわれる。また、江戸時代には中山道と甲州道中の合流地点に下諏訪宿がおかれ、温泉もありさかえた。街道沿いの本陣岩波家、歴史民俗資料館、旅籠(はたご)風の温泉旅館などが当時の面影をしのばせる。

 20世紀前半には製糸業で発展し、第2次大戦後は精密工業の町としてカメラ、オルゴール、時計をはじめ電子機器関連産業が立地する。近年は近隣自治体と諏訪テクノレイクサイド機構をつくり、先端技術工業の振興につとめている。さらに町の精密機械にちなむ諏訪湖オルゴール博物館「奏鳴館(そうめいかん)」や時の科学館「儀象堂(ぎしょうどう)」が開設された。諏訪地方出身の歌人島木赤彦の記念館を併設した諏訪湖博物館、素朴派の作品を展示するハーモ美術館など文化施設も多い。

    美ヶ原 うつくしがはら 

   長野県のほぼ中央部、松本市の東方、諏訪市の北方にある高原。王ヶ頭(2034m)、茶臼山(2006m)など周辺の標高2000m前後の地域をさす。一般に美ヶ原高原ともよばれる。深田久弥の「日本百名山」のひとつ。

 溶岩や火山灰などの噴出物が堆積(たいせき)した火山性の地質からなり、後に隆起し浸食をうけた平坦面が美ヶ原である。最高地点の王ヶ頭からの眺望は雄大で、浅間山・八ヶ岳・南アルプス・中央アルプス・北アルプスをのぞむことができる。

 王ヶ頭と物見石山の間には美ヶ原高原牧場が広がり、周辺にはホテル・国民宿舎・美術館などが立地している。また、牧場内には遊歩道が整備され、ニッコウキスゲの群落をみることができる。八ヶ岳中信高原国定公園にふくまれ、美ヶ原から国道142号(旧中山道)の和田峠をへて霧ヶ峰・白樺湖をむすぶビーナスラインが通じる一大観光エリアとなっている。西麓(せいろく)の松本市郊外には浅間温泉・美ヶ原温泉などがあり、美ヶ原観光の基地となっている。

  美ヶ原の雄大な景観は、尾崎喜八の詩「美ヶ原溶岩台地」に描写されている

   霧ヶ峰 きりがみね 

   長野県中央部、諏訪盆地の北方にある火山と周辺の高原地帯。標高1925mの車山を主峰とし、北西方向に鷲ヶ(わしが)峰・三峰(みぶ)山などの霧ヶ峰火山がつづく。標高1600〜1800mの広大な高原は霧ヶ峰高原ともよばれ、八ヶ岳中信高原国定公園にふくまれる。

 霧ヶ峰とニッコウキスゲ 霧ヶ峰の周辺は上昇気流が盛んなため、文字どおり霧が頻繁に発生することで知られる。八島湿原、車山湿原などの高層湿原地帯には湿原植物群落があり、一帯には自然遊歩道も多くつくられている。JTBフォト/辻友成  

   II  地形と植生

  形成当初は円錐(えんすい)形の火山だったが、のちに山頂部がうしなわれ、中腹以下の緩傾斜部が高原となってのこっている。フォッサマグナに近接し、東西方向の圧縮応力がはたらいているため、断層変異地形がみられる。車山北斜面から鷲ヶ峰にかけて西北西にのびる崖(がけ)は、右横ずれ断層の活動によって生じた断層崖(がい)である。

  車山周辺はかつてはモミ・ツガの亜高山帯林が自生していたが、牧場・採草地として開発されたため現在は草原が広がり、ニッコウキスゲなどが繁茂する。八島湿原は泥炭層が数メートルの厚さに堆積(たいせき)しており、霧ヶ峰湿原植物群落として国の天然記念物に指定されている。

 III  開発と観光

  深田久弥は「日本百名山」で、霧ヶ峰を「遊ぶ山」と評した。近世以降牧場として利用されてきたが、昭和初期にグライダーの練習場が設置された。のちにスキー場もひらかれ、観光集落として強清水(こわしみず)が開発された。蓼科(たてしな)湖や白樺湖から霧ヶ峰をへて美ヶ原をむすぶビーナスラインがとおっており、年間を通じて観光客をあつめている。冬季は晴天がつづき、車山スキー場はシーズン中の晴天率が高い。

  IV  歴史

八島湿原に隣接して旧御射(もとみさ)山という小さな丘がある。ここには鎌倉時代に演武場がつくられ、源頼朝が狩座(かりくら)をもよおしたという記録がつたえられている。現在でも階段状の桟敷(さじき)席の跡が草地の中にのこる。

   和田村 わだむら 

   長野県中東部、小県郡(ちいさがたぐん)南西部の村。西は松本市、南は諏訪市に接する。西に美ヶ原や和田峠があるほか周囲は山でかこまれ、森林が村域の約90%を占める。美ヶ原に源をもつ依田川(よだがわ)が村の中央部をながれ、その流域に耕地や集落がある。川沿岸では稲作、山麓(さんろく)では花卉(かき)、野菜、エノキダケなどを栽培する。1889年(明治22)村制施行。面積は87.81km2。人口は2504人(2003年)。

黒曜石の産地である和田峠付近には、和田峠遺跡や男女倉遺跡(おめぐらいせき)など、旧石器時代の遺跡群がある。江戸時代には中山道の難所でもあった。南木曽町にかけてのこる中山道は国史跡に指定され、和田宿本陣、旅籠(はたご)の建物を復元利用した歴史の道資料館など、町並み保存につとめている。峠の南に1978年(昭和53)新和田トンネルが開通して諏訪湖方面に接続したのにくわえ、南方の白樺湖や霧ヶ峰と美ヶ原などをむすぶ自動車道ビーナスラインがはしる村の西部一帯は、八ヶ岳中信高原国定公園にふくまれる。

   長門町 ながとまち 

  長野県中東部、小県郡(ちいさがたぐん)南東端の町。南は茅野市、諏訪市に接する。霧ヶ峰の北東麓(ほくとうろく)に位置し、南北に長い。南の山間部は町営の別荘やスキー場などにも利用され、蓼科高原を源とする大門川が北流して依田川(よだがわ)にそそぎこみ、北部は扇状地となる。森林が町の8割以上を占め、カラマツの集成材などが生産されている。主要産業の農業では、米、エノキなどがつくられ、高原で乳牛を飼育する。1956年(昭和31)、長久保新町、長窪古町、大門村、の2町1村が合併して成立。面積は96.14km2。人口は5316人(2003年)。

 南西部の鷹山地区は黒曜石の産地として知られ、旧石器時代から縄文時代まで採掘がつづけられたことが確認されている。律令制がととのう以前に信濃から上野(こうずけ)にむかう大門峠越えの古東山道がぬけ、また、江戸時代には中山道がとおっていた。現在の中心市街のある長久保には長窪宿があり、本陣などがおかれた。またコウゾを利用した町北部古町地区の立岩和紙は江戸時代からの伝統をもつもので、長門町ふるさとセンターでは紙作りの体験ができる。付近には1998年(平成10)、道の駅「マルメロの駅ながと」が開設した。

   加曽利貝塚 かそりかいづか 

   千葉市桜木町にある縄文時代の貝塚。都川に面した標高約30mの台地上にあり、環状で160m × 145mの北貝塚と、馬蹄形で185m × 155mの南貝塚が眼鏡状につながる特異な形態である。

 1924年(大正13)に東京帝国大学の発掘調査がおこなわれ、64年(昭和39)以降は何度か破壊の危機もあったが、現在は保存され国の史跡となっている。遺跡の面積は約16万m2ある。約140軒の竪穴(たてあな)住居跡は貝塚の外側にも広がり、前期から晩期までたてられつづけている。このうち軒数がもっとも多いのは中期の90軒で、貝塚形成の中心も中期であった。

 貝塚からは大量の土器が出土し、これらの研究から、関東地方の縄文中期を代表する加曽利E式、後期を代表する加曽利B式とよばれる標式土器が設定された。石器類や特殊な遺物も多く出土し、石鏃、打製および磨製石器、打製および磨製石斧、釣針などの生業に関係する道具類をはじめ、石皿、凹石、貝刃などの調理具、石棒、石剣、土偶、独鈷(どっこ)石などの祭祀(さいし)具、耳飾りや貝輪などの装身具と、多種類の遺物がみつかっている。

 貝層の厚さは2〜3mもあり、総量は東京都の中里貝塚とならび日本一の規模と思われる。貝はハマグリやアサリなど東京湾内産が中心で、ここまで約8kmの距離を丸木舟などで採集にいったと考えられている。大量の貝殻があることから、貝をほして加工し、これを黒曜石などとの交易品目としたとする説も生んだ。クロダイやクジラ、イノシシやシカなどの動物遺存体も出土しており、当時の食料資源を考えるうえで重要である。

 また、貝層内には67体の人骨と、6頭の犬が埋葬されており、貝塚が埋葬場であったことも確認させた遺跡である。

   姫島村 ひめしまむら 

  大分県北東部、東国東郡(ひがしくにさきぐん)の村。国東半島から北へ約6kmの周防灘にうかぶ姫島一島からなる。1889年(明治22)村制施行。面積は6.85km2。人口は2855人(2003年)。

姫島は角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)および砂岩、泥岩からなる基盤岩層をつらぬいた4つの小火山島が、砂州によってつながり形成された島である。最高点の矢筈岳(やはずたけ。267m)は秀麗な山容の鐘状火山として知られる。北西部の観音崎には黒曜石の断崖(だんがい)が露頭し、大海海岸(おおみかいがん)では地殻の変動で生じた地層褶曲(ちそうしゅうきょく)がみられ、一帯は瀬戸内海国立公園の一部となる。

  また、南西端のス鼻周辺ではナウマンゾウなどの化石や藍鉄鉱(らんてっこう)を産出する。このように地質学上、貴重なものが多いことから「地質学の標本室」とよばれている。

基幹産業はタチウオ、キス、カレイなどの沿岸漁業である。昭和30年代後半から塩田跡を利用してはじめられたクルマエビの養殖は規模も生産量も日本有数をほこり、大分県の一村一品運動の代表例ともいえる。海水浴、フィッシング、キャンプのほか、姫島の七不思議めぐりもこの島独特の観光資源である。毎年8月14〜17日におこなわれる盆踊りは伝統踊りと創作踊りからなり、キツネ踊り、アヤ踊り、銭太鼓踊り、猿丸太夫踊り(さるまるだゆうおどり)がもよおされる。国東半島の国見町伊美港から姫島港までフェリーで25分。

   三内丸山遺跡 さんないまるやまいせき 

   青森市南西にある縄文時代前〜中期を中心とする複合集落遺跡。1992年(平成4)から青森県埋蔵文化財調査センターが発掘調査をおこない、3年間で約5haの範囲で住居跡約600棟のほか、祭祀(さいし)にかかわる大型掘立柱建物跡・墓群・盛土(もりつち)遺構などを検出。遺物も土器・石器・木製品など数万点を出土した国内屈指の遺跡である。遺跡の範囲はおよそ35haもあり、約5500年前から4000年前ごろまでの約1500年間、継続して集落があったと考えられている。

 もっともさかえた縄文中期には500人前後が定住生活をしていた可能性があるとされ、その規模は従来の縄文時代像を大きくぬりかえた。さらに栽培されていたと考えられるクリやマメ、ヒョウタンなどもみつかり、新潟県糸魚川産のヒスイや北海道産の黒曜石の発見は広域な交易圏をものがたるものであった。

  直径1m以上のクリの木柱を6本もつかった大型掘立柱建物は、縄文人の聖なるモニュメントとする説や集落のシンボルタワーとする説などもある。また、土や土器、焼土を最高で約4mつみあげた盛土遺構は南北約70m、東西約60mにもおよび、ここまでつみあげるのに約1000年かかったと推測される。約220mにもなる2列の大人用土坑墓群、盛土状にかたまった2カ所の子供用土坑墓群も検出され、従来発見された縄文遺跡とはかなりことなっている。

 このため縄文時代のこの地に計画的な集落づくりがおこなわれていたと説く研究者もおり、佐賀県の吉野ヶ里遺跡とともに日本古代の文明論・文化論両面で盛んに議論されている。また、2001年3月には遺跡北西部からみつかったクリの木柱の放射性炭素年代測定法(AMS法)による測定結果が出て、約4800年前のものと判明した。これで同時にみつかった土器の年代がわかったことになり、縄文時代の土器編年の重要な資料になると期待されている。

 現在、大型掘立柱建物や竪穴住居などが復元整備され、青森県総合運動公園遺跡区域として公開されている。1997年に国の史跡に指定され、2000年12月にはとくに重要として特別史跡指定された。

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   佐賀県

  古代

 石器の原材料となるサヌカイトは多久市付近ほか、黒曜石は伊万里市南部の腰岳から産出し、東松浦半島各地や佐賀平野北縁部に旧石器時代の遺跡が点在する。縄文遺跡は県内各地で発掘されているが、東松浦半島沿岸の縄文早期の遺跡から出土した土器には大陸の櫛目文(くしめもん)土器の影響がみられ、縄文晩期に属する三日月町の竜王遺跡ほかでは、日本最古の織物の痕跡(こんせき)をとどめた織痕土器が発見されている。佐賀県は稲作文化の最先進地で、唐津市菜畑遺跡の最下層からは縄文晩期の水田跡が発掘された。

 また佐賀平野東部の台地にある吉野ヶ里遺跡では1989年、大規模な望楼、柵(さく)をともなった弥生時代の環濠集落跡が発掘され、「魏志倭人伝」の記述をうらづけるものとして学界だけでなく、広く一般の耳目をあつめた。さらに県東部の鳥栖市安永田遺跡(やすながたいせき)では銅鐸の鋳型片が出土しており、銅鐸・銅剣両文化圏との関連で波紋をなげかけた。古墳時代の遺跡としては、唐津市久里双水古墳が最古級の前方後円墳で、やはり「魏志倭人伝」の末盧国との関連で注目されている。

 基山町の基肄城跡や、佐賀市帯隈山(おぶくまやま)の朝鮮式山城(→ 神籠石式山城)や装飾古墳も点在し、県内各地の神功皇后伝説や、唐津市付近の松浦佐用姫伝説(さよひめでんせつ)とともに大陸や朝鮮半島とのつながりをしめす遺跡も数多い。

  大化の改新以前、現在の佐賀県域には、松津国造、松盧国造、葛津立(ふじつたち)国造、竺志米多(つくしめた)国造などが任命されていた。古くは肥後国(熊本県)とともに肥(火)国(ひのくに)だったとされるが、古墳出土物などからは筑後地方との類似点が多い。大化の改新後、現長崎県の大部分とともに肥前国となり、脊振山地南麓の大和町に国府がおかれ、大宰府の管轄下におかれた。8世紀初めに編纂された「肥前国風土記」は現存する4風土記のひとつで、この地域にまつわる伝承をしるし、各種の海産物や木綿、ハチス、ツヅラなどの産物をあげている。条里制の遺構はほぼ佐賀平野北部や松浦川などの下流域に分布する。

平安中期には北部には最勝院領松浦荘、南部には皇室領神埼荘などの広大な荘園が成立、平安末期には有明海沿岸の干拓による川副荘(かわそえのしょう)も出現している。松浦地方では荘園を背景に在地豪族が松浦党として結集、モンゴル襲来ではモンゴル(元)軍と死力をつくしてたたかい、のち一部は倭寇として朝鮮半島や東シナ海沿岸一帯を席巻した。

  2  中世・近世

  鎌倉〜室町時代、現在の佐賀市の地頭となった竜造寺氏は、守護の少弐氏(しょうにし)の被官だったが、戦国時代に竜造寺隆信がこれをたおし、九州北西部を支配する有力な戦国大名に成長した。隆信は北上する島津軍と有馬晴信軍に島原半島でやぶれ、家臣の鍋島氏がその跡をついだ。豊臣秀吉の九州征伐後、唐津に寺沢氏が配された。

秀吉の朝鮮出兵では、東松浦半島の名護屋が前進基地になって、対馬海峡を多くの将兵がわたっていった。大城郭がきずかれ、城下一帯は諸大名の屋敷町がつくられてにぎわった(→ 文禄・慶長の役)。鍋島氏が朝鮮から連行した李参平らの陶工集団がのちに日本初の磁器をつくり、17世紀半ばには、酒井田柿右衛門が赤絵付けに成功、有田焼は「伊万里焼」の名で世界的評価をうけた。

  江戸時代、南部の佐賀平野とその周辺には鍋島氏の佐賀藩と、支藩の鹿島藩、小城藩(おぎはん)、蓮池藩(はすのいけはん)が支配、北西部の唐津藩は寺沢氏の改易のあと徳川譜代大名に交代し、東部の鳥栖市周辺は対馬藩田代領がおかれた。佐賀藩は、武士道の修養書「葉隠(鍋島論語)」を生んだが一方では、有明海の干拓をすすめ、長崎経由で西洋技術を導入、とくに幕末に佐賀藩主となった鍋島直正は、率先して軍事と産業の近代化をはかった。明治維新では佐賀藩の近代化された軍事力は、「薩長土肥」の維新勢力の一翼をにない、江藤新平、大隈重信、副島種臣、佐野常民ら佐賀県人が新政府で重きをなすもととなった。

   近年、佐賀県の観光で特筆されるのは邪馬台国の時代の集落跡として一躍脚光をあびた吉野ヶ里遺跡で、発掘調査中にも年間100万人をこえる見学者がつめかけ、2001年(平成13)には国営吉野ヶ里歴史公園として開園した。県内には朝鮮式山城で国の特別史跡に指定されている基山町の基肄城跡(きいじょうあと)、装飾古墳として名高い鳥栖市の田代太田古墳など古代の遺跡が多く、史跡探訪の観光客がたえない。

 

吉野ヶ里遺跡

佐賀県三田川町の吉野ヶ里遺跡は弥生時代の環濠集落と墓地を特徴とする遺跡である。これは環濠集落内の復元建物で、左の高い建物が物見櫓(ものみやぐら)である。佐賀県教育委員会/矢沢励/世界文化フォト

    石川県・能登

  古代

  旧石器時代の遺跡には、辰口町灯台笹遺跡(とだしのいせき)があり、黒曜石でできたナイフ形石器や頁岩製の尖頭器(せんとうき)などが出土し、東北日本の旧石器文化の影響が指摘された。縄文遺跡は山間部をふくめた県下全域に分布し、能登半島内浦沿岸の能都町の真脇遺跡は、縄文前期から終末期までの多種類の土器やイルカの骨、環状の巨大木柱列が出土し、それまでの縄文文化観をくつがえした(→ 縄文文化)。

  弥生遺跡は平野部や海岸線沿いに広く分布するが、手取川上流の山間地にある鳥越村の下吉谷遺跡から出土した弥生前期の北九州系の遠賀川式土器(おんがかわしきどき)は、かなりはやくから稲作が伝播(でんぱ)していたことをものがたる。弥生中期からは玉類を製作した玉造遺跡(たまつくりいせき)が急増している。

4世紀半ばには南加賀や口能登地方で古墳群がつくられ、4世紀末には南加賀の江沼地方と能美地方、北加賀の金沢市周辺、口能登の羽咋市や七尾市周辺などで、全長50〜70m級の前方後円墳がきずかれた。これらの地域は、「国造本紀(こくぞうほんぎ)」の江沼国造、加我国造、羽咋国造、能等(のと)国造の名に一致する。

 北陸一帯は越国(こしのくに)とよばれたが、7世紀後半の天武天皇のころ越前、越中、越後の3国にわけられた。その後、718年(養老2)に能登国が、823年(弘仁14)には加賀国が越前国から分立した。能登国は8世紀半ばの16年間ほどは越中国に併合され、757年(天平宝字元)ふたたび一国となった。

  加賀の国府は現在の小松市付近、能登国府は現在の七尾市におかれた。8世紀半ばに越中の国司として赴任した大伴家持は、当時は越中国に属していた能登地方を視察して多くの和歌をよんだ。能登半島の福良港(ふくらみなと)には773年(宝亀4)以来、渤海使がたびたび来着し、9世紀初めには能登客院が造営された。渤海は中国東北部から朝鮮半島北部にあった国で、交易も盛んにおこなわれた。

  2  中世

平安後期、加賀の白山宮は山麓一帯の農民や漁民の崇拝をえて一大宗教勢力となり、比叡山延暦寺の僧徒とともに後白河院政(→ 後白河天皇)と対立した。平安末期、能登国は平氏の知行国だったが、源平争乱では、能登国の在地勢力が平氏と中央の院政に対して反乱をおこし、加賀、越中両国もまきこんだ。1183年(寿永2)北陸道を進撃した源義仲は、加賀、能登、越中勢の助力をえて、倶利伽羅峠や現在の加賀市にあたる篠原で平氏勢をやぶり、京に進軍した。

義仲の没落後、源頼朝が平氏を打倒して鎌倉幕府を樹立すると、加賀、能登両国の守護ははじめ比企氏が、のち北条一門がつとめた。のちに在地勢力から富樫氏(とがしし)がしだいに台頭、鎌倉末期には加賀国守護となった。また越前国永平寺の教線が能登国にのび、現在の門前町にある総持寺が曹洞宗の道場として発展した(→ 総持寺)。

  室町時代、加賀国では守護の富樫氏の内紛がたえず、能登国では在地の吉見氏から管領畠山氏が守護職をついだが、守護代各氏の勢力が強かった。その間、真宗教団による一向宗が北陸路に浸透、応仁の乱の最中の1471年(文明3)に、蓮如により建立された越中・加賀両国境の吉崎御坊を中心に、一向宗門徒の勢力が広まった。

 15世紀末、加賀国でおこった一向一揆は、在地の武士団とむすんで守護の富樫氏をやぶった。戦国大名化した本願寺のもと、金沢御堂を拠点に越前、越中にも教線を広げ、約1世紀にわたって「百姓の持ちたる国」をつくった。

白米の千枚田

平野のとぼしい能登半島の外浦では、輪島市高洲山の山すその傾斜地から、波打ち際まで段々に切り開いた棚田がつくられている。白米の千枚田とよばれる平均6m2ほどの水田で、その数約1000枚という。
JTBフォト/田北圭一

西有田町 にしありたちょう 

佐賀県西部、西松浦郡の町。東は県立自然公園に指定される黒髪山に、西から南にかけては長崎県境となる国見山系にかぎられ、中央を有田川が北流する。隣接する伊万里市や有田町とともに、古くから有田焼の窯業地帯を形成。1965年(昭和40)町制施行。面積は38.71km2。人口は9671人(2003年)。 

西部の山麓(さんろく)一帯は先土器、縄文時代の遺跡が集中分布する地域で、腰岳(こしだけ)は黒曜石の産地であった。坂の下遺跡では木の実などをたくわえた食糧貯蔵穴が発見され、出土品は歴史民俗資料館に展示されている。鎌倉時代は松浦党(まつらとう)の雄、有田氏の拠点となり、唐船城(とうせんじょう)を居城に下松浦地方を統治した。

  江戸初期、有田で磁器生産がはじまると町内の広瀬、原明(はらあけ)地区にも窯場が開かれ、焼物運搬に従事する人の宿駅も整備された。6基の窯が発見された原明古窯は、有田焼創始期の重要な窯跡として国の史跡に指定されている。一時は代官所がおかれた大木(おおぎ)地区は、佐賀藩鍋島氏(なべしまし)の放牧場であった。 

  溶岩 ようがん Lava 

   マグマが割れ目などをつたわって地表にながれでたもの。液状にとけている状態、また、ひえてかたまり、岩石となったものも溶岩という。液状の溶岩が山腹などをながれおちるものを、溶岩流という。  溶岩は、粘性によってながれるようすがことなる。粘性が大きいと、ゆっくりながれ、表面はゴツゴツした岩塊におおわれる。粘性が低いと、ときには、人がはしってもおいつけないほどの速さでながれる。このような溶岩は、ひえると表面に渦をまいたような状態でかたまっていることがある。前者をハワイではアア溶岩、後者をパホイホイ溶岩とよんでおり、そのまま、地質学上の用語となっている。  

  粘性の大小は、ケイ酸SiO2(二酸化ケイ素)の量によることが多い。ケイ酸が多い溶岩としては流紋岩質(→ 流紋岩)やデイサイト(石英安山岩)質溶岩があり、ほとんど流動せずに、火口で大きな塊(ドーム)となる場合がある。雲仙普賢岳の溶岩ドームは、この例である。ケイ酸が少ない玄武岩質溶岩では、表面はかたまっていても、中は流動しており、そのまま何キロメートルもながれることがある。これを溶岩トンネルとよんでいる。    

   流紋岩質の溶岩が急速に冷却すると、黒曜石のようなガラス質の岩石になる。また、溶岩があつくながれだして、ゆっくりかたまると、熱収縮によって柱状節理(→ 節理)ができることがある。    

  水中で、溶岩がながれだすと、表面が急冷して、ときに球状になり、さらにとじこめられたガスなどで中の圧力があがって球がわれ、次々と中のとけた溶岩がながれだして、また球状になるということがおこる。その結果、枕をつみかさねたような形の溶岩ができあがる。これを枕状溶岩とよぶ。

  海洋地殻が中央海嶺においてマグマから生産されるとき、その表面は枕状溶岩でおおわれる。枕状溶岩は地球表層にもっともひろく分布している岩石の状態だといえる。

黒曜石製石鏃と剥片鏃

長崎県佐賀貝塚から出土した縄文時代後期の石鏃。左の4個が刃部を鋸歯状にした石鏃。右の4個は剥片鏃(はくへんぞく)である。大きな剥片鏃の大きさは約6.5cmである。Encarta Encyclopedia峰町歴史民俗資料館所蔵

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