土器

古代土器の作成方法と測定方法

   土器

  400年頃 - 450年頃 須恵器が大陸から伝わる

  朝鮮半島からの渡来人集団によって、ろくろにより成形し1000°C以上の高温で焼成する須恵器(すえき)の製作技術がつたえられた。須恵器は無釉(むゆう)だがかたい青灰色陶質土器である。中心となった工房は大阪府の陶邑窯(すえむらよう)で、日用雑器のほか古墳での葬祭儀式にもちいられたものが各地で出土している。なお、旧来の弥生土器は土師器(はじき)として煮炊き用や盛りつけ用に継続してつかわれた。また須恵器は日用雑器としては主として貯蔵用の甕(かめ)や壷、盛りつけ用にもつかわれている

  13,000年前 - 400年頃 縄文時代

 日本列島では、旧石器時代につづいて13000年前ごろから土器がつくられるようになり、縄文文化がはじまった。食物の煮炊きや保存につかえる土器の使用は、当時の人々の生活を大きくかえ、生活文化の一大転換となった。縄文人たちの多くは日当たりのよい台地上の竪穴住居(たてあなじゅうきょ)にすみ、主として狩猟や漁労、採集によって生活をしていた。

  最近十数年の研究の進展から、彼らの生活は狩猟や採集以外にも原始的な農耕やクリ林の管理栽培、活発な交易などをおこない、また高度な漆工芸や大型建築物など多様な生活技術を駆使して環境変化に適応していたことがわかってきた。集落もこれまで考えられていたものより、はるかに大規模で長期間にわたるものが次々にみつかっている。

  また縄文時代前期の地層からイネやムギの存在をしめすプラントオパールが検出されるなど、原始的な穀物生産の可能性をひめた証拠もみつかっており、縄文時代の生活・文化といった全体像について再評価がすすめられている。青森県の大平山元T遺跡(おおだいやまもといちいせき)から出土した土器片が、最新の科学的年代測定法で前14500(16500年前)ごろのものとされるなど、縄文時代のはじまりもさらに古くなる可能性がある。

   1600年頃 - 1300年頃 オセアニアにラピタ文化広がる

  オセアニア最古のラピタ式土器が、メラネシアに属するニューギニア付近のビズマーク諸島からポリネシアのサモアにかけての広い地域で発見されている。年代はもっとも古いもので前1600年、新しいものは紀元前後だった。ポリネシアへこの文化をもたらした人々(オーストロネシア人)は、メラネシアをへて前1300年ごろにはフィジーから西部ポリネシアのトンガ、サモアに定着したと考えられている。彼らはカヌーをつかった航海術をもつ海洋民だったが、タロイモやヤムイモを栽培する農耕民でもあった。土器とともに発掘された黒曜石から、彼らが千数百kmもはなれた広大な交易圏をもっていたことがわかる。ポリネシアでは紀元前後から数百年の間に土器をもちいなくなり、焼石をつかった蒸し焼き料理(石焼き料理)が現在まで調理の中心となっている。

   13,000年前 - 12,000年前 日本最初の土器

  日本最古といわれる土器は、長崎県の福井洞窟から細石刃(さいせきじん)とともにみつかった隆起線文土器や、同県の泉福寺洞窟出土の豆粒文土器(とうりゅうもんどき)などが有名である。豆粒文は土器表面に粘土の小粒をはりつけたもので、粘土ひもをはりつけた隆起線文の一種という説もある。これら隆起線文系土器が前11000年ごろにはじまる縄文時代草創期の土器の中でもっとも古いものとされ、本州各地でみつかっている。しかし近年、無文土器などで隆起線文土器より古い土器の存在も明らかになりつつある。

  青森県蟹田町の大平山元T(おおだいやまもといち)遺跡から出土した薄い線刻をもつ土器片は最新の科学的年代測定法で前14500年のものとされ、土器文化の始まりがさらに3000年以上もさかのぼる可能性が指摘されている。

   土器 どき 

  粘土をこねて形をつくり、乾燥して焼きあげた、釉薬をかけない素焼きの容器。

  多くは窯(かま)をつかわず、野焼きの開放炎で焼かれる。焼成温度は陶磁器にくらべて低く、650950°C未満で、焼成時間も15時間前後と短い。それでも、粘土中にふくまれる石英以外の鉱物は火熱によって変成、収縮するため、土器の誕生で食物の煮炊きに恒常的に利用できる水にもとけず火にかけてももえない容器が生まれ、食生活はより安全に、豊かになった。イギリスの考古学者チャイルドが指摘したように、土器の誕生は、人類が化学変化を道具作りに応用した最初の革命的な出来事であった。

  土器には日本の縄文土器、弥生(やよい)土器、土師器(はじき)、中国や西アジアの彩文土器( 彩陶)、黒陶、白陶、南太平洋のラピタ土器、沖縄八重山列島のパナリ焼など、時代と地域によって数多くの様式がある。考古学では先史時代の土器に限定していう場合が多いが、ニューギニアやアフリカ、インドなどの多くの国で、現在もつくりつづけられている土器の文化もある。

   II  土器の起源

  先土器時代には、大型の木の実の殻や大型の鳥の卵殻、獣皮の皮袋や胃袋などを利用した容器がつかわれていた。樹皮や蔓(つる)、草を編んだ、さまざまな形と文様の籠(かご)類も発達した。細かく編んだ籠の内側に粘土をはると、水もれしにくい容器ができる。それが火事で焼け、偶然に土器が発明されたという説もある。 

  チェコでは27000年前の遺跡から、縄文時代の土偶にも似た地母神像を焼いた炉()の跡が出土し、ぶあつい炉壁は土器のように焼きしまっていたという。土器の発明によって、はじめてやわらかい食物とスープが生まれ、いくつもの素材のうまみがとけあう「味覚の革命」が人類におこったという説がある。

  しかし、土器の誕生以前にも岩のくぼみや皮袋に水と食物をいれ、焼き石をほうりこんで沸騰させる方法は存在した。むしろこうした単発的な煮炊きの経験によって、やわらかい肉やおいしいスープの味を知っていた人類が、それらがいつでも食べられるように工夫を重ね、やがて土器を発明したと考えたほうが矛盾がない。

  かつては、土器は世界各地の古代文明の発祥地でほぼ同時に発生したと考えられていた。しかし、日本列島各地や沿海州、アムール川下流域、中国黒竜江省などから世界でももっとも古い12000年以上前の土器が次々と出土し、土器の起源が東アジア東北部らしいことがわかってきた。今後も揚子江流域などからもっと古い土器がみつかる可能性もないとはいい切れないが、現時点では日本の縄文土器が世界史上もっともはやく出現したもののひとつであり、その造形の確かさ、表現の豊かさ、力強さにおいて、世界にほこりうる至宝であることに間違いはないだろう。なお近年、青森県の大平山元I遺跡(おおだいやまもといちいせき)から16500年前とされる土器片が出土し、定説をくつがえす「世界最古の土器文化」といわれて注目されている。

   III  日本の土器

   1  縄文土器

  真脇遺跡出土の縄文土器 縄文前期の末期から中期初頭の土器。この時期の土器は、さまざまな器形がみられるようになり、装飾も派手なものが多い。前期後葉から中期初頭にかけて、丸木弓や編籠(あみかご)などの有機質の遺物が多く、大量のイルカ骨が出土したのもこの時期の層であった。もっとも後ろの土器が1番大きく、高さは50.2cm。能都町教育委員会所蔵 

  世界でも、最古の起源をもつとされる日本列島の縄文土器は、年代による形態や文様の変化によって草創期、早期、前期、中期、後期、晩期の6期に区分されている。縄文の名称は、アメリカの動物学者モースが大森貝塚の発掘報告書の中で使用したことによるもので、土器の文様には数多くの種類と変化がみられる。基本は器壁にころがして縄文をつける技法で、撚紐(よりひも)は植物繊維をよりあわせてつくられた。右撚りと左撚りの組み合わせや撚り合わせ回数で、無数ともいえる文様の変化がある。

  西日本最後の縄文土器 佐賀市の丸山遺跡から出土した縄文晩期の土器。朝鮮半島の影響をうけて北九州北西部でおこなわれた支石墓内からみつかった供献土器である。本遺跡からは、稲作をうらづける籾(もみ)の跡がついた土器なども出土しており、この時代を弥生時代とする説もある。右の高坏(たかつき)の高さは11.5cm。佐賀県教育委員会提供 .
 

  さらに、細い竹筒や貝殻、彫刻した木の棒、粘土紐などを利用した縄目以外の文様も、時代と地域によってバラエティにとみ、年代を決定する考古学上の重要な指標となっている。中国や東南アジア、南米をはじめ世界各地の先史土器にも縄目文様はみられるが、縄文土器ほどの変化はない。

  加曽利貝塚出土の縄文土器 加曽利貝塚は、千葉市にある日本最大級の貝塚である。加曽利式といわれる標式土器が大量に出土しており、これは関東の縄文時代後期を代表する加曽利B式土器のセットである。千葉市立加曽利貝塚博物館 

  草創期〜早期の土器は、例外なく食物を煮炊きするための鍋(なべ)であり、口径より高さのほうが大きい深鉢であった。前期には盛りつけ用の器としての浅鉢が登場する。それまで深鉢から木製容器などにとりわけて食べていたのが浅鉢にもりつけられ、料理は味だけでなく視覚的な美意識も重要になった。縄文文化が隆盛をきわめた中期には、土器文化もめざましい発展をとげ、火炎土器など造形的にも頂点に達する。器種もふえ、食器や貯蔵容器以外の祭祀(さいし)用土器、埋葬用の甕棺( 甕棺墓)など、さまざまな用途と器形の土器が生まれた。

  後期〜晩期の縄文土器は中期の文化を継承しながら、用途不明のさまざまな祭祀具や、香炉形土器、急須(きゅうす)や土瓶にそっくりな注口土器などの種類をくわえる。文様では、磨消(すりけし)縄文など簡素なものが発達した。晩期の東日本では、青森県の亀ヶ岡式土器( 亀ヶ岡遺跡)に代表されるうすく精巧な磨研土器が完成し、縄文土器としての爛熟期をむかえるが、稲作農耕文化の広がりとともに、やがて弥生土器にとってかわられていく。

    2  弥生土器

  唐古・鍵遺跡出土の弥生土器 弥生中期後半の土器。この時期の土器は、削り技法が導入されたこともあって一般に薄手のものが多くなり、器形も大型化する。本遺跡でも、近畿地方の中期の土器によくみられる櫛描文(くしがきもん)や、回転する土器の器面を皮などでなでてつける凹線文(おうせんもん)が主要な文様構成である。楼閣が描かれた土器など、絵画土器の製作もこのころ盛んである。田原本町教育委員会所蔵 

  明治初期、東京府本郷弥生町(東京都文京区)で出土した土器にちなんでこの名がついた。年代は前4世紀〜後3世紀ごろまでとされ、前期、中期、後期に大きく区分される。ろくろも窯も使用しない点では縄文土器と共通するが、ろくろの前段階の回転台をもちいた均整のとれた器形、当て石と叩(たた)き板をつかった叩き技法など、製作技術の発達は細部におよんでいる。

  農耕生活を反映し、穀物を貯蔵するための壺(つぼ)に代表される弥生土器の特徴は、使い勝手を優先し、誇張した表現や必要以上の装飾をできるだけはぶいた簡素な造形にある。ただし、東日本では縄文土器の特徴を強くのこした複雑な器形と装飾の土器が多く、東北地方の弥生土器の中には、専門家でも縄文土器と判別しにくいものもある

   3  続縄文土器

  東北地方北部と北海道には、弥生時代や古墳時代はなかった。九州、四国、本州に弥生文化が広がっても、この地方の生活基盤は採集、漁労、狩猟と雑穀栽培、交易にあったため、この時代を本州の弥生・古墳時代と区別して続縄文時代とよび、東北地方の弥生土器の影響を強くうけたこの時代の土器を続縄文土器とよぶ。

   4  土師器

  弥生土器と外見や機能にあまり違いはないが、古墳時代から平安時代にかけての赤褐色の土器を土師器とよぶ。地面をほりくぼめて野焼きした素焼き土器で、それまで縄文土器の特徴が根強くのこされていた東北地方でも、この時代になると、ほぼ西日本と共通する形態の土器も使用されるようになった。古墳時代中期ごろまでは祭祀用にもつかわれたが、祭祀用にはやがて須恵器がつかわれるようになる。

   5  須恵器

  古墳時代の須恵器 広島県豊田郡本郷町の御年代古墳(みとしろこふん)出土の須恵器(すえき)。この古墳は6世紀ごろのもので、儀式・葬祭用の装飾須恵器の多いのが特徴である。中央は子持ち平瓶(ひらか)、右端は台付きはそう、右から2つ目は子持ち脚台付き壺(つぼ)。このほかに金銅製馬具や耳環なども出土した。東京国立博物館所蔵

  長岡京出土の人面墨書土器 生贄(いけにえ)にしたと思われる馬の骨とともにみつかった人面墨書土器。人面は疫神の顔とされ、難病平癒などをいのって馬を殺し、この土器をわっていっしょにうめたものといわれる。長岡京左京二条二坊出土。8世紀後半。向日市教育委員会所蔵

  5世紀中ごろには、朝鮮半島南部の技術者集団の渡来とともに、無釉だがかたい青灰色陶質土器である須恵器が登場する。窖窯(あながま)とよばれる特殊な窯をつかい、10001100°C前後の高温で焼きしめられるため、われにくく頑丈である。ただし急熱急冷には弱く、火にかけるとすぐわれるので煮炊きにはつかえない。窯作りから焼成まで大変な手間と時間、燃料を要するためコストが高く、庶民の日常生活用には従来どおり土師器がつかわれていた。須恵器は古墳の副葬品などにもちいられたほか、水や酒の貯蔵容器として大型のものが利用された。

   6  南琉球の土器

  沖縄の宮古、八重山など先島諸島には、縄文文化も弥生文化もまったく波及しなかった。土器は厚手で文様のないものが多く、東南アジアの先史文化に近いと考えられているが、具体的な関連についてはわかっていない。八重山列島では、琉球王国時代も新城(あらぐすく)島でつくられたパナリ焼など低温焼成の土器を使用していた。

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   IV  土器の製作技術

   1  胎土の調整

  縄文土器をつくってみよう 土器の材料となる胎土は、可塑性と耐火性のある粘土に23割の山砂と腐植土少量を 混入し、ねりあげてつくる。砂が多いと焼き割れは少ないが成形しにくくなり、少ないと焼成時にわれやすくなる。野焼きのための燃料とする木の選定や焼成の手順も実際やってみると熟練を要することがわかる。

  野焼きの温度変化の急激さ、不安定さは、時間をかけて少しずつ温度があがっていく窯とは比べ物にならない。急熱急冷にたえることができ、しかも焼成後は調理のため火にかけての使用にたえる土が必要であった。縄文中期の東北地方南部の土器片の土を分析すると、粘土に23割の山砂と、1割以下の黒土(腐植土)を混入している。これらを混入すると、粘性は低下するが乾燥ははやくなり、収縮によるひび割れをふせぐ効果がある。入念な練りの過程であらい石粒などをとりのぞき、空気をぬいた土は、乾燥しないようにぬれた布でつつみ、冷暗所で一定期間ねかせる。こうするとバクテリアなどの働きで変形させやすくなり、粘性もあがる。

   2  成形

  土器の形をつくるには、大別して手作りとろくろ成形の方法があるが、縄文土器はろくろを使用していない。手作りの技法の中にも、粘土塊を手でこねあげて成形する手づくね技法、肘(ひじ)や膝(ひざ)、石などの型の内外に粘土をおしつけて成形する型押し技法、粘土紐をつくってまき重ねてゆく輪積み技法などがある。厚みの調整や細部の仕上げのための削りの技法や、叩き技法も用途によって併用される。

   3  文様と装飾

  縄文土器の文様の付け方 土器の施文法のおもなものを4種あげる。こうした文様は成形後、少し時間をおいてから作業したほうがきれいにあがる。文様には多くの種類と組み合わせがあり、文様の特徴によって、つくられた時期や地域が特定できる。縄文にかぎっても、糸の太さ、本数、撚()りの方向、回数、粗密によって文様の表情はさまざまに変化する。

  土器の文様には、爪(つめ)や棒や貝殻、撚紐などをおしつけたり、線描きしたり、粘土粒や粘土紐をはりつけるなどの種類がある。縄文土器の名のもととなった縄文は、撚紐をころがしてつくる。そのほか、組紐や棒にまきつけた紐、刻み目をつけた棒をころがすなど、バラエティにとんでいる。縄文土器の文様と装飾は、縄文人の世界観や神話、呪術(じゅじゅつ)などを表現するために特殊な発達をとげたものと考えられる。また生乾きのときに内側をまるい石などをつかってみがきこむようなこともおこなった。これは水漏れ防止などのためである。

   4  焼成

  風通しのよい日陰で乾燥したのち、焼成がおこなわれる。焼成は野外の野焼きでおこなう場合と、窯を使用する場合がある。同じ野焼きでも縄文土器や弥生土器の場合は地面でそのまま焼くが、土師器の場合は地面をほりくぼめた中で焼く。縄文土器の野焼きは、天候の安定する春か秋口の風のない晴れた日におこなわれる。火をたいた周りに乾燥した土器をならべ、1時間ほど空だきして大量の熾火(おきび)をつくる。その中でときどきひっくりかえしながら、12時間じゅうぶんに加熱したら燃料で全体をおおい、土器が赤熱するまで23時間焼く。

  唐古・鍵遺跡 からこかぎいせき 奈良県磯城(しき)郡田原本町にある弥生前期〜古墳時代の大集落遺跡。奈良盆地の中央に位置し、遺跡内部にある唐古池周辺から土器などが採取されていたため、戦前からよく知られ、1901(明治34)ごろから遺物類が学会で紹介されている。

  193637(昭和1112)に末永雅雄らの手で唐古池の発掘が実施され、100基をこえる竪穴(たてあな)住居、井戸遺構などを発見、大量の土器や木器も出土した。なかでも注目されたのが、質の高い土器群と大量の絵画や記号がえがかれた土器だった。これらの成果をふまえて報告書が刊行され、小林行雄らの努力により、畿内における弥生土器の編年が確立された。77年には40年ぶりに調査が再開され、今日まで50次以上の発掘がおこなわれている。

  この結果、遺跡の範囲は約30m2におよび、少なくとも45重の環濠がとりまく集落であったことがわかった( 環濠集落)。集落内からは青銅器生産を裏づける銅鐸の鋳型、フイゴの羽口、青銅製小円板なども発見されている。

  唐古・鍵遺跡は、隣接する天理市清水風(しみずかぜ)遺跡からの出土品もふくめると、全国の約半数にもなる130点以上の絵画や記号がえがかれた土器が出土している。1991年には、従来の弥生時代の建物のイメージをくつがえすような、楼閣がえがかれた土器が出土した。この楼閣は、2階または3階建ての重層的なもので、屋根には中国風の渦巻状の屋根飾りがついていた。同遺跡のこれまでの調査では、この絵画にあるような大型高床式建物跡はみつかっていない。94年には復元された楼閣が唐古池わきにたてられた。

唐古・鍵遺跡出土の絵画土器片

  この絵画土器片には、23階建ての楼閣が描かれていた。弥生時代中期後半のもので、邪馬台国の時代(3世紀)よりも200年ほど前の土器とされる。Encarta Encyclopedia田原本町教育委員会所蔵

  福井洞窟遺跡 ふくいどうくついせき 長崎県北松浦郡吉井町にある旧石器時代から縄文時代の洞窟遺跡。九州での旧石器時代終末期から縄文草創期へ移行する過渡期の様相が判明したことで知られる。福井川の右岸、標高80mほどの砂岩露頭に形成された洞窟で、間口は12m、奥行約6m、高さ3m

  1960(昭和35)から3回にわたる発掘調査がおこなわれた。当時、日本考古学協会ではより古い縄文土器の実態を明らかにすることを目的とした調査が組織的におこなわれ、福井洞窟遺跡もその一環として発掘された。

  洞窟内には約6mの土層が堆積(たいせき)しており、地表面のすぐ下の第1層から縄文早期の押型文(おしがたもん)土器、その下の第2層から細石核や細石刃( 細石器)とともに爪形文(つめがたもん)土器が出土し、第3層からは細石核や細石刃と隆線文土器が出土した。旧石器時代終末期に特徴的な細石器に土器がともなうことがはじめて確認され、当時、最古の土器として注目をあびた。第3層は放射性炭素年代測定法( 年代測定法)から約12000年前の年代があたえられている。

  4層以下は土器をともなわず、細石核、細石刃、尖頭器(せんとうき)、小刃器(しょうじんき)、削器(さっき)、掻器(そうき)などが出土し、最下層の第15層からは、安山岩製の大型両面加工石器が出土した。これら各層から出土した遺物は、九州の旧石器文化編年の基礎となった。1978年に国の史跡に指定された。

  遠賀川式土器 おんががわしきどき 西日本に分布する弥生前期の土器の総称。1931(昭和6)に、福岡県水巻町の立屋敷遺跡(たてやしきいせき)の遠賀川河床から多量に出土した弥生土器につけられた型式名である。その後、これと特徴を同じくする土器が、九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播(でんぱ)の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。

  (つぼ)、甕(かめ)、鉢(はち)、高杯(たかつき)の器種があり、壺には木葉文(もくようもん)や羽状文、平行線文などの文様がほどこされることがある。分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域におよぶ。

  これらの遺跡からは石包丁、太形蛤刃(ふとがたはまぐりば)石斧、抉入柱状片刃(えぐりいりちゅうじょうかたば)石斧、扁平片刃(へんぺいかたば)石斧などの大陸系磨製石器類が出土しており、水田稲作の定着がうかがわれる。このように斉一性の強い土器が広範囲にわたって分布するのは、ごく短期間のうちに水田稲作を基盤とする弥生文化がこの地域に広がったことを意味している。

  近年、従来の遠賀川式土器の東限とされた伊勢湾沿岸をこえて、北海道をのぞく東日本から「遠賀川系土器」とよばれる遠賀川式土器の模倣土器が確認されるようになり、東日本における水田稲作の普及を知る手がかりとされている。

   前5000年頃  沖縄貝塚時代始まる

  沖縄では、本土の縄文時代〜平安時代にあたる新石器時代を独自に貝塚時代とよぶ。島嶼性(とうしょせい)が強く、貝塚が多いことなどからである。7000年前ごろにはじまる渡具知東原遺跡(とぐちあがりばるいせき)などからは縄文時代前期に相当する遺物がみつかっており、かなり縄文文化の影響がみられ、九州から縄文人が移住してきたとも考えられる。また前2世紀ごろには土器など弥生文化も入ってきているが、豊かな自然条件のもとでほぼ12世紀初頭まで本格的な農耕はほとんどおこなわれなかった

  渡具知東原遺跡 とぐちあがりばるいせき 沖縄県中頭郡読谷村にある沖縄貝塚時代早期(ほぼ縄文早〜前期に対応)の遺跡。御願山と「前のハンタ山」にはさまれた三角形の地域にあり、標高約2mの比謝(ひじや)川河口に広がっている。

  1975(昭和50)に発掘調査され、打製石器や磨製石器などとともに、九州地方の縄文前期を代表する曽畑(そばた)式土器がみつかり、さらに翌年その下から縄文早期とされる爪形(つめがた)文系土器やヤブチ式土器などが発見された。この発見で、それまで縄文後期代までしか知られていなかった沖縄本島における土器出現時期の解明に大きな役割をはたした。

  1977年以降には嘉手納町の野国遺跡でも曽畑式土器が確認され、縄文前期に九州南岸から種子島、屋久島、奄美大島などを経由して、曽畑式土器をもつ文化がつたえられたことは現在ほぼみとめられている。しかし、沖縄の曽畑式以前の遺跡は本土のような細石刃類をともなわないことや、77年に渡嘉敷島でもヤブチ式土器が出土したことなどから、爪形文系土器以前の文化は沖縄独自に、縄文前期相当期に生まれたとする説も、近年強くなっている。

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   年代測定法 ねんだいそくていほう Dating Methods 

  岩石や鉱物、遺跡の発掘物の年代をもとめる方法のこと。さまざまな岩石や鉱物の年代がわかれば、地球の歴史をたどることができる。過去のできごと、たとえば山脈の隆起、大陸の移動、生物の進化、気候の変化などは、すべて地殻の中に記録されているからである。

  考古学でも土器などの年代をもとにして人類の歴史をさぐることにつかわれている。

   II  相対年代と絶対年代

  19世紀には、時代の前後関係(相対年代)だけを明らかにすることがおこなわれていた。相対年代はおもに、地層がつみかさなっている順番を手がかりにして、くみたてる方法である。たとえば、みだれていない連続した地層では、上に重なっている層は下の層より新しい。これを「地層累重の原理」とよび、このように地層の順番を研究する学問を層序学、あるいは層位学という。

  ある地域での地層の順番だけではなく、別々の地域にある地層どうしを対応させるためには、同じ化石をふくむ地層どうしを対比させる必要がある。それをもとにして、地質時代は大きく4つの「代」にわけられた。先カンブリア時代、古生代、中生代、新生代である。それぞれの時代は、さらにいくつかの「紀」にわかれている。→ 地質学

  考古学では、石器や土器の形や特徴をもとにして、石器時代、青銅器時代、鉄器時代というある程度の文化年代に区分することがおこなわれている。日本では、旧石器時代、縄文時代、弥生時代などという。

  相対年代だけでは、それぞれの時代の長さや地球のほんとうの年齢はわからなかった。絶対年代は発掘物の時代を自然科学的な方法でもとめた年代である。それがわかるようになったのは、20世紀にはいってからで、放射年代測定法などの新しい方法によって地質年代のほんとうの長さを知ることができるようになった。

  年代を決定するには、絶対年代と相対年代をくみあわせる必要がある。

   III  放射年代測定法

  絶対年代をもとめる方法として最初に確立されたのが、放射年代測定法である。1896年に放射能が発見され、放射性元素の性質がわかるとすぐに、年代測定につかわれるようになった。この方法では、不安定な放射性元素の原子が崩壊する速度が一定であるということを、地球の岩石の時間をはかる「時計」として利用する。放射性元素の崩壊速度は、その元素の原子の数が半分に減少するまでの時間、つまり半減期によってあらわす。

   1  理論の基礎

  炭素14 炭素14法は、動植物の化石や遺跡からの発掘品の年代測定につかわれる方法である。生存中の動植物では炭素14と炭素12の比率は一定にたもたれているが、死亡したものでは、炭素145730年の半減期で崩壊していくので、のこっている炭素14の量を測定すると年代を推定できる。

  ウラン、トリウムなどの放射性元素は、自然に崩壊して別の元素になったり、同じ元素の別の同位体になったりする。同位体とは、同じ元素で質量がことなる原子のことで、化学的・光学的な性質はかわらない。同じ元素の同位体を区別するために、たとえば質量数14の炭素を「炭素14」などと書く。

  もとの放射性元素を母元素、崩壊してできる元素を娘元素という。たとえば炭素14のように1回の崩壊で安定な娘元素になる母元素も多いが、安定な元素になるまでに何段階もかかるものもある。ウラン235、ウラン238、トリウム232などは、そのような多段階の崩壊をする。

  娘元素が安定であれば、母元素がすべて崩壊してしまうまで、娘元素がたまっていく。しかし、娘元素もまた放射性元素だった場合、娘元素ができる速度と崩壊する速度とが同じになるところで平衡状態になる。

   1A  崩壊の種類

  放射性元素の崩壊にはいくつかの種類がある。

  アルファ崩壊は、原子核がアルファ線を放射する崩壊で、アルファ線というのは陽子と中性子2つずつが結合した粒子、つまりヘリウムの原子核である( 原子)。アルファ崩壊をすると、原子番号(陽子の数)2少なくなり、質量数(原子核の陽子と中性子の数)4少なくなる。

  ベータ崩壊では、原子核の質量数はかわらずに、電荷が1つふえたりへったりする。ベータ線を放出する物質のほうが、アルファ線をだす物質よりも、放射能が強い。

  3つ目は、電子捕獲である。原子核に電子がとりこまれ、陽子とむすびついて中性子ができる。原子番号は1少なくなるが、質量数はかわらない。

  4つ目はガンマ崩壊で、ガンマ線という電磁波を放射する。

   1B  半減期

  放射性元素の性質をあらわすときに、半減期という言葉をつかう。半減期というのは、その元素の原子数の50%が崩壊するためにかかる時間のことである。半減期に達すると原子の数は2分の1になり、さらにもう1回の半減期がすぎると、のこっていた半分がさらに半分になり、もともとあった量の4分の1がのこる、というようにへっていく。半減期はそれぞれの放射性元素に固有の値であり、数十億年というものから数マイクロ秒のものまである。たとえば、炭素14の半減期は約5730年、ウラン238の半減期は約45億年である。

   1C  炭素14

  放射性炭素による年代測定法は、1947年にアメリカの化学者リビーらが開発した。考古学、人類学、海洋学、土壌学、気候学、地質学などの分野でよくもちいられる。

  大気中の炭素14は宇宙線の照射によって生成され濃度がほぼ一定である。生体の中の炭素14も、植物は光合成によって大気をとりこみ、動物は食物連鎖によって植物とむすびついているので、生存しているときは、同じ濃度にたもたれる。その生体が死ぬと、生体の中の炭素は大気中の二酸化炭素と交換されなくなるが、炭素14はある速度で崩壊しつづける。このことを利用して、生体が死んだときの年代をはかることができる。

  炭素14は崩壊速度がはやいので、もとめられる年代はおよそ5万年前までである。古いものほど、測定の誤差は大きくなる。

  この方法はさまざまな有機物の年代決定につかえるが、使用する半減期の値の誤差や、大気中の炭素14濃度のばらつきがあると、その精度はさがる。有機物が死んだあとにほかの物質がまじったために、誤差ができることもある。放射性炭素の半減期は5570±30年とされていたが、1962年に5730±40年とあらためられた。したがって、それ以前にもとめた年代を修正しなければならなかった。そののち、核実験などによって大気中に放射能が拡散されたために、放射性炭素による年代は50年を起点として計算するようになった。

  測定された年代は暦年代だけでなく、たとえば691±31B.P.のようにあらわされることも多い。B.P.before physics(物理年前)の略である。

   1D  加速器質量分析法(AMS)

  トリノの聖骸布 イタリア北西部のトリノ市にあるアマ(亜麻)の聖骸布(せいがいふ)。イエス・キリストの遺体をつつんでいた布として、長い間あがめられてきた。人間の身体を思わせる模様がぼんやりとうかびあがり、イエスが傷ついた場所と同じ所にしるしがある。しかし、布の年代測定を加速器質量分析法でおこなったところ、127388年ころのものだということがわかり、言い伝えの信憑性(しんぴょうせい)はゆらいでいる。このように、加速器質量分析法は従来よりも微量の試料で精密な絶対年代測定が可能なので、考古学的な試料の分析によくつかわれる。その結果、従来の学説をくつがえすようなデータがえられることもある。

  炭素14法が崩壊した炭素の質量数をかぞえるのに対して、のこっている炭素14の質量数をかぞえる方法である。たとえ試料が1mgでも測定することができるので、骨や歯、髪の毛、布、紙、氷などひろい範囲の分析ができる。また、測定にかかる時間も数分〜数十分と短い。約6万年前までの測定ができる。

  イタリア北西部のトリノ市にはキリストの遺骸をつつんだとつたえられている聖骸布(せいがいふ)がある。1987年に布の年代測定がこの方法でおこなわれ、127388年ごろにつくられた布であることがわかっている。

   1E  カリウム・アルゴン法

  カリウムの放射性同位体カリウム40が、崩壊してアルゴン40になることを利用する方法で、岩石の年代決定にひろくもちいられる。カリウム40の崩壊では、このほかにカルシウム40もできるが、年代決定にはつかわれない。カリウム40は雲母、長石、ホルンブレンドなどの鉱物に多くふくまれるため、さまざまな岩石の年代をこの方法で決定することができる。

  アルゴンは岩石が125°C以上に熱せられると、岩石から遊離してしまう。そのため、この方法はおもに火成岩や火山灰などを測定するのにもちいられる。測定できる年代は約10万年前までである。

   1F  ルビジウム・ストロンチウム法

  古い地球の火成岩や変成岩、また月の岩石の年代決定にもつかわれる。480億年の半減期をもつルビジウム87がベータ崩壊によってストロンチウム87になることを利用する方法である。

  娘元素のストロンチウム87は、アルゴンのように少しの加熱で離脱することはないので、カリウム・アルゴン法でもとめた年代を確認するためによくもちいられる。この方法で測定できる年代は1000万年以上前までである。

   1G  トリウム230

  炭素14法がつかえる範囲よりも古い、20万年前までの海洋性堆積物(たいせきぶつ)やサンゴ礁などの年代決定につかわれる。トリウム230はイオニウムともいうが、ウラン238が崩壊する過程でできる同位体で、半減期は8万年である。トリウム230は海水中でつねに一定の濃度であり、一定の割合で海底の堆積物の上に沈殿することから、炭素14と同じように年代をもとめることができる。

   1H  ウラン・鉛法

  半減期45億年のウラン238は鉛206へ、半減期7億年のウラン235は鉛207に崩壊する。この半減期の違いをもちいて年代をもとめる方法がある。岩石鉱物は形成された年代によってウラン235238の比がことなるので、鉛206と鉛207との比から、年代をだすことができる。この方法は先カンブリア時代くらいのひじょうに古い岩石に適している。

  そのほかに半減期140億年のトリウム232の鉛208への崩壊も年代測定にもちいることができる。

   1I  そのほかの放射性元素による方法

  サマリウムとネオジムとの同位体をつかうサマリウム・ネオジム法では、1億年以上以前の岩石の年代がもとめられる。また、レニウムとオスミウムとの同位体の量をはかる方法もある。

   1J  フィッショントラック法

  フィッショントラック法は、ウラン238の自然核分裂によって、周りの鉱物やガラス質物質につく傷の跡を利用する方法である。天然のフィッショントラックの密度を、人工的につくったフィッショントラックとくらべて、年代を計算することができる。

  この方法がもっとも適しているのは、雲母、テクタイト、隕石などである。ただし、高温に熱せられたり、地表で宇宙線にさらされたりした岩石については、正しい年代がえられないこともある。日本では、黒曜石の噴出年代による産地の推定や考古遺跡の年代測定にこの方法が効果をあげている。

   2  そのほかの絶対年代測定法

  今では、放射年代測定法以外の絶対年代測定法も、いくつか開発されている。時間とともにすすむ化学反応を利用したり、1年ごとに変化するものをつかったりする方法である。

   2A  年輪年代法

  木の年輪の幅が、気温や雨量などの気候変化によって1年ごとに変化することに着目して、絶対年代を測定する方法。まず、伐採年代がわかっている多数の木材の年輪を詳細にしらべ、地域や樹種による長期間にわたる年輪幅の変動パターンを作成する。これが年輪標準パターンで、伐採年を知りたい木材があれば、そのパターンと年輪を照合することによって、伐採年をわりだす。

  ただし、表皮や表皮に近い部分の年輪がのこっていないと伐採した年代の確定年あるいは推定年を判定することはできない。この場合、最外辺部にある年輪の年代は、資料木材の推定年代の上限をしめすにすぎない。この測定法は考古学だけでなく、建築史や美術史に関連する分野でも応用され、逆に変動パターンから古気候をしらべることもできる。

  アメリカでは、早くからこの方法をつかって、先住民の研究にもちいられている。アメリカでは長寿なことで知られるヒッコリーマツ(→木の「生長の過程」)をつかい、今から8000年以上前までの年輪標準パターンがまとめられている。ドイツでは、ナラ類から同じくらい古い時代にさかのぼる標準パターンができており、フランスや東地中海周辺では6000年程度の標準パターンができている。

  日本は湿気が多く地形も複雑で、成育環境の差が大きいため、パターン化された物差しをつくることはむずかしいとされてきた。しかし1980年代以降、奈良文化財研究所(旧、奈良国立文化財研究所)を中心に、スギ・ヒノキ・コウヤマキの3種の年輪年代学研究がすすんでいる。現在では、スギが今から前1313年まで、ヒノキが前912年まで、コウヤマキでは後741年から後22年までの1年単位の暦年標準パターンが完成している。

  近年の成果では、2001(平成13)2月に法隆寺五重塔の心柱(しんばしら)につかわれていたヒノキ材の年代が594(推古2)とされ、670(天智9)の焼失後に再建されたとする定説と矛盾し、新たな謎(なぞ)として話題になった。また、滋賀県甲賀市の宮町遺跡では、出土した宮殿クラスの掘立柱が年輪年代法により、紫香楽宮創建時期に近い743(天平15)秋ころ伐採されたものとわかった。この結果から、宮町遺跡は紫香楽宮跡の可能性がきわめて高く、それまで紫香楽宮跡とされてきた場所は甲賀寺跡とされる証拠のひとつとなった。

  東大寺南大門の仁王像の解体修理時には、そのヒノキ材の年輪年代測定がおこなわれ、大仏殿などの用材とおなじく、鎌倉時代初期の1196(建久7)1201(建仁元)に伐採されたものがつかわれていることが判明、これは1203年とされる仁王像の完成年と整合する結果だった。さらに、山口県徳地町の法光寺(旧、安養寺)の阿弥陀如来座像台座と同じ伐採年であることも判明し、東大寺の再建用材を調達するため周防におもむいた重源が、その拠点として創建したという寺の伝承を裏づけた。

  ほかにも、大阪府の池上曽根遺跡の大型建物跡出土の直径5060cmもあるヒノキ柱の1本が前52年に伐採されたことがわかった。土器様式などから推定されていた、この建物の年代より100年近くも古い時代に伐採された材木がつかわれていたことは、学界に衝撃をあたえた。これは学会に土器編年と年輪年代による絶対年代の整合性を検討させるきっかけのひとつになった。また、古代城柵のひとつ秋田県仙北町の払田柵跡(ほったのさくあと)から出土した柵用材のスギは、801(延暦20)に伐採されており、不明な創建時期の貴重な手がかりとなっている。

   2B  氷縞年代法

  絶対年代をきめるために、はやくからもちいられていた方法で、20世紀の初めにスウェーデンの科学者がはじめておこなった。氷縞とは、氷河がとけるときに湖などの底に堆積した粘土と砂の層であり、1年ごとに縞(しま)ができている。この縞をかぞえると、更新世の氷河による堆積物の年代をはかることができる。この縞模様は、気候の変化によって厚くなったり、うすくなったりする。このことを利用して氷河が後退した年代を知ることができる。→ 氷河時代

   2C  熱ルミネセンス法(TL)と電子スピン共鳴吸収法(ESR)

  放射線の照射によってできたフリーラジカルをはかる方法である。

  熱ルミネセンス法は、鉱物をある温度以上に加熱すると、それまでにうけた天然の放射線量に比例する量の光をはなつ、熱ルミネセンスという現象を利用する方法である。天然の放射線量がつねに一定であるとすると、石英などの鉱物の熱ルミネセンスを測定すれば、最後に加熱された時期をきめることができる。たとえば、土器の年代を熱ルミネセンス法で決定するということは、その土器が焼かれたとき以来ずっとうけてきた放射線のエネルギー量をはかるということになる。この方法は数十万年前までの年代決定にもちいられる。

  電子スピン共鳴吸収法は天然の放射線によってたくわえられたフリーラジカルの量をはかる。この方法で、貝殻などの数十万年前の年代測定ができる。

   「弥生時代の新しい年代観」 石川日出志 AMS14C年代測定法による新しい年代観

  これまで、弥生時代の年代は西暦紀元前(BC)64世紀から紀元後(AD)3世紀までと考えられてきた。これは、青銅鏡などおもに中国で製作時期がわかる文物が、弥生時代の日本列島にもちこまれたことを手がかりにもとめられた年代である。しかし、本格的に中国の文物が日本列島に流入するようになるのは、前108年に前漢の武帝が現在の平壤(ピョンヤン)付近に楽浪郡を設置してからで、それは弥生中期後半であることから、弥生時代の開始年代をしぼりこむのはむずかしいのが実情であった。

  国立歴史民俗博物館(以下、歴博)の研究チームは、2003(平成15)519日に文部科学省で記者会見し、加速器質量分析法(AMSaccelerator mass spectrometry)による放射性炭素(14C)年代測定法をもちいることによって、弥生時代の開始時期がBC900BC1000年ころにさかのぼることが判明したと発表した。

  AMS14C年代測定法の原理と方法

  炭素には、質量1212C(炭素12)のほかに、中性子が多い13C(炭素13)14C(炭素14)という同位体がある。中性子が12Cより2つ多い14Cは、原子核が不安定であって放射壊変をおこす。放射性壊変によって14C2分の1に減じるのに5730(半減期)かかり、さらに2分の1、つまり当初の4分の1になるのにさらに5730年かかる。大気中の存在比は、12C13C14C=0.9890.0111.2×10-12であり、生物は大気中の炭素をとりこんで成育するが、死後は炭素の供給が絶たれて、14Cは一定の速度で壊変し、その量を減じてゆく。この原理を利用して、遺跡から出土した木炭や、かつて木材をもやしてついた煤(すす)などの14C濃度を測定し、現在から何年前に利用されたのかを知るのが14C年代測定法である。すでに1950年代に実用化され、世界的に活用されてきた。

  1970年代後半になると、従来のβ線法にくわえてAMS法が新たに開発された。β線法が14C壊変時に放出されるβ線を計測するのに対して、AMS法は試料中の14C自体を測定するもので、微量の試料を、しかも短時間測定するだけで信頼性の高い測定値がえられるようになった。

  測定値を較正する

  14C年代は、大気中の14C濃度が一定であるという前提(理論)のもとにもとめられたものだが、実際には宇宙線や地磁気の変動によって14C生成率は変動するので、実際の年代値をしめしてはいない。そこで、世界各地で樹木の年輪やサンゴ化石、年縞(水域の縞状堆積物)を測定して、過去の大気中の14C濃度変動曲線をもとめ、これをもちいて測定値を実年代に換算(較正(こうせい)calibration)する方法をとる。現在は1998年に発表されたINTCAL98という較正曲線をもちいている。

  測定値は、かならず1950年を起点とするBPと、誤差として±1δ(1標準偏差)を付して表記される。つまり、たとえば「2590±40BP」という表記は、1950年から2590年前を中心とする前後各40(1δ)内である確率が68%、前後各80(2δ)内にはいる確率が95%であるという意味である。こうした確率数値を較正曲線と照合して較正値を出す。

  したがって、年代値は確率的な幅をもつし、較正曲線が直線ではなくて小刻みに上下動する点にも注意が必要である。2590±40BPの場合、較正値は2δとして830calBC750calBC(確率69.3%)680calBC650calBC(8.8%)640calBC580calBC(11.3%)580calBC540calBC(6.5%)となり、確率的には紀元前(BC)830750年がもっとも高いが、広い年代幅をもつこととなる(cal表記は較正値であることをしめす)

   発表の概要と年代観

  じつは、これまで弥生時代開始期をAMS法でしぼりこむのはむずかしいとされてきた。それは紀元前(BC)64世紀という弥生時代開始期は、較正曲線が700400calBCで水平線をえがくために較正値がえられないからであった(仮にミステリーゾーンとよぶ)

  歴博チームは、2001年から科学研究費により「縄文時代・弥生時代の高精度年代体系の構築」という研究プロジェクトを始動させ、全国の縄文・弥生時代試料の分析をすすめてきた。その中で、福岡県福岡市雀居遺跡(ささいいせき)・同市橋本一丁田遺跡、佐賀県唐津市梅白遺跡(うめしろいせき)などで出土した弥生早期・前期初頭の土器外面に付着した煤を測定したところ、900800calBCに確率曲線の高いピークがくることを確認した。つまり、ミステリーゾーンの前にさだまり、先の問題はクリアできたことになる。その結果、従来弥生時代がはじまる時期は、中国では春秋戦国時代(770〜前221)に相当すると考えてきたのが、西周時代(1050?〜前771)にまでさかのぼることになり、東アジア世界の中で弥生文化の成立を考えるときに、大きな変更を要する、と発表された。

  考古学界の受け止め方と今後の問題

  こうした発表をうけて考古学界でも、賛否両論、さまざまな反響が出ている。従来の年代値のままで問題はないとみる意見、朝鮮考古学の成果と対比すると今回の発表年代値は適正であるとみる意見、従来の年代法からAMS法に切りかえるべきだという意見、ひたすら静観という場合もある。また、年代がさかのぼっても縄文・弥生の時代区分はかわらないとのべる意見もあるが、これは年代論と歴史評価を混同したものであろう。

  私見をのべると、AMS法の体系とその成果の大枠は支持するが、較正値を細部にいたるまで採用するほどに較正曲線は万能ではないとみる。たとえば800calBC部分はまだ較正曲線の極端な急傾斜部分に該当しておりミステリーゾーンの範囲にあるし、確率論であることをわすれがちな傾向がある点にも注意したい。

  しかし、重要なのは、14C年代測定法と、考古学が採用してきた暦年代策定法とがまったくことなる方法・体系にもとづいていることである。したがって、ズレが生じるのは当然であり、どちらが正しいかを決する前に、それぞれズレの原因を再度点検することこそが必要である。

  考古学は、つねに型式の新古という相対年代を基準として年代関係を考え、体系づける。年代測定はそこに年代数値を付与するものである。中国で製作年代のわかる遺物が九州で出土する場合も相対年代法の一環としてもちいる。

  歴博の研究チームの発表から1カ月あまりをへた現在、考古学界では従来の年代値を再検討する個人的試みが始動した段階である。今後、議論を建設的にすすめるには、考古学的に暦年代が議論できる時期の試料を測定し、相互の方法のクロスチェックが必要である。較正曲線の上下動が少ない250calBC100calADは、中国や朝鮮半島からもたらされた文物が九州でも確認できる。この時代の測定が必須であろう。

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