八ヶ岳西南麓

八ヶ岳 やつがたけ 長野県と山梨県の県境にある、赤岳(2899m)を最高峰とする八ヶ岳連峰の総称。一般に八ヶ岳という場合、編笠(あみがさ)山(2524m)、権現岳(2715m)、赤岳、阿弥陀岳(2805m)、横岳(2829m)、硫黄岳(2760m)、天狗岳(2646m)などの山列をさす。八ヶ岳中信高原国定公園にふくまれる。

八ヶ岳連峰 長野県東部の野辺山高原からみた八ヶ岳連峰。最高峰は、南八ヶ岳の赤岳で、標高は2899m。裾野(すその)の高原地帯では、近年、キャベツをはじめセロリ、レタスなどの高原野菜の栽培が盛んである。オリオンプレス/高田芳裕

フォッサマグナの中央部に位置し、南北に弧状につらなる20以上の火山の噴火活動によって形成された山群で、八ヶ岳火山群、八ヶ岳火山列ともよばれる。かつて諏訪湖の水はフォッサマグナにそって駿河湾にながれていたが、八ヶ岳連峰の形成と土砂の堆積によってせきとめられた。

ほぼ中央部の夏沢峠を境に北八ヶ岳と南八ヶ岳に区分される。北八ヶ岳は比較的標高が低く、山頂付近まで針葉樹林におおわれている。南八ヶ岳は岩がちで、ハイマツ帯と高山植物がみられる。山腹の亜高山帯の植物は1000種をこえ、山名を冠したヤツガタケトウヒ、ヤツガタケアザミなどが有名である。

首都圏から近く、山麓(さんろく)までの交通が便利なことから登山者が多い。長く広いすそ野には温泉や鉱泉が豊富で、蓼科高原・清里高原・原村などがリゾート地として開発されている。東麓の野辺山には八ヶ岳牧場が、北東麓には池ノ平牧場・千代里牧場がひらかれている。北側の国道299号の麦草峠は国道最高地点(標高2127m)。小淵沢から野辺山にかけては、レタス・キャベツなどの高原野菜の栽培が盛んである。

井戸尻(いどじり)遺跡、尖石遺跡をはじめ縄文時代の遺跡が多い。夏沢峠は秩父(ちちぶ)の三峯神社への参詣道としても利用された、古い街道の名残りである。阿弥陀岳や権現岳の山名がしめすとおり、宗教登山がおこなわれていた。甲府盆地をはさんで向かいあう富士山とは、美醜、正負、優劣の関係にあるとする多くの伝説や神話がつたえられている。

尖石遺跡 とがりいしいせき 長野県茅野市豊平にある縄文時代(→ 縄文文化)中期の集落遺跡。八ヶ岳山麓(さんろく)の標高1050mほどの高所に位置する集落遺跡として貴重なものである。遺跡内に直立する安山岩の三角錐状の岩が遺跡名の由来となった。発掘調査により、隣接するほぼ同時期の与助尾根遺跡(よすけおねいせき)とあわせて60をこす竪穴(たてあな)住居跡が発見された。住居内からは石囲い炉跡が50以上みつかり、大量の土器、石器なども出土した。最近は両遺跡をあわせて尖石遺跡とよぶことも多く、両遺跡からの出土品を展示する茅野市立尖石考古館がある。

諏訪湖 すわこ 長野県の中央部、諏訪盆地に位置する湖。湖畔には諏訪市、岡谷市、下諏訪町がある。大小30の河川が流入し、西部の釜口水門から天竜川が流出し、太平洋にそそいでいる。面積13.30km2、水面標高759m、最大水深6m。

諏訪湖は糸魚川・静岡構造線上に形成された断層盆地である諏訪盆地内の沈降地帯に水がたまった湖である。かつては山梨県側に排水され、富士川の谷にそって駿河(するが)湾にそそいでいたが、八ヶ岳の噴火にともなう溶岩流によってせきとめられ、現在の形になった。

厳冬期には湖面が全面結氷し、氷の表面が割れてもりあがる「御神渡(おみわたり)」とよばれる現象がみられる。室町時代からの約500年にわたる記録が「御神渡注進状控」として諏訪大社の上社に保存されており、気候の変化や当時の自然環境を知るうえで重要な手がかりとなっている。地元では御神渡りのようすによって農作物の豊凶をうらない、また諏訪上社の男神が下社の女神のもとにいく道筋であるという伝説もある。

諏訪湖の御神渡

「御神渡(おみわたり)」の現象は、厳寒期、昼夜の温度差が大きいために生じるもので、全面が氷結した湖面の氷が、温度の上昇によって膨張し、大音響をたててわれ、もりあがる。湖の東岸近くの湖底では温泉がふきだしており、冬でもここだけは凍結せず、釜穴(七つ釜)とよばれている。Encarta EncyclopediaJTBフォト/スタジオハルカ・山本忠男

藤森栄一 ふじもりえいいち 191173 昭和期の考古学者。在野にあって、地道な研究の一方で、一般人の視点から考古学を普及、啓蒙する活動に精力をささげた。

長野県諏訪市に生まれる。旧制諏訪中学時代から考古学の研究をはじめ、家業のかたわら地元の遺跡研究に精力的にとりくむ。1929年(昭和4)森本六爾を知り、東京考古学会同人となり本格的活動に入った。

その後は奈良、大阪、東京と転居しながら研究活動をつづけ、戦後は諏訪にもどって私設の諏訪考古学研究所を自宅に開設する。ここで若い研究者を育成しながら、長野県考古学会会長などもつとめた。

この間、八ヶ岳山麓(さんろく)にある尖石遺跡、井戸尻遺跡など縄文時代中期集落の発掘をおこなった。これらの遺跡からは大量の土掘り用とされる打製石斧類が出土したが、狩りにつかう石鏃類はこの時期を境に急減することに着目した藤森は、縄文中期以降の集落ではすでに農耕をおこなっていたという、独創的な縄文農耕論を提唱、弥生時代を農耕の起源とする学界に波紋をおこした。現在、縄文農耕論は、青森県の三内丸山遺跡などの成果によって再認識されつつある。→ 縄文文化

自然保護にも熱心で、国内有数の湿原である霧ヶ峰高原に山岳道路が建設されると、その反対運動に参加し、その重要性をうったえた。これらの行動は新田次郎の小説にもなっている。

民間の学としての考古学普及をはかり、一般人にもわかりやすい読み物風の著書出版につとめた。主著に「かもしかみち」(1946)、「銅鐸」(1964)、「縄文農耕」(1970)、「心の灯」(1971)などがあり、1978〜86年に「藤森栄一全集」(全15巻)が出ている。

富士見町 ふじみまち 長野県中東部、諏訪郡の南端にある町。1955年(昭和30)富士見村、本郷村、境村、落合村の4村が合併して成立。面積は144.66km2(一部境界未定)。人口は1万5509人(2003年)。

町名のしめすように、広大な火山原野の南方に富士山をのぞむ。八ヶ岳の南西麓(ろく)に位置する富士見高原が町の中央部に広がり、高原野菜や花卉(かき)栽培、酪農がいとなまれる。工業面では、近年、精密機械工場が多数誘致され、振興がはかられている。JR中央本線と中央自動車道が通じる。

昭和初期から軽井沢町とともに高原別荘地として知られる。近年は八ヶ岳を中心とする保健休養地としての開発が盛んであり、ペンションやゴルフ場、テニスコートなど観光施設が整備された。町内には、高原療養所や島木赤彦、伊藤左千夫、斎藤茂吉らアララギ派歌人の歌碑がたつ富士見公園がある。町の南東部の井戸尻(いどじり)遺跡は縄文中期の代表的集落遺跡で、多くの土器や石器が出土している。

原村 はらむら 長野県中東部、諏訪郡(すわぐん)南部の村。西から北は茅野市に接し、八ヶ岳連峰の1座である阿弥陀岳(標高2805m)を頂点に、その西麓(せいろく)一帯に村域が細長く広がっている。1889年(明治22)村制施行。面積は43.23km2(一部境界未定)。人口は7536人(2003年)。

水はけがよい土壌と冷涼な気候を利用して、高原野菜、花卉(かき)栽培などの農業がおこなわれている。主要作物は全国有数の生産量をほこるセロリをはじめ、ホウレンソウ、レタス、パセリなどである。1981年(昭和56)中央自動車道の開通により、工業団地が造成されたのにくわえ、保養地としての人気も高まった。ペンション村の周囲には八ヶ岳美術館や八ヶ岳自然文化園、八ヶ岳温泉などの観光ポイントがあり、村東部は八ヶ岳中信高原国定公園域に属する。また中央自動車道の建設工事にともなう発掘で確認された阿久遺跡は縄文前期のもので、環状集石群が注目をあつめた。国の史跡に指定されている。

美ヶ原 うつくしがはら 長野県のほぼ中央部、松本市の東方、諏訪市の北方にある高原。王ヶ頭(2034m)、茶臼山(2006m)など周辺の標高2000m前後の地域をさす。一般に美ヶ原高原ともよばれる。深田久弥の「日本百名山」のひとつ。

溶岩や火山灰などの噴出物が堆積(たいせき)した火山性の地質からなり、後に隆起し浸食をうけた平坦面が美ヶ原である。最高地点の王ヶ頭からの眺望は雄大で、浅間山・八ヶ岳・南アルプス・中央アルプス・北アルプスをのぞむことができる。

王ヶ頭と物見石山の間には美ヶ原高原牧場が広がり、周辺にはホテル・国民宿舎・美術館などが立地している。また、牧場内には遊歩道が整備され、ニッコウキスゲの群落をみることができる。八ヶ岳中信高原国定公園にふくまれ、美ヶ原から国道142号(旧中山道)の和田峠をへて霧ヶ峰・白樺湖をむすぶビーナスラインが通じる一大観光エリアとなっている。西麓(せいろく)の松本市郊外には浅間温泉・美ヶ原温泉などがあり、美ヶ原観光の基地となっている。

美ヶ原の雄大な景観は、尾崎喜八の詩「美ヶ原溶岩台地」に描写されている。

白樺湖 しらかばこ 長野県茅野市北部、蓼科山西麓(せいろく)にある人造湖。面積0.35km2。南には第2白樺湖、北にはレマン湖もあり、一帯は高原リゾート地として知られる。八ヶ岳中信高原国定公園に属する。

蓼科山と霧ヶ峰の間にある低湿地帯をながれる音無川源流部を堰堤(えんてい)によってせきとめ、1946年(昭和21)に築造された農業用の温水溜池(ためいけ)である。湖水は蓼科山南西麓の北山地方の水田に導水され、灌漑(かんがい)に利用されている。完成当時は蓼科大池とよばれていたが、観光客の増加にともない、イメージアップのため、建設工事で湖底にしずんだ多くのシラカバにちなんで白樺湖と命名された。昭和40年代半ばから湖水の汚染がみられ、汚水処理などがほどこされている。

阿久遺跡 あきゅういせき 長野県諏訪郡原村にある縄文前期の集落遺跡。前期中ごろの大きな環状集石群が発見されて注目された。八ヶ岳西南麓(せいなんろく)のゆるやかに傾斜する標高900mほどの尾根上にある。尾根の幅は最大で200m。原村の北には茅野市の尖石遺跡、南には富士見町の井戸尻遺跡群など、周辺には縄文中期を中心とする大遺跡が存在する。

1976〜78年(昭和51〜53)、中央自動車道の建設にともなう発掘調査がおこなわれた。集落は縄文前期全般にわたっていとなまれているが、とくに発達するのは前期前半から中ごろである。前期前半には、64基の竪穴住居がたてられ、径100mほどの環状集落を形成している。中央には、径約60mの広場があり、そこに方形柱穴列や土坑がならぶ。方形柱穴列は、この遺跡ではじめて注目をあびた遺構で、直径約1m、深さ約1mの柱穴を、1辺に3〜5カ所ずつ方形に規則ただしくならべている。そこに太い掘立柱をたてて高床建物などにしたか、柱祭りなどにつかったと考えられ、祭祀(さいし)用とみられている。

前期中ごろには、住居数が減少するのに反し、中央広場には集石群と土坑群が多くつくられる。集石群は直径1m、深さ30cmほどの穴に拳大(こぶしだい)の礫(れき)をつめたものが、まとまりをなしながら271基、120m×90mの環状に配置された巨大な遺構である。

環状集石の内側からは、土器や立石を埋設した約780基の土坑墓があり、集団墓地と考えられる。広場の中心には、長さ120cmほどの角柱状の立石と、8個の盤状の列石が直線的にならんで配置され、ここからは祭祀用の浅鉢形(あさばちがた)土器が出土している。

縄文前期のほかに例をみない大集落の発掘にともない、調査2年目から長野県考古学会を中心とする学術団体や市民たちによって遺跡の保存運動が展開された。その結果、調査した遺構はうめもどされ、そのうえを土盛りして道路を開通する保存措置がとられた。1979年に遺跡全域が国の史跡に指定された。

和田村 わだむら 長野県中東部、小県郡(ちいさがたぐん)南西部の村。西は松本市、南は諏訪市に接する。西に美ヶ原や和田峠があるほか周囲は山でかこまれ、森林が村域の約90%を占める。美ヶ原に源をもつ依田川(よだがわ)が村の中央部をながれ、その流域に耕地や集落がある。川沿岸では稲作、山麓(さんろく)では花卉(かき)、野菜、エノキダケなどを栽培する。1889年(明治22)村制施行。面積は87.81km2。人口は2504人(2003年)。

黒曜石の産地である和田峠付近には、和田峠遺跡や男女倉遺跡(おめぐらいせき)など、旧石器時代の遺跡群がある。江戸時代には中山道の難所でもあった。南木曽町にかけてのこる中山道は国史跡に指定され、和田宿本陣、旅籠(はたご)の建物を復元利用した歴史の道資料館など、町並み保存につとめている。峠の南に1978年(昭和53)新和田トンネルが開通して諏訪湖方面に接続したのにくわえ、南方の白樺湖や霧ヶ峰と美ヶ原などをむすぶ自動車道ビーナスラインがはしる村の西部一帯は、八ヶ岳中信高原国定公園にふくまれる。

鷹山遺跡群 たかやまいせきぐん 長野県小県郡(ちいさがたぐん)長門町にある旧石器時代から縄文時代の遺跡群。霧ヶ峰一帯は、和田峠、星ヶ塔(ほしがとう)、男女倉(おめくら)など代表的な黒曜石の産出地があり、それに隣接して旧石器時代を中心とした遺跡群が存在することで知られる。八ヶ岳の北西、霧ヶ峰高原の北に位置する鷹山遺跡群も、星糞峠(ほしくそとうげ)とよばれる黒曜石産出地の直下にある。

1986年(昭和61)以来の調査で、旧石器時代の遺跡は、鷹山川の中流域に広がる湿地帯に十数カ所にわたって確認され、山にころがっている大量の原石を採取し、集中的に石器製作をおこなっていたことがわかった。ナイフ形石器や槍先形尖頭器(やりさきがたせんとうき)などの製品や、素材である剥片(はくへん)を他の地域へ搬出していたことも指摘されている。

1991年(平成3)の調査では、虫倉山(むしくらやま)から星糞峠にむかう標高約1490〜1545mの山の斜面に、直径数メートルから最大20mをこえる皿状の窪地(くぼち)が約80カ所以上確認された。

1992年に1カ所の窪地の発掘調査がおこなわれ、地下3mにある白色粘土層にふくまれる黒曜石原石を採掘するための縄文後期の採掘跡であることがわかった。以来、継続的な調査がおこなわれ、黒曜石を採掘しはじめたのは縄文早期あるいは縄文草創期にまでさかのぼることが判明している。2001年に国の史跡に指定された。

信濃川 しなのがわ 長野、埼玉、山梨の3県境に位置する甲武信ヶ岳(2475m)の北西斜面に源を発し、千曲(ちくま)川として長野県北信地区をほぼ北流する。新潟県にはいり信濃川となって越後平野をうるおし、新潟市で日本海にそそぐ川。日本一の長さをほこる一級河川(信濃川水系)。長さ367km、流域面積1万1900km2。

関東山地と八ヶ岳、蓼科山の両火山の境界を北流し、佐久盆地までは峡谷をつくる。佐久盆地南部では扇状地を、浅間山山麓(さんろく)の泥流地帯では渓谷を形成して上田盆地にいたる。上田盆地より下流では河床が平坦になり、長野盆地や飯山盆地では土砂が堆積(たいせき)し、天井川になる。長野盆地で、木曽山中から発し北アルプスの水をあつめて北流した犀(さい)川と合流し、北東流する。ここより北、長野と新潟の県境付近では蛇行がみられ、新潟県十日町市付近までは、急流が連続する。さらに小千谷市付近までは河岸段丘ができている。川口町で魚野川を、長岡市付近で魚沼丘陵からの河川と合流し、複合扇状地が発達している。越後平野にはいって勾配が緩やかになり、三条市の西方で大河津分水路を、三条市で中ノ口川などを分流し、新潟市でふたたび中ノ口川と合流する。最下流部では蒲原砂丘にはばまれ、潟湖と後背湿地をつくり、新潟市の市街地を貫流して日本海にそそぐ。

水運は、千曲川では飯山から篠ノ井までの区間で本格的におこなわれ、直江津方面からの塩や海産物が長野盆地へはこばれた。鉄道開通以前の信濃川は交通の大動脈として、西廻り航路をもつ河口の新潟港から十日町の区間でおこなわれ、長岡は河川交通の要衝として繁栄した。県境付近の急流部は通船が不可能で、このため新潟県と長野県をむすぶ舟運はひらかれなかった。