中山道

中山道 なかせんどう 

  江戸時代の五街道のひとつで、江戸日本橋から武蔵、上野(こうずけ)、信濃、美濃、近江(おうみ)の各国をとおって京都にいたる。中仙道とも書いたが、1716年(享保元)に東山道の中筋の道の意味で、幕府が中山道に統一した。木曽をとおるために木曽路ともいう。宿駅の多くが戦国末期には成立し、1601年(慶長6)木曽路に対して伝馬に関する命令がだされているので、このころから街道の整備がはじまったのであろう。宿駅は、江戸の板橋宿から近江の守山宿までで、草津宿で東海道に合流し、大津宿をへて京都にいたる。

  板橋から守山まで67宿だが、草津と大津の両宿をふくめて中山道六十九次というのが慣例。江戸〜草津間は129里(約510km)余、江戸〜京都間は135里余。各宿駅には伝馬役として、常時50人、50匹の公用人馬の継ぎ立てが義務づけられたが、信濃国の塩名田、八幡(やわた)、望月、芦田の4宿と木曽の11宿は25人、25匹であった。

  碓氷峠や和田峠、鳥居峠など難所も多く、碓氷と木曽福島には関所がおかれた。脇道には、板橋宿からわかれる川越街道、倉賀野から日光までの日光例幣使(れいへいし)街道や追分でわかれる北国街道、下諏訪(すわ)で合流する甲州道中などがあり、ほかに洗馬(せば)で善光寺街道、垂井(たるい)で美濃路、関ヶ原で北国街道、鳥居本で北国脇往還などと合流する。参勤交代で中山道をとおる大名は30余家だったが、将軍の夫人となる皇族や公家の女性はしばしば中山道を利用した。とくに1861年(文久元)、徳川家茂にとついだ和宮の大規模な行列は有名である。

18世紀以降は、信濃国善光寺や近江国多賀大社への参詣者もふえ、街道の途中に木曽の寝覚ノ床や観音坂の岩屋観音、関ヶ原の古戦場跡、琵琶湖を遠望する摺針峠など名所や旧跡も多いことから、東海道につぐ幹線道路として庶民の通行にも利用されるようになる。いまも当時の景観をのこす木曽の奈良井と妻篭(つまご)の両宿は、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定され、保存に力がそそがれている。

   馬籠 まごめ 岐阜県南東端、

  中津川市東部の地区。江戸時代の中山道木曽路十一宿のひとつ。木曽路の最南端に位置し、十一宿中、もっとも小さい宿場だった。馬籠峠南側の中腹に宿場があり、当時の峠地区には牛に荷物をつんで駄賃稼ぎをした牛方衆が多くすんでいた。2005年(平成17)2月までは、長野県木曽郡(きそぐん)山口村に属していたが、越県合併によって岐阜県中津川市となった。

  馬籠法明寺の1215年(建保3)の大般若経(→ 般若経)奥書に「美濃州遠山庄馬籠村法明寺」とあるのが、地名の初出である。中世までは美濃国恵那郡(えなぐん)に属し、江戸時代初めに信濃国筑摩郡のうちとなった。室町時代には遠山氏一族の馬籠氏が、室町幕府の奉公衆となっている。戦国時代になると木曽氏が勢力をのばし、その部将島崎氏が馬籠城をまもった。

  1601年(慶長6)宿駅に指定され、翌年に中山道六十九次のひとつとされた。1843年(天保14)の「中山道宿村大概帳」によれば、宿の町並みの長さは東西3町33間、人口717人、家数69軒、本陣1、脇本陣1、旅籠屋(はたごや)18とあり、中町に人馬継問屋(じんばつぎといや)2カ所もあった。

  明治の詩人、小説家の島崎藤村は、馬籠宿本陣17代目の当主島崎正樹の子として生まれた。大作「夜明け前」の主人公は父正樹がモデルといわれている。現在、旧本陣跡は藤村記念館となっており、自筆原稿などが展示されている。隣接する大黒屋は、藤村の詩「初恋」にうたわれたおふゆさんの生家。妻籠に通じる旧中山道の峠道は国の史跡で、石畳道が復元、整備され、遊歩道としてハイカーなどに人気が高い。藤村宅跡は県の史跡に指定されている。

和田峠 わだとうげ 長野県中部、

  和田村と下諏訪町の境にある峠。筑摩山地南部の鷲ヶ峰と三峰山の鞍部に位置し、中山道の難所として知られた。現在、峠下を国道142号の新和田トンネルが通じている。標高1531m。

  峠付近は黒曜石の産地で、中部、関東地域にある旧石器時代や縄文時代の遺跡からここの黒曜石でつくられた石器が多数みつかっている。中山道のこえる峠の中ではもっとも標高が高く急峻で、冬季の積雪は3m以上にも達する。江戸時代の峠は現在の峠より北西約500mの所にあり、古峠と称する。峠をはさんで和田宿と下諏訪宿の間は約21kmもはなれていたため、道中には施行所や避難所が設置されていた。幕末には皇女和宮が降嫁のために大行列でこの峠をこえ、また、天狗党の乱の一舞台にもなり、水戸藩士の墓が浪人塚として今ものこる。明治期には諏訪地方で生産される生糸の輸送でにぎわい、諏訪製糸工場へはたらきにでる多くの女工たちがかよった。このころ、2度にわたる峠道の付け替えがおこなわれ、現在の峠が開削されている。明治末期、中央本線の開通で峠道は一時衰退するが、道路の舗装、南方の新和田トンネルの開通によりふたたび交通路の機能をとりもどした。

 和田宿の手前から古峠にいたる旧中山道は本陣屋敷、一里塚、施行所などが復元保存され、歴史の道として国の史跡に指定されている。黒曜石は、アクセサリーなどに加工され土産物として販売されている。尾根沿いのハイキングコースは富士山、浅間山、飛騨山脈(北アルプス)などの眺めがたいへんうつくしい。峠上の国道142号から南北に分岐して、美ヶ原と霧ヶ峰をむすぶビーナスラインがはしる。近くに和田峠国設スキー場がある。

木曽福島町きそふくしままち 長野県南西部、木曽川の上流部にある、木曽郡の町。木曽谷にそって、東側に木曽山脈(中央アルプス)がはしる。山林が町域の90%以上を占め、町の中央部を木曽川がながれ、両岸の小規模な河岸段丘上に集落ができている。JR中央本線と国道19号が町を貫通している。面積は149.97km2。人口は7645人(2003年)。

江戸時代にさだめられた中山道が、鳥居峠越えの木曽谷を経由したことにより福島に宿場がおかれ、現在の木曽福島町の基礎となった。古くから交通の要衝で、中山道から開田高原をへて岐阜県高山にいたる街道の分岐点として、また御嶽山の登山口でもあり、1911年(明治44)中央本線が全通して福島機関区がおかれた(1986年廃止)。国道19号は今も名古屋方面と長野県をむすぶ大幹線として機能している。木曽地方の行政・商業・文化の中心地で多数の公共機関、金融機関などがあり、また木曽観光の拠点となっている。

中津川市 なかつがわし 

  岐阜県南東部、東濃地方の東端にある商工業市。南西は恵那市、北西は下呂市に接し、東は長野県との境をなす。中央を木曽川が南西にながれ、南東部に恵那山がそびえる。江戸時代には中山道の宿場町としてさかえた。

  江戸時代、中山道の中津川、落合、馬籠の宿場があり、木曽路の玄関口としてにぎわった。中津川は2と8の日には六斎市(→ 市)が開かれるなど商業の中心地で、現在も本町あたりに古い町並みがのこる。馬籠は木曽十一宿の中でもっとも南にあり、本陣、脇本陣がおかれた。作家島崎藤村の出生地として知られ、小説「夜明け前」の舞台ともなった。馬籠峠をへて妻籠までの旧中山道は国の史跡に指定されている。中部の苗木は遠山氏1万石の城下町で、木曽川をのぞむ苗木城跡も国の史跡。城跡にはこの地に生まれた日本画家前田青邨の記念館がある。

  東濃檜は、伊勢神宮や南禅寺などの建築にもちいられていたことが、南北朝期の記録からわかる。江戸時代、この地の多くは尾張藩領となり、俗に「檜1本、首ひとつ」といわれるほど無断伐採には斬首(ざんしゅ)でのぞむきびしい林政のもとにおかれた。

  東宮町の東円寺にある平安時代の木造薬師如来座像は、福岡の榊山神社(さかきやまじんじゃ)および、苗木の神明神社にある太刀(たち)とともに国の重要文化財。国の天然記念物には、高さ30.8m、根回り20mの加子母のスギをはじめ、付知町の垂洞(たるぼら)のシダレモミ、千旦林(せんだんばやし)の坂本のハナノキ自生地、蛭川のヒトツバタゴ自生地がある。

  全国屈指の花崗岩層がある蛭川には、石に関する博物館「博石館」があり、付知町にはここ出身の画家・熊谷守一(くまがいもりかず)の記念館、山口には東山魁夷心の旅路館がある。付知川上流の付知峡をはじめ、乙女渓谷、福岡ローマン渓谷、夕森公園、恵那峡などには多くの滝があり、うつくしい渓谷がつづく。渓谷や椛の湖(はなのこ)などにはキャンプ場があり、中山道、恵那山はハイカーや登山客でにぎわう。

島崎藤村『夜明け前』

  1929年(昭和4)から35年に約6年半かけて雑誌『中央公論』に発表された長編歴史小説。江戸幕府がたおれ、近代日本が成立していく歴史の大きな流れを背景に、木曽路(中山道)の馬籠宿(まごめしゅく)の庄屋である青山半蔵の運命をえがいた大作。国学を信奉する半蔵は、古代日本への立ち返りをねがうが、明治維新の進展とともにその夢はやぶれてしまい、最後は狂人となって死ぬ。半蔵のモデルは島崎藤村の父、正樹であり、藤村は家にのこる多くの文書からえられた史実を元にこの大作を書きあげた。以下は、作品の有名な冒頭部分である。

[出典]島崎藤村『夜明け前 第一部()(岩波文庫)1969(1)。青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より転載。

 木曾路(きそじ)はすべて山の中である。あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。

  東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。道路の位置も幾たびか改まったもので、古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。名高い桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような危(あぶな)い場処ではなくなって、徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降(くだ)って来た。道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、それで街道の狭いのを補った。長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫(はんらん)が旅行を困難にする。そのたびに旅人は最寄(もよ)り最寄りの宿場に逗留(とうりゅう)して、道路の開通を待つこともめずらしくない。

  この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、その制度組織の用心深さをも語っていた。鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、これほどよい要害の地勢もないからである。この谿谷(けいこく)の最も深いところには木曾福島(きそふくしま)の関所も隠れていた。

 東山道(とうさんどう)とも言い、木曾街道六十九次(つぎ)とも言った駅路の一部がここだ。この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。東海道方面を回らないほどの旅人は、否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚(つか)を築き、榎(えのき)を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。

 馬籠(まごめ)は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境(みのざかい)にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に、本陣(ほんじん)、問屋(といや)、年寄(としより)、伝馬役(てんまやく)、定歩行役(じょうほこうやく)、水役(みずやく)、七里役(しちりやく)(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主(おも)な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名(こな)の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町(あらまち)、みつや、横手(よこて)、中のかや、岩田(いわた)、峠(とうげ)などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸(たぬき)の膏薬(こうやく)を売る。名物栗(くり)こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処(おやすみどころ)もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通(かよ)って来るようなところだ。

 本陣の当主吉左衛門(きちざえもん)と、年寄役の金兵衛(きんべえ)とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人(ふたり)ともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵(はんぞう)という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰(さた)があって、いよいよ引退の時期が来るまでは、まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。

島崎藤村 しまざきとうそん 1872〜1943 明治〜昭和期の詩人・小説家。本名春樹。旧中山道馬籠宿(現、岐阜県中津川市)の旧家に生まれ、1881年(明治14)に上京して、91年明治学院を卒業した。同校在学中にキリスト教の洗礼をうけ、また馬場孤蝶や戸川秋骨らとまじわりながら西洋文学に感化されて、婦人啓蒙誌「女学雑誌」に寄稿をはじめた。93年には、北村透谷らによる「文学界」の創刊に参加。当初は、透谷にならって劇詩を書いたが、やがて明治時代の代表的浪漫詩集「若菜集」(1897)を刊行して、新体詩人としての名声を高めた。以後、「一葉舟(ひとはぶね)」(1898)、「夏草」(1898)、「落梅集」(1901)の3詩集を世におくりだしている。

1899年、教師として信州の小諸義塾に赴任したが(→ 小諸市)、このころから自然や人生に対する観察を深め、のちに「千曲川のスケッチ」(1912)としてまとめられる写生文(→ 写生)を書いた。一方では小説執筆にとりかかり、被差別部落出身の主人公、瀬川丑松の苦悩と告白をえがいた「破戒」(1906)を自費出版して、小説家としての地位を確立した。その後は自伝的な小説の傾向を強め、「文学界」時代の青春をえがいた「春」(1908)、旧家の家父長制の重圧を主題にした「家」(1910〜11)などの長編小説により、自然主義文学の代表的作家と目されるようになった。

「家」執筆中には妻をうしない、やがて生じた姪(めい)との不義からのがれるように、1913年(大正2)フランスへ渡航。3年後には帰国するが、この間の経緯をつづった告白小説「新生」(1918〜19)は、文壇に大きな反響をまきおこした。その後、雑誌「処女地」を創刊して「嵐」(1926)などを発表。また、幕末維新期の歴史と木曽の自然を背景にしながら、父正樹をモデルにした大作「夜明け前」(1929〜35)を完成させた。さらに東西文明の交渉や日本の近代化の問題を深く探究し、騒然とした時勢の中で「東方の門」(1943)を連載しはじめるが、まもなく脳溢血で死去した。小説や詩のほかに、数多くの随筆、童話などがある。

下諏訪町 しもすわまち 長野県中部、諏訪郡北西部の町。西は岡谷市、東は諏訪市、北は松本市に接し、南は諏訪湖に面する。和田峠などのある北部山間地は八ヶ岳中信高原国定公園(やつがたけちゅうしんこうげんこくていこうえん)にふくまれ、諏訪市にまたがる八島ヶ原高層湿原(→ 高層湿原)などには国の天然記念物の霧ヶ峰湿原植物群落がみられる。その山々を発した砥川(とがわ)や承知川の扇状地に市街が発達し、北端に諏訪大社の下社(しもしゃ)春宮が、東端に秋宮がある。1893年(明治26)町制施行。面積は66.90km2。人口は2万3319人(2003年)。

和田峠から産出される黒曜石の石器が先土器時代からつくられ、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)の発見された東山田小田野駒形遺跡があるのをはじめ、青塚古墳には7世紀の築造とされる前方後円墳がある。古く「古事記」にもみえる諏訪大社の下社の門前に町が形成された。国指定の重要文化財である現在の社殿は、1780年(安永9)築造の春宮、81年築造の秋宮の幣拝殿および左右片拝殿は豪華な彫刻のほどこされた壮麗なものである。また秋宮の銅印や太刀なども国の重要文化財であり、貴重な蔵品も多い。むきあうようにおかれている諏訪市内の上社とともに、寅(とら)と申(さる)の年の4〜5月には境内の神木の立て替えにともない、木落しなど御柱祭(おんばしらまつり)の一連の勇壮な行事がつづく。毎年の例祭は8月に御舟祭がおこなわれる。また、江戸時代には中山道と甲州道中の合流地点に下諏訪宿がおかれ、温泉もありさかえた。街道沿いの本陣岩波家、歴史民俗資料館、旅籠(はたご)風の温泉旅館などが当時の面影をしのばせる。

20世紀前半には製糸業で発展し、第2次大戦後は精密工業の町としてカメラ、オルゴール、時計をはじめ電子機器関連産業が立地する。近年は近隣自治体と諏訪テクノレイクサイド機構をつくり、先端技術工業の振興につとめている。さらに町の精密機械にちなむ諏訪湖オルゴール博物館「奏鳴館(そうめいかん)」や時の科学館「儀象堂(ぎしょうどう)」が開設された。諏訪地方出身の歌人島木赤彦の記念館を併設した諏訪湖博物館、素朴派の作品を展示するハーモ美術館など文化施設も多い。

妻籠 つまご 長野県南西部、

  木曽郡南木曽町南部の地区。江戸時代の中山道木曽十一宿のひとつ。木曽路の南から2番目の宿場で、馬籠峠(まごめとうげ)の北麓(ほくろく)に位置する。飯田街道の分岐点でもある。

  中世には美濃国恵那郡(えなぐん)を本拠とする遠山氏と、木曽氏、真壁氏など木曽谷勢力の接点だった。戦国期には木曽氏の勢力下にはいり、木曽氏の重臣山村氏が妻籠城をまもったが、このころすでに宿駅としての機能もはたしていたらしい。

  1843年(天保14)の記録では、宿場の町並みは2町30間、家数83軒、人口418人、本陣1、脇本陣1、旅籠(はたご)31軒、人馬継問屋(じんばつぎといや)2とある。寛文年間(1661〜73)には、木曽からはこびだされる材木の取り締まりを目的とする白木改め番所がおかれている。この番所は、のちに一石栃(いっこくとち)にうつされて明治まで存続した。

  明治期以後、中央本線の開通によってさびれたが、第2次世界大戦後、地元で町並み保存運動がおこり、電柱の撤去、格子窓の木造家屋の保存・修理など、古い宿場町の面影を復元することに成功。1976年(昭和51)、国の重要伝統的建造物群保存地区(→ 町並み保存)に指定された。現在、奥谷郷土館(おくやきょうどかん)となっている脇本陣林家は、島崎藤村の詩「初恋」にうたわれたおふゆさんの嫁ぎ先である。馬籠に通じる旧中山道の石畳道は国の史跡、林家住宅と藤原家住宅は県宝に指定されている。

破戒 はかい 被差別部落出身の小学校教師である青年、瀬川丑松(うしまつ)の苦悩をえがいた、島崎藤村の最初の長編小説。1906年(明治39)、「緑蔭叢書(そうしょ)第壱篇」として自費出版された。

明治新政府は1871年、それまでの身分制度をあらため四民平等としたが、「破戒」に書かれた明治30年代においても、社会的な差別、迫害はいぜんはげしいものであった。丑松の父親はみずからの出自をかくすため、世間との交わりをたつようにしてくらしてきたが、丑松にもその素性を絶対にかくせといいのこして死んだ。破戒とはこの父親の戒めをやぶることで、これをめぐる丑松の心理的葛藤(かっとう)を中心に小説は進行する。

父の戒めに忠実に生きてきた丑松だったが、彼の若々しい精神は新しい人生の自覚にめざめ、これまでの自己の卑屈や矛盾になやむ。ただ、はげしい社会的な差別が存在する以上、破戒はただちに人生の危機を意味する。しかも不当な偏見は古い教育界のボスたちだけでなく、ふだんはしたしい新世代の青年教師たちの間にもある。丑松の悩みはますます深い。しかし彼は下宿先である蓮華寺(れんげじ)の養女志保の愛情にはげまされ、みずからの出自をかくさず世の偏見とたたかった思想家猪子蓮太郎(いのこれんたろう)にもまなんで、生徒たちの前に自分の出生を告白し、新しい世界をもとめてテキサスに旅だつ決心をする。出発の日には志保やわかい同僚ばかりでなく、生徒たちも校長らの意思に反して見送りにきた。

主人公丑松は、社会的な問題を論じるための人形や道具ではなく、深刻な悩みを背おったひとりの人間としてえがかれている。彼は差別におびえ反発するだけでなく、うつくしい娘にひかれ、人並みの歓楽にもあこがれる青年である。自分の人生を切りひらこうとする個人と、差別という大きな社会的問題とが同時に追求されていく小説のあり方が、主人公の人物像にも反映しているわけである。当然そこには、家制度(→氏の「歴史的背景と現状」)を中心とした当時の社会的抑圧にくるしむ藤村自身の姿もふくまれていよう。小説家藤村の評価を決定するとともに、日本の自然主義文学の出発点、代表作とされるゆえんである。

なおその背景として綿密にえがかれた信州のローカルカラーも、この作品の魅力としてはやくから指摘されている。

発表当時、夏目漱石が高く評価したことが知られているが、「破戒」を読んで差別問題を知り、社会的な関心をもったという読者も多い。しかし反差別の運動にたずさわっている側からのこの作品に対する評価はきびしいものだった。太平洋戦争前すでに全国水平社の糾弾活動があり、戦後における初版本の刊行(1953年)に際しても、部落解放全国委員会から、これがただしく読まれることをもとめて、「『破戒』初版本復原に関する声明」が出されている(→ 部落解放運動)。「破戒」を書く藤村の内部にも当時の社会的偏見があるとの趣旨で、この問題の深刻さをしめしている。→ 差別