長江文明

長江文明

 長江文明

    前5000年頃    長江文明の黎明期

  長江流域には、黄河文明とはことなる独自の文明が発達した。温暖湿潤な気候にめぐまれて、中・下流域では前5000年には稲の栽培がおこなわれていた。とりわけ下流域の河姆渡遺跡(かぼといせき)からは、円柱や方柱など高床式建物の建築材が大量に発見され、また籾(もみ)や稲穀、農具なども出土した。その後、長江では中流域において城壁でかこまれた都市をもつ前3000年ごろの石家河文化(せっかがぶんか)が生まれ、また同時期以降、上流の四川盆地(しせんぼんち)では、大城壁都市をきずくまでに成長する三星堆文化(さんせいたいぶんか)が花開く。

  長江文明 ちょうこうぶんめい これまで黄河文明は中国古代文明の代名詞とされてきたが、近年の中国考古学の成果は黄河流域以外の地域にも存在した多様な地方文化の実態を明らかにし、中国文明の起源を一元的にみなしてきた旧来の解釈はすでに過去のものとなっている。

   II  中国文化多元論と文明

  中国における新石器時代(→ 石器時代)の文化的多様性が注目されるようになったのは、1980年代からである。新石器文化の系統に関して、中原(ちゅうげん)を中心とする華北系統、長江中・下流域を中心とする東南系統、遼河を中心とする東北系統の3系統に区分する学説が有力であるが、さらに細かく分類する学説もある。 

  しかしいずれの分類にせよ、新石器文化の地域性を重視する見方はすでに学界共通の認識になっている。したがってその中からどのようにして文明が形成されてくるのかが、今問われている。

  リャオホー(遼河:りょうが) 中華人民共和国、トンペイ平原(東北平原)南部をながれる大河。全長約1390km、流域面積22万8960km2で、その大部分はリャオニン省(遼寧省)内にある。東西に2つの源流があり、それぞれトンリャオホー(東遼河)、シーリャオホー(西遼河)とよばれる。東遼河はチーリン省(吉林省)のハーター嶺(哈達嶺)に源を発する。西遼河の源流はさらに2つにわかれ、主流ラオハーホー(老哈河)はホーペイ省(河北省)にあるチーラオトゥー山脈(七老図山脈)のコワントウ山(光頭山。標高1729m)に発し、内モンゴル自治区でシラムレンホー(西拉木倫河)と合流したのち西遼河となる。東遼河と西遼河は遼寧省チャントゥー県(昌図県)フートーティエン(福徳店)で合流し、その下流がはじめて遼河とよばれる。

  遼河は遼河平野を蛇行しながら南下し、ルーチェンファン(六間房)でふたたび東西2つにわかれる。東はサンチャホー(三岔河)付近でフンホー(渾河)、タイツーホー(太子河)と合流してターリャオホー(大遼河)と称し、インコウ(営口)付近でリャオトン湾(遼東湾)にそそぐ。西はショワンタイツーホー(双台子河)と称し、バンシャン(盤山)の南をへてラオヤンホー(繞陽河)をあつめ、遼東湾にはいる。かつての遼河は東のコースをとおっていたが、1958年の改修工事以降、主流を西の双台子河の河床にかえた。渾河と太子河は独立水系となり、旧河床をながれている。

  冬季には4カ月間結氷する。黄河、ハイホー(海河)についで土砂含有量が多く、年間2000万tの土砂が海にながれる。流量の変動もはげしいため、下流では洪水や冠水などの災害が頻発していた。1949年の解放後、治水工事がすすめられ、本・支流にホンシャン(紅山)など多くのダムが建設されている。上流の草原地帯では放牧がおこなわれ、下流は大豆、コムギ、トウモロコシ、水稲などの栽培が盛んな中国有数の穀倉地帯となっている。鉄、石油、石炭、非鉄金属などの資源にめぐまれた流域は、中国の主要工業地帯のひとつとして知られ、シェンヤン(瀋陽)、アンシャン(鞍山)、フーシュン(撫順)などの有名な鉱工業都市をふくむ。

   III  長江流域の新石器文化

  良渚文化の玉飾 半円形の飾り板と12個の玉管(ぎょっかん)で構成される玉飾(ぎょくしょく)。チョーチアン省(浙江省)の余杭県反山22号墳から出土した。飾り板の幅は6.3cmあり、細かな線刻と浮彫がほどこされている。この特徴的な目をもつ顔の文様は上下が反対になっているので、ぶらさげて使用されたものではないかもしれない。前3000〜前2000年。浙江省文物考古研究所所蔵。

  長江流域にも古代文明が存在したのではないかと主張されるようになった背景としては、この地域で発見されている炭化米や水田跡、城壁でかこまれた集落遺跡、三星堆遺跡から出土した独特の青銅器文化などの発見があげられる。

  すなわち1970年代に長江下流の浙江省ユーヤオ県(余姚県:よようけん)の河姆渡遺跡から出土した大量の炭化した籾(もみ)は、約7000年前(前5000年以前)のものとして有名であるが、しかしそのころ稲作の起源地は中国南西部の雲南地方からインド北東部のアッサム地方にかけてとする学説が有力だった。

   前5000年頃 - 前3000年頃    河姆渡文化

  長江下流域に中国新石器時代早期の河姆渡(かぼと)文化が発達した。チョーチアン省(浙江省)の河姆渡遺跡を代表とする文化で、紀元前5000年ころには定住して稲作をおこなっていた。大量の炭化した籾(もみ)や農具などが出土している。また犬や豚も飼育されていた。

  河姆渡遺跡 かぼといせき 中国浙江省にある長江下流の新石器時代の遺跡。1973〜78年の2度の調査で黄河文明と同時期に長江文明があったことが明らかとなった。いまのところ中国最古級の新石器文化である。堆積した層位にもとづいて早期(4・3層)と晩期(2・1層)に大別でき、早期を河姆渡文化とよぶが、晩期をふくむこともある。前5000年以前にさかのぼる第4層から円柱・方柱など高床式建物の建築材が大量に発見され、復元すると長さ23m以上、奥行き7mもの大きさになる例もあった。これらの用材は刃部磨製石器で加工されている。

  第4層から当時世界最古の籾(もみ)や稲穀、農具が出土し、インディカ亜種の水稲と判明、アジアの稲作文化研究にとって大きな発見となった。土器でも中国最古の彩陶が発掘されている。ブタが飼育されていたが、漁労・採集も盛んだった。

  石家河文化の鷲攫人頭文玉佩 佩(はい)は腰などにつるした飾り。上方のイヌワシが下の2つの人頭(横顔)をわしづかみにしている。石家河文化は長江中流域に前3000〜前2000年ころさかえた文化で、大きな城壁でかこまれた集落(初期的な都市)遺跡で有名。分業化や階層化がすすみ、石家河文化の遺跡からは高度で複雑多様な玉器が数多く出土している。長さ約9.1m。北京故宮博物院所蔵。

  これに対して現在では遺伝子レベルの研究がすすみ、栽培稲作の起源地を長江中・下流域とする学説が有力になっている。1992年に江蘇省の草鞋山遺跡から発見された馬家浜文化(ばかひんぶんか)の水田跡は、約6000年前のもので、今のところ世界最古の水田跡である。ただしこの水田跡は比高差1〜2mの低地部に列状にいとなまれたもので、面的水田が出現する前段階のものとみなされている。実際同地では、この馬家浜文化の水田跡の上層に春秋戦国時代の面的水田跡が確認されているので、こうした原始水田がのちに面的なものに発展することと、その後に出現する城壁でかこまれた集落遺跡とのかかわりが注目される。

  前3千年紀になると長江中流域に城壁でかこまれた集落遺跡が出現し、その最大のものは湖北省ティエンメン市(天門市)の石家河遺跡(せっかがいせき)で、約1300 × 1100mの隅丸長方形である。こうした遺跡は全部で7カ所発見されており、萌芽(ほうが)的な都市とみなされている。

  三星堆遺跡出土の人頭像 中国四川省広漢市(コワンハン市)の三星堆遺跡で2つの祭祀坑(さいしこう)が確認され、400点ほどの青銅遺物が出土した。人頭像は57点みつかっており、なかには金の面をかぶせたものもあった。高さ45.6cm、左右21.7cm。前13〜前11世紀。四川省考古研究所所蔵。

  長江下流にはこうした城壁でかこまれた集落遺跡はまだ確認されていないが、大規模な複合集落がみとめられ、すでに階層的な社会秩序が形成されていたことは、良渚文化の儀礼的玉器やそれを副葬した墳丘墓などから想定されている。

  良渚文化 りょうしょぶんか 中国の長江下流域にさかえた新石器時代後期の文化で、稲作農業をおこなっていた。その始まりは炭素14法による年代測定(→ 年代測定法)では前3000年ころとされている。終末については議論がわかれているが、おそくとも前2000年ころまでにはおわっていたと考えられる。分布域は現在の江蘇省、上海市、浙江省などで、なかでも太湖周辺が分布の中心となっている。→ 長江文明

  良渚文化は1930年代に浙江省で発見された。とくに36年に施マ更(せきんこう)により杭州の良渚遺跡群が調査されたことで、その存在が広く知られるようになった。当初は出土した黒陶が注目され、同様に黒陶を出土する竜山文化の一部とみなされていた。しかし50年代以降、調査が進展し、竜山文化とはことなった内容をもった文化であることがわかり、良渚遺跡群にちなんで「良渚文化」と命名された。

  良渚文化の遺物のうち、土器には黒陶のほかに灰色の土器(灰陶)がある。土器の製作にはろくろがつかわれ、その造形は装飾性にはとぼしいが機能的で均整がとれたものとなっている。とくに黒陶は表面をていねいにみがき、さらに焼成時にいぶし焼きをおこなうことで光沢にみちた黒色の土器となっており、技術水準の高さをあらわしている。生活の道具には石器や骨角器などがつかわれており、石斧や石鑿(いしのみ)のような木材伐採・加工具、石鋤(いしすき)のような土掘り具、石包丁や石鎌(いしがま)のような収穫具、石鏃や骨鏃のような狩猟具がある。

  装飾品や祭器・儀器では、とくに玉器が高度に発達していた。器種としてはj(そう)、璧(へき)、垂飾(すいしょく)、環(かん)、斧(ふ)などがあり、その造形は多様である。また表面にはひじょうにこまかな彫刻がほどこされており、高い製作技術をもっていた。

  良渚文化では、イネを主要な作物として、豚、犬、スイギュウなどを家畜とする農業が中心的な生業であった。ただし、石鏃や骨鏃も出土することから狩猟などもおこなっていたと考えられる。

  集落遺跡では平地住居のほかに、貯蔵穴や井戸などがみつかっており、安定した定住生活がいとなまれていたことがわかる。また特殊な遺構としては、大型の建築基壇が良渚遺跡群で発見されたとの報告もある。

  墓地にはこの文化に特徴的なものが発見されている。一般的な墓葬は人ひとりが入るくらいの土坑墓で、日常用具が少量副葬される程度であるが、これとはことなり、墳丘をきずいて墓地をつくり、特殊な遺物である玉器を副葬したものがある。なかには数十点にものぼる玉器を副葬した例も報告されている。

  良渚文化では、大型の基壇の存在や墓地の状況からみて社会の階層化がすすんでいたことがわかる。また精美な玉器や土器の存在からは専門の工人の存在が想定され、社会の分業化がすすんでいたことも明らかである。このように良渚文化の社会はじゅうぶんに発達した段階に達しており、一定の政治権力が生まれていたと考えることができる。

  長江上流域では新石器時代の城壁でかこまれた集落遺跡の存在はこれまで知られていなかったが、最近ようやく成都平原において5カ所のそうした遺跡が確認されるようになり、すでにそのうちの2カ所の発掘調査が本格的にすすめられている。その1つのシンチン県(新津県)で発見された宝?遺跡(ほうとんいせき)は、約1000 × 600mで、初歩的な調査では中原の竜山文化とほぼ同時期のものとみなされており、他のものもほぼ同時代と推定されている。

    IV  三星堆遺跡と蜀国

   前1500年頃    三星堆遺跡、大きく発展

  長江上流の四川省にある三星堆遺跡(さんせいたいいせき)は、黄河中流の竜山文化期に相当する前2500年にはすでに城壁をもつ集落へと発展していた。しかし、この遺跡がもっとも注目されたのは、土中から高度で独自なデザインのおびただしい数の青銅器や玉器(ぎょっき)、金製品などが発見されたからである。これらの製作年代は前1500〜前800年にわたっており、ほぼ殷、周王朝繁栄期にあたる。製作開始期の前1500年ごろには城壁もかなり大規模なものとなっており、このころ、三星堆の地に城壁都市として繁栄した謎の王国が存在していたことをものがたっている。

  長江流域はこうした新石器文化を基礎にして文明段階に入り、やがて下流域の呉、越、中流域の楚、上流域の巴(は)、蜀(しょく)が登場してくるが、しかし新石器時代から殷、周時代までのそれら諸国の形成過程については、まだほとんどわかっていない。

  その意味で近年四川省コワンハン市(広漢市)で発見された三星堆遺跡は、長江上流の蜀国の初期の姿をしめすものとして注目される。その遺跡は目のつきでた特異な仮面をふくむ大量の青銅器を出土したことで知られるが、そのすぐ南東で南壁が確認され、すでに確認されていた東と西の壁とあわせて約1600〜2100 × 2000mの城壁が確認されており、それは殷代早期の蜀国の都城とみなされている。

  長江流域に興亡したこれらの諸国は、「史記」などの文献史料をみるかぎり、その具体的な活動がわかるようになるのは春秋時代以後である。すると黄河流域に継起的に出現する夏(?)、殷、周(西周)などの中原諸王朝とこれら長江流域の諸国の関係はどうだったのか。それを明らかにするにはまだ史料的に限界があるとしても、旧来の黄河文明論を反転させたかたちで長江文明論を提唱するのは不毛である。むしろ相互の諸関係を通じて中国古代文化の多元性を明らかにすることにより、はじめて長江流域の固有の文明の姿が浮上してくると思われる。

  三星堆遺跡 さんせいたいいせき   中国内陸部長江上流域の四川省広漢市(コワンハン市)にある古代の遺跡。大量の青銅器や玉器、黄金製品がみつかり、黄河文明に匹敵する長江文明の存在を決定づける世紀の発見として話題となった。

  1986年、四川省の省都の成都(チョントゥー)から40kmほど北の広漢市南興鎮(ナンシン鎮)三星堆村(サンシンドイ村)で、煉瓦(れんが)を焼くための土をほっている作業中、アーモンド形の目をした人頭像や目のとびだした異様な仮面、3.8mにもなる巨大神樹などをふくむ多数の青銅器、玉器などを埋蔵した2つの長方形の土坑が発見された。

  この地域から玉石類が出土することは1929年ごろから知られていたが、本格的な調査がはじまったのは49年の中華人民共和国成立後、とくに80年代である。調査の結果、その文化は前期と後期からなることがわかった。前期文化の年代は黄河流域における竜山文化期に相当し、後期文化の下限は殷代末期〜周(西周)初期、あるいはそれ以降とみなされている。

  前期文化に属する遺跡は三星堆以外にも四川盆地に広範に分布しており、とくに最近、成都平原でいくつか発見されている城壁でかこまれた集落遺跡が注目され、すでに長江上流域に都市の始まりがあったことがうかがえる。三星堆遺跡でも城壁跡がみつかっており、南北約2km、東西約1.6〜2.1kmの城壁は、土を下からつきかためる版築(はんちく)によってきずかれていた。この城壁は後期文化に属し、前期文化層からは確認されていない。

  種々の青銅器や黄金製品がみつかった2つの土坑は城壁内南部にあり、それぞれ殷代中期と後期に属すると考えられる。このころが三星堆青銅器文化の最盛期である。その一部には殷や長江中流域の青銅器文化と共通する要素もみられるが、大多数はのちに蜀文化とよばれる土着文化の特色をしめす。黄河文明の中心地からはるか辺境の地に、このように華麗な青銅器文化が存在したことは、中国古代文明の成立過程を地方文化の視点からもとらえるべきことを示唆している。

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