サハリン

サハリン

   サハリン Sakhalin 

  
ロシア連邦の極東地域にある島で、日本名は樺太(からふと)。オホーツク海上にあり、ロシア本土とはタタール海峡(間宮海峡)によって、また南方の北海道とは宗谷海峡(ラ・ペルーズ海峡)によってへだてられている。かつて南サハリン(北緯50度以南)は日本領だったが、第2次世界大戦後にソ連(現ロシア連邦)に併合された。現在ロシアでは、サハリン全島をクリル列島(千島列島)とともにサハリン州としている。

  島の地形は南北方向に細長く、長さ約950km、幅24〜160km。南部は山がちだが、北部は比較的湿地や低地が多く、中部にポロナイ川とティミ川がながれる。おもな産業は、サケやマス、スケトウダラ、タラバガニなどをとる漁業、石油や石炭採掘などの鉱業、製材業など。南部の諸都市ではパルプ工業が盛んで、北部のオハ油田では石油と天然ガスを産出、パイプラインでアムール川下流のコムソモリスクナアムーレへ輸送される。主要都市はユジノサハリンスク(旧日本名は豊原)。

  ロシア人や日本人がサハリンにやってくる前から、北部にニブヒ(ギリヤーク)、北・中部にウイルタ(オロッコ)がすみ、南部にはアイヌがすんでいたといわれる。17世紀になって日本の松前藩が調査をはじめ、同じころロシア人の探検家もみられるようになるが、両者とも本格的な進出ではなく、このころは交易など中国・清朝の影響のほうが強かった。

  18世紀にロシアの進出が積極的になると、江戸幕府は南サハリンに調査隊を派遣するようになった。そして1808年(文化5)には間宮林蔵が海峡を確認し、サハリンが半島ではなく島であることを明らかにした。この海峡はのち間宮海峡とよばれる。

  1855年2月(安政元年12月)、ロシアと日本は日露和親条約(日露通好条約)によってサハリンの共同管理をとりきめた。しかし、雑居化がすすみ両国民の衝突が多くなったため、樺太・千島交換条約(1875)をむすんで日本はサハリンを放棄した。その後、1905年(明治38)には日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結の結果、サハリンは日本とロシアとで分割され、北緯50度以南が日本領、残りがロシア領となった。第2次世界大戦末期の45年(昭和20)8月、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して対日参戦すると南サハリンを占領した。翌46年には併合し、その後もソ連の支配はつづき、91年のソ連の崩壊以降はロシア連邦にひきつがれている

  1951年(昭和26)のサンフランシスコ講和条約で日本は、近接する島をふくめて南サハリンの領有権を放棄した。しかし、この条約にはソ連が参加せず、日本も放棄の相手国を明記していない。その後、領土問題を解決すべき日ソ間の平和条約もむすばれていない。

  日本政府は現在、南サハリンに対する領有権を公的に主張することはないものの、サンフランシスコ講和条約上、南サハリンの最終的な帰属は将来の国際的解決手段にゆだねられることになっているとし、帰属問題は正式には解決していないとの立場をとっている。

  ニッコウキスゲ(日光黄菅) ゼンテイカ、エゾゼンテイカともよばれるユリ科の多年草。

  北地では海岸に、中部地方では亜高山帯、ときに山地帯の湿原や草原に群生する。本州の中部地方以北、北海道とサハリン南部、南千島に分布する。尾瀬ヶ原(→ 尾瀬)、霧ヶ峰、日光戦場ヶ原には著名な群生地があり、花期には湿原が黄色にそまる。

  葉は根生し、幅2〜4cm、V字形におりたたまれて、2列に互生し、扇状に広がって先はたれさがる。花茎は高さ40〜80cm。6〜8月、葉の中心から花茎を1本直立し、茎の先の花序に2〜10個の花を開く。花被(かひ)は筒状漏斗(ろうと)形、花被片は6個で長さは7〜10cm。橙黄色で、朝開いて夕方にしぼむ一日花である。

  果実は(さく)果(→ 果実の「果実の分類」)で楕円形、長さは2〜2.5cm。

  北海道や本州北部のものは、全体が大型で花柄が短く、花被片が厚くて、色もこい。このため、エゾゼンテイカ(エゾカンゾウ)と分類して、別種または変種とされたこともあったが、形態からみて区別することがむずかしいので、同一種としてあつかわれている。

  分類:ユリ科ワスレグサ属。ニッコウキスゲの学名はHemerocalis dumortierii var. esculenta。

  蝦夷地 えぞち 蝦夷の居住地。

  古代に中国から華夷(かい)思想がはいってくると、日本の大和政権も、東北地方にすみ、政権にしたがわない者を蝦夷(えみし)とよんで、異民族としてあつかった。当時は関東北部と新潟県をむすぶ線より北の地をいい、蝦夷はアイヌ民族にかぎらず、ひろく東北から北にすむ人々をさした。のちに中央政権の支配地がひろがると、蝦夷地の範囲も北へおいやられ、鎌倉末期には津軽海峡以北にせばまった。室町時代に渡島(おしま)半島南部に和人(本州系日本人)が進出すると、蝦夷地は和人居住地以北の北海道本島と樺太(サハリン)および千島列島となり、しだいに蝦夷もアイヌ民族をさすようになる。

  和人の進出にともない、1457年(長禄元)コシャマインの戦でアイヌがはげしい抵抗運動をおこなうが、武田信広によって制圧された。信広は蠣崎(かきざき)氏を名のり、のち和人地の小領主も統一した。その子孫の蠣崎慶広(よしひろ)は、1590年(天正18)豊臣秀吉から蝦夷地支配を公認され、さらに99年(慶長4)には松前氏と改称し松前藩が成立する。

  松前藩の領地は和人地(松前地)だけで、はじめは西は熊石、東は亀田(函館市)までの範囲だった。和人は松前藩の許可なく蝦夷地への往来と永住を禁止されたため、実質的に蝦夷地はアイヌのすむ土地となったが、いっぽうで蝦夷地に関する交易などさまざまな権益は松前藩が独占することになった。→ 蝦夷地交易

  蝦夷地は、松前から海岸沿いに西にすすんで知床岬に達する西蝦夷地と、反対に東にむかって同岬に達する東蝦夷地、さらに樺太の北蝦夷地の3つにわける。また、東の襟裳(えりも)岬と西の神威(かむい)岬を境に、松前に近い地域を口(くち)蝦夷、遠い地域を奥蝦夷とよぶこともあった。

  江戸後期、たび重なるロシア人の南下により海防の必要性が高まり、幕府は1799年(寛政11)に東蝦夷地、1807年(文化4)には全蝦夷地を直轄としたが、21年(文政4)にはこれをやめている。54年(安政元)日本の開国によって箱館(函館)の開港がきまると、翌年、幕府は蝦夷地をふたたび直轄地とし、箱館奉行に支配させ、蝦夷地への和人居住もみとめた。69年(明治2)明治政府は開拓使を設置し、蝦夷地を北海道とあらためる。

  蝦夷地交易 えぞちこうえき 

  蝦夷地すなわち、アイヌ民族の居住地である北海道を中心にそれ以北の島々をふくむ地域を対象にした和人(本州系日本人)の交易。

  北海道の擦文(さつもん)文化の遺跡からは、本州産の鉄製刀剣が発掘されており、平安時代には交易があったことがわかる。鎌倉時代以降、津軽安東氏の拠点である十三湊(とさみなと)を中継地に、日本海沿岸地域と蝦夷地の交易が発展する。

  室町時代、渡島(おしま)半島南西部に小領主が館(たて)をかまえるようになって、館主がアイヌなどから手にいれた物産は、京都・大坂方面まではこばれた。これらは蝦夷の三品とよばれたサケ・ニシン・昆布が中心で、当時の手習い本「庭訓往来」にも、箱館(函館)近くでとれた宇賀(うが)昆布や蝦夷サケがでている。

  江戸時代には1604年(慶長9)徳川家康の公認をえて、松前藩が蝦夷地交易権を独占する。藩自身が、アイヌ首長を城下によんで、朝貢形式のウイマムという交易をおこなった。瀬棚町にあるセタナイチャシの調査によって、17世紀初頭、舶来の青磁のほか、肥前・唐津・瀬戸などの陶磁器、刀・ハサミなどの金属製品、ガラス玉などの装身具が蝦夷地にもちこまれたことがわかる。

  いっぽう、松前藩の各家臣には知行の一部として、蝦夷地内の商場(あきないば)での交易権があたえられ、アイヌの面倒をみるという蝦夷介抱の名目で、毎年船1艘の派遣をゆるされた。

  この交易権も江戸中期以降は商人の手にゆだねられ、和人の商人が場所請負人として蝦夷地の物流をにない、いっそう交易が盛んになる。商人は北前船(→ 廻船)で、酒・米・タバコ・塩をはじめ、鍋・刀などの鉄製道具、古着・漆器などを持参し、アイヌから熊皮・鹿皮などの獣皮、干ザケ・干ニシン・干ダラ・煎海鼠(いりこ)・昆布などの乾物、熊肝(くまのい)・鷲羽、薬用のオットセイなどと交換した。これらの産物の一部は、俵物として長崎貿易にも利用された。

  さらに、北蝦夷地とよばれた樺太(サハリン)を通じて、山丹錦など中国産物を交易することもあった。蝦夷地から産する砂金やタカは松前藩から幕府への重要な献上品となったが、元禄期(1688〜1704)ごろからは飛騨屋久兵衛などにうけおわせ、アスナロ・ヒノキなどの木材移出が盛んになる。

  白滝遺跡群 しらたきいせきぐん 

  北海道紋別郡の白滝村から遠軽町にかけて広がる旧石器時代の遺跡群。湧別川(ゆうべつがわ)とその支流の段丘上に密集して分布し、約90カ所の遺跡が発見されている。白滝村の北北西約6.5kmにある標高1147mの赤石山一帯は黒曜石の露頭が多く存在し、日本有数の黒曜石原産地として知られる。

  遺跡の存在は昭和初期ころから知られ、遠間栄治(とおまえいじ)によって石器の収集がおこなわれていた。1952年(昭和27)に旧石器時代の遺跡であることが確認されて以来、本格的な調査がおこなわれている。北海道の旧石器研究の出発点となった遺跡である。

  1959年、考古学、古生物学、地質学、地形学、年代測定などの関連分野で組織された白滝団体研究会の調査では、細石刃(→ 細石器)を製作する湧別技法の存在を明らかにした。この技法は、大形の石槍(いしやり)状の石器を縦割りにして、舟底のような形をつくりだし、そこから細石刃を大量にはぎとる技術である。この技法は北海道のみならず、沿海州(プリモルスキー)やカムチャツカなど北東アジアに広くみられる。

  赤石山の標高600m付近には幌加川遺跡(ほろかがわいせき)の遠間地点があり、100m2の範囲から40万点もの石器や剥片(はくへん)が出土している。赤石山から原石をはこびだし、石材の一次加工をおこなった遺跡と考えられている。最近では遺跡群全体の、黒曜石の採取から石材の加工、石器製作、搬出などの流通システムの研究がすすめられている。

  白滝産黒曜石の旧石器は、津軽海峡に面した知内町の湯の里4遺跡、函館市の石川1遺跡からみつかっているほか、400kmはなれたサハリン南部のソコル遺跡からも出土した。また新石器時代の遺跡ではあるが、沿海州のマラヤ・ガーバニ遺跡から出土した黒曜石も白滝産であることがわかっている。おもな遺跡は国の史跡に指定されている。