苗族

苗族

「中国貴州省 苗族の村」

  漢民族がやってくる以前から、貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)は文字をもたず、豊かな口頭伝承の世界に生きている。神祭のとき巫師が語って聞かせる天地創造の神話では、万物の始祖「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」が黄卵を生みおとし人間が誕生したという。また日本でいう歌垣(うたがき)の風習がのこっている。爬坡節(パーポーチエ)、吃新節などの祭りや、日曜日に開かれる市のとき、若い男女は歌のやり取りをしながら気にいった相手をみつけ、したしくなる。ミャオ族では游方(ヨーファン)とよばれる。著者鈴木正崇(当時、東京工業大学助手)が、1983(昭和58)フィールドワークをおこなった報告書。[出典]国立民族学博物館監修『季刊民族学』第27号、財団法人千里文化財団、1984

  中国の西南部、雲南省の東隣に位置する貴州省は、人口1800万人のうち、26パーセントが少数民族で、苗(ミャオ)、布依(プイ)、?(トン)、水(スイ)、i?(コーラオ)、彝(イ)族などが住んでいる。
   貴州に漢民族が本格的にはいりこんだのは、明代(1368〜1644年)以降のことであり、それ以前この地は嶮岨な山岳と急流という自然の要害に守られた少数民族(非漢民族)の別天地であった。  一説によると、貴州の貴(gui)は、鬼(gu?)に由来し、この地は漢民族からみると、鬼をあやつる鬼師や巫師の跋扈(ばっこ)する辺境地帯として、恐れられていたらしい。貴州の漢化は、雲南にくらべるとはるかに遅れてはじまったのである。 (略)
    「苗(ミャオ)」という民族名は、かれらの自称、ムウ、モン、ミャオなどに由来しているが、漢民族からみて南方にいる、いわゆる蛮族の総称として文献上にあらわれることもおおかった。ふるくさかのぼれば、中国の古文献『書経』の「舜典」に載る
「三苗」が、かれらの先祖にあたるとされるが、これらについての確証はない。苗族は文字をもたず、いっさいを口頭伝承で伝えてきたので、かれらの歴史をあきらかにすることは、なかなかに困難なのである。
   地元の人びとの意見にしたがえば、苗族は、揚子江(長江)中流域に居住し、稲作をいとなんで生活をしていたが、漢民族の南下にともなう圧迫により、山間部へと追いやられ、現在では山また山の貴州を主体として、山の尾根筋や、山麓(さんろく)の平地などにへばりつくように住むようになったのだという。その移動経路は、つねに東から西へであり、北タイの苗(メオ)族は、広西・雲南から、雲南の苗族は貴州から、貴州の苗族は湖南・湖北からといった移動の伝説が語られている。かれらの故郷は、つねに東方にあるとされ、死後、人びとの魂はその故地に帰っていくと信じられている。
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   卵から生まれでた人間

  苗族は、天・水・井戸・木・山・川・橋などに霊的存在が宿り、ふるい木にもいると信じている。木はとくにカエデの一種の「楓香樹」が好まれる。 この木は、家の大黒柱に使用されるし、山の尾根上にある村の上(かみ)や下(しも)などにかならずといってよいほど、植えられている。「楓香樹」には数かずの伝説があり、人類の先祖とされる蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」もこの木から生まれたという。この人類起源神話は、神祭のときに、巫師が語るもので、凱里で実際に、巫師の語りの録音をきかせてもらった。戸外で集録したらしく、途中に小鳥のさえずりや、ニワトリの鳴き声もはいっていた。
 
   その内容は、次のようなものである。  万物の始祖、万物の母親とされる「蝴蝶媽媽」が、半神半人の鳥博(ウーボ)と恋愛して結ばれ、12個の卵を生んだ。12個の卵には色や形によって、白卵・黄卵・花卵・赤卵・長卵・斑卵などがあり、黄卵のなかから生まれてきたのが人類の始祖で、姜央という人である。12個の卵は、1羽の神鳥が暖めて孵(かえ)したが、いくつかは孵り、いくつかは孵らなかった。黄卵からは人類、白卵からは雷公、長卵からは龍、花卵からは虎、といったように生まれでてきたが、孵らなかった4つの卵のなかに、神や鬼が含まれていた。神は万能ではないが、ベーフと称し、山の裾に住んでいると信じられ、人類に幸福をもたらし、災いをなくして禍事(まがごと)を除去するのである。人びとにとって神は祭るが、鬼は除くのであり、概して鬼は悪いものとされる。ただし、神と鬼の区別の仕方が、苗族と漢民族とでは、ことなっている。
                                                                                中◇寨(◇は土偏に貝)では神の祠は発見できなかったが、ある家の庭先で、祖先を祭る依代(よりしろ:神霊のよりつく物体。岩、樹木、御幣などの形態をとる)風のつくりものをみた。これは、田植えのあとから収穫まで、イネの豊作祈願のために立てておくといい、葉の裏が白いスギの木に、白い垂(しで)の紙(神祭りの結界に使用する注連(しめなわ)にさげる紙)をつけ、途中に白い土器を吊るし、下方に白いニワトリの羽をさしてあった。3年間は、その家で祭り、次はべつの家へ移るとのことで、焼畑の耕作地をかえる周期を、連想させると同時に、日本の若狭(わかさ)などにみられる依代のオハケや頭屋祭祀を思いおこさせた。  依代に関しては、雷山県の西江へいく途中で、田圃のなかに、御幣風の白い紙のついた棒がさしてある光景に出合った。これも祖先を祭るもので、「祭田」と称し、家ごとに田植えのあとに、アヒルを1羽供犠して供え、田にさした棒は、刈り取りまでおいておき豊作を祈る。この棒は、ティー・ハー・ヘェあるいは、ティエ・カー・ハイとよばれ、田圃のなかに白い切り紙をなびかせて、木の枝が立っているさまは、まるで日本の田の神祭りの依代のようであった。  凱里県の舟渓では、さらに形式が複雑で、家の玄関にあたるところの左右の軒先に供物台のような板を水平にわたして、その下にタケをとりつけ白紙や赤紙を巻いておく。稲穂をくくりつけてあるものもみうけられた。ここ舟渓では、ティー・ハー・ヘェをつくる目的はふたつあり、第一は全家族の平安無事を保護してもらう。第二は家族の子どもたちが健康で、家がゆたかに発展することを祈願するといい、イネをかけてあるときは、五穀豊穣を守ってくれるようにという意図がある。              ティー・ハー・ヘェの祭りは、巫師(鬼師)がおこない、今年の豊作を保護する目的で、ある家では1年に1回、べつの家では4、5年に1回執行する。ふつうは、祭りは2月におこなう。巫師は、1羽のニワトリをささげて、唱え言をして、祈念する。この依代風の木の意味あいは、各地でことなっているようであり、祖先を祭るといっても、多義的である。祖先には、「われわれの祖先」と称して、村・家共通のいわゆる始祖的存在をいうことがあり、その場合にも、山の開拓者と水田・畑の開拓者の区別をつけたりする。また「家族の祖先」をあらわすときには、家譜に記載するような系譜意識があり、個々の家に関わりをもってくるといえる。  祭りを担当する巫師は、村ごとに1人ぐらいずつはいるらしいが、われわれ外来者がかれらとあって話をきくことは、いまのところは不可能にちかい。

  民俗、とくに民間信仰は、長期間にわたって迷信弊習としていやしめられ、近代化を疎外するものとされてきたからである。複雑な政治の変動を経てきた中国で、こうしたことの調査はむずかしい。 舟渓でのききとりでは、豊作祈願、家族の保護の祭りのほか、人が死んだとき、病気がすごく悪くなったときにも巫師は頼まれる。清明節(陽暦の4月5日ごろ)や葬式にきて、招魂つまりタマヨビもおこなう。病気のときには、家の入口の上に、藁でつくった輪を7つつなげた、ミーヒュウとよぶものをつくる。ヒュウとは招魂のことである。丸い輪は、魂を家につなぎとめ、外にでられないようにしておくためだとされる。招魂のときは、巫師が1羽の雄アヒルまたは1匹の子ブタを殺して、唱え言を朗唱して、魂を招く。一般に病気になると、魂が離れると考えられているので、巫師は病人の魂を招き寄せる儀礼をおこなうのである。堂屋のなかで祝詞を朗唱し、供物などを飾り、巫師が離れた魂をみつけてくるという。 (略)

    仙女伝説の山、香炉山

  旧暦6月19日(7月28日)は、凱里の西方にある香炉山に登る爬坡節(パーポーチエ)」の祭りの日である。この日の午後、山麓の苗族や漢民族の若い男女は、香炉山に登って親しくなり、おたがいに対歌をして、恋愛する。苗語でいうヨーファン(游方)がこれで、苗族は、爬坡節、吃新節(イネの初穂の新嘗)などの祭りの日に、広場や村境の小高いところ、木の下、橋のたもとなどの、游方坪とよばれるところで対歌をして、自分の気にいった相手をみつける。対歌をしながら相手の性格などを判断して気にいると、女性が腕輪や首の銀環などを男性に渡して、約束事をかわす。対歌のおこなわれる時刻は、夕暮れや夕食後などのことがおおいが、日曜ごとに開かれる市、すなわち?場(ガンチャン)などでは、昼間にその広場でおこなったりもする。
  日本の『風土記』などに記載のある、いわゆる
「歌垣」や「?歌(かがい)」にあたるものが、苗族の「游方」である。  香炉山の山名は、頂上近くに巨大な岩塊があり、それがまるで香炉のようにみえることに由来している。凱里にはじめてきた日は雨模様であったが、ちょうどこの大岩に雲がかかり、香炉から煙がたなびいているようにみえた。仙女が、この雲に乗って天上から降りてくるといういい伝えがあり、爬坡節のときには、毎年雨が降るといわれていることも、このことと関係があるらしい。
  香炉山の爬坡節の由来を語る伝説にこんな話がある。  むかし、仙女が天上から地上をみおろすと、人間の若い男と女が歌をうたい踊りをおどっていた。これをみてうらやましく思った仙女は、おもわず地上に降りたった。そこは山の上で、このときある若い男が山に登ってきて、仙女と出会い、おたがいに対歌をして愛情を深めあって結ばれ、仙女は1人の子どもを生んだ。それは女の子で、半分は人間、半分は仙女であった。その後、天上の王様、天王爺(苗語ではカー・ワン・ウェー)が、天上に帰るようにと命令をくだした。仙女は命令に従わず、そのために石にかえられた。子どもは、いまだ幼くて乳を必要としていたが、その石から泉水が流れでて、これが?水(乳)であったので、女の子はこれを飲んで成長した。のちにこの子どもは、仙女となり天上へいった。
   毎年旧暦6月19日に、仙女は下界の香炉山へ降りてきて、人間が彼女を出迎えにいくのが、爬坡節の祭りなのだという。 これに関しては、さらにべつのいい伝えもあり、地上が洪水になって、この山上に生き残った男性を仙女があわれんで、地上に降りてきて対歌をして夫婦になったことにちなむともいわれている。もともとこの山の岩峰中腹の洞窟には、観音様が祭られていて、病気なおし、人助け、貧乏をのがれることなどを人びとが祈願したとされ、そこには道教や仏教も習合していた形跡がある。6月19日は、道教によれば、観音菩薩成道の節日であり、香炉山の爬坡節には、苗族の山岳崇拝や女性と岩石を結びつける考え方のうえに、漢民族の民間信仰が習合していった様相がうかがえるのである
                                   鈴木正崇

コイチョウ省(貴州省)

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プロローグ


   農業人口が87%を占める農業省。パーツーといわれる盆地では稲やトウモロコシ、山斜面ではかんきつ類、モモなどの果物が栽培される。動力・素材工業をはじめ、機械、化学、紡績などの工業がある。宇宙開発、電子、航空機からなる国防工業基地として知られる。日本でも有名なマオタイチュウ(茅台酒)などの酒造やタバコ製造は省内の軽工業の中核をなす。

轟音(ごうおん)をあげる雄大な景観として知られる黄果樹瀑布(高さ68m、幅81m)は、貴陽の西150kmにある。ほかに清代初め創建の弘福寺、アンシュン(安順)の竜宮鍾乳(しょうにゅう)洞など、名勝史跡が多い。貴州大学(1902年創立)など28の高等教育機関、少数民族研究所などがある。

戦国時代は非漢民族の夜郎(やろう)国の地だった。前110年に漢の管轄下にはいった。1662年、清王朝の成立とともに貴州省がおかれた。1982年から貴陽を最初に、22の市、県が順次対外開放された。現在50カ国以上と経済交流をおこなっている。

     歌垣

   歌垣 うたがき 日本古代の習俗。「風土記」「万葉集」「古事記」「日本書紀」「続日本紀」によれば、老若男女を問わず歌を掛けあって配偶者や恋人をもとめたり、歌競べをたのしんだりしたもの。春や秋に、山の上や温泉、水辺、市などでおこなわれたらしい。もともとの意味は「歌掛き」だったと思われるが、8世紀には、「人垣」をつくって歌を掛けあうという意味での「歌垣」の表記が一般化していた。東国では「かがひ(かがい)」ともよばれたが、その語源は「掛け(掛き)合い」と思われる。なお、宮中賛歌をともなう集団舞踊の踏歌(とうか:あられはしり)を歌垣と混同した資料があるが、宮中行事の踏歌と民間の歌垣とはまったく別なものと考えるべきである。

    ミャオの神話と歌垣

漢民族がやってくる以前から、貴州省の山地に住む少数民族、苗族(ミャオ族)は文字をもたず、豊かな口頭伝承の世界に生きている。神祭のとき巫師が語って聞かせる天地創造の神話では、万物の始祖「蝴蝶媽媽(フーティエマーマー)」が黄卵を生みおとし人間が誕生したという。また日本でいう歌垣(うたがき)の風習がのこっている。爬坡節(パーポーチエ)、吃新節などの祭りや、日曜日に開かれる市のとき、若い男女は歌のやり取りをしながら気にいった相手をみつけ、したしくなる。ミャオ族では游方(ヨーファン)とよばれる。著者鈴木正崇(当時、東京工業大学助手)が、1983(昭和58)フィールドワークをおこなった報告書。

   II  辺境の少数民族の歌垣

  歌垣は、日本では近年まで琉球諸島に類似のものがあったと思われるが、現在は民俗芸能としてのこされているだけである。古代日本の歌垣を考えるならば、むしろ雲南省など中国の西南地域、ネパール、ブータンなどの少数民族が現在もおこなっている、原型的な姿をのこした歌垣を参考にしたほうがいい。歌垣は稲作文化とともに伝播(でんぱ)した習俗だと思われ(→ 稲作)、また、歌垣をおこなっていた古代の日本列島の人々は、当時の先進国中国からみれば辺境の少数民族だったという点からも、現在、歌垣をおこなっている彼らと共通しているからである。

  現存する少数民族の例では、歌垣は、わかい人が大勢あつまるなら、どんな目的の集まりででもおこなわれる。葬式でおこなわれる例さえある。歌の掛け合い自体は、たずねてきた客と主人、交渉事での当事者どうし、創世神話をうたうシャーマンと聞き手の代表、その他さまざまな機会にかわされる。古代の日本でも、このように多様な場面で歌の掛け合いがおこなわれていたと思われるが、とくに、わかい未婚の男女が異性の相手をもとめる際の歌の掛け合いを「歌垣」とよぶことにしたのであろう。なお、古代日本の歌垣を、農耕の予祝や豊作感謝の行事に関連づける説が広まっているが、これは、後世(中世から近代にかけて)の農村の春秋の山入り行事にモデルをもとめすぎた論である。

    III  模擬的恋愛をたのしむ文化

  少数民族での実例からすると、歌垣の第一の目的は恋人や配偶者を獲得することであり、実際にかなりの男女がのちに結婚する。なかには、その日のうちにむすばれる男女もあるだろうが、基本的には、歌垣の場での情熱的な歌の掛け合いは、歌垣という祭式的な時間と空間における模擬的な恋愛表現ととらえたほうがいい。古代日本の歌垣は性的解放の場であったとする説が多いが、このような少数民族の歌垣の例からいえば、やはり模擬的恋愛歌の応答をたのしむのが主目的の場であり、このような恋愛表現の蓄積が、「万葉集」での多数の恋愛歌群(→ 相聞)を生みだす母胎となったのであろう。

  ミャオ Miao 中国の貴州省、湖南省、四川省、雲南省、広西チワン族自治区、海南省海南島、およびベトナム、ラオス、タイ、ミャンマーのおもに山地にすむ人々。中国内におよそ740万人、そのほかの地域にも50万人以上いると推定される。言語はシナ・チベット語族ミャオ・ヤオ語派のミャオ語。メオ、モン(Hmong)ともよばれる。自称としてモンをつかうグループが多い。女性の民族衣装の色などによって、青ミャオ、白ミャオ、黒ミャオ、花ミャオなどに細かくわかれる。中国の史書には古くから「苗」の記述があらわれるが、それとの関係もふくめてミャオ族の起源についてはいまだによくわかっていない。

  生業は焼畑農法による陸稲、雑穀、イモ類などの栽培である。一部では棚田式の水稲耕作もおこなう。ケシ栽培も所によってはみられた。同姓者による父系出自集団にわかれ、婚姻はその単位で外婚制をとる。一夫一妻婚、夫方居住がふつうである。村は同姓者によって形成されることが多い。日本の歌垣に似た慣習がある。

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