マヤ文明

マヤ文明

   マヤ文明

   前1500年頃 - 100年頃 マヤ文明の黎明

   ユカタン半島の熱帯雨林地域にも前1500年ごろには土器をもつ人々が焼畑など小規模な農耕社会をきずいていた。前900年ごろからは祭祀(さいし)の建造物もみられるようになるが、マヤ文明の特徴がかなりはっきりしてくるのは、前300年ごろにはじまる形成期(先古典期)後期からである。石碑や基壇、神殿をもつ都市があらわれ、前150年ごろのエル・ミラドールではピラミッド神殿がたちならぶ大都市へと発展する。そして2世紀には、マヤ文字やマヤ暦などを特徴とするマヤ文明が誕生するのである

   300年頃 - 900 マヤ古典期

   メソアメリカ地域で300年以降、マヤの都市ティカル、コパン、パレンケなどが次々に最盛期をむかえた。そしてこれら諸都市の衰退がはじまる900年までの600年間を古典期とよぶ。これらの都市ではそれぞれ独立した王朝が成立、宗教および政治の権力をにぎる王や貴族が宮廷や神殿で豊かな生活をおくっていた。各都市はたがいに競いあい、戦争をくりかえした。マヤの農耕による食糧生産力は大きく、焼畑だけでなく灌漑(かんがい)水路をもつ階段畑などでトウモロコシ、カボチャ、マメ類などがつくられていた。またメソアメリカの他の民族との交易も活発だった。マヤ文字がつかわれ、発達したマヤ暦のために天体観測がおこなわれていた。なお、ティカルやエル・ミラドールでの都市の発達ははやく、古典期のはじまりを2世紀ころとする考えもある。

   105年頃 マヤ文字

   このころ、メソアメリカにすむマヤ人の間で、独自の文字体系や暦法が形成された。石碑などにきざまれた文字は、表意文字であるとともに表音のためだけにもちいられることがあり、両者の複合的な組み合わせによって、言葉や文章が表現された。

   表意的要素のうち、もっとも普遍的なものは数詞だが、これにも複雑な表記と簡単な表記がみられる。複雑なものは、それぞれの数字に対応する神の顔をえがいたもので、簡単なものは、5をあらわす棒、1をあらわす点、0をあらわす貝のような記号の3要素からなっていた。点や棒をつかった表記はきわめて古い時代に成立しており、マヤ人はこれによって、天文学的な数をも表現することができた。

   マヤ文明の広がり マヤ文明の支配地域は、現在のメキシコとグアテマラの一部にあたるユカタン半島全域、ホンジュラス、エルサルバドルにわたっていた。この地域全体に分布するマヤの都市遺跡は、彼らの建築技術の高さを証明している。マヤ文明は900年ごろに急速に衰退にむかうが、その原因は現在もはっきりしていない。

   古代都市チチェン・イッツァ メキシコ、ユカタン州にあるマヤ文明の遺跡。300900年の文化の絶頂期に、マヤ人はこの地にモザイク彫刻で装飾されたみごとな建造物をたてた。

   マヤの絵文書 マヤ文字がえがかれた「絵文書」は4冊しか現存しないが、マドリードにあるこのトロ・コルテシアノ絵文書はそのうちの一冊である。この絵文書がつくられたのは16世紀にスペイン人の征服者が上陸する直前のことで、300900年ごろに繁栄したマヤの大文明が衰退してから数世紀後だった。この絵文書は吉日と凶日をしるした予言のカレンダーであり、狩猟や神像づくりに最適の時期などがわかるようになっている。

    マヤ文化の浮彫 マヤの人々は、この写真にみられるような複雑な浮彫をのこした。こうした浮彫は建物の装飾につかわれたり、単独で石碑としてつかわれた。マヤの浮彫は、その文化についてのさまざまな情報をもたらしてくれる。

マヤバン

   メキシコのユカタン半島北部の都市遺跡マヤパンは、マヤ後古典期の大遺跡である。12世紀初めころに建設され、13世紀半ばにはマヤの中心都市となり、15世紀半ばまで繁栄した。この時代のユカタン地方はマヤ人の小王国が乱立し、戦争が多かったため、都市域は広さ約4km2の範囲がほぼ楕円形(だえんけい)の防壁でまもられていた。写真はマヤパンの中央にあるククルカンをまつる神殿跡である。ククルカンはトルテカやアステカのケツァルコアトルにあたるマヤの神で、伝説上の支配者。

トゥルム 13世紀、ユカタン半島北西端につくられた都市。

コパンの建物跡

   ホンジュラス西部、グアテマラに近いコパンの遺跡は、壮大な古典期マヤ文明の中心地のひとつである。宮殿、神殿、球技場などがあり、9世紀初めまでさかえた。マヤ暦やマヤ文字(ヒエログリフ)をもつ高度な文化があったが、アメリカ大陸にスペイン人がやってきた1500年代には、すでに廃墟(はいきょ)となってひさしかった。

   マヤ文明マヤ Maya マヤ語系の言語を話す中央アメリカの先住民集団の総称。現在は、メキシコのベラクルス、ユカタン、カンペチェ、タバスコ、チアパスの各州のほか、グアテマラのほぼ全域とベリーズやホンジュラスの一部地域に分布している。もっともよく知られているのがマヤ人であり、おもにユカタン半島にすんでいる。そのほかにはベラクルス州北部のワステカ人、タバスコおよびチアパス州のツェルタル人、チアパス州のチョル人、グアテマラの高地地方のキチェー人、カクチケル人、ポコムチェ人、ポコマン人、グアテマラ東部およびホンジュラス西部のチョルティ人などがいる。ワステカ人だけはやや離れているが、それ以外の人々は隣接した地域にすむ。かつてそこにさかえた古代マヤ文明は、アメリカ大陸でもっとも発達した文明だった。

   スペイン人が渡来するまでは、トウモロコシを主作物とする農業がマヤ経済の基盤をなしていた。そのほかにはワタ、豆、カボチャ、マニオク(キャッサバ)、カカオなどを栽培していた。犬と七面鳥をかっていたが、荷物をはこぶ家畜はもたず、車輪をもちいた運搬手段はなかった。染色と織物に高度の技術をもち、土器芸術は、ペルーの古代アンデス文明とともに、新大陸で最高の水準にあった。物の交換には、カカオ豆と銅の鈴が貨幣がわりにつかわれていた。銅は装身具にも利用された。金、銀、ヒスイのほか、貝や鳥の羽根も装身具としてもちいられていた。しかし、鉄は利用されなかった。

   II  建築

   古代都市チチェン・イッツァ メキシコ、ユカタン州にあるマヤ文明の遺跡。300900年の文化の絶頂期に、マヤ人はこの地にモザイク彫刻で装飾されたみごとな建造物をたてた。ALLSTOCK, INC./Randy Wells  

   古代マヤ文明は、すばらしい建築をのこした。パレンケ、ウシュマル、マヤパン、コパン、ティカル、ワシャクトゥン、チチェン・イッツァなどの大遺跡が知られている。その多くは宗教儀式のための巨大なセンターで、広場をかこむようにしてピラミッド建築などが配置されていた。

   マヤのピラミッドは何段もの基壇構造をつみかさねたもので、急傾斜の階段がもうけられていた。ピラミッドの内部は土と砂利でできており、漆喰(しっくい)もつかわれた。表面には切石をはり、化粧漆喰で仕上げがなされることもある。入口の梁(はり)の部分には木材がつかわれ、木彫りの彫刻もある。本格的なアーチ構造ではないが、両側の石積み壁の上部を少しずつ張りださせ、天井部分であわせる持ち送り式アーチを採用していた。この方法では壁があつくなり、内部空間もせまくなる。ほとんどの場合、窓もない。建物の外壁は、彩色された彫像、化粧漆喰の像、石彫、石のモザイクなどでかざられた。

   一般の人々の家は、アドベ(日干し煉瓦)や木の枝を利用したもので、現在のマヤ社会にみられるような簡単な構造だった。

   階段 かいだん Stair 階段は、人類が生活する空間の中で、上下にことなる2つ以上の平面が存在する場合、各平面をむすびつけ、連続させるための建築的、土木的装置である。したがって、建物内部の平面の差異がさほど生じない平屋建ての建築が大部分を占めていた時代や、風土や宗教的な理由などから、建物の多層化に熱心でなかった地域においては、階段の存在理由もさほど強いものとはなりえず、発達もしなかった。

   低層の木造建築が主流を占めた伝統的な日本建築の場合も、建物内部における階段を特別に重要視する傾向はみられず、もっとも原理的なデザインの段階にある、いわゆるはしごもしくははしご段が長くつかわれた。これに対して、長い年月を通じて建物の高層化、多層化に熱心であった西洋建築の場合には、ひじょうに多彩で華麗な階段デザインの展開を、その歴史にみることができる。

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   II  権力を象徴する舞台

   歴史的にみると階段は、たんに上下にことなる平面をむすびつけるという機能的な役柄にのみしばられていたわけではない。上の平面と下の平面との間に、価値や意味上の変化がおこり、上の平面により高い重要性が認識されるようになった場合には、そこへといたる階段は特種な象徴性をおび、いわば階段以上の何かに変容する。また、階段を使用する特定の人間たちが、特別の権力や経済力をもつ場合には、階段がそうした力の誇示のための「舞台」ともなり、階段をかこむ壮大な空間の内部を自由に昇降することでえられる特別の快楽を彼らに提供した。近代になると、かつて聖職者や権力者など、ごく一部の者にかぎられていた空間内の昇降がもたらす快感や表現力を、鋼鉄造や鉄筋コンクリート造といった新しい構造の階段が、市民層などより多くの階層にも提供するようになって、さらに階段の社会的な意味が変化した。

   III  街路上の土木的装置

   階段は、最初は屋外の土木的な装置として登場したと考えられる。村落や都市が高低差のある丘陵地や沿岸傾斜地などにつくられたとき、上の家屋群と下のそれとをむすぶ道が同時につくられる。これらの道路が、人が上り降りするにはあまりにも危険な勾配(こうばい)をもつときに、その道を、ほぼ一定の高さ(蹴上:けあげ)と奥行き(踏面:ふみづら)で連続する「段」に分割し、階段が誕生した。この種の初歩的な土木的工作によってできた街路上の階段は、ヨーロッパ各地の山岳都市や地中海沿岸の漁村、北アフリカの諸都市や日本の傾斜のある海岸沿いや山地の村や町でみることができる。

   IV  「聖なるもの」への転換

   出雲大社 出雲大社本殿は切妻造、妻入りの代表的な大社造で、高床造の単純な構造は古代神社建築の形式を純粋につたえている。古くは東大寺の大仏殿とならぶ大きさがあったとされ、建築史家福山敏男はもっとも古い姿を復元する際に、棟高約50mといわれる神殿へのアプローチとして長さ100m強の長大な階段を想定して作図した。出雲大社

 

   出雲大社 出雲大社本殿は切妻造、妻入りの代表的な大社造で、高床造の単純な構造は古代神社建築の形式を純粋につたえている。古くは東大寺の大仏殿とならぶ大きさがあったとされ、建築史家福山敏男はもっとも古い姿を復元する際に、棟高約50mといわれる神殿へのアプローチとして長さ100m強の長大な階段を想定して作図した。出雲大社

   日常的につかわれていた屋外の土木的階段の一部は、おもに宗教的な契機によって、参詣(さんけい)用階段となり、特別の宗教的建築と一体化すると同時に、非日常的なものへと転換する。天に近い所に位置する「聖なるもの」と下方の「俗なる世界」をむすぼうとする者たちが、階段に特別の役割をあたえて聖別した結果、階段は聖なる空間域への不可欠な前段階として、神殿、社殿、寺院( 寺院建築)、聖堂などの一部として組みこまれ建築化していく。

   登呂遺跡の高床倉庫 復元された弥生後期の登呂遺跡の倉庫。高床倉庫は日本の寝殿建築の原型のひとつとされるが、1本の丸太でつくられたこの素朴な階段(梯子:はしご)も、俗世と聖なる空間をむすぶ宗教施設の階段として昇華していったと考えられる。静岡市立登呂博物館 

   日本の神殿建築のひとつの原型は、縄文や弥生時代の高床倉庫( )とされているが、この倉庫にもうけられた単純素朴な階段が、やがて宗教施設の一部として昇華されていく過程があったと思われる。建築史家福山敏男が、もっとも初原的な神殿形式をもつ出雲大社のもっとも古い姿を「出雲大社金輪造営図」をもとに復元した際、棟高が15(50m)といわれる神殿へのアプローチとして、「引橋一町」、つまり長さ1(110m)にもおよぶ長大な木製階段(引橋)を想定して作図した。こうした規模の階段が実際にあったか否かについては今も議論がわかれるが、神殿への懸け橋として、階段の「聖なるもの」への劇的変身をものがたる注目すべき一例である。

   登呂遺跡の高床倉庫 復元された弥生後期の登呂遺跡の倉庫。高床倉庫は日本の寝殿建築の原型のひとつとされるが、1本の丸太でつくられたこの素朴な階段(梯子:はしご)も、俗世と聖なる空間をむすぶ宗教施設の階段として昇華していったと考えられる。静岡市立登呂博物館

   V  直線上昇型の聖なる階段

   ハトシェプスト女王葬祭殿 1478年ごろ、テーベ近くのディール・アルバフリーに建造された埋葬用の石造寺院。柱廊でささえられた3段のテラスをつなぐ石の階段がそれぞれの中央軸をむすび、建築と一体化しはじめた聖なる階段の初期段階をしめしている。

 

   ハトシェプスト女王葬祭殿 1478年ごろ、テーベ近くのディール・アルバフリーに建造された埋葬用の石造寺院。柱廊でささえられた3段のテラスをつなぐ石の階段がそれぞれの中央軸をむすび、建築と一体化しはじめた聖なる階段の初期段階をしめしている。

   呪術(じゅじゅつ)的、あるいは宗教的な聖所へといたる階段を、建築の一部としてくみこんでいく歴史的過程は、日本だけでなく、古今東西のさまざまな場所や時代で見いだすことができる。古代エジプトの女王ハトシェプストが建築家センムトにつくらせた建造物をふくむ、前21世紀から前15世紀にかけての3つの葬祭殿が丘陵の崖(がけ) 下にならぶディール・アルバフリー。ここでは、葬祭殿のテラスをむすぶ石の階段がそれぞれの中央軸線上を直線的にむすび、外部階段ながら建築と一体化しはじめた聖なる階段の初期状態をしめしている。→エジプトの「歴史」:トトメス3

   太陽のピラミッド メキシコのテオティワカンにある「太陽のピラミッド」は、紀元50年から200年の間にたてられた。太陽神の神室がある高さ約63mの頂上まで、段型ピラミッドの中心部を階段が上昇し、聖域と俗社会を直線的にむすび、同時に分離している。

   一方、メソポタミアの前22世紀の、ウルの大ジッグラトでは、3段の段型ピラミッドの頂部にある神の座にむかう正面階段と、左右からこれと直角にまじわる、宗教的であると同時に演劇的にもみえる2本の階段がつくられている。メソアメリカの段状ピラミッドも同様で、テオティワカンの「太陽のピラミッド」では、メソポタミアの場合と同じように、最上部に位置する神殿もしくは祭壇にむかう段型ピラミッドの中心軸をモニュメンタルな階段が上昇し、聖域と世俗的地上世界を直線的にむすび、同時に分離している。

   VI  ミナレットの螺旋型階段

   ハトシェプスト女王葬祭殿 1478年ごろ、テーベ近くのディール・アルバフリーに建造された埋葬用の石造寺院。柱廊でささえられた3段のテラスをつなぐ石の階段がそれぞれの中央軸をむすび、建築と一体化しはじめた聖なる階段の初期段階をしめしている

   サーマッラーのミナレット イラクのサーマッラーにある大モスクのミナレット。ミナレットは、ムアッジンとよばれる係が信徒に祈りの時をつげるための塔で、高さ53mの塔の側面には螺旋(らせん)状の斜路が頂上まで等間隔でつけられている。Art Resource, NY/SEF  

   一定の勾配で、まっすぐに上昇する直線上昇型の外部階段に対し、同じ古代史を彩る、もうひとつの形式の外部階段があった。それはおもに斜路風の昇降路によって構成された螺旋(らせん)型の外部階段で、この形式の例としては、サーマッラーのミナレット(礼拝の時を知らせる塔)がある。アッバース朝第10代のカリフ、ムタワッキルが建設した巨大な多柱式モスクの遺構の一部で、高さ53mにおよぶ。ここでは、上にいくにつれて先細りになる塔の側面を、斜路が同じ間隔で渦巻き状にかこんでのぼっているが、螺旋型斜路のもつ連続感と上昇感が不思議な魅力を構築物の表情にあたえている。

   バベルの塔 16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲル()による「バベルの塔」の油彩画。聖書では、バベルの塔はメソポタミアの平野にあったとされ、神とひとしくなろうとする人間の欲望と傲慢(ごうまん)の象徴とされている。ブリューゲルの絵画でも、神に破壊された巨大な高塔と螺旋(らせん)状の階段や斜路が悲劇的にえがかれている。

   この種の螺旋型外部階段は、ジッグラトとともに、聖書の「バベルの塔」のイメージの源泉とされ、ルネサンス期のピーテル・ブリューゲル()の絵画でも、神によって破壊された巨大な高塔と、その外周をめぐる螺旋状の斜路や階段が悲劇的に描かれている。この場合の階段は、「聖なるもの」には属さず、人間たちへの神の戒めをよびおこす、奢(おご)りと虚飾の場であったことはいうまでもない。

   VII  古代建造物の内部階段

   古代建造物の内部空間における階段の発達については、遺跡発掘などからえられる史料がかぎられていることもあって、いまだ不明な点が少なくない。エジプトのピラミッドの内部には、精巧で複雑な内部階段が設置されているが、その到達先が一般的には墓室( )だったと考えられ、生きた人間が使用する階段とはことなる性格のものだった。

   世俗的な建築における階段の遺跡では、クレタ島のクノッソスの宮殿遺跡の中に斜路や階段室などのある区画があり、光庭のまわりを円柱廊がめぐる大階段室などが復元されているが、階段自体のデザインと空間は、格別歴史的な独創性をおしえてはいない。古代ギリシャ( ギリシャの「古代ギリシャ」)ではエピダウロスなどの野外劇場、古代ローマではローマのコロセウム( 円形劇場)に代表されるような多層階の大建造物などは階段が不可欠だったが、階段自体に特別な表現性や象徴性をみいだすことはむずかしい。

   VIII  裏方に甘んじた中世の階段

   シャルトル大聖堂の内階段 フランス北部のシャルトルにあるシャルトル大聖堂は、ゴシック建築を代表する教会として知られる。ゴシック建築の教会では尖塔(せんとう)や鐘楼にのぼるための石造螺旋(らせん)階段が発達したが、これらの階段もあつい壁にかくされ、聖堂の主要空間とまじわることは少なかった。長谷川 尭撮影 

   III  文字

   古代マヤ文明は文字を考案し、人々は石碑や石の階段などに神話や歴史をきざんだ。マヤ文字は石碑だけではなく、樹皮などを利用した折りたたみ形式の本にものこっている。これらは絵文書とよばれ、4冊だけがこんにちまでつたえられている。ドレスデン絵文書、ペレス(パリ)絵文書、トロ・コルテシアノ(マドリード)絵文書、グロリア絵文書である。これらの書物には、農業、狩猟、天候、病、天文などについてかかれており、暦をもとにした占いのためにつかわれていたようだ。

   IV  宗教

   マヤ文化の浮彫 マヤの人々は、この写真にみられるような複雑な浮彫をのこした。こうした浮彫は建物の装飾につかわれたり、単独で石碑としてつかわれた。マヤの浮彫は、その文化についてのさまざまな情報をもたらしてくれる。Liaison Agency/George Swain  

   マヤの人々は多くの神々を信仰していた。一般の人々の儀礼では、とくに雨の神チャクが重要だった。最上位の神は天の神イツァムナーと創造の神ククルカンである。ククルカンはトルテカやアステカの神ケツァルコアトルと関係がある。マヤの宗教でもっとも重要な特徴は、神が時間を支配しているという観念である。さだめられた期間を特定の神が交代で支配し、その神が同じ期間、人々の行動も支配すると考えていた。また、マヤではひじょうに複雑な暦のシステムが発達していた。

   V  歴史

   マヤ文明の形成期は前1500年ごろにさかのぼる。最盛期は後300〜900年で、古典期とよばれている。この時期、パレンケ、ティカル、コパンなどの大祭祀センターがきずかれた。

   後古典期になると、マヤ文明の中心はユカタン地方にうつった。この時期のマヤ芸術は、メキシコ中央部のトルテカ文明の影響が顕著にみられる。メキシコ系の人々がマヤの地を侵略したか、移住してきたと考えられている。後古典期の前半はチチェン・イッツァが中心であり、その後、中心はマヤパンにうつったが、やがて分裂をくりかえし、マヤパンも放棄されてしまった。16世紀にスペイン人が到来したときには、もはや強大な国家はなく、征服はたやすくおこなわれた。しかし実際には、そのあともマヤの抵抗運動はしばしばおこり、独立を主張する村々をメキシコ政府が掌握したのは1901年のことだった。

   日干し煉瓦 ひぼしれんが Adobe スペイン語でアドービは、日干し煉瓦と、その材料になる土のこともさす。この土は世界じゅうの乾燥地域と雨が少ない地域、とくに北アフリカ、メキシコ、アメリカ南西部に多く、アメリカ西部では数千平方キロメートルにわたって地表をおおっている。日干し煉瓦は、古代バビロニア、古代エジプト、北アメリカと南アメリカの先住民の間で住居やそのほかの建物にもちいられていた。

   日干し煉瓦の材料となる土は粘土と石英、長石そのほかの鉱物が微妙にまざりあい、水をふくんでいる間は成形が容易だが、乾燥するとかたくなって、ほりおこすのは困難になる。しかし灌漑(かんがい)をおこないさえすれば肥沃(ひよく)で、小麦、牧草、そのほかの収穫物をもたらしてくれる。この土に藁(わら)をまぜて煉瓦の形にし、1〜2週間、日にほす。この煉瓦は水にぬれるとくずれやすいので、降水量が少ない地域でしかつかえない。また、ひさしや石造りの基礎をそなえ、降雨による損傷をふせいでいる。

   日干し煉瓦はメキシコやアメリカ南西部、中国など世界の特定地域で現在でもつかわれている。北アメリカのプエブロ族は、アドベとよばれる日干し煉瓦で住居やかまどをつくるが、彼らの集落のいくつかは何世紀もたつのにいまだに健在である。

   マヤのピラミット

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