黄河文明

黄河文明

 黄河文明

    前5500年頃    黄河文明の黎明期

  黄河流域は、寒冷ながらも農耕に適した黄土層にめぐまれ、早くから農業が発達した。河南省の裴李崗遺跡(はいりこういせき)や河北省の磁山遺跡(じざんいせき)などによれば、新石器時代早期、前5000年ごろの黄河中流域ではすでに豚、ヒツジなどの家畜の飼育やアワの栽培がおこなわれ、質はあまり高くないが、さまざまな土器がつくられていた。この中流域はその後、仰韶文化(ぎょうしょう)、竜山文化をへて国家の形成へとすすみ、中国歴史の中心舞台となる

  黄河文明 こうがぶんめい 従来、中国第2の大河である黄河の流域が、中国古代文明誕生の地であると考えられ、そこから「黄河文明」という概念が生まれ、20世紀前半にはひろく支持されたが、現在では見直しがすすんでいる。

   II  「黄河文明」の提唱

  20世紀の初め、黄河の流域で、新石器時代(→ 石器時代)や伝説上の殷王朝の遺跡があいついで発見されたことにより、ナイル川流域のエジプト文明、ティグリス川とユーフラテス川流域のメソポタミア文明(→ メソポタミア美術)、インダス川流域のインダス文明とならぶ古代文明として「黄河文明」という概念が形成された。

   III  「黄河文明」の見直し

  中華人民共和国が成立した1949年以降、中国全土で遺跡の発掘が盛んにおこなわれるようになり、黄河流域外の資料が蓄積されてくると、中国の古代文明が「黄河文明」という枠におさまらないことが明らかとなってきた。また、50年代末に黄河流域の新石器文化が、中流域と下流域では系統がことなることがはっきりしてくると、黄河流域の新石器文化を一括してとりあつかうことも不可能となった。ついで、文化大革命の終結後から現在にいたるまで、長江流域など黄河流域外の大規模な遺跡発掘があいつぎ、「中国古代文明=黄河文明」というイメージは崩壊した。

  1980年代以降は、すでに新石器時代のはやい段階において、黄河流域以外の地域にもいくつかの文化が独立して存在し、それらがお互いに影響しあいながら発展し、中国古代文明を形成した、という見方が定説となりつつある。

   IV  黄河流域の新石器文化

  黒陶 前2500〜前2000年の山東竜山文化の高脚坏(こうきゃくはい)。高質な黒陶は、ろくろで成形され、土器表面はみがかれているものが多い。器種は多様で、高坏、鼎(てい)、鉢(はち)など。鼎などの三足器は殷(いん)、周代の青銅器の原型になったといわれる。山東省南部の日照市東海峪出土。高さ22.6cm。

  黄河流域の自然環境は、中流域と下流域とでは、様相がことなっている。

  中流域の新石器文化は、河南省の裴李崗(はいりこう)遺跡と河北省の磁山遺跡(→ 磁山文化)の文化がもっともはやい段階に属する。前5000年ごろの文化で、豚・ヒツジなどの家畜の飼育、アワの栽培がすでにはじまり、土器の質はあまり高くないが、さまざまな器種がつくられていた。これらの遺跡は、黄土台地と平野の境に位置し、初期農耕に適した地域といえる。

  彩陶 中国甘粛省から出土し、前2500年ごろのものと推定されている。黄河中流域の仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)の流れをくむ黄河上流域の甘粛仰韶文化に属する。

  次の時代の仰韶文化は、陝西省・河南省など黄土台地から平原西部にかけて分布し、前4000年ごろ〜前3700年ごろに存在した。表面がみがかれ、黒や赤などで彩色された彩陶とよばれる土器を使用し、おもに農耕と牧畜によって定住生活をいとなんでいた。陝西省の半坡遺跡などで当時の集落跡が発見されている。

  新石器時代最後の段階に属する竜山文化は、前2700ごろ〜前2000年ごろに存在し、やはり黄土台地から平原西部にかけて分布している。彩陶はもちいられなくなり、ろくろでつくられた灰色の土器(灰陶)がおもに使用された。

  竜山文化の竜文盤 中国の山西省襄汾県出土の盤(ばん)。盤は古代の水器で、手をあらうのにもちいた。描かれている生き物には鱗(うろこ)があり、ヘビのようにもみえるが、舌が枝わかれし、頭部に角か耳らしいものがあるので、竜をデザインしたものと考えられている。口径37cm。前2500〜前2000年ころ。中国社会科学院考古研究所所蔵。

  黄河下流域では中流域とことなる文化の系統があった。中流域の磁山・裴李崗文化→仰韶文化→竜山文化のそれぞれの年代に対応して、北辛文化→大?口文化→山東竜山文化が存在していた。

  北辛文化の遺跡はまだ数が少なく、くわしいことはわかっていない。大?口文化では彩陶も使用されていたが、山東竜山文化では黒陶が使用されるようになる。大?口文化はアワなどの栽培や豚などの飼育をおこなった定住社会であり、さらに発達した山東竜山文化では、城壁にかこまれた都市と思われる遺跡が発見されている。

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    殷 いん   前1600年頃 - 前1050年頃   殷王朝

  殷(いん)王朝は、前17世紀末ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配した。殷という名は次の周王朝がつけたもので、みずからは商と称していた。20世紀に入って、河南省安陽市で殷王朝の宮殿跡や王族の墓などが発見され(殷墟)、殷王朝の実在が証明された。出土した中国最古の甲骨文字から、殷の王は、さまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意思として命令をくだしていたことが判明した。また、発掘された青銅器からは、殷文化の水準の高さがうかがわれ、世界美術史の中でも高く評価されている。

  前17世紀末ごろから前11世紀半ばにかけて黄河中流域を支配していた古代中国の王朝。日本では殷とよばれることが多いが、これは次の周王朝がつけたもので、自らは商と称していた。

  殷王朝の支配地域 前17世紀ごろから前11世紀半ばまでつづいた殷王朝は、黄河中流域におこり、青銅器を鋳造し、中国ではじめて文字を使用した。河南省安陽にある殷墟からは、宮殿跡や王族の墓などが発見された。 

  「史記」などによれば、殷の始祖である契(せつ)は夏王朝の創建に際して功をたて、領地をあたえられた。そして、14代目の成湯(せいとう)が腐敗した夏王朝をほろぼして王位につき(湯王:とうおう)、殷王朝をひらいた。殷30代目の紂(ちゅう)王は、政治をかえりみずに酒色にふけり、国は大いにみだれ、西方の新興国家、周にほろぼされた、とつたえられる。

   II  殷墟の発見

  19世紀の終わりごろ、古代の文字をきざんだ骨片が北京の市内にでまわった。古文字学者らが研究した結果、伝説の殷王朝の王の名前がよみとれることが判明し、殷が実在した可能性がきわめて高くなった。

  甲骨文字とよばれるようになるその文字がきざまれた亀甲や獣骨は、羅振玉らの調査によって、河南省の安陽で出土することが確認された。1928〜37年に、中華民国中央研究院の歴史語言研究所が大規模な発掘をおこない、殷王朝の宮殿や王族の墓などを発見した。

  この殷墟とよばれる都市遺跡の発掘によって、伝説の殷王朝の実在は証明された。中国はもちろんのこと、世界の考古学史上においても記念碑的な発掘であった。現在、宮殿区は整備されて一般に公開されており、また、現地の考古学者が今も調査をつづけている。

    III  殷の遺跡

  殷墟以外の殷の遺跡は、現在までのところ河南省や河北省などでみつかっているが、首都の機能をもったと考えられるのは、殷墟と鄭州の二里崗(にりこう)遺跡である。殷王朝の首都は6回うつったと「史記」はつたえているが、殷墟はその最後の首都と考えられている。

  黄河中流域以外にも、黄河下流域の山東半島や、南方の長江中流域の湖南省・湖北省・江西省などにも殷が進出したらしく、関連する遺跡が発見されている。

   IV  殷の社会

  殷代の甲骨文字 殷王朝(いんおうちょう)の文書記録は、知られているかぎり中国最古のものである。殷代には、王の占いによって政治や祭りの決定がくだされていた。牛の骨や亀の甲羅を焼き、ひび割れの形状で神の意思を判断した。その結果は焼かれた甲骨にきざまれた。甲骨文字によって中国の古代文化の解明は大きく前進した。

  殷は前11世紀前半にもっともさかえ、その文化圏は、遼寧南部、黄河中流域、山東西部、東シナ海、安徽北部、陝西中部にまでおよんだ。殷の人々は「天」の意思を重視した。王はさまざまな決定をする際にかならず占いをし、天の意思を確認して命令をくだした。祭政一致の典型的な神権政治であった。ほかにも、祖先の霊や自然界の神々も重要視され、彼らに対して動物や奴隷などをいけにえとしてささげ、祭りをとりおこなうことも王の重要な役割だった。祭祀は、暦と密接なかかわりをもち、太陽の運行によって調節する太陰太陽暦(→ 暦)を基本とした。

  当時の社会は、特権階級の王族・貴族が、奴隷やさまざまな職人集団を支配していた。大型の墓には多くの奴隷が殉葬(じゅんそう)されており、甲骨文にも奴隷の記事がみられることから、当時の社会に奴隷がいたことはまちがいない。

   V  殷の青銅器

象頭?? ??(じこう)は酒器の一種で、把手(とって)と注ぎ口をもつ器の部分と獣形の蓋(ふた)からなる。写真の??では、蓋は象の形である。また全体が饕餮文(とうてつもん)を中心とした文様でうめられており、殷時代後期の典型をしめす。(財)白鶴美術館蔵 

当時の職人たちによってつくられた青銅器は殷文化の最高峰を占め、世界美術史の中でも高く評価されている。酒器・食器などにみられる器形・装飾は独創性にとみ、描かれた神々の姿は躍動感にあふれ、美術的価値はきわめて高い。

文化大革命 ぶんかだいかくめい    1965年秋ごろからほぼ10年間にわたり、中国全土を大混乱にまきこんだ政治闘争。社会主義社会を階級闘争が継続する過渡的社会とし、資本主義に変質させようとする修正主義とつねにたたかわねばならないという毛沢東の階級闘争理論が基礎となっているが、実際には、58年に毛沢東がはじめた大躍進政策が失敗し国家主席を辞任せざるをえなかった毛沢東が、自らの復権と絶対的権威の確立をめざして開始した権力闘争だった。

最初の目標は「資本主義の道をあゆむ一握りの実権派」とされた、毛沢東にかわり国家主席となっていた劉少奇やケ小平を打倒することにおかれ、1965年11月に発表された、「実権派」を非難する姚文元(ようぶんげん)の論文「『海瑞罷官(かいずいひかん)』を評す」が口火となった。しかし、「実権派」の根強い抵抗にあったため、毛沢東は国防相林彪とむすび、さらに中学、高校、大学の学生を紅衛兵として組織し、「造反有理」(造反には道理がある)をスローガンに「実権派」批判を展開させた。

1966年に毛沢東は、文革への中国共産党の後押しを強引にとりつけ、運動を全国規模で展開させた。紅衛兵による伝統的文化の破壊、知識人や高級官僚に対する大規模な弾圧がおこなわれ、文芸作品も、毛沢東の妻で党中央文革小組第1副組長、江青の息のかかった革命規範劇以外はゆるされなくなった。67年ごろから文革は、それまでの中心だった街頭闘争から、「実権派」の権力をうばうという奪権闘争としての性格を強めたが、「実権派」の抵抗のほか、紅衛兵同士の権力争いが発生して武力による闘争がつづき、その混乱を収拾するため人民解放軍の介入が決定された。

これは、あまりの混乱ぶりに、毛沢東、江青らの文革指導者までが収拾をのぞむようになったことのあらわれでもあった。1969年の第9回全国代表大会では、林彪が毛沢東の後継者として指名され、文革の勝利が宣言されたものの、党内における文革派同士の権力闘争はつづけられ、71年には、クーデタを画策して失敗、逃亡中に事故死したとされる、林彪事件がおきた。

文革中、中国の工業生産は20%も下落したといわれ、1971年以後党の方針は、政治思想教育重視から経済建設重視への変化を余儀なくされた。73年の第10回全国代表大会では、周恩来ら5人の脱文革派が党副主席に就任し、林彪亡きあとの文革派のリーダー、江青らのイデオロギー急進派と実務派の主導権争いが再び激化した。76年4月には天安門事件がおこり、この年1月の周恩来の死をいたむ群衆が、公然と文革派に反旗をひるがえすにいたって、毛沢東体制は根本から動揺し、毛沢東没後の10月に江青ら四人組が逮捕され、両派の争闘に決着がつけられた。80年代に文化大革命は、正式に党によって「動乱の10年」とされ、その意義を否定された。

磁山文化 じざんぶんか   中国華北の黄河中流域に広がる新石器時代早期(前期)の文化。炭素14法による年代測定(→ 年代測定法)では前6000年ころから前5000年ころとされる。おもな遺跡としては1970年代に調査され、文化名にもなった河北省の磁山遺跡がある。→ 黄河文明

磁山文化の遺物のうち、土器はろくろをつかわずにつくられている。器種には煮炊きにつかわれた浅い鍋形(なべがた)の土器や小形の甕(かめ)、貯蔵につかわれた壺(つぼ)や大形の甕、食物をもった鉢(はち)や碗(わん)などのほか、炉にすえて煮炊きにつかう土器をのせた支脚などがある。生活の道具には石器や骨角器があり、種類としては石斧や石鑿(いしのみ)のような木材伐採・加工具、石鋤(いしすき)のような土掘り具、石鎌(いしがま)のような収穫具、骨製の鏃(やじり)や銛(もり)のような狩猟・漁労具がある。このほか磁山文化に特徴的な道具として穀物をすりつぶすための石皿と磨棒(すりぼう)がある。装飾品もみつかっているが、骨製や角製の簡単なものである。

集落では竪穴住居と、穀物などを保存した貯蔵穴がみつかっている。磁山遺跡では貯蔵穴の中から多量の炭化した穀物が発見され、鑑定によりアワであることがわかった。貯蔵穴の中には炭化したアワが2m以上堆積(たいせき)していたものもあり、安定したアワの生産があったことがわかる。また、多量の骨も出土しており、犬、豚、ニワトリなどの家畜のほか、シカ、イノシシ、ウサギのような野生動物のものがあった。魚類の骨やカメの甲羅も確認され、狩猟や漁労も一定の割合でおこなわれていたことが明らかになった。

磁山文化ではすでに定住した生活がいとなまれており、狩猟や漁労をおこなってはいたが、生業の中心はアワを栽培し、豚などの家畜をかう農業であった。このような状況は華北の同時期の老官台文化、裴李崗文化、後李文化、興隆窪文化(こうりゅうわぶんか)などと同じであり、磁山文化をふくめて前6000年から前5000年ごろまでに華北では安定した農耕社会がいとなまれていたことがわかる。

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   仰韶文化 ぎょうしょうぶんか  前4800年頃 - 前2700年頃

   仰韶文化(彩陶文化)

  中国の黄河流域にさかえた新石器時代前半期の農耕文化は、最初に発掘された遺跡名から仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)とよばれる。この文化の基本は紅陶にあり、モンゴロイドと思われる原中国人(プロト・チャイニーズ)がこの文化をになったとされる。遺跡は河岸の台地に多く、住居・窯(かま)・共同墓地などがある。集落には環濠をめぐらし、中央に広場をつくって、集会場らしい大型住居を中心にして住居群がたてら

  中国・黄河流域にさかえた新石器時代前半期の農耕文化で、竜山文化に先行する文化。ヤンシャオ文化ともいう。名称は1921年にスウェーデンのアンダーソンが発見した河南省の仰韶遺跡による。ここで彩陶がみつかったことから従来は彩陶文化と同じ意味でつかわれてきたが、仰韶文化の基本は紅陶であり、彩陶はその一部にすぎない。文化が多面にわたるため、大きく3つの地域にわけて分析される。

   II  3地域の類型分けと年代

  陝西省南部、河南省西部、山西省南部地区は仰韶文化の中心地域である。3類型にわけられ、半坡(はんぱ)類型は陝西省の半坡遺跡を標準とするもので、炭素14法の年代測定で前4800〜前3600年。廟底溝(びょうていこう)類型は河南省の廟底溝遺跡を標準とし、分布は半坡類型よりひろく、年代は前3900〜前3000年。西王村類型は山西省の西王村遺跡を標準とし、年代は前3700〜前2700年とされている。

  河南省洛陽、同省鄭州地区には2つの典型的遺跡がある。洛陽の王湾遺跡は新しい層に竜山文化もふくんでいる。鄭州の大河村遺跡は6期にわけられ、4期までが仰韶文化にあたる。年代は前4000〜前3000年。

  河南省北部、河北省南部地区は2類型にわけられる。後岡(こうこう)類型は河南省安陽県を中心に分布し、大司空(だいしくう)類型も河南省安陽県を中心とするが、後岡類型のほうがややはやく、半坡類型とほぼ同じ年代である。

仰韶文化は長期で、内容も多岐にわたるため一元的にはとらえがたい。

   III  仰韶文化の遺跡と遺物

  仰韶文化の魚文彩陶鉢 仰韶文化(ぎょうしょうぶんか)の彩陶鉢には、魚が描かれることが多い。仰韶文化の集落の多くは河岸にいとなまれ、盛んに漁労をおこなっていた。魚文の鉢はそうした人々の信仰と関係しているものと考えられている。高さ14.2cm、口径32cm。東京国立博物館所蔵 

  遺跡は河岸の台地に多く、住居・窯(かま)・共同墓地などがある。集落には環濠をめぐらし、中央に広場をつくって集会場らしい大型住居を中心にして住居群がたつ。住居は半地下式や地面式、地面連室式の3種がある。栽培用のアワ・カラシナ・白菜・コウリャンなどの種子がみつかっており、犬やブタを家畜として飼育し、ヒツジ・牛・ニワトリ・馬などもいた。打製・磨製石器が農工具としてつかわれ、鏃(やじり)は骨鏃を主に石鏃・角鏃もつくられた。

  土器は手でまきあげてつくり、ロクロの使用はみられない。きめ細かな粘土でつくる紅陶と胎土に砂をふくむ灰陶(かいとう)があった。直線・曲線などや人面・動物を黒・赤色顔料で模様にした彩陶は、祭祀(さいし)や副葬品にもちいられた。墓は成人が共同墓地の土坑に、幼児は甕棺(かめかん)に入れて床下や家の外にうめられた。モンゴロイドと思われる原中国人(プロト・チャイニーズ)がこの文化をになったとされる。仰韶文化は、先行する老官台文化や裴李崗文化など新石器時代早期の農耕文化を発展させ、黄河流域にひろがって山東省域の大?口文化などにも影響をあたえ、竜山文化の源流となった。

竜山文化 りゅうざんぶんか   山東省竜山鎮城子崖で発見された新石器時代後半期の黒陶をきっかけに命名された文化。ロンシャン文化ともいい、文化名は竜山鎮にちなむ。山東省域の竜山文化は同じ分布地域にある大?口文化を継承したもので山東竜山文化とよび、仰韶文化を継承した黄河中流域の竜山文化とは区別する。

   II  黄河中流の竜山文化の特徴

  竜山文化の竜文盤 中国の山西省襄汾県出土の盤(ばん)。盤は古代の水器で、手をあらうのにもちいた。描かれている生き物には鱗(うろこ)があり、ヘビのようにもみえるが、舌が枝わかれし、頭部に角か耳らしいものがあるので、竜をデザインしたものと考えられている。口径37cm。前2500〜前2000年ころ。中国社会科学院考古研究所所蔵。

  この竜山文化は陝西省から河北省南部、安徽省北西部にかけての黄河中流域にひろがり、前期と後期に大別される。前期は廟底溝(びょうていこう)第2期文化にあたり、住居は円形の半地下式で床には石灰をぬっている。住居内にいくつかの袋状貯蔵穴と、住居に近接して窯(かま)と共同墓地がある。石器は、磨製石器がふえ、伐採石斧は重厚で大型になり、石包丁や石鎌(いしがま)もつくられた。豚・犬・牛・ヒツジ・ニワトリを飼育していたが、石製・骨製・貝製などの鏃(やじり)があり狩猟・漁労もおこなっていた。土器は厚手で一部にロクロを使用する。灰陶(かいとう)が主で黒陶は少なく、文様は横藍文が多く、透かし孔(あな)のあるものもある。器形は盆形鼎(てい)・鬲(れき)・豆・坏(つき)・鉢・碗など。廟底溝遺跡では炭素14法による年代測定でほぼ前2900〜前2600年という数値がでており、竜山文化ではもっとも古い。

  後期は地域によって様相がことなるが、住居は半地下式や地上建築、竪穴(たてあな)式などで集落の規模は拡大する。集落の周囲に1辺70m以上の方形城壁がみつかったこともある。住居近くに窯や井戸をもち、墓地はややはなれている。人や豚を副葬した墓地もあり、貧富の差があったようだ。土器はロクロをつかった灰陶が主で、種類や量は多い。年代は炭素14法で前2800〜前2500年ごろである。

   III  山東竜山文化は黒陶文化

  黒陶 前2500〜前2000年の山東竜山文化の高脚坏(こうきゃくはい)。高質な黒陶は、ろくろで成形され、土器表面はみがかれているものが多い。器種は多様で、高坏、鼎(てい)、鉢(はち)など。鼎などの三足器は殷(いん)、周代の青銅器の原型になったといわれる。山東省南部の日照市東海峪出土。高さ22.6cm。

  山東竜山文化は、山東省を中心に北は河北省から遼東半島南部に、南は江蘇省中部に分布する。基本的には大?口文化を継承して発展させた黒陶文化といえる。ロクロ成型により焼成温度もあがって硬質となった黒陶は、器壁がうすく独特の光沢をもつ。初期には灰陶もあったが、のちに黒陶が主体となった。単耳坏・烏頭足鼎・高柄足坏など特殊な器もある。文様には弦文・竹節文・透かし孔などがあり、一部に商(殷)周時代の青銅器にある雲雷文や饕餮(とうてつ)文などに似たものもある。習俗として抜歯・頭骨変形・卜占(ぼくせん)など、大?口文化からひきついだものがみられる。年代は炭素14法でおよそ前2600〜前1650年。後続する遼東半島新石器文化にも大きな影響をあたえた。

  半坡遺跡 はんぱいせき   中国陝西省西安市の東6kmにある仰韶文化前期の集落遺跡。1953年に発見され、54年から57年まで中国科学院(現在の社会科学院)考古研究所が発掘調査した。

  遺跡は河岸段丘上にあり、文化層は厚さ約3mの間に4層発見された。住居跡、貯蔵穴、墓、家畜柵などの遺構と約9000点の遺物がみつかっている。集落は環濠でかこまれ、墓地や窯(かま)も付設されていた。46軒の平地式、竪穴(たてあな)住居跡が中央の集会場と思われる大型建物の周辺に点在し、住所内部には4〜6本の柱と炉がそなえられていた。貯蔵穴は住居の周囲に約200基あり、底からアワなど雑穀類もみつかったため、原始農耕がおこなわれていたと推定される。

  墓は土坑墓、甕棺(かめかん)墓、木棺墓(→ 石棺墓・木棺墓)など約250基あり、成人は土坑に、幼児や子供は甕棺にいれられていた。土器は胎土に砂をふくむ灰陶(かいとう)が多く、数は少ないが、赤地に黒色顔料で人面、魚文、幾何学文などをほどこした彩陶が葬礼用としてつくられていた。石器は打製と磨製の農工具類がみつかっている。

  半坡遺跡の住人は、出土人骨の研究から、母系的な氏族社会であったともいわれている。現在、遺跡には大屋根がかけられ、隣地に半坡博物館がある。

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