匈奴

      ヨーロッパ史に彼らが登場する以前、中国の前漢時代(前202〜後8)に、フン族と関係があるといわれる匈奴が中国西北部にいたことが知られていた。
      フン族 フンぞく Hunnen トルコ、モンゴル系民族が起源といわれる遊牧騎馬民族。4〜5世紀にかけて、カスピ海北部のステップ地帯から東・西ローマ帝国に対する侵攻をくりかえした。

匈奴

  匈奴

  匈奴 きょうど おもに前3世紀〜後2世紀に、現在のモンゴル国から中華人民共和国の北方地域にいた遊牧騎馬民族、また彼らがつくった国家。

  前300年

  騎馬遊牧民の匈奴が勢力を伸ばし始める

  モンゴル高原の騎馬遊牧民匈奴(きょうど)は、戦国時代に中国北方地域をおびやかしはじめた。そして秦の時代になると、始皇帝(在位前247〜前221)は匈奴討伐をおこなうとともに、万里の長城を大修築、延長して侵入を阻止した。前200年、漢の高祖による匈奴討伐軍が敗退し、漢と和をむすんだ匈奴は、その後、全盛期をむかえる

  II  匈奴の歴史

  中国の戦国時代、彼らが中国北方地域にしきりにあらわれ、燕や趙などに侵入していたことが記録にのこっている。秦によって中国が統一されると、始皇帝は将軍の蒙恬(もうてん)に匈奴の討伐を命じ、匈奴は大打撃をうけた。しかしその後、匈奴王の冒頓によって再建され、モンゴル高原全域を支配するにいたった。

  冒頓による北方地域の侵入に手をやいた漢の高祖(劉邦)は、前200年、自ら兵をひきいて討伐にむかったが、逆に匈奴騎兵に包囲され、命からがらにげかえった。この敗戦ののち、高祖は匈奴と講和条約をむすび、匈奴が中国の北方地域へ侵入しないかわりに、漢は毎年大量の酒・米・絹織物を匈奴におくると約束した。以後、匈奴は全盛期をむかえ、領土は、東は現在の河北省東北部、西は新疆ウイグル自治区にまで達した。

  漢の第7代皇帝、武帝は、それまでの和平政策をすて、匈奴への武力攻撃をはじめた。たび重なる漢軍の攻撃によって匈奴は一時、内モンゴルより完全に撤退させられるにいたった。

  その後、匈奴は内部対立をくりかえすようになり、前54年には東西に分裂。東匈奴は漢の支配下にはいり、その力をかりて西匈奴とあらそった。そして前36年、ついに西匈奴の王は漢の遠征軍にやぶれ、殺されてしまった。

  一時の復興期をへて、後48年に匈奴はふたたび分裂。南北2つにわかれた匈奴のうち、北匈奴は2世紀半ばに後漢の攻撃によって西へとのがれ、以後中国の歴史記録にはあらわれなくなる。また、南匈奴は五胡十六国時代に中国化がすすみ、南北朝時代には民族としてのまとまりをうしなった。

  III  匈奴の社会・文化

  匈奴の王は単于(ぜんう)といい、そのもとに単于氏族の王将が各地を統治し、彼らと異氏族の族長が連合して国政にあたった。匈奴のほとんどは遊牧民で、移動式の遊牧生活をいとなみながら、王のもとでさまざまな祭りをおこなっていたことが記録にのこっている。

  なお、4世紀にヨーロッパへ侵入したフン族は、ヨーロッパと中国それぞれの古文献に記述された習俗や発掘された遺物の類似から、2世紀に西方へとのがれた北匈奴ではないかと推定されているが、いまのところ確実な証拠はない。

  前54年

  匈奴が東西に分裂

  漢の武帝に攻撃された匈奴(きょうど)は、前119年に内モンゴルから撤退した。前54年には東西に分裂し、東匈奴は漢の支配下に入り、西匈奴は漢にほろぼされた。後48年に今度は南北2つにわかれ、北匈奴は後漢の攻撃から西へとのがれた。匈奴のこの西進は、中央アジアを舞台とする民族大移動の原因をつくった。南匈奴は五胡十六国時代に前趙(ぜんちょう)などをたてたが、中国化がすすみ、民族としてのまとまりをうしなっていった。

  フン族 フンぞく Hunnen トルコ、モンゴル系民族が起源といわれる遊牧騎馬民族。4〜5世紀にかけて、カスピ海北部のステップ地帯から東・西ローマ帝国に対する侵攻をくりかえした。彼らの攻撃は、もっとも名高い指導者アッティラ指揮下で最高潮に達し、東・西ローマ帝国双方を滅亡の瀬戸際まで追いつめた。

  フン族は、絶頂期には多くのことなる民族を吸収し、同化・融合していった。そのため、徐々にアジア的特徴をうしなっていった。ただ、ヨーロッパ侵攻以前の時代においても、彼らの身体的な特徴は多様性をつつみこんでおり、彼らが民族的あるいは言語的にどのような人々かを決定するのは、容易ではない。

  ヨーロッパ史に彼らが登場する以前、中国の前漢時代(前202〜後8)に、フン族と関係があるといわれる匈奴が中国西北部にいたことが知られていた。彼らの勢力は、前1世紀〜後1世紀に衰退し、最後には、2つの陣営に分裂した。2世紀には約5万戸をかぞえる中の一方の集団は南方にうつり、残りの大部分が、新天地をもとめて西方および北西にむかった。北西にむかった集団のかなり多くは、一時、ボルガ川の河岸にうつりすみ、4世紀後半にはボルガ川とドン川の間に勢力をはっていたアラン人の領土へと進撃し、彼らを支配下においた。

  フン族はさらにボルガ流域の東ゴート族(→ ゴート族)および隣接していた西ゴート族を征服したが、その際西ゴート族の一部がドナウ川西方の東ローマ領内に移動し、これがゲルマン人の民族大移動をひきおこす要因となった。5世紀初め、ビザンティン(東ローマ)皇帝テオドシウス2世の統治時代に、フン族は勢力をかなり拡大し、ロアス王は毎年ビザンティンから莫大な貢租をうけとっていた。

  ロアスの死後、フン族の王は甥(おい)のアッティラとブレダ兄弟に継承された。ブレダを殺して単独の王となったアッティラは、勢力圏を西方のイタリアまで拡張し、帝国をつくりあげたが、451年のガリアにおける戦闘で、西ローマ軍に敗北した。453年のアッティラの死後、フン帝国は急速に崩壊した。