インダス文明

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   インダス文明

   アウグストゥス像 初代ローマ皇帝アウグストゥスは、ユリウス・カエサルの暗殺をきっかけとする数十年間の内戦にくるしんだローマに治安と平和と繁栄を回復した。もとの名前はガイウス・オクタウィウスといい、カエサルにそだてられた。暗殺されたカエサルのかたきをうち、自分の権力を強化したのち、元老院から「尊厳者」を意味するアウグストゥスの名をあたえられた。のちに「インペラトル」という称号をうけ、これから「エンペラー」という語が派生した。

   アウグストゥス Augustus 前63〜後14 帝政ローマ初代皇帝。在位、前27〜後14年。ほぼ1世紀にわたった内乱後のローマに、統一と秩序ある政治を復活させた。平和と繁栄と文化隆盛の時代、いわゆる「アウグストゥスの平和」をもたらした。

   アウグストゥス像 初代ローマ皇帝アウグストゥスは、ユリウス・カエサルの暗殺をきっかけとする数十年間の内戦にくるしんだローマに治安と平和と繁栄を回復した。もとの名前はガイウス・オクタウィウスといい、カエサルにそだてられた。暗殺されたカエサルのかたきをうち、自分の権力を強化したのち、元老院から「尊厳者」を意味するアウグストゥスの名をあたえられた。のちに「インペラトル」という称号をうけ、これから「エンペラー」という語が派生した。

   ガイウス・オクタウィウスとしてローマで生まれる。カエサルの姉の孫にあたり、彼にかわいがられ、16歳のときに、ローマの有力な神官職である大神官団のひとりとなった。前44年にカエサルが暗殺されたときは、イリュリアに滞在していた。葬儀に参列するために帰国して、カエサルの養子として相続人に指名されていることを知り、ガイウス・ユリウス・カエサル・オクタウィアヌスと名のった。

   II  2次三頭政治

   カエサルの暗殺は、ローマを混乱におとしいれた。オクタウィアヌスは養父の復讐(ふくしゅう)をちかい、さらにカエサルの部下だった野心家のアントニウスと権力・名誉をきそい、後継者の地位を確保しようとした。アントニウスをガリア遠征においやり、自身は21歳で元老院議員、ついでコンスル(執政官)職を強要するなど、政治的・軍事的ないざこざのあと、アントニウスと和解する必要をみとめ、前43年末、アントニウスを支持する将軍レピドゥスの3人で会合し、第2次三頭政治を成立させた。三人委員会は大量粛清をおこない、政敵の元老院議員300人と、騎士身分の200人を殺害した。その中には、老いたる雄弁家で元老院の中心人物だったキケロもふくまれていた。

   オクタウィアヌスとアントニウスは、カエサル暗殺の首謀者、ブルトゥスとカッシウスの打倒にのりだし、前42年に彼らをトラキアのフィリッピの戦でやぶり、自害させた。前40年に、三人委員会はローマ領を分割した。オクタウィアヌスは西部属州の大半を統治することになり、アントニウスは東部属州、レピドゥスはアフリカの統治権をえた。オクタウィアヌスはアントニウスとイタリア支配をめぐって衝突したが、和解にこぎつけ、姉のオクタウィアをアントニウスと結婚させた。前36年にはポンペイウスの息子で、三頭政治最後の強敵セクストゥス・ポンペイウスをうちやぶり、ついでレピドゥスを失脚させ、アントニウスは東方でパルティアの討伐にとりかかった。

  しかし、両者の協力関係はしだいに崩壊していった。アントニウスは妻のオクタウィアをローマにおくりかえしてすぐ、カエサルの力でエジプトの女王となっていたクレオパトラと正式に結婚し、彼女がカエサルとの間にもうけた息子カエサリオンを、彼女の共同統治者として承認した。これは、カエサルの唯一の後継者たるオクタウィアヌスの地位をあやうくするもので、オクタウィアヌスとアントニウスの対決はさけられないものとなった。前31年、オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でアントニウスとクレオパトラの連合軍をやぶり、翌年ふたりを自殺においこんだ。カエサリオンは殺害された。前29年、オクタウィアヌスはローマに凱旋(がいせん)し、34歳でローマ世界の単独支配者になった。

   III  第一人者

   27年、ローマの元老院は、オクタウィアヌスに「崇高なる者」という意味の称号「アウグストゥス」をあたえた。彼の政治は元老院と協力しておこなわれたので、二頭政治とみなされることが多いが、元老院は、共和政期には他の公職者にあたえられていた肩書や権限を、次々に彼にさずけた。たとえば前36年には護民官だけに保障されていた不可侵権が、ついで前30年には護民官職権があたえられ、拒否権を発動して議会を思いのままにあやつることができた。

   彼はローマとイタリアを支配するコンスルを13期つとめたが、さらに元老院が属州総督命令権を授与したので、帝国全土にわたる支配権を獲得した。レピドゥスの死後は大神祇官長(ポンティフェクス・マクシムス)にも就任し、ローマの宗教をつかさどる権利も獲得した。これらの権限はすべて、第一人者(プリンケプス)の称号のもとに行使された。以上にくわえインペラトル(最高司令官)であったにもかかわらず、アウグストゥスは独裁君主と思われないようにつねに注意し、自分がローマ共和国を復興させていることを強調した。

   芸術の擁護者でもあった彼は、歴史家リウィウスをはじめ、詩人のオウィディウス、ホラティウス、ウェルギリウスらと親しくまじわった。壮麗な建築をこのみ、「レンガのローマをうけついで、大理石のローマにした」と自負したといわれている。

   アウグストゥスのもとで体制整備のため、さまざまの施策が講じられた。属州の人口調査をおこなって徴税の基礎をかためるとともに、各属州のローマ化をすすめて、都市の自治を拡大。共和政以来の悪習を排するため奢侈(しゃし)取締法、姦通(かんつう)処罰法など種々の法が定められ、社会秩序の安定と道徳の確立がはかられた。また、彼はイタリア農業の復活をこころみてもいる。

   アウグストゥスの3人目の妻リウィアには、前夫との間にティベリウスとドルススというふたりの息子がいた。いっぽうアウグストゥスには、先妻との間に娘ユリアがいたのみだった。彼が意図した後継者は次々に先だち、アウグストゥスが後14819日南イタリアのノラで息をひきとると、養子になっていたティベリウスが後をついだ。

   IV  さだまらぬ評価

   古代や近代の歴史家たちのアウグストゥスに対する見解はさだまっていない。無情な権力者だと非難するものもいる。とくに三頭政治時代の粛清は非難のまとになっている。いっぽう、タキトゥスのような頑固な共和制支持者でさえ、彼の統治者としての業績をみとめている。近代の歴史家の中には、手段をえらばぬやり方を批判して、20世紀の独裁者になぞらえるものもいるが、彼の偉業はひろくみとめられている。

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