弥生人と弥生文化

    弥生人と弥生文化

弥生人 やよいじん 弥生文化をになった人々。形質人類学的にみて、日本では弥生時代になって大きな変化がおこる。前代の縄文人の特徴は現代人よりも大頭で、顔の幅は広く眉隆起(びりゅうき)が高い。鼻も高く隆起し、歯並びはただしく、虫歯も少ない。これに対し弥生人は頭が長く、鼻根も幅広くなり、目は切れ長で一般的に扁平(へんぺい)な顔となる。反っ歯も虫歯もみられる。

弥生時代前・中期の山口県の土井ヶ浜遺跡は砂丘上にある共同墓地で、1953(昭和28)以来の発掘調査で300体もの弥生人骨がみつかっているが、男性の平均身長は162.8cmで、縄文人とは約3cm、次の古墳人からも約1cm高い。

北部九州や山口県で確認されている、こうした急激な骨格形態の変化は、大陸にいた集団の大規模な移住によって生じたと考えられている。九州の縄文人も、本州の縄文人と同じような形態的特徴をしめすのに対し、これらの弥生人は、このころに朝鮮半島や中国にすんでいた集団と類似しているからである。

さらに近年の研究では、むしろ北部九州や山口県などに限定的と考えられてきた大陸集団の移住の影響が、じつは日本列島全体におよんでいたことが明らかになってきている。

たとえば、頭骨の複数の計測値(さまざまな部位の長さや幅など)をひとまとめにして解析する、多変量解析とよばれる統計的手法をもちいた研究では、現代日本人は縄文人よりも弥生人に類似することが判明した。そして、この1982年に発表された研究以降、日本人の起源に関するさまざまな実証的研究がなされるようになってきた。その中で、頭骨の神経をとおす孔の形状など比較的に後天的変化が少ないと推定される形質を中心に調べることや、歯の大きさや細かな形態について調査することがおこなわれた。いずれの研究調査でも歴史時代の本土日本人と北部九州・山口地域の弥生人との間と、縄文人とアイヌとの間にそれぞれ強い類似性があるとの結論がえられている。

渡来系弥生人と在来系弥生人

一方で、弥生人にも地域的な変異があることが新たな発掘人骨の調査によってわかってきた。大陸集団と類似する人骨は、北部九州・山口地域に集中しているのに対し、九州西北部や南部では、縄文人と類似した弥生人骨が多くみつかっている。こうした2つのタイプの弥生人を区別するため、前者を「渡来系弥生人」、後者を「在来系弥生人」とよんでいる。本州でも、たとえば千葉県や群馬県の遺跡などで、在来系弥生人と考えられる人骨が発見されている。ただし最近では、渡来系弥生人の影響は、比較的はやい時期に西日本からさらに東日本の一部地域にまでおよんでいた可能性も指摘されている。

古墳時代以降、これら渡来系と在来系の集団間の混血が、比較的に渡来系が優勢な状態のもとに徐々に進行することによって、歴史時代の本土日本人が形成されていったとするのが、現在多くの研究者の間での一致した見方である。

弥生文化 やよいぶんか 日本列島で稲作を生活の中心とした最初の文化。鉄器や青銅器がもちいられ、階級が成立し、国家誕生の前段階となった社会。前5世紀末から後3世紀半ばにあたる。前代の縄文時代が食料採集を経済基盤とするのに対して、水稲農耕を主とする生産経済体制が本格的に成立した時代である。

弥生文化の領域は南は薩南諸島から北は東北地方におよび、同時期に北海道では続縄文文化、沖縄諸島では貝塚時代とよばれる食料採集段階がつづいていた。弥生時代の区分は古くは3(前・中・後期)にわけていたが、最近は稲作農耕の始原問題などから早期をおいたり、古墳の発生とからめて弥生末〜古墳初頭期をおく説も提起されている。また前期や中期の幅も、北九州と畿内の研究者の間で差異があるため混乱も生じている。

大陸系弥生人と縄文系弥生人が考えられている。前者は朝鮮半島南部から渡来した先住民より背が高く扁平な顔をした人々、後者は縄文人のうち大陸からもたらされた新文化を受容した人々で、背が低く顔の彫りが深い。大陸系弥生人は早い時期に、九州北部、中国・四国地方、近畿・東海地方にまで農耕文化をもたらしたと考えられる。

佐賀県の菜畑遺跡・福岡県の板付遺跡などで縄文時代晩期の水田跡が発見され、それまで弥生文化開始の指標であった水稲農耕が、前代にすでにつたわっていた可能性が高まった。しかし、本格的な水田農耕集落ができるのは弥生時代にはいってからで、かなりはやい時期に北九州から畿内地方までの西日本に水稲農耕がひろがったようである。近年では青森県砂沢遺跡などでほぼ同時期の水田跡が発掘され、そのころには水稲農耕集団が東北まで到達していた。こうした水稲農耕の源流は明確ではないが、朝鮮半島南部、あるいはここを中継点のひとつとして、中国の長江(揚子江)下流域あたりからつたえられたとする説が有力である。

「魏志倭人伝」は倭人が貫頭衣とよばれる服をきていたというが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡などから絹など繊維が出土し、養蚕をしていたという説もでている。食料資源は前代からの採集・狩猟と水稲農耕で確保したが、近年の研究では米の比重がさほど高くなかったようである。住居は竪穴(たてあな)式住居がおもで、稲籾(いねもみ)・収穫米の保管のための高床倉庫、監視・偵察用の物見櫓(ものみやぐら)建物がたてられた。集落の規模は大小あったが、大型の環濠集落では一時期で100軒をこす建物が存在していたと思われる。大阪府の池上曽根遺跡では宮殿跡とおもわれる超大型庇( 母屋と庇)つき高床式建物跡がみつかっている。

磨製石斧セット

大阪府池上遺跡から出土した弥生時代中期の磨製石斧をもとに復元した。上は太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)で、柄と刃の方向が同じ縦斧とよばれるもの。中と下は柱状片刃石斧と扁平片刃石斧で、ともに柄と刃の向きが直交する横斧(手斧:ちょうな)である。太形蛤刃石斧は木の伐採、打ち割りなどに、柱状片刃石斧と扁平片刃石斧は木材をけずったり、えぐるのにつかわれた。Encarta Encyclopedia竹中大工道具館所蔵

シカの肩甲骨などを火であぶっておこなう卜占(ぼくせん)や鳥形木製品を集落入り口にたてる習俗は、水稲農耕にともなう外来系祭祀(さいし)で、銅鐸などをつかう祭儀も新来のものであった。後半には銅剣・銅矛・銅戈なども大型化し祭儀器となっていく。豊穣・天候をいのり、悪霊をはらう儀式が1年の節目におこなわれたのであろう。墓は地域差や年代差が大きいが、おおよそ北九州中心の甕棺墓、西日本に多い石棺・木棺墓、畿内から東西にひろがった方形周溝墓、関東中心の中期にみられる再葬墓、使用器種はことなるが全国的にみられる土器棺墓がある。

抗争をくりひろげた弥生社会

東アジア世界史上でみると日本の弥生時代は金属器の使用や水田農耕の開始時期がかなりおそい地域である。しかし、いったん導入された新文明はわずか700800年で巨大な古墳をつくりだす強力な王権力を生むほどに進展した。この時代には水稲農耕を基盤とする村落共同体の発達とともに生まれた階級差の拡大、富の蓄積、共同体首長層の権力増大などを背景に、ムラやクニの抗争もはげしくなった。吉野ヶ里遺跡などで発見された戦死者を埋葬した甕棺、環濠集落や瀬戸内海周辺に多い高地性集落の分布、島根県の荒神谷遺跡の大量の銅剣などがそれをしめしている。これは中国の史書にいう女王卑弥呼の邪馬台国も登場するクニの抗争であり、最終的にこの混乱を統合する強力な王権が大和政権である。

高地性集落 こうちせいしゅうらく 弥生時代に特徴的な、山頂や尾根筋など高地につくられた防御機能をもつ集落。この時代の生活は水田農耕を基盤としたため、集落は低地にいとなまれるのがふつうだったが、瀬戸内海沿岸地域を中心に、北九州や畿内、一部東日本には、高地性集落がみられる。

兵庫県の会下山遺跡(えげのやまいせき)は六甲山系の標高160200mの尾根上にある高地性集落で、竪穴住居跡、祭祀場(さいしじょう)、高床倉庫跡、焼土坑、柵跡などがみつかっている。竪穴住居からは磨製石鏃やガラス玉などとともに鉄鏃、鉄斧(てっぷ)、釣り針など鉄製品が多く出土した。

高地性集落はいとなまれた時期が中期後半〜後期(13世紀半ば)に集中し、会下山遺跡のように武器的な遺物がみつかることから、軍事的緊張状態のもとでの防御的・要塞(ようさい)的集落だったと考えられている。また焼土坑などは通信につかった狼煙台(のろしだい)だったという説もある。関東地方の高地性集落は焼失家屋が発見されることが多いため、明らかに防御的要素が高かったと思われる。

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