弥生時代

 弥生文化

  前400年頃    稲作が九州北部に定着

  縄文時代晩期、九州北部に中国大陸から効率的な水田稲作技術がつたわり、まもなく本格的な稲作が行われるようになった。そして前3世紀ごろになると西日本一帯で水田開発が急速にすすむ。この新しい稲作文化は前2世紀後半までに東北地方まで広まったと考えられ、弘前市の砂沢遺跡では弥生時代前期とされる本州最北端の水田跡が発掘されている。なお近年、全国各地の縄文時代の遺跡からイネの痕跡(こんせき)をしめす炭化米やプラントオパールが発見されており、陸稲などイネ科植物の渡来の時期はさらにはやまる可能性が指摘され、農耕の起源についても議論がつづいている。

  前400年頃 - 後250年頃   弥生時代

   縄文時代につづく弥生時代は水田稲作を中心とする農耕社会となり、稲作によって安定した食糧生産が可能となって、生産性も高まり富の蓄積と階級の分化がもたらされた。この時代は、朝鮮半島や中国大陸との交渉が活発化し、青銅器や鉄器、ガラスの輸入・製作などもはじまっている。縄文土器にくらべてうすくて機能的な弥生土器も生まれた。階級社会になったことで、ムラやクニを統率する卓越した首長層があらわれて各地で勢力争いがおき、やがてそれらが統合されて邪馬台国に代表される国ができていく。そして畿内を中心とする大和政権の時代すなわち古墳時代へと移行していくのである。

  弥生文化

    I

 

プロローグ

  弥生文化 やよいぶんか 日本列島で稲作を生活の中心とした最初の文化。鉄器や青銅器がもちいられ、階級が成立し、国家誕生の前段階となった社会。前5世紀末から後3世紀半ばにあたる。前代の縄文時代が食料採集を経済基盤とするのに対して、水稲農耕を主とする生産経済体制が本格的に成立した時代である。

  弥生文化の領域は南は薩南諸島から北は東北地方におよび、同時期に北海道では続縄文文化、沖縄諸島では貝塚時代とよばれる食料採集段階がつづいていた。弥生時代の区分は古くは3期(前・中・後期)にわけていたが、最近は稲作農耕の始原問題などから早期をおいたり、古墳の発生とからめて弥生末〜古墳初頭期をおく説も提起されている。また前期や中期の幅も、北九州と畿内の研究者の間で差異があるため混乱も生じている。

   II

 

弥生人

  大陸系弥生人と縄文系弥生人が考えられている。前者は朝鮮半島南部から渡来した先住民より背が高く扁平な顔をした人々、後者は縄文人のうち大陸からもたらされた新文化を受容した人々で、背が低く顔の彫りが深い。大陸系弥生人は早い時期に、九州北部、中国・四国地方、近畿・東海地方にまで農耕文化をもたらしたと考えられる。

 

水稲農耕のひろがり

  佐賀県の菜畑遺跡・福岡県の板付遺跡などで縄文時代晩期の水田跡が発見され、それまで弥生文化開始の指標であった水稲農耕が、前代にすでにつたわっていた可能性が高まった。しかし、本格的な水田農耕集落ができるのは弥生時代にはいってからで、かなりはやい時期に北九州から畿内地方までの西日本に水稲農耕がひろがったようである。近年では青森県砂沢遺跡などでほぼ同時期の水田跡が発掘され、そのころには水稲農耕集団が東北まで到達していた。こうした水稲農耕の源流は明確ではないが、朝鮮半島南部、あるいはここを中継点のひとつとして、中国の長江(揚子江)下流域あたりからつたえられたとする説が有力である。

         垂柳遺跡の水田跡

  青森県南津軽郡田舎館村(いなかだてむら)にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕を裏づける発見だった。4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。Encarta Encyclopedia田舎館村歴史民俗資料館提供

                  石包丁

  北九州で出土した磨製石包丁。包丁とはいうが、切るというよりはつむ収穫具である。2つの穴(あな)に紐(ひも)をとおして指にかけ、イネなどの穀物の穂首の部分に石包丁をそえて穂をつみとった。弥生時代後期になると根刈用(ねがりよう)の鉄製の手鎌がつかわれるようになり、きえていった。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵

  菜畑遺跡 なばたけいせき    佐賀県唐津市の丘陵先端部にある縄文前期〜中期の貝塚と、縄文晩期〜弥生中期の集落遺跡。遺跡面積は約1000m2で、1980〜81年(昭和55〜56)におこなわれた調査により、縄文晩期後半の水田跡、炭化米、農耕具などが発見された。78年に福岡県の板付遺跡で縄文晩期末の水田跡が発見されていたが、菜畑遺跡の発見で日本に水稲農耕がつたわった時期が従来よりかなりはやくなることがわかった。最古の水田は畦畔(けいはん)をともない、水路は幅1.35m、深さ45cmで、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものであった。石包丁、木製鍬や朝鮮半島系の磨製石器類(→ 石器)も多数みつかっている。米以外にも、アワ、オオムギ、アズキ、ゴボウなど栽培植物の種子も出土していることから、水稲農耕と並行して畑作もおこなわれていたと考えられる。ほかに、動物や魚介類の骨類が多種みつかっており、なかでも顎(あご)の部分に穴を開けられている豚の骨は、家畜飼育の開始をしめす発見として、注目されている。1983年に国の史跡に指定された。

           菜畑遺跡の復元水田

  菜畑遺跡の水田は畦(あぜ)がつくられ、土留めの矢板(やいた)もくむなど本格的なものである。水路は幅が約1.35mあり、深さは45cmほどである。木製農工具や炭化米もみつかり、これらの発見で、日本での稲作の始まりが縄文時代晩期後半の約2600年前にさかのぼることが明らかとなった。佐賀県唐津市。Encarta Encyclopedia唐津市教育委員会

  板付遺跡 いたづけいせき      福岡市博多区にある弥生時代の複合遺跡。1916年(大正5)の初調査で、弥生時代中期の甕棺墓群が発見された。51年から日本考古学協会が連続的に調査を実施、最古の弥生土器(→ 土器)が確認され、板付I・II式土器と命名された。遺構として、長径110mの前期環濠とその内外に袋状竪穴(たてあな)群や中期の井戸群がみつかっている。

  1970年(昭和45)以降は県・市教育委員会が調査を継続し、多数の木器類・土器類および銅矛の鋳型なども出土した。この調査により、縄文時代晩期に相当する夜臼(ゆうす)式土器と弥生土器である板付式土器が共伴することが確認されていたが、78年の調査では夜臼式土器出土層から足跡や石包丁・農具類などとともに水田跡が発見され、全国的に有名になった。これは、従来最古とされた板付I式土器期より古い水田の存在の証明になるとともに、水稲農耕の伝来を弥生時代の開始とする定説をくつがえす発見であった。

  現在は国史跡となり、市立板付遺跡弥生館が建設、水田が復元され毎年弥生米の栽培をしている。

  砂沢遺跡 すなざわいせき 青森県弘前市の市街地から北へ約20kmの砂沢池の底、約40haに広がる遺跡で、弥生時代の前期にさかのぼる水田址が検出された。この遺跡は、1984年(昭和59)から87年まで、4年間にわたって、発掘調査が行われ、発見された2枚の水田址が、弥生前期までさかのぼることが判明した。弥生前期の水田址が東日本で発見されたのは初めてであり、同県田舎館村の垂柳遺跡(弥生中期)とともに日本最北端の弥生時代水田址として注目される。日本の稲作は、弥生時代に北九州から東漸して東日本に達した、という従来の見方に修正を迫る新発見である。

  垂柳遺跡 たれやなぎいせき     青森県南津軽郡田舎館村にある弥生時代中期の水田遺跡。東北地方ではじめてみつかった弥生時代の水田跡として知られる。遺跡は、旧自然堤防上の遺物包含地と低地の水田跡にわかれる。

  垂柳遺跡の水田跡 青森県南津軽郡田舎館(いなかだて)村にある弥生時代中期(紀元前後)の水田遺構である。この時代における東北北部での稲作農耕をうらづける発見だった。約4000m2に小規模な水田跡が656面あり、畦畔(けいはん)や水路がくっきりとのこる。水田面には足跡もあった。田舎館村歴史民俗資料館提供 

  1956年(昭和31)に籾痕(もみこん)のある土器が発見され、その後、炭化米もみつかっていた。81年から国道バイパス工事のために本格的な発掘調査がおこなわれ、水田跡が発見された。水田跡は656面で、大きなものは11m2以上あり最大のもので22m2、中が9m2前後、小が4m2前後だが、平均では8m2ときわめて小規模である。

  各水田をくぎる畦畔(けいはん)もあり、注水、配水のための水口もつくられていた。水路も12本みつかっている。112面の水田跡からは人の足跡も発見され、形質人類学的にも注目をあつめた。水田脇から発見された土器群は、田舎館式と命名されている。

   II  東北地方の稲作の起源

  東北地方では、垂柳遺跡の発見前から籾痕のある土器片や炭化米、焼けた米がみつかっていたことから、早い時期の水稲農耕説が一部の研究者から提唱されていたが、定説にはなっていなかった。この遺跡の発見で、弥生時代中期にすでに本州北端部で水稲農耕がはじまっていたことが判明し、水稲農耕文化の伝播(でんぱ)を考えるうえで大きな問題提起となった。→ 稲作

  その後、1987年に弘前市の砂沢遺跡から弥生時代前期に属する水田跡が発掘され、東北地方の水稲農耕開始時期がさらにさかのぼった。現在、遺跡の一部はうめられて高架橋がかかり、遺物は田舎館村歴史民俗資料館で保管されている。2000年(平成12)4月に国の史跡に指定された。

IV

 

弥生土器の特徴

   弥生土器は、明治初頭に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現、東京都文京区)で出土した土器から名づけられた。焼成方法は縄文土器や後続する古墳時代の土師器(はじき)と同じだが、文様はシンプルで器面に縄目、刻(きざみ)目、櫛描(くしがき)文をつける程度で、器種は甕(かめ)・壺(つぼ)・坏(つき)など。器形にも複雑さはなく、弥生前期の福岡県遠賀(おんが)川流域で出現した土器器形は機能性がよく、土器が日用品としてつかわれた様子をよくしめし、中部地方から関東、東北地方にまでつたわっている。鉄と青銅に代表される金属器は前期から北九州を中心にみられ、のち大阪湾沿岸地域で発達した。後期になると石器が減少することから、本格的な金属器段階になったとおもわれる。

  唐古・鍵遺跡出土の弥生土器 弥生中期後半の土器。この時期の土器は、削り技法が導入されたこともあって一般に薄手のものが多くなり、器形も大型化する。本遺跡でも、近畿地方の中期の土器によくみられる櫛描文(くしがきもん)や、回転する土器の器面を皮などでなでてつける凹線文(おうせんもん)が主要な文様構成である。楼閣が描かれた土器など、絵画土器の製作もこのころ盛んである。田原本町教育委員会所蔵

V

 

弥生のムラの風景

  「魏志倭人伝」は倭人が貫頭衣とよばれる服をきていたというが、佐賀県の吉野ヶ里遺跡などから絹など繊維が出土し、養蚕をしていたという説もでている。食料資源は前代からの採集・狩猟と水稲農耕で確保したが、近年の研究では米の比重がさほど高くなかったようである。住居は竪穴(たてあな)式住居がおもで、稲籾(いねもみ)・収穫米の保管のための高床倉庫、監視・偵察用の物見櫓(ものみやぐら)建物がたてられた。集落の規模は大小あったが、大型の環濠集落では一時期で100軒をこす建物が存在していたと思われる。大阪府の池上曽根遺跡では宮殿跡とおもわれる超大型庇(→ 母屋と庇)つき高床式建物跡がみつかっている。

  磨製石斧セット

  大阪府池上遺跡から出土した弥生時代中期の磨製石斧をもとに復元した。上は太形蛤刃石斧(ふとがたはまぐりばせきふ)で、柄と刃の方向が同じ縦斧とよばれるもの。中と下は柱状片刃石斧と扁平片刃石斧で、ともに柄と刃の向きが直交する横斧(手斧:ちょうな)である。太形蛤刃石斧は木の伐採、打ち割りなどに、柱状片刃石斧と扁平片刃石斧は木材をけずったり、えぐるのにつかわれた。竹中大工道具館所蔵

  大塚遺跡全景

  環濠集落である大塚遺跡は、深さ1.5〜2m、上幅4mほどの環濠が周囲をめぐる。その外側には土塁があったと考えられ、遺跡内からは弥生土器や石器のほか、炭化米などもみつかっている。すぐ近くには、方形周溝墓群がみつかった歳勝土遺跡(さいかちどいせき)があり、この集落の墓地だったといわれる。(財)横浜市ふるさと歴史財団所蔵

  登呂遺跡の高床倉庫

  収穫した稲などを保管する倉庫を復元したもの。登呂遺跡からは4本柱の倉庫が2軒みつかり、1本の木でつくった梯子(はしご)やネズミ返しなどがつけられていたことがわかった。弥生後期。静岡市登呂。

  吉野ヶ里遺跡

  吉野ヶ里遺跡は弥生時代の大規模な環濠と墓地を特徴とする遺跡である。これは環濠集落内の復元建物で、左の高い建物が物見櫓(ものみやぐら)である。Encarta Encyclopedia佐賀県教育委員会

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VI

 

祭祀と墓制

   シカの肩甲骨などを火であぶっておこなう卜占(ぼくせん)や鳥形木製品を集落入り口にたてる習俗は、水稲農耕にともなう外来系祭祀(さいし)で、銅鐸などをつかう祭儀も新来のものであった。後半には銅剣・銅矛・銅戈なども大型化し祭儀器となっていく。豊穣・天候をいのり、悪霊をはらう儀式が1年の節目におこなわれたのであろう。墓は地域差や年代差が大きいが、おおよそ北九州中心の甕棺墓、西日本に多い石棺・木棺墓、畿内から東西にひろがった方形周溝墓、関東中心の中期にみられる再葬墓、使用器種はことなるが全国的にみられる土器棺墓がある。

  吉武高木遺跡出土の青銅器

  福岡市西区にある吉武木遺跡(よしたけたかぎいせき)は、弥生時代前期の末期から中期後半の墓地群を中心とする遺跡である。甕棺墓34、木棺墓4、土坑墓13が確認され、この写真は4つの木棺墓を中心に出土した副葬品である。左右の9本(右5、左3)は細形銅剣(ほそがたどうけん)で、左から4番目と5番目はそれぞれ細形銅戈、細形銅矛である。中央上は多鈕細文鏡(たちゅうさいもんきょう)、真ん中の2つは銅釧(どうくしろ)とよばれる青銅製の腕輪。その下の4つのヒスイ製勾玉(まがたま)と約100個の管玉(くだたま)は青銅製品ではない。Encarta Encyclopedia福岡市埋蔵文化財センター

  金隈遺跡の甕棺墓

   金隈遺跡(かねのくまいせき)は福岡平野東部にある弥生時代中期を中心とする遺跡である。丘陵上に甕棺墓307基のほか、木棺墓や石棺墓などもみつかっている。それらは、前期に土坑墓、木棺墓が、中期を中心に甕棺墓が、そして後期に石棺墓がつくられており、九州での弥生時代の墓制の変遷を明瞭にしめしている。福岡市博多区。Encarta Encyclopedia福岡市埋蔵文化財センター

VII

 

抗争をくりひろげた弥生社会

  東アジア世界史上でみると日本の弥生時代は金属器の使用や水田農耕の開始時期がかなりおそい地域である。しかし、いったん導入された新文明はわずか700〜800年で巨大な古墳をつくりだす強力な王権力を生むほどに進展した。この時代には水稲農耕を基盤とする村落共同体の発達とともに生まれた階級差の拡大、富の蓄積、共同体首長層の権力増大などを背景に、ムラやクニの抗争もはげしくなった。吉野ヶ里遺跡などで発見された戦死者を埋葬した甕棺、環濠集落や瀬戸内海周辺に多い高地性集落の分布、島根県の荒神谷遺跡の大量の銅剣などがそれをしめしている。これは中国の史書にいう女王卑弥呼の邪馬台国も登場するクニの抗争であり、最終的にこの混乱を統合する強力な王権が大和政権である。

  239年 卑弥呼が魏に遣使

  中国の史書「三国志」魏書の東夷伝にある倭人条(魏志倭人伝)によると、邪馬台国(やまたいこく)の女王、卑弥呼(ひみこ)が中国北方の王朝である魏に使者を派遣した。魏の明帝は卑弥呼を「親魏倭王」に任命して支配下にいれるとともに、銅鏡100枚などをあたえている。魏志倭人伝にはこのほか、2世紀後半に倭国が乱れたのち、女王のもとに小国約30国による国家連合体ができたこと、その連合体の中心が邪馬台国だったことなどもしるしている。なお邪馬台国の位置については、畿内説、北九州説の2説があり、現在も決着がついていない。

  魏志倭人伝 ぎしわじんでん  中国の三国時代(220〜280)を記録した史書「三国志」の中の「魏書」東夷(とうい)伝、倭人条の通称。倭人とは日本人のこと。中国では、前王朝の事績をしるした正史をあとにつづく王朝がまとめる責務があるとされ、晋王朝では陳寿がその編纂にあたった。

  魏王朝についての記事はすでに魚豢(ぎょけん)が編纂していた「魏略」などをもとにし、おおむねこれにそって「魏書」30巻がつくられた。成立は3世紀後半である。魏志倭人伝には、弥生時代後期の日本国内の邪馬台国などの関係史料がのっている。当時の日本人自身の書いた記録がのこっていないため、ここにある約2000字の記事は古代日本についての貴重な証言である。

  それによれば、239年に邪馬台国女王の卑弥呼は、中国東部から朝鮮半島へと力をのばしつつあった魏に朝貢した。卑弥呼は親魏倭王の称号をさずけられ、魏帝から正式な冊封(さくほう)をうけた。そののち卑弥呼は南方にある狗奴(くな)国の攻撃をうけて苦戦し、魏の帯方(たいほう)郡を通じて中国の援助・介入を要請したことが知られる。また邪馬台国までの距離や交通路をはじめ、風俗・習慣・動植物などについてもくわしい。

  これらの記事は中国の地方官吏が見聞したものや伝聞を記録したもので、先入観・誇張・誤伝なども多いため、記述どおりにはうけとりがたい。たとえば日本を海南島のすぐ東と考えていたらしく、当時としてはやむをえない誤解といえよう。しかしそれをふまえても、「古事記」「日本書紀」など8世紀の史料から日本の古代社会を推測するより、同時代史料として一級の価値をもつ魏志倭人伝の史料価値のほうが圧倒的に高い。

  貫頭衣 かんとうい  1枚の布の折り目の中央に穴をあけ、頭をそれにとおして着る簡単な衣服。日本では弥生時代の人がもちいており、「魏志倭人伝」にその記述がある。ラテン・アメリカの民族衣装であるポンチョも貫頭衣の一種である。

  50年頃 吉野ヶ里遺跡に大環濠集落

  佐賀県の筑紫平野中央部で、弥生時代の日本最大級の環濠集落といわれる吉野ヶ里遺跡が最盛期をむかえた。この環濠集落は弥生時代前期の前3世紀ごろにはじまり、1世紀ごろには約40haもある大環濠集落へと発展した。復元高が約12mとされる物見櫓(ものみやぐら)や高床式倉庫の跡などが発見され、支配階層の墓と考えられる墳丘墓も発掘されている。墳丘墓内には特殊な飾りをつけた銅剣や薄絹(うすぎぬ)、細形(ほそがた)銅剣などを副葬(ふくそう)した甕棺(かめかん)がうめられていた。また、一般の甕棺群からは頭骸骨のない遺体や戦傷をうけたと思われる遺体が発見され、これは「魏志倭人伝」や「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝に記載された、2世紀後半ごろの「倭国の乱れ(大乱)」に関係するものとみられている。

  吉野ヶ里遺跡 よしのがりいせき  佐賀県神埼(かんざき)郡三田川町・神埼町などにまたがる弥生時代を中心とする大遺跡。筑紫平野の中央部、脊振山地南麓の段丘上にあり、1986年(昭和61)からの発掘調査で旧石器時代から中世までの遺跡を発掘。なかでも弥生時代の大環濠集落や墳丘墓、数千の甕棺(かめかん)などがみつかったことで全国的に注目され、多数の見学者がおとずれた。

  弥生時代前期の前3世紀ごろには約3haの環濠集落がつくられ、中期(前1世紀頃)になると大規模集落が形成、中期後半には南北1km以上にもなる約40haの大環濠集落へと拡大する。その後、二重環濠もみられるようになり、しっかりとした防御集落が形成された。外側には土塁をもち、半月状につきでた濠(ほり)の内側には復元高12mという物見櫓(ものみやぐら)建物跡がみつかり、その外側には高床倉庫群が数多く発見された。墳丘墓は南北2カ所で発見され、北の中期墳丘墓は南北40m、東西26mほどで推定高4.5m以上の長方形墳丘内に14基の甕棺がうめられ、中央の甕棺からは把頭飾(はとうしょく)付き有柄(ゆうへい)銅剣がガラス製管玉(くだたま)などとともにみつかり、注目された。ほかの甕棺にも細形銅剣など特殊遺物が副葬され、ここに埋葬された人物がほかの甕棺とはことなる階層であったと想像できる。

  一般の甕棺群は大きな列状になるものもふくめ3000基近くが集団でみつかった。とくに中期の甕棺には首がなかったり、傷をうけた人骨がのこっており、戦いの犠牲者ではないかと注目をあつめた。ほかに多数の石製農工具・鉄製農工具・銅鏡・鋳型・布・絹など朝鮮半島・大陸との交流をしめす出土品があり、北九州有数の弥生時代の遺跡である。

  1999年(平成11)秋には弥生時代後期の広場跡とともに多くの竪穴建物跡がみつかり、古代の市場があったと推定された。その中心には市場を管理する市楼(いちろう)とみられる2階以上ある建物跡も発見された。

  この遺跡の発見は、邪馬台国論争で具体的な遺跡がみつかっていなかった九州説に強力な証拠となった。邪馬台国時代(2世紀後半〜3世紀)より100年以上はやい段階でこれほどの環濠集落をつくれる勢力は、邪馬台国時代にも原始的な国(クニ)として存在できる力があったはずというのである。

  復元建物をたてるなど史跡公園のための整備事業がおこなわれ、2001年4月に国営・県営吉野ヶ里歴史公園としてオープンした。環濠集落ゾーン、センターのある歴史公園入り口ゾーン、復元水田のある古代の原ゾーンの3地区があり、「弥生のテーマパーク」となっている。国の特別史跡。

   養蚕 ようさん Sericulture  カイコを飼って、繭(まゆ)を生産すること。日本では、明治時代から昭和の初めにかけては全国いたるところでおこなわれていたが、第2次世界大戦後、生糸の輸出がへったり、農家の人手不足などのため、養蚕をおこなう農家が少なくなっている。現在盛んなのは、群馬や福島、埼玉、山梨、長野県など。関東地方の山麓(さんろく)は古くからの養蚕地帯で、桐生や足利、秩父、八王子などに製糸業、絹織物業が発達した

  環濠集落 かんごうしゅうらく まわりを濠(ほり)でかこんだ集落。弥生時代に九州から関東の各地でみられ、中世では町村の自治や防衛のため幅4〜5mの環濠でかこむ集落が畿内を中心にでてくる。同様の環濠集落は日本だけでなく、ヨーロッパでもみられる。古代都市のバビロンなどもその例である。

  弥生時代では、周囲すべてに環濠をつくるものと、台地上に集落があるとき台地先端の付け根部を横断するように溝や濠をつくるものなどがある。大規模な環濠集落としては、佐賀県の吉野ヶ里遺跡や奈良県の唐古・鍵遺跡が知られ、ともに何重もの環濠をめぐらせ、内部の面積は25〜40haにもなる。一般に環濠の断面はV字かU字形で、深さは2〜3m、上幅が2〜4mもあった。濠底には愛知県の朝日遺跡にみられるように逆茂木(さかもぎ)が設置されていたものもあり、環濠内側には土塁(どるい)や板塀など防御施設も完備していた。環濠の目的は対外防御、防衛がおもだが、村落内の精神的連帯感を強める面もあった。環濠集落がつくられた時期が、古代では弥生中〜後期に集中していることから「魏志倭人伝」にある「倭国乱れ」や、「後漢書(ごかんじょ)」東夷伝にある「倭国大乱」の記述の考古学的証拠とみる意見が強い。

   池上曽根遺跡 いけがみそねいせき  大阪府和泉市池上町から泉大津市曽根町に広がる、近畿地方有数の弥生時代の大環濠集落遺跡。大正初年に発見され、その後、府立泉大津高校などが調査をおこなった。1969年(昭和44)第2阪和国道建設にともなう調査で、大量の石器、木器、土器などが出土し、保存運動の結果、76年に中心部約11.4haが国の史跡となった。

  遺跡は東西800m、南北500mの範囲にあり、時期的には弥生時代前期から後期まで間断なくつづく。最盛期は中期で、この時期には全周が1kmもある二重の環濠でかこみ、環濠内の面積は約7.8haになる。外には南北2カ所以上に、1群6〜7基の方形周溝墓群を中心とする墓域が区画されていた。集落からは竪穴(たてあな)住居、大型掘立柱建物、工房跡、井戸跡など多彩な遺構がみつかっている。

   遺物類も豊富で、蛸壺(たこつぼ)形土器はすでにこの時代にタコ漁がはじまっていたことをしめし、鳥形木製品や銅鐸形土製品は祭祀(さいし)にかかわるものと推測されている。さらに、大量なサヌカイト製の打製石器や、約1500本も出土した紀ノ川流域の結晶片岩製の石包丁も注目をあつめた。この石包丁のうち300本が未成品であったことから、この集落が石器生産場だったことも判明した。

  1995年に床面積約130m2の大型掘立柱建物跡から出土した柱根を年輪年代測定法(→ 年代測定法)でしらべた結果、紀元前52年という数値がでた。これは従来考えられていたこの建物の年代から約100年近く古かったため、学界に衝撃をあたえた。現在、池上町の遺跡の一画に大阪府立弥生文化博物館がたてられ、弥生文化全般の紹介と本遺跡の遺物の展示をおこなっている。

  池上曽根遺跡の大型掘立柱建物跡

  池上曽根遺跡は二重の環濠にかこまれた弥生時代の環濠集落遺跡である。この大型掘立柱建物跡には、写真手前から後方につづく、建物の柱穴が2列確認された。戸外にあった棟持柱穴が手前と奥にみえる。写真左の大きな穴は井戸跡で、クスノキをくりぬいてつくった井戸枠(幅約2m)がのこっていた。Encarta Encyclopedia和泉市教育委員会

  母屋と庇 もやとひさし  古代から中世にかけての日本建築でつかわれた空間名称で、建物の中心部を母屋、その周囲をとりまく空間を庇という。庇は母屋より一段低い空間として認識され、儀式の際には身分の高い者だけが母屋にすわるなど、用途も区別された。後世になると、母屋を「おもや」と読むようになり、屋敷の建物の中で家族が生活する主屋を意味するようになる。また、現在では庇は雨よけや日よけのために出入り口や窓の上にさしかける小屋根も意味する。

  II  屋根の構造と母屋

  三角形の屋根をのせる日本の木造建築では、屋根のもっとも高い部分である棟に棟木(むなぎ)、屋根の下方両端部の軒に桁(けた)という横材をとおし、この棟木と桁の間に斜め材の垂木(たるき)をのせて、その上に屋根面をつくった。そして、これらの棟木や桁をささえるために、地上に柱列をたてた。

  もっとも単純な形は、棟木と屋根下両端部の2本の桁の位置にだけ柱列をもうけるものである。しかし、棟木の位置に柱列をもうけようとすると、建物の中央部に柱列がならぶことになり、内部空間が分断されてしまう。そこで、桁を支持する柱の間に梁(はり)をわたし、梁の上に束(つか)という短い柱をたてて、棟木を支持した。建物の外周には棟木を支持する柱がのこったが、内部の柱はこの方法で省略することができた。この結果、誕生したのが桁を支持する柱列と棟木を支持する2本の柱が建物の外周をめぐる形式で、これが母屋の出発点である。

  古代の日本建築は、柱間という柱と柱の間隔の数で建物の規模を表現する。そのうち、梁のとおる方向を梁間(はりま)、桁の方向を桁行(けたゆき)という。この表現法でいうと、母屋は梁間2間、桁行n間という形式になる(例外的に、宮中紫宸殿のように梁間3間の母屋もある)。

  III  切妻造は権力の象徴

  三角形の屋根をささえるもっとも単純な柱列の形式が、母屋とよばれた理由を説明するには、古墳時代の建築にさかのぼる必要がある。大陸から仏教建築(→ 寺院建築)や宮殿建築の技術が伝来する以前の日本では、支配者の住居は切妻造でつくられた。傘のような形に屋根をふく竪穴住居に対し、切妻造はより高度な構造技術を必要としたため、三角形の切妻造の屋根が権力の象徴のひとつとされた。切妻造、梁間2間桁行3間の伊勢神宮内宮正殿は、古墳時代の支配者住宅の形式をつたえる代表的な例である。

IV  庇は拡張された空間

  母屋と庇の仕組み 平安時代の寝殿造にみる母屋と庇の位置関係。切妻造の建物の周囲に屋根を延長して空間を拡張した部分を庇、本来の切妻造の部分を母屋という。さらに庇の外に延長してつくられた部分を孫庇とよんだ。(原図:北海道工業大学建築史研究室)

  奈良時代になってからも、切妻造を「真屋(まや)」、寄棟造を「東屋(あずまや)」とよび、切妻造の住宅のほうが格上とされていた。しかし、梁間2間の単純な切妻造の構造では、広い内部空間をつくるのはむずかしい。そのため、切妻造の建物の周囲に屋根を延長して蔀(しとみ)などを軒下にさげ、空間を拡張するようになった。この屋根を延長してつくられた空間が庇で、それに対して本来の切妻造の部分を母屋とよんだ。また、庇の外側にさらに屋根をのばして空間を延長する場合もあり、庇の外にさらに延長した部分を孫庇といった。東西の対屋(たいのや)などにみられる吹き放しの孫庇は、広庇(ひろびさし)とよばれた。

  V  寝殿造の母屋と庇

  平安時代の寝殿造は、母屋と庇で構成される住宅の代表といえる。母屋の周囲に庇や孫庇を延長することにより、庇や孫庇を支持する柱列と拡大された床が内部空間の構成を区分する。また、寝殿造では、建具の位置が固定されず、部屋という室内空間も確立していなかったため、室名の代わりに母屋とか南庇といった表現で室内空間の場所を表示した。

  母屋と庇からなる建物の規模は、母屋の桁行間数と庇がめぐっている面の数で表現された。たとえば、「5間4面」というのは、梁間2間桁行5間の母屋の東西南北4面に庇がもうけられた、4間 × 7間の建物をさす。この表現法は「間面記法」とよばれ、平安時代には住宅だけでなく寺院建築の規模をあらわすのにも利用された。

  VI  部屋の成立

  中世になると、母屋や庇といった表現はしだいにみられなくなる。平安時代後半から、屋根を支持する天井より上の構造と、屋内を形づくる天井より下の構造とを分離させる日本独自の建築技術が発達し、これによって、屋根の構造に束縛された母屋と庇の構成にかわって、機能に応じた部屋が屋内に自在に配置されるようになったのである。母屋と庇の構成の崩壊は、寝殿造から書院造への移り変わりをしめす大きな現象のひとつである。

  伊勢神宮 いせじんぐう  三重県伊勢市にある神社。五十鈴(いすず)川の川上にある皇大(こうたい)神宮、山田原にある豊受(とようけ)大神宮、両宮に付属する別宮(べつぐう)、摂社、末社、所管社などの総称。正式名称は神宮。全国の伊勢信仰の中心で、古来最高の特別格の神社とされてきた。

  伊勢皇大神宮正殿 皇大神宮(こうたいじんぐう)、豊受大神宮(とようけだいじんぐう)を中心とする伊勢神宮に対する信仰は、御師の活動などにより全国に広がった。写真は伊勢皇大神宮正殿で、その本殿形式は唯一神明造(しんめいづくり)とよばれる。写真提供:神宮司庁 

  II  皇大神宮と豊受大神宮

  皇大神宮は内宮(ないくう)ともいい、天皇の祖神でもあるアマテラスオオミカミ(天照大神)をまつり、三種の神器のひとつ八咫(やた)鏡を神体とする。「日本書紀」によれば、第10代の崇神天皇のとき、宮殿にまつっていた神体を皇女の豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に託して大和の笠縫邑(かさぬいむら)にうつし、第11代垂仁(すいにん)天皇のとき、皇女の倭姫(やまとひめ)命が各地をめぐったうえで、伊勢国を鎮座の場所としたのが始まりという。

  豊受大神宮は外宮(げくう)といい、ミケツカミ(御饌都神)をまつる。804年(延暦23)の「止由気宮(とゆけのみや)儀式帳」によれば、もとは丹波国にまつられていたが、雄略天皇のとき、アマテラスオオミカミに御饌(みけ:食事)をすすめるためにうつされたという。

  III  皇室と関係の深い神社

  伊勢神宮には社格や神階がないが、これは朝廷・国家の最高の神をまつり、他の神社より超越することをあらわす。天皇以外の奉幣(ほうへい)・参詣を禁止する私幣禁断や、天皇の皇女を斎宮(さいぐう)として奉仕させるかつての制度からも、伊勢神宮が皇室にとって特別な存在であったことがわかる。

  神宮の職員である祢宜(ねぎ)として、内宮には荒木田氏、外宮には度会(わたらい)氏があたり、大神宮司(だいじんぐうし)がそれらを統括していた。ほかに大中臣(おおなかとみ)氏の五位以上の神祇(じんぎ)官が祭主に任じられ、勅使として朝廷との間を往復していた。祭主の職は、大中臣氏一族の藤波氏が世襲するようになった。1871年(明治4)の神宮改革でこれらの神職の世襲は廃止され、祭主は皇族だけにかぎられた。

  IV  式年遷宮と祭礼

  明治期になると、神社は国家の宗祀(そうし)とされ、伊勢神宮はその第1として国家から特別な扱いをうけた(→ 国家神道)。戦後、政教分離の原則にもとづき、1946年(昭和21)に宗教法人となったが、現在でも全国の神社の中心的な存在で、神社本庁の本宗とされている。

  両宮とも神明造の正殿を中心とする建物群からなり、社殿は20年に1度の建て替えをする式年遷宮(せんぐう)の制度により、当初の構造が現在につたえられている。遷宮は持統朝(686〜697)から約1300年つづき、1993年(平成5)10月で61回をかぞえた。

  伊勢神宮でおこなわれる祭りは多い。「神祇令(じんぎりょう)」の規定では、10月の神嘗(かんなめ)祭と5・10月の神衣(かんみぞ)祭があり、「延喜式」では、神嘗祭と6・12月におこなわれる月次(つきなみ)祭を三節祭(さんせちさい)として重んじる。

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