漆工芸

漆器工芸

  漆工芸

  漆工芸 うるしこうげい 木などを素材とした器物の表面に漆をほどこす技法で、装飾および保護の目的がある。漆は耐熱性、耐水性にすぐれ、また顔料など彩色用の素材ともよくなじむ。東南アジアにみられるウルシ科の植物ウルシの樹液を精製・乾燥してつくられ、中国や日本の伝統的な漆工芸ではこれをもちいる。欧米の漆工芸では伝統的にシェラック(カイガラムシの分泌物からつくられる天然樹脂)がつかわれる。

  II  中国の漆工芸

  中国漢代の漆耳杯 中国漢代(前202〜後220)の漆耳杯(しつじはい)。本体に「耳」がついていることからこうよばれる。外側は黒地に赤い漆(うるし)、内側は赤地に黒と金の漆がぬられている。鳥の図柄と幾何学模様は、後期周代の様式の影響をうけている。

 

  漆工芸は、中国に起源があるとみられ、殷(商)代(前17世紀?〜前1050?)の遺跡から漆器の断片が出土しており、これが最古のものとされる。西周(前1050?〜前771)の集落跡からは、漆絵をほどこした陶器類が発見されている。つづく東周の時代(前770〜前256)と戦国時代(前403〜前221)に、漆工芸は重要な芸術形式となった。戦国時代に中国の中央部と南部一帯を支配していた周の人々は、椀(わん)や化粧品箱などの家庭用品に、動物や人をえがいた複雑な漆絵で装飾をほどこしていた。当時の墓の中からみつかったこれらの工芸品は、中国美術でも最古のものとして知られる。

  漢代(前202〜後220)になると、表面を顔料でうつくしく彩色する漆絵の技法が盛んになった。家具や棺など木製の調度には、ふんだんに装飾がほどこされ、抽象的なモティーフや空想上の動物などがえがかれた。

  唐代(618〜907)に入ると、木製の仏像の彩色と保護に、漆が広くもちいられるようになった。また、漆をぬった表面に文様をほりあらわす彫漆(ちょうしつ)が、新しい装飾の技法として最初に登場したのも唐代であった。つづく宋代(960〜1279)では、この技法はほとんどみられず、黒か朱のみのシンプルな彩色がこのまれた。しかし、元代(1271〜1368)になると、ふたたび技巧をこらした装飾がみられるようになる。彫漆はきわめて複雑になり、真珠層などをはめこむ象嵌の技法も広く普及した。

  明代(1368〜1644)の初期には、朱で彩色された彫漆がこのまれたが、16〜17世紀には、緑や黄など多彩な色がつかわれるようになった。この時代にも、椀や盆などの日常用品や家具がもっとも一般的な漆工芸品だった。清代(1616〜1912)の漆工芸の特徴は、器の表面にさまざまな装飾がほどこされていることである。この時代には、彫漆や、貴石や金箔をはめこむ技法ももちいられた。人物を配した風景などをえがいた大きな屏風がつくられ、とくに輸出品として人気が高く、ヨーロッパ、日本、インドなどに船積みではこばれた。中国では現在も、高度な技術をもつ漆工芸家がさまざまな伝統工芸技術をもちいて作品をつくっている。

III  日本の漆工芸

1  歴史

  鳥浜貝塚出土の漆塗り櫛 鳥浜貝塚は、福井県三方(みかた)町の川床の下からみつかった遺跡である。縄文時代早期のもので、漆塗りの器や櫛が出土している。朱塗りの櫛(くし)は9本の歯がのこり、長さは約9cm。髪飾り用で材質はヤブツバキである。縄文時代の高度な漆工芸技術がよくわかる。福井県立若狭歴史民俗資料館提供 

  鳥浜貝塚 とりはまかいづか 福井県三方郡三方町にある縄文時代の低湿地遺跡。三方湖の南、2つの河川が合流する地点で発見された。時期は草創期から前期までで、前期の貝塚がある。

  1925年(大正14)に河川改修工事で土器などが出土したが調査は実施されず、62年(昭和37)の揚水ポンプ場建設時に発掘調査がおこなわれた。86年まで自然科学方面の支援もうけながら調査がつづけられ、遺跡の範囲は東西約60m、南北約100mで、かつての湖につきだした半島状の丘陵に集落がつくられていたことがわかった。

  標高0m以下の湿地帯のため、通常ならのこらない木製品、動物遺体、植物種子なども豊富に残存していた。木製品では数隻の丸木舟、50本以上の櫂(かい)、装飾された美麗な弓、石斧の柄(え)、漆塗りの櫛(くし)などがあり、石製品では石鏃、磨製石斧、打製石斧など、骨角器類にはやす、銛(もり)、針、装飾品などがあった。

  さらに、植物の種子類の中に栽培植物であるヒョウタンやエゴマ、ゴボウ類などがあったため、少なくとも縄文時代前期にアジア大陸からこれらの植物類がもたらされた可能性が高まり、縄文農耕論に新たな問題をなげかけた.

  また、河川につきだすように柱穴遺構が発見され、その周辺から糞石(ふんせき)が大量に出土したため、これがトイレではないかと推定され、日本の「トイレ考古学」発祥の遺跡ともなった。資料は現在、県立若狭歴史民俗資料館で公開されている。

鳥浜貝塚出土の丹彩土器と漆塗り櫛

  鳥浜貝塚は、福井県三方(みかた)郡三方町の川床の下からみつかった遺跡である。左の丹彩土器は、高さ約10.3cm、厚さは3〜5mmほどで、焼成後に赤いベンガラをぬっている。右の櫛(くし)は9本の歯がのこり、長さは約9cm。髪飾り用の櫛で材質はヤブツバキである。縄文時代の高度な漆工芸技術がよくわかる。

  本では、北海道垣ノ島B遺跡で、約9000年前(縄文時代早期)のものとみとめられる腕輪などの漆製品が発見されている。島根県夫手遺跡(それていせき)では、6800年前という縄文時代前期初めとみられる土器の底に付着した漆が発見されている。また福井県鳥浜貝塚から約5500年前の赤色櫛(くし)や盆状容器、山形県押出遺跡(おんだしいせき)から5000年前ごろの浅鉢土器が出土し、かなり古い段階から漆工芸の技術を習得していたことがわかる。漆には光沢や防水性や粘着性があるため、縄文時代晩期(前1000〜前300)になると土器・弓・装身具(→装身具の「日本」)などに塗料としてもちいられた。なかでも晩期を代表する東北地方の亀ヶ岡文化圏では赤色・黒色の漆をぬった土器・飾り刀(たち)・弓・耳飾り・櫛(くし)・腕輪・竹をつかった籃胎漆器(らんたいしっき)などが多数出土している(→ 亀ヶ岡遺跡)。青森県是川(これかわ)中居遺跡では漆をつめた土器や、漆の色彩料として赤色顔料のベンガラ(酸化第二鉄)をつめた土器などもみつかり、かなり大規模に漆工芸がおこなわれていたことがわかる。

  密陀彩絵箱 正倉院宝物にある密陀絵(みつだえ)は一種の油絵で、乾性を高めるために密陀僧(一酸化鉛)をくわえた油に顔料をまぜた絵具で描くもの。これとは別に、漆地に膠絵(にかわえ)を描いた上に油をひいた密陀彩絵という技法もあり、写真の密陀彩絵箱もそのひとつ。丁香(ちょうこう)などをいれた箱で、パルメット唐草(忍冬唐草)が躍動的に描かれている。30×45×21cm。正倉院中倉。正倉院宝物・正倉 

 

  「先代旧事本紀(くじほんぎ)」によれば三見宿禰(みつみのすくね)が漆部連(ぬりべのむらじ)の姓(かばね)をあたえられ、漆工の祖先としるされているが定かではない(→ 氏姓制度)。また「日本書紀」用明天皇2年(587)の記事に漆部造兄(ぬりべのみやつこあに)という人物名がみえることから、この時代に漆製作集団があったことがわかる。「大宝律令」(701)では大蔵省の管理下に漆部司、漆部がおかれ、正倉院文書は地方に漆部があったとつたえている。この時期の代表作ともいえるのが飛鳥時代の法隆寺玉虫厨子で、台座の四面にえがかれた漆絵のみごとさは有名。

  葡萄蒔絵螺鈿聖餅箱 キリシタン時代、聖餐式(せいさんしき)で使用された、聖餅(せいへい:オスチア)をいれる容器。蓋(ふた)には、「IHS」の3文字に花形の十字架、3本の釘(くぎ)を配したイエズス会の標章がしるされており、側面はのびやかな葡萄文様(ぶどうもんよう)がめぐる。径11cm、高さ9cm。東慶寺 

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  奈良時代の正倉院宝物には、漆絵、平文(ひょうもん)、漆皮(しっぴ)、螺鈿、密陀絵(みつだえ)など、さまざまな漆技法をつかった楽器や調度品がのこっており、はやくから唐代の漆芸技法がつたわったことをしめしている。国内でも、当麻(たいま)寺の「当麻曼荼羅(まんだら)厨子」に、金銀泥絵をほどこし、金平文による飛天文があらわされた例がみえる。また、乾漆による仏像や器物も盛んにつくられた。

  尾形光琳「八橋蒔絵硯箱」 上段に水滴(水入れ)と硯をおさめ、下段は料紙箱となっている黒漆塗の硯箱。燕子花(かきつばた)の花や葉が、蒔絵と螺鈿によりみごとに意匠化されている。18世紀前半。東京国立博物館所蔵 

 

  奈良時代になると、蒔絵技法がおこり、貴族の生活調度や経箱などをやまと絵風の文様でかざるようになった。中尊寺金色堂の内陣や須弥壇(しゅみだん)は、黒漆塗に金銀、螺鈿、蒔絵で名高い。鎌倉時代になると、浮彫彫刻に漆をかけた鎌倉彫が考案され、また、平蒔絵、高蒔絵など、蒔絵の基本的な技法が完成した。一方、朱漆に黒漆をかけた根来(ねごろ)塗、透漆(すきうるし:透明度の高い精製漆)の春慶塗などの無文漆器や、沈金もこのころ生まれた。

  松田権六「赤とんぼ蒔絵箱」 金沢生まれの漆芸作家松田権六は、研出蒔絵(とぎだしまきえ)の技法を中心にもちいて日本的な情緒を表現するとともに、伝統工芸の近代化に貢献した。写真の蒔絵箱は、芦を研出蒔絵と金平文(ひょうもん)であらわし、トンボは羽に夜光貝をはり、胴を朱漆で描いている。1969年(昭和44)。京都国立近代美術館所蔵 

 

  室町時代になると、幸阿弥(こうあみ)派、五十嵐派ら蒔絵師の一派や、堆朱(ついしゅ)の堆朱楊成(ようぜい)が活躍するようになる。桃山時代には、平蒔絵に絵梨地(なしじ)などの技法をあわせた大胆な意匠感覚の蒔絵があらわれた。豊臣秀吉と夫人の北政所(きたのまんどころ)をまつった高台寺の霊屋にほどこされた装飾に代表される様式で、それにちなみ高台寺蒔絵といわれる。江戸時代には、本阿弥光悦や尾形光琳らがでて、斬新(ざんしん)なデザインを蒔絵にほどこした。また、会津、輪島、津軽など各地方でも特色ある漆器がつくられるようになり、現在に継承されている。

  2  技法

  漆の加飾法には多くの技法があるが、その中のおもなもの、蒔絵、螺鈿、彫漆、沈金を以下にあげる。

  2A  蒔絵

  片輪車蒔絵螺鈿手箱 流水の中にいくつもの車輪を配した「片輪車文(かたわぐるまもん)」の手箱。金平塵(へいじん)の地に金・青金の研出蒔絵(とぎだしまきえ)と夜光貝の螺鈿(らでん)をもちいて流水と車輪を表現している。12世紀。東京国立博物館所蔵 

 

  蒔絵は、漆塗面に漆で文様をえがき、それがかわかないうちに、金、銀、青金(金と銀の合金)、あるいはそのほかの金属の粉をまいて文様をあらわす技法。そのうちのおもなものに次の3つの技法がある。

  秋草蒔絵見台 秋草文様に桐紋をちらし、金の平蒔絵(ひらまきえ)を主体にした高台寺蒔絵による見台(書見台)。見台の表面にはキク、ススキ、ハギ、キキョウなどの姿がみられる。17世紀。東京国立博物館所蔵 

 

  平蒔絵は、絵漆(ベンガラをねりこんだ漆)で絵をえがき、細かな蒔絵粉をまき、かわいてから文様の部分だけ漆でおおってみがいたもの。研出(とぎだし)蒔絵は、黒漆で文様などをえがき、蒔絵粉をほどこし、かわいてから全面に透漆や黒漆をかける。よく乾燥したのち、木炭で文様をとぎだし、みがいたもの。高蒔絵は、意匠の部分を、炭粉や錫(すず)焼粉、漆などをもちいて、表面を肉厚にもりあげてから蒔絵をほどこすもの。

  また、これら絵や文様以外の地の部分にも、あらい鑢(やすり)粉を密にまいて漆をかけ、とぎだした沃懸地(いかけじ)、やや細かい梨地、細かい蒔絵粉を密にまいた金地などがある。以上の技法は、さらにさまざまにくみあわされてつかわれる。

  2B  螺鈿

  本阿弥光悦「花唐草文螺鈿法華経箱」 黒漆地に、ごくうすい螺鈿(らでん)でリズミカルな宝相華唐草(ほうそうげからくさ)がほどこされ、蓋(ふた)の中央に光悦筆で「法華経」の文字。微妙に色のことなる貝が適所に配されていて、なにげないがいきとどいた意匠である。38×28×12cm。17世紀初頭。本法寺/京都国立博物館 

  螺鈿は、夜光貝やアワビの貝の真珠質の部分を砥石(といし)でみがき、一定の厚さにそろえ、文様の形に切って漆塗面にはめこんだり、はりつけたりする技法。光線の当たりぐあいによって、貝の部分が青や白にうつくしくひかるのを利用した加飾法である。漆塗面は文様にしたがってほっておき、貝を糊漆ではりつける。貝自体に線彫装飾をさらにほどこすこともある。木地に螺鈿をほどこしたものもあり、奈良時代には木画やべっこうなどと併用したが、平安時代になると、蒔絵とともにつかわれてその効果を一段とあげた。

  2C  彫漆

  彫漆は、漆を厚くぬり重ね、文様を彫刻する技法。朱漆をもちいたものを堆朱、黒漆をもちいたものを堆黒(ついこく)という。なお、鎌倉・室町時代に中国からもたらされた、蕨手(わらびで)唐草文ふうの彫漆を日本では屈輪(ぐり)とよぶ。これら彫漆と同じような表面をみせるものに鎌倉彫がある。しかし鎌倉彫は木地に彫刻をほどこし、漆をぬったもので、彫漆とはことなる。

  2D  沈金

  沈金は、漆塗面に小刀で文様を線刻し、そこに金箔をすりこんで、金線による文様をつくる技法。まず、刻線の溝に生漆をすりこんでから、余分な生漆をふきとる。そこに金箔をのせ、真綿で溝におしこんで、接着する。

  IV  ヨーロッパの漆工芸

  ヨーロッパではルネサンス期に漆工芸が知られるようになった。しかし、東洋の漆芸品や漆仕上げの家具が交易によって本格的に流入しはじめるのは、17世紀になってからである。それらの品は高価だったため、西欧人の手になる模倣品、いわゆる「ジャパニング」がでまわることになった。ジャパニングの技法と手順のあらましを書くと、(1)ニカワと混合した石膏(ゲッソ)を木材の表面にうすくぬって下地をつくる、(2)シェラックを溶剤のアルコールにとかしてつくる黒、その他の着色ワニスを上ぬりする、(3)東洋風にみせかける場合には、浮き出し模様や油彩、彫りなどの加飾をほどこす。こうした技法は小ぶりな書き物机やチェストなどの家具に多用された。

  1688年J.ストーカーとG.パーカーによる漆芸技法の本が出版されてからは、イギリス、ドイツ、フランス、オランダなどヨーロッパ各国で漆器が大量に生産されはじめた。とりわけすぐれた漆器職人として名高いのは、プロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム3世の宮廷で活躍したリエージュ出身のジェラール・ダグリである。白地の上に原色を多用したダグリの独特な加飾方法は、黒、赤、金色を主調とした東洋のそれとはまったく対照的である。しかしこのような高度な技法をしめしたものはヨーロッパには少なく、本場の東洋の漆器とくらべると、艶(つや)や技巧の精妙さの点でおとるものが大半を占めている。

  18世紀半ばには、ジャパニングはすたれていく。しかし19世紀に、張り子材料のコンクリ紙を素材とする器類の加飾と補強に、ジャパニングの技法が応用された。これらの製品はとくにイギリス、アメリカ、フランスなどでもてはやされている。

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