菅江 真澄

  菅江真澄 すがえますみ 1754〜1829 江戸後期の紀行家・随筆家。本名は白井秀雄。1810年(文化7)以降、菅江真澄と称した。三河国牟呂村(愛知県豊橋市)に生まれる。国学・本草学をまなんだのち、1783年(天明3)から旅にでて、名所旧跡をたずね各地の村々をまわった。信濃・越後・出羽・津軽から蝦夷地の松前にもわたり、1811年から秋田の久保田城下(秋田市)にすんだ。

  弘前藩では薬物掛(がかり)となり、秋田藩では藩主佐竹義和の依頼をうけて地誌を編纂したほか、旅日記「菅江真澄遊覧記」89冊を各地にのこした。真澄は旅先で目にしたものに興味をもち、精緻な彩色絵をえがき、また庶民生活や習俗・伝承を書きとめた。これらは、各地の年中行事や庶民生活の実態を知ることができる民俗史料としてたいへん貴重である。

   菅江真澄(本名・白井英二)は宝暦4年(1754)三河の国 渥美郡(現愛知県豊橋市周辺)で生まれました。

  天明3年(1783)7月19日、秋田県仙北の地で亡くなったが、墓碑には享年76.7とあるので、当時の秋田の人も正確な年齢は分かっていなかったようです。

  人生の大半を旅に生きた真澄は、百種二百冊に及ぶ著作を残しました。

  著書には詳細な絵図が挿入され、読む人に感動を与えています。

  日記、地誌、随筆、絵図集などの体裁をとっているが、その内容は民俗、地理、国学、詩歌、考古、本草、宗教などの分野に及んでいます。人々はこれを

 「菅江真澄遊覧記」と総称しています。

  考古学  真澄は青森県の三内丸山遺跡の縄文土器を見て、「縄形の瓦」と表現しています。「縄文」と言う言葉は、アメリカの学者モーリスが明治になって使用したものですが、真澄は80年も以前に文字の違いはあれ「縄文」を意識していたことになります。

  秋田でも十和田火山の噴火で、埋没した家屋が発掘されたことを大館で“にえのしらがみ”に記し、高巣では仮題“埋没家屋”に記しています。

  大阿仁では縄文土器を見て“みかべのよろい”を書いています。

  真澄の著作は、厳しい自然の中に生きた雪国の常民の喜びや悲しみを客観的記述したものとして、民俗学研究の貴重な資料となっています。

(http://www.iimachi-akita.jp/bun/masumi/)