照葉樹林文化

   照葉樹林 しょうようじゅりん 革質で光沢のある常緑の広葉をもつ樹種で構成される森林。亜熱帯から温帯にかけての夏に雨の多い地域に発達する。ツバキやシイ、カシ、クスノキなどが代表樹種。

  地中海沿岸など、冬に雨の多い亜熱帯や温帯に発達する常緑広葉樹林を硬葉樹林という。

  照葉樹林文化 しょうようじゅりんぶんか 照葉樹林帯に生活する民族に共通してみられる文化。ヒマラヤ山系アッサムから雲南山地、東南アジア北部から中国江南・華南にかけての地域には常緑広葉樹林がひろがり、これらはカシ・シイ・クスノキなど葉の表面がひかるため照葉樹林とよばれる。照葉樹林は海をわたり、日本の中南部にもひろがる。民族学者の中尾佐助・佐々木高明らは、この地帯にくらす人々の生活文化に共通項が多い点に着目、照葉樹林文化を提唱した。

  3つの発展段階にわけられ、第1段階は狩猟・漁労・採集活動が生業の中心のプレ農耕段階とよばれる。水さらしによるアク抜き技法やウルシの活用、食べ茶の習慣などが特徴。一部ではエゴマ・ヒョウタン・リョクトウなどの原始的な栽培農耕がおこなわれていた。第2段階は雑穀・イモなど根栽型の焼畑農耕を中心とする雑穀栽培焼畑農耕段階で、茶をのむ風習、漆器製作、マユから絹をつくる、ミソ・ナットウなど発酵食品、コンニャクの食用などがはじまり、モチなどが儀礼でつかわれるようになる。洪水神話や羽衣伝説など共通の説話・習俗もひろがった。第3段階は水田農耕がはじまる稲作ドミナント段階で、魚と米でつくる馴()れずし( すし)の慣習、鵜飼の習俗、焼米の製造、高床建物の建設などがくわわる。

  日本へは第1段階が縄文前期ごろ伝播(でんぱ)し、典型的な照葉樹林文化の第2段階が縄文後・晩期につたわって本格的に醸成されたと考えられる。第3段階は第2段階から発展したもので縄文終末〜弥生時代に朝鮮半島経由で北九州に伝来したとされる。この文化論はそれまで日本列島だけを対象としていた傾向に対し、東アジアさらには地球規模の視点を提起した点で重要である。民族学・人類学・考古学などが複合的に展開するその後の研究方法を創始した功績もある。

  中尾佐助 なかおさすけ 192693 栽培植物学者。愛知県の生まれ。1941(昭和16)に京都帝国大学農学部を卒業。在学中から小興安嶺、北朝鮮、南サハリンの探検、ミクロネシアと内蒙古の生態学調査に参加した。卒業後は木原生物学研究所( 木原均)をへて、49年大阪府立大学にうつり、61年から教授をつとめた。80年から82年までは鹿児島大学教授。

  1952年に今西錦司隊長のもとでマナスル登山隊に参加して以来、6回にわたってカラコルム、ネパール、シッキム、ブータン、アッサムにおよぶヒマラヤ地域の植物を調査したほか、アジア・アフリカ各地を広く踏査し、栽培植物の起源とその伝播(でんぱ)ルートの解明をライフワークとした。

  また、ヒマラヤ南麓(なんろく)から東南アジア、日本にいたる照葉樹林帯に生活する人々の間に、焼畑農業、堅果(けんか:どんぐりなど)やイモ類の利用など、植生とむすびついた生業形態がみられるほか、死生観や自然観をふくめた共通の文化要素がみとめられることに着目し、照葉樹林文化という概念を提唱、日本文化論に一石を投じた。「秘境ブータン」(1959)、「栽培植物と農耕の起源」(1966)、「料理の起源」(1972)、「分類の発想」(1990)など多数の著書がある。

  なお大阪府立大学図書館には、食物や食文化、農耕文化などに関する中尾の寄贈資料をあつめた「中尾佐助コレクション」がある。

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