三内丸山

      三内丸山

   三内丸山遺跡 さんないまるやまいせき 青森県にある縄文時代の集落遺跡。青森市の南西、陸奥湾に近い台地の上に、縄文前期中ごろから中期の終わりごろ(約5500〜4000年前)、約1500年間にわたって継続して生活がいとなまれた。遺跡の範囲は約38haと推定され、縄文時代の集落としては日本最大級の規模をほこる。

  発掘調査は1992年(平成4)から青森県埋蔵文化財センターによっておこなわれ、800カ所にもおよぶ多くの竪穴住居跡のほか、素掘りの墓穴(土坑墓)やこれを石でかこんだ墓(配石墓)、土器にいれられた子供の墓など、たくさんの墓もみつかっている。それに掘立柱建物跡、道路や食糧を貯蔵するための穴倉、ゴミ捨て場、土器をつくる粘土採掘跡なども発見された。

空からみた三内丸山遺跡

   青森市にある三内丸山遺跡は、5500〜4000年前の縄文集落。この集落には、1500年間も人がすみつづけ、多いときには500人もくらしていた。広さは、現在わかっているだけでも約38haもある。Encarta Encyclopedia青森県教育庁文化財保護課

三内丸山遺跡の盛土遺構

この南にある盛土遺構は、縄文中期の約1000年間に土や土器などを2〜3mの高さにつみあげている。これはその断面で、ところどころでているのは土器片である。青森市。Encarta Encyclopedia青森県教育庁文化課三内丸山遺跡対策室

三内丸山遺跡出土の「縄文ポシェット」

  イグサ科の植物をつかって綾織りしてつくった小物入れ。クルミの殻が半個入っていた。

  縄文時代前期。青森市。Encarta Encyclopedia青森県教育庁文化課三内丸山遺跡対策室。

  なかでも、巨大なクリの丸太6本をつかった大規模な掘立柱建物の跡(大型掘立柱建物)や、こわれた土器、石器をつみかさねた人工の丘(盛土遺構)の発見は注目をあつめた。盛土遺構は、竪穴住居をほったときの土や灰、こわれた土器や石器、土偶などの廃棄物を約1000年間にわたって、徐々につみかさねてできたもので、規模は長さが200m、高さは2m以上にもなる。

  遺跡から出土した土器や石器、土偶などのこわれた道具類は膨大で、ダンボール箱で約4万箱にもなる。また、遺跡内の谷や川の斜面はゴミ捨て場として利用され、ここからはふつうではのこりにくい動物や魚の骨、植物の種子や花粉、昆虫、植物の繊維をつかってあんだ籠や編布(あんぎん)、木製品、骨角器などがたくさん発見された。種子や花粉の分析によって、ヒョウタン、ゴボウ、豆、クリの栽培がおこなわれていたこともわかっている。

  三内丸山遺跡のような巨大な集落は、周辺にあるいくつもの集落の人たちが1カ所にあつまり、生活したことによってつくられたものと考えられている。遺跡からは、アスファルトやヒスイ、コハク、黒曜石など、ここから遠くはなれた土地でしか手に入らない貴重な物資が多くみつかっている。北海道と本州との接点に位置する三内丸山遺跡は、その地理的な利点を生かし、こうした遠くの土地からはこばれてきた物資を集散する交易の要地としての役割をはたし、発展していったものと考えられている。

  1994年、大型掘立柱建物跡が発掘されたのをきっかけに、遺跡の保存運動が高まり、97年に国の史跡に指定、2000年には特別史跡になった。現在、大型掘立柱建物や大型竪穴住居などが復元され、一般公開されている。03年、「縄文ポシェット」の愛称で知られる編籠や大型板状土偶など多数の遺物が重要文化財に指定された。

  縄文埋葬 じょうもんまいそう 縄文時代におこなわれた埋葬の様式。埋葬の始まりは、旧人の段階にあるといわれる(→人類の進化の「旧人」)。日本では北海道の旧石器時代遺跡から朱をしきつめた土坑が発見されたのが、埋葬行為の最初とみられている。

  縄文時代には、明瞭(めいりょう)な意思をもって埋葬がおこなわれていた。代表的な例では、集落の近くの土坑内に埋葬するもの、貝塚の中に埋葬するもの、廃屋となった竪穴住居内に埋葬するものなどがあげられる。また、土器内に幼児・死産児をいれて竪穴住居の床面などにうめる葬法を埋甕(うめがめ)といい、わざわざ人の出入りの多い場所に埋葬することからみて、死んだ子供が母胎に再生することをねがう呪術行為(じゅじゅつこうい)と推測される。体の一部をおりまげる屈葬とのばした状態の伸展葬があり、頭部に石や土器をのせることもあった。これは死者の霊魂が外界に遊離しないことをいのった儀礼と思われる。

   埋葬人骨に装身具類がほどこされていることもある。北海道から青森県にかけてはベンガラや朱を土坑内にしきつめたり、玉類や櫛(くし)類をつけたものが多く、関東から上信越にかけては玉・石製耳飾り類をつけたもの、愛知県以西では貝輪あるいは腰飾りをつけたものが出土している。貝輪をつけた9割が女性で、腰飾りをつけた大半が男性である。装着品とは別に、土坑内に副葬された石器類や弓、土器類もある。しかし、特別な装着品や副葬品をともなう例はごくわずかで、集団内で特別な役割をもった人物と考えられる。青森県の三内丸山遺跡では、集落の近くに幼児用や子供用の土坑墓群と、200m以上にわたって2列にならんだ大人用の土坑墓群が明確にわけられている。特別な副葬品などはみつからなかったが、この配列はこれまでの縄文埋葬に対する考えを大きくかえた。

   竪穴住居 たてあなじゅうきょ 地面をほりくぼめて床をつくり、そこに柱をたてて上に屋根をかけた半地下式の住居。縄文時代草創期(→ 縄文文化)に出現し、古墳時代まで住まいの主流として採用された。以降、平地住居に交代するが、東日本では中世まで竪穴住居がのこる。

  発掘された竪穴や、柱穴の位置と太さ、屋根をささえる垂木(たるき)の位置などから建物構造を復元すると、屋根を地面までふきおろした伏屋式(ふせやしき)と、竪穴の壁にそって細い柱を狭い間隔でたてならべ側壁をつくる壁立式(かべだちしき)がある。

  屋根にふく材料には草、樹皮、茅(かや)などのほか、土も広く使用された。屋内には炉やかまど、貯蔵穴、間仕切りなどがもうけられた。

   吉野ヶ里遺跡の竪穴住居(復元)

  大地の上にじかにのっている竪穴住居。そのためそこにすむ古代人は、大地の広がりと深さを実感しながら生活した。Encarta Encyclopedia佐賀県教育委員会/長谷川 尭撮影

不動堂遺跡の復元大型竪穴住居

  この大型住居の平面は小判形をしており、東西が約17m、南北が約8mである。不動堂遺跡は現在、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)が3棟復元され、縄文時代の集落景観が実際に体験できる史跡公園となっている。富山県新川郡朝日町。Encarta Encyclopedia朝日町教育委員会

  土器の起源

   土器がつくられる以前を先土器時代というが、そのような時代にも、大型の木の実の殻(から)や大型鳥の卵殻、獣皮の皮袋や胃袋などを利用して多様な容器がつくられていた。樹皮や蔓(つる)や草をあんだ、さまざまな形と文様の籠類も発達していた。細かくあんだ籠の内側に粘土をぬりこめると、水もれしにくい容器ができる。それが火事で焼け、偶然に土器が発明されたという説もある。チェコでは2万7000年前の遺跡から、地母神像(土偶)やそれを焼いた炉(窯)の跡が出土し、粘土でつくられたぶあつい炉壁は土器のように焼きしまっていたという。

   土器の発明によって、はじめてやわらかい食物とスープが生まれ、いくつもの素材のうまみがとけあう「味覚の革命」がおこったという説がある。しかし、先土器時代にも岩のくぼみや皮袋に水と食物をいれ、焼け石をほうりこんで沸騰させる調理法はあった。むしろこうした単発的な煮炊きの経験によってやわらかい肉やおいしいスープの味を知っていた人類が、いつでも食べられるように工夫を重ね、ついには土器を発明したと考えたほうが矛盾はない。

   長い間、土器は世界各地の古代文明の発祥地でほぼ同時に発生したと考えられていた。しかし、   日本列島の各地やロシアの沿海州、アムール川下流域、中国黒竜江省などから1万2000年以上も前の世界でもっとも古い土器が次々に出土し、土器の起源が東アジア東北部らしいことがわかってきた。今後、他の地域からさらに古い時代の土器が出る可能性もないとはいえないが、縄文土器は世界史上もっともはやく出現したもののひとつであり、その造形の確かさ、表現の豊かさ、力強さにおいて、世界に誇りうる美の宝であることはまちがいないだろう。

   日本の土器

   土器は時代や場所、用途によって形や文様、大きさがかわるので、出土する土器や土器片は、遺跡の年代や性格を推定する手がかりになるなど、考古学や歴史を研究するうえで重要な資料になっている。また、縄文土器のだいたんな造形美、弥生土器のシンプルな機能美など、古代土器の美的価値は近年ますます評価が高まっている。

真脇遺跡出土の縄文土器

  縄文前期の末期から中期初頭の土器。この時期の土器は、さまざまな器形がみられるようになり、装飾も派手なものが多い。前期後葉から中期初頭にかけて、丸木弓や編籠(あみかご)などの有機質の遺物が多く、大量のイルカ骨が出土したのもこの時期の層であった。もっとも後ろの土器が1番大きく、高さは50.2cm。Encarta Encyclopedia能登町教育委員会所蔵

西日本最後の縄文土器

   佐賀市の丸山遺跡から出土した縄文晩期の土器。朝鮮半島の影響をうけて北九州北西部でおこなわれた支石墓内からみつかった供献土器である。本遺跡からは、稲作をうらづける籾(もみ)の跡がついた土器なども出土しており、この時代を弥生時代とする説もある。右の高坏(たかつき)の高さは11.5cm。Encarta Encyclopedia佐賀県教育委員会提供

   縄文時代草創期〜早期の土器は、ほぼ例外なく食物を煮るための深鍋(ふかなべ)であり、口径より器高のほうが大きい深鉢(ふかばち)であった。前期には盛り器としての浅鉢が登場する。それまで木製容器や葉の椀(わん)などにとりわけていたのが浅鉢に盛りつけられ、料理は視覚的な美も重要になった。縄文文化が隆盛をきわめた中期には土器文化もめざましい発展をとげ、火炎土器(→ 馬高遺跡)など造形的にも頂点に達するものが生まれた。器種もふえ、食器や貯蔵容器以外の祭祀(さいし)用土器、埋葬用の甕棺(→ 甕棺墓)など、さまざまな用途と器形の土器が生まれた。

加曽利貝塚出土の縄文土器

加曽利貝塚は、千葉市にある日本最大級の貝塚である。加曽利式といわれる標式土器が大量に出土しており、これは関東の縄文時代後期を代表する加曽利B式土器のセットである。Encarta Encyclopedia千葉市立加曽利貝塚博物館

後期〜晩期の縄文土器は中期の文化を継承しながら、用途不明のさまざまな祭祀具や、香炉形土器、急須(きゅうす)や土瓶(どびん)にそっくりな注口土器(ちゅうこうどき)などもつくられた。晩期の東日本には亀ヶ岡式土器(→ 亀ヶ岡遺跡)に代表される薄手で精巧な磨研土器が完成。縄文土器としての爛熟期(らんじゅくき)をむかえるが、渡来人のもたらした水稲農耕文化(→ 稲作)の広がりとともに、弥生土器にとってかわられていく。

   亀ヶ岡遺跡 かめがおかいせき 青森県つがる市木造(きづくり)にある縄文晩期の低湿地遺跡。丘陵の端部、標高4〜16mの地点にある。発見は江戸初期と古く、その後、かなり乱掘された。明治期になり、神田孝平の紹介により中央の研究者が発掘調査を実施。1950年(昭和25)慶応義塾大学考古学研究室が本格的な調査をおこない、報告書をまとめた。

  遺構には土坑群と泥炭層があり、多種・多彩な遺物が豊富に出土した。亀ヶ岡式土器の名で知られる土器群は、現在は晩期大洞(おおぼら)B〜A'式と細分されている。ほかにも石器・石製品・骨角器・玉類・漆塗櫛(くし)・籃胎(らんたい)漆器、さらに植物遺存種子、鳥・獣・魚骨類、貝類などがみつかっている。なかでも遮光器土偶と命名された土偶は、目の表現が独特なものである。

  青森県是川遺跡(これかわいせき)とともに東北の縄文晩期文化研究に重要な遺跡であり、その後、この時期の文化は亀ヶ岡文化とよばれるようになった。近年、稲籾殻(もみがら)と炭化米もみつかり、稲の伝播(でんぱ)問題にも新たな提起をなげかけている。国史跡。