坂上田村麻呂

   坂上田村麻呂 さかのうえのたむらまろ 758〜811 平安初期、蝦夷征討で活躍した武将。父は坂上苅田麻呂で、祖先は応神朝の渡来系氏族。近衛府(このえふ)少将の791年(延暦10)、征東副使として蝦夷戦に参加、その後に陸奥出羽按察使(むつでわあぜち)・陸奥守、さらに鎮守府将軍をかね、797年には征夷大将軍に任じられた。801年の蝦夷征討では桓武天皇から節刀をうけて胆沢(いさわ)方面の平定に成功、その武功により従三位近衛中将に任じられた。翌年には胆沢城(岩手県水沢市)をきずいて、ここに多賀城から鎮守府をうつし、さらに803年には志波城(岩手県盛岡市)を築城して東北経営の拠点とした。

  こうした功績がみとめられ、805年には参議となって国政に参加、その後、中納言、大納言とすすんだ。810年(弘仁元)の薬子の変では嵯峨天皇側について、平城上皇らの東国脱出作戦を阻止するなど武功をたてたが、翌年、平安京郊外の粟田(あわた)で没した。

     802  坂上田村麻呂が胆沢城を築く

  征夷大将軍の坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、胆沢(いさわ)地域の平定戦に勝利(801)した翌年、胆沢城(岩手県水沢市)をきずくとともに、ここに多賀城(宮城県多賀城市)から防衛拠点の鎮守府(ちんじゅふ)をうつした。またさらに翌年(803)には志波城(しわじょう。岩手県盛岡市)をきずき、朝廷の東北日本支配をおしひろげた。なお胆沢地方の平定戦ののち802年に降伏した蝦夷(えみし)族長の阿弖流為(あてるい)と母礼(もれ)は、田村麻呂にともなわれて京都に入り、河内国杜山(かわちのくにもりやま。大阪府)で殺害された。ふたりをいたむ記念碑が、田村麻呂ゆかりの清水寺にある。

   胆沢城 いさわじょう 古代日本の城柵。平安初期、東北経営のため岩手県水沢市佐倉河にもうけられた。北に胆沢川、東に北上川がながれる合流点に位置し、丘陵部にきずかれた多賀城とことなり、平坦な土地にいとなまれている。坂上田村麻呂が蝦夷征圧後の802年(延暦21)造陸奥(むつ)国胆沢城使に任命され、同年完成させた。1月、駿河・甲斐(かい)・相模(さがみ)・武蔵など東国の10カ国の農民4000人を胆沢城にうつす命令がだされており、造営にむけての動員令だったと推測される。

  胆沢築城後、それまで多賀城がもっていた鎮守府としての軍事機能と陸奥国府としての行政機能の一部を継承した。近年の発掘調査により、遺跡は一辺670mの方形の築地(ついじ)塀でかこまれ、中央南寄りの政庁跡など遺構跡からみて行政機構としての側面が強いことがわかった。軍事基地的側面は、むしろ翌年に胆沢城の北方にもうけられた志波(しわ)城(岩手県盛岡市)がになったとする説もある。

古代律令政府の東北支配

城柵(じょうさく)は、東北の蝦夷(えみし)を支配するためにきずかれた軍事的な機能をもつ行政施設である。古代の律令政府は、東北地方に支配領域を拡大していくとともに、辺境の地に次々と城柵をきずいていった。古代の東北地方には20ほどの城柵がきずかれたという。もっとも古いとされる渟足(ぬたり)柵は647年(大化3)の築造。奈良時代前期に多賀城(722)や秋田城(733)が、平安時代初めに胆沢(いさわ)城(802)や志波(しわ)城(803)などがきずかれている。Encarta Encyclopedia

  多賀城 たがじょう 現在の宮城県多賀城市市川・浮島にあった古代日本の城柵(じょうさく)。多賀柵とも書かれ、ともに「たがのき」ともよむ。標高約55mの低丘陵端部につくられ、外郭と内城の2区画があった。外郭(大垣)は幅2.7m、高さ4〜5mほどの築地(ついじ)塀(→ 塀)でかこまれ、東辺1040m、西辺665m、南辺865m、北辺765mほどで、総面積は74万m2。五万崎・金堀・大畑・六月坂などには建造物が規則的に密集し、官衙(かんが)・工房などが郭内におかれていた。内城は中央のやや東方に位置し、100m四方の築地によって区画されている。中には5度の建て替えの跡があるが、石敷の南庭をかこむように正殿・左右脇殿(わきでん)があり、後殿は正殿の背後におくという基本的な構成は、大宰府など他の地方政庁と同じである。威厳にみちた律令国家風の宮殿・政庁の景観をとりいれている。

  多賀城の前身は陸奥(むつ)鎮所で、律令国家の出先官庁として東北地方北部に居住する蝦夷にそなえるため722年(養老6)におかれた。多賀城外にある高さ約2m、幅90cmの多賀城碑(通称、壺の碑:つぼのいしぶみ)の碑文によれば、多賀城は724年(神亀元)に鎮守府将軍・大野東人(あずまひと)によってつくられ、762年(天平宝字6)藤原朝?(あさかり)の手で修理されたという。この碑文には偽作説もあるが、信用できるとする説が有力である。

  多賀城は8世紀前半にきずかれ、東北地方の開拓と律令国家側からの入植民の安全をはかる役割をになった。そのため牡鹿柵・桃生(ものう)柵・伊治柵などの要塞をまとめる要(かなめ)として、陸奥国府をかねて陸奥出羽按察使(あぜち)兼任の陸奥国守と、軍政府としての鎮守府将軍が常駐した。多賀城の東南1kmには多賀城廃寺があり、多賀城の付属寺院として国家鎮護などの宗教的役割をはたした。

  多賀城は奈良末期の780年(宝亀11)に蝦夷出身の伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の反乱でやかれたが、以降20年にわたる東北征討の根拠地にもなった。紀古佐美・大伴家持らが征東将軍(大使)として次々に派遣されている。しかし、802年(延暦21)坂上田村麻呂が蝦夷を制圧し、岩手県中央につくられた胆沢城に鎮守府がうつると、多賀城は国府だけとなり最前線の意味をうしなった。のち平安後期に奥州藤原氏が勢力をのばすと、平泉に繁栄と政治・軍事的価値をうばわれた。とはいえ1189年(文治5)には、奥州征討に際し源頼朝は多賀国府にたちよって命令をだし、南北朝の内乱でも多賀国府をめぐる攻防があるなど政治的意味は小さくなかった。

  1963年(昭和38)以来の発掘調査で、城内からは木簡や漆紙(うるしがみ)文書が出土。また城の南からは方格地割と大道をとおした計画的な町づくりのあとが明らかになりつつある。

多賀城政庁の復元模型

これは8世紀後半の政庁を復元したもの。多賀城は古代東北地方の行政と軍事の中心で、政庁域(内城)は約100m四方の築地(ついじ)によって区画されている。南門(写真左vを入ると、正殿前に石敷き広場をもうけているのが特徴である。Encarta Encyclopedia東北歴史資料館

   清水寺 きよみずでら 京都市東山区にある寺。山号は音羽山(おとわさん)。中世に奈良の興福寺と密接な関係をもち、長く興福寺の末寺だったが、第2次世界大戦後に独立して北法相宗(→ 法相宗)の本山となった。本尊は十一面観音像。清水寺縁起によれば、大和の僧、延鎮が夢告により観音を念じる行者とであい、彼の示唆で清水滝のこの地に観音堂をたて、坂上田村麻呂の援助で草創したという。

清水寺本堂の舞台

坂上田村麻呂が観音の霊験に感じて寺地を寄進し、延鎮を開山として創建されたという清水寺は、奈良の興福寺に属した。このため興福寺と延暦寺との争いにまきこまれ、幾度かの争乱で焼失、再建をくりかえしている。現在の建物は多くが1633年(寛永10)の再建。平安中期からの現世利益をもとめる観音信仰の高まりをうけ、中世には参詣(さんけい)、参籠(さんろう)が一般化した。結願(けちがん)の日にこの本堂舞台から投身すると、所願成就(じょうじゅ)ならばケガをせず、だめであっても成仏できると信じられ古来投身者が多かった。俗にいう「清水の舞台からとびおりる」はここからきているが、明治時代に入り禁止された。Encarta Encyclopedia

   田村麻呂と伝説

   田村麻呂には蝦夷征討との関係で、多くの伝説がかたりつがれている。「吾妻鏡」には伝承として、田谷窟(たっこくのいわや)にふれた部分で、蝦夷征討のおり、田村麻呂が蝦夷の族長の悪路王(あくろおう)・赤頭(あかがしら)を制圧してそこに西光寺を建立し、毘沙門天を安置したとつたえる。「元亨(げんこう)釈書」には清水寺を創建した田村麻呂が地蔵菩薩や毘沙門天の助けで奥州の逆賊高丸を追放した旨がしるされている。室町時代以降、伝説はさらに発展し、「義経記」や御伽草子の「田村」、さらに謡曲など、種々に作品化されるようになる。東北地方には田村麻呂創建とつたえる寺社が多い。

   蝦夷 えぞ 古代の東北日本に居住し、大和政権・律令政府などの中央勢力にしたがわずに抵抗した人々。古代・中世は「えみし」、近世以降は「えぞ」とよみわけ、アイヌ民族にかぎらず、ひろくこの地にすむ人びとをさした。大和政権の確立期にあたる4〜5世紀には、関東地方北部〜東北地方が蝦夷と大和勢力のせめぎあう場所だったと思われる。物部氏・大伴氏などが征討に派遣され、また周辺各地におかれた建部(たけるべ)たちの間に蝦夷征討物語のヤマトタケルノミコト伝説などが生まれた。

  7世紀後半、大和政権が律令制的中央集権国家をめざすと周辺勢力への圧力も強くなり、阿倍比羅夫の遠征軍派遣や出羽国境ぞいに渟足柵(ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねのさく)が設置された。8世紀になると柵戸(きのへ)とよばれる植民と城柵・建郡政策、つまり武力をつかって開拓をはじめ、律令国家の力が浸透した。このため蝦夷の勢力圏は陸奥(むつ)国胆沢(いさわ:岩手県水沢市)以北まで後退し、780年(宝亀11)蝦夷側は伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱をおこして決起した。しかし、長年にわたる戦いのすえに坂上田村麻呂に平定された。9世紀にも文屋(ふんや)綿麻呂・藤原保則らが蝦夷制圧にのりだしているが、もはやこれにさからう力はなかった。岩手・秋田以南の蝦夷が帰順し、古代後期には青森までが中央の勢力下にはいった。

  阿倍比羅夫 あべのひらふ 生没年不詳。7世紀中ごろの武将。阿倍引田比邏夫などともいう。「日本書紀」によれば、658年(斉明4)に180艘の水軍をひきいて日本海沿岸の遠征にあたり、齶田(あぎた:秋田)・渟代(ぬしろ:能代)、659年には津軽の蝦夷をうち、その首領を郡司に任命した。660年には、北上して渡島(おしま)半島の南端にいたとみられる粛慎(みしはせ)と対決したという。これは大化の改新政府の国威発揚策で、朝鮮半島の軍事的な緊張をうけた後方安定策であろう。ただし「日本書紀」の連戦記事は、編纂ミスによる重複とも考えられる。また戦い方も海辺から適宜上陸するもので、軍事制圧・遠征というより外交的・交易的な色彩がこい。

  660年に唐が百済(くだら)に侵攻して百済王家をほろぼした事態に対応し、翌年には百済復興軍救援のため組織された前・後2軍のうちの後将軍に任命された。また663年(天智2)の白村江の戦では、前・中・後3軍の後将軍として出陣したが大敗した。