隼人・熊襲・蝦夷

隼人・熊襲・蝦夷

   隼人 はやと    九州南部にすみ、特有の文化をもっていた古代人。地域により大隅(おおすみ)隼人・阿多(あた)隼人などとよばれる。九州南部はシラス台地で農耕に適さず、おもに狩猟・漁労で生計をたてていた。南方文化の影響もあって、大和政権との結び付きにも積極的でなかった。しかし大和政権は、5世紀前半に日向(ひゅうが)の諸県(もろかた)地方の豪族とむすび、大隅の北半まで前方後円墳の文化を浸透させた。6世紀後半にはさらに南下し、海岸・川沿いに首長を次々に懐柔し、薩摩にまで多数の県(あがた)を設定。同時に邪霊をしずめる隼人の呪力(じゅりょく)を利用するため、一部を大和地方に移住させている。この伝統は奈良・平安時代にもつづいた。

   隼人たちは6年交代で上京し、衛門府(えもんふ)の隼人司の管轄下におかれ、犬の鳴き声のような吠声(はいせい)をつかって宮廷・行幸(ぎょうこう)の護衛にあたった。彼らは風俗歌舞の隼人舞や相撲も演じた。その一方では、中央政府が遣唐使の航行ルートの安定のため内地化政策をいそいだことに反発し、720(養老4)には大隅国守の陽侯史麻呂(やこのふひとまろ)を殺害する反乱などもおきている。隼人の間には、地下式土壙(どこう)墓・立石土壙墓・地下式板石積石室墓など固有の文化があり、大和政権系の高塚墓を拒否しつづけた。地下式土壙墓は8世紀までつくられ、こうした差異が抵抗の原点になったと思われる。

   シラス台地 シラスだいち   南九州に広く分布する火山噴出物の堆積(たいせき)した洪積台地。シラスは白砂または白州を意味する。鹿児島県から宮崎県にかけて、火山灰や浮石などの火山噴出物が数メートルから150mの厚さで堆積する。これらは約22000年前の姶良(あいら)カルデラや阿多カルデラが形成された時期の大噴火活動によって流出したり空中降下したものが堆積したと考えられている。

   堆積当時は広大な平原だったが風食・水食に弱く、浸食がすすんで台地化した。台地表面は平坦だが透水性が大きいため台地の端からくずれやすく、10100mの垂直に近い崖(がけ)をもつ深い谷がきざまれている。台地上ではサツマイモなどの畑作がおこなわれているが、地下水位が深く、養分もとぼしいので土地を改良したり灌漑(かんがい)施設をととのえないと耕地としては適さない。

   隼人町 はやとちょう    鹿児島県中部、姶良郡(あいらぐん)南東部の町。東は国分市に接し、南は鹿児島湾に面する。北部はシラス台地の十三塚原(じゅうさんつかばる)で、南部は天降川(あもりがわ)によって鹿児島湾の最奥につくられた三角州が広がる。1929(昭和4)町制施行した隼人町が54年に日当山町(ひなたやまちょう)、清水村の一部と合併して隼人日当山町となる。57年、町名を隼人町に再度変更。面積は66.49km2。人口は36264(2003)

   町の中央部に広がる平野部では米、ゴボウ、トマトを栽培し、台地では茶、メロン、根菜類を生産する。肉牛、乳牛、養鶏など畜産やシイタケの栽培もみられる。1984年に国分隼人テクノポリスの開発計画が承認され、県工業技術センターがある隼人内陸工業団地には進出企業が増加している。

   中心市街の南部にのこる隼人塚は、熊襲を慰霊するためとも、隼人のためのものともいわれる。平安後期の建造と考えられ、家の形をした石塔や石人像などからなり、国史跡に指定されている。また、市街地北方の鹿児島神宮は平安、鎌倉時代の大隅の一宮でヒコホホデミノミコトなどをまつる。五穀豊穣をいのり鈴懸馬がおどる初午祭(はつうまさい)で知られ、町につたわる初鼓や鯛車(たいぐるま)などの郷土玩具も参拝者のみやげ物となる。所蔵する色々威胴丸(いろいろおどしどうまる)などの具足類は国の重要文化財である。室町後期の樺山氏の長浜城跡や、安土桃山時代の島津氏の富隈城跡(とみくまじょうあと)など、各時代の城跡も点在する。天降川沿いの妙見温泉郷、日当山温泉郷は、史跡とともに町の観光資源である。

   大隅町 おおすみちょう    鹿児島県東部、曽於郡(そおぐん)中西部の町。大隅半島北部に位置する。後川、前川、月野川などがいずれも南東へながれ、おおむね丘陵地で、シラス台地も広い。1955(昭和30)、岩川町と恒吉、月野の2村が合併して成立。同年、野方村の一部を編入した。面積は145.58km2。人口は13391(2003)

  農業の中心は畜産業で、1994(平成6)県の肉用牛改良研究所が開所し、バイオ技術開発などの研究を通じて鹿児島産肉牛の振興をはかっている。スイカ、ハクサイ、シイタケの栽培のほか、焼酎の製造もおこなう。

  岩川八幡神社の113日の例祭には、大隅の隼人に由来する弥五郎伝説にもとづく弥五郎どん祭りがつたわる。弥五郎どんは身長約5mの大男の人形で、梅染の衣に大小二刀をさして町じゅうを勇壮にねりあるく「浜下り」が祭りのハイライト。神社の近くに西南戦争で没した政府軍の兵士がねむる官軍墓地がある。大鳥川の絶壁の下にある岩屋観音は、もとは1486(文明18)につくられ明治初年(1868)の破壊ののち再興されたもの。岩屋の上流には大鳥峡の景勝地がつづく。

  古代

   九州南部では古代から火山活動が活発で、姶良カルデラ噴出物のシラス層、桜島火山噴出物のサツマ層、鬼界カルデラによるアカホヤ層が各地に広くあつく堆積(たいせき)し、人類の活動の痕跡をおおう。出水市の上場遺跡(うわばいせき)では火山灰の下の最下層からナイフ形石器や粗製尖頭器(せんとうき)、その上層から竪穴住居跡が発掘され、国分市の上野原遺跡は縄文時代早期の定住集落として知られる。縄文前期には円筒平底の吉田式土器、後期〜晩期には独自の市来式土器などが多い。

   弥生時代、稲作と鉄器の使用は早くからはじまったが、青銅器はほとんど発見されていない。種子島南部の広田遺跡からは「山」の漢字がきざまれた中国系の貝符が発掘された。古墳は志布志湾岸の肝属平野に集中、天草下島に近い長島や薩摩半島沿岸の小平地や内陸盆地に点在する。これらの古墳はこの地方を根拠にした反大和朝廷勢力の熊襲、隼人のものとみられている。

   7世紀前半から掖玖人(やくじん)や隼人などが中央政権に朝貢した記録があり、7世紀末には掖久のほか多禰(たね)、奄美、度感(とかん)らがその地方に産する方物を献上している。鹿児島県にあたる地域は古くは日向国(ひゅうがのくに)に属したが、702年(大宝2)薩摩と多禰2国がたてられ、713年(和銅6)日向国から大隅国が分立、平安前期には多禰国は大隅国に併合された。

   720年(養老4)には大隅国の隼人が反乱をおこし、歌人の大伴旅人が征隼人大将軍となって鎮圧した。8世紀、それまで朝鮮半島沿岸を経由していた遣唐使船は南島路や南路をとることが多くなり、753年(天平勝宝5)には第12次遣唐使船の帰路、唐の高僧鑑真らが現在の坊津町に漂着している。平安前期から薩摩・大隅両国には諸国におくれて班田制が施行されたが、徹底する間もなく私的開墾が広がり、島津荘など寄郡(よせごおり)による大荘園が成立した。

   熊襲 くまそ   古代の九州西南部の地域に居住した人々。肥後国の球磨(くま)郡、大隅国の贈於(そお)郡が熊襲地域と考えられている。「古事記」「日本書紀」には粗暴で反乱の志をもつ者としてえがかれ、はやくに熊県(くまのあがた)・曽()県がおかれて、軍事的には注目されていた。これらは、おそらく45世紀代の大和政権の防衛線・国境であろう。熊襲の語源は明らかでないが、猛者(もさ)の意味か、山がちでやせた地域をさすともいう。

   九州地方を代表する豪族として「古事記」にクマソタケル(熊曽建)、「日本書紀」にクマソタケル(熊襲梟帥)・カワカミタケル(川上梟帥)の名がみえる。「古事記」によれば、景行天皇は、クマソタケル兄弟が命令にしたがわないので、子のオウスノミコト(小碓命)に征伐を命じた。オウスノミコトは童女に変装、新築祝いの宴会の最中だったクマソタケル兄弟に酒をもって近づき、一息に兄弟を殺した。オウスノミコトはこのとき弟からヤマトタケルノミコト(倭建命)の美称を献上されたという。のち大和政権の勢力が南下すると、この地域は防衛線としての意味をうしない、新たに防衛線上に南の隼人がのぼってくる。

   倭王武の上表文  わおうぶのじょうひょうぶん  478年、倭の五王のうちの武(雄略天皇とされる)が中国の宋(南朝)の順帝におくった上表文。「封国は偏遠にして…藩を外に作()す。…」にはじまる漢文体で国内、国外の征服事実をしめし、高句麗の横暴をうったえている。このとき、武は宋から倭、新羅、任那( 加羅)など6国の軍事権と支配権をあたえられている。この上表文は「宋書」倭国伝にしるされている。

  倭王武の上表文の大意は以下のとおりである。「わたしの国は、はるか遠いところにあって、宋からいえば海外の国になっています。わたしの父祖たちは、みずから甲冑(かっちゅう)に身をかため、山や川をわたりあるいて、おちついて休息するひまもありませんでした。そのおかげで、東では蝦夷の55カ国をたいらげ、西では熊襲の66カ国をおさえ、さらに海をわたって朝鮮半島の95カ国をしたがえました。(以下略)」

ヤマトタケルノミコト 記紀神話にみえる古代の英雄。「古事記」では倭建命、「日本書紀」では日本武尊としるされている。景行天皇の皇子で、本名は小碓命(おうすのみこと)

   景行天皇の命により、少年の身ながら、九州南部で抵抗していた熊襲を平定し、そのとき熊襲の首領クマソタケル(熊曽建:熊襲梟帥)から、ヤマトの勇猛な男を意味するヤマトタケルの名を献じられた。帰途、山河の神々を服従させ、出雲のイズモタケル(出雲建)を謀殺して都にもどったが、天皇はすぐに東の十二国の平定を命じる。伊勢神宮の斎宮ヤマトヒメ(倭比売:倭姫)からあたえられた草薙剣(くさなぎのつるぎ:→ 三種の神器)と火打石をたずさえて、尾張、焼津、相模の走水(はしりみず:→ 観音崎)をへて房総半島にわたり、ここからすすんで蝦夷(えみし)を討ち、帰途は足柄、甲斐、信濃をとおって尾張についた。伊吹山(→ 伊吹山地)の神を退治にいくが、病み、三重の能煩野(のぼの:→ 亀山市)で望郷の歌をうたって死んだ。「古事記」では多くの地名起源説話や抒情的(じょじょうてき)な歌謡がしるされ、文学性豊かな物語となっている。大和朝廷(→ 大和政権)の発展期の数次にわたる地方平定を、ひとりの英雄の物語としてまとめたものといわれる。

  蝦夷 えぞ   古代の東北日本に居住し、大和政権・律令政府などの中央勢力にしたがわずに抵抗した人々。古代・中世は「えみし」、近世以降は「えぞ」とよみわけ、アイヌ民族(別記参照)にかぎらず、ひろくこの地にすむ人びとをさした。大和政権の確立期にあたる45世紀には、関東地方北部〜東北地方が蝦夷と大和勢力のせめぎあう場所だったと思われる。物部氏・大伴氏などが征討に派遣され、また周辺各地におかれた建部(たけるべ)たちの間に蝦夷征討物語のヤマトタケルノミコト伝説などが生まれた。

    7世紀後半、大和政権が律令制的中央集権国家をめざすと周辺勢力への圧力も強くなり、阿倍比羅夫の遠征軍派遣や出羽国境ぞいに渟足柵(ぬたりのさく)・磐舟柵(いわふねのさく)が設置された。8世紀になると柵戸(きのへ)とよばれる植民と城柵・建郡政策、つまり武力をつかって開拓をはじめ、律令国家の力が浸透した。このため蝦夷の勢力圏は陸奥(むつ)国胆沢(いさわ:岩手県水沢市)以北まで後退し、780(宝亀11)蝦夷側は伊治呰麻呂(いじのあざまろ)の乱をおこして決起した。しかし、長年にわたる戦いのすえに坂上田村麻呂に平定された。9世紀にも文屋(ふんや)綿麻呂・藤原保則らが蝦夷制圧にのりだしているが、もはやこれにさからう力はなかった。岩手・秋田以南の蝦夷が帰順し、古代後期には青森までが中央の勢力下にはいった。

   ただし、北海道の蝦夷は室町時代に和人(本州系日本人)が進出するまでほとんど制圧の対象とならなかった( コシャマインの戦)。この北海道の蝦夷はアイヌ民族である。江戸時代には松前藩が渡島(おしま)半島の一部の領有を幕府にみとめられアイヌとの交易を独占した。この交易は不正や収奪も多く、1669(寛文9)シャクシャインの戦がおこっている( 蝦夷地交易)。その後、松前藩のアイヌ支配は強化され、江戸後期には全蝦夷地が幕府領となっている。

   蝦夷地交易 えぞちこうえき   蝦夷地すなわち、アイヌ民族の居住地である北海道を中心にそれ以北の島々をふくむ地域を対象にした和人(本州系日本人)の交易。

   北海道の擦文(さつもん)文化の遺跡からは、本州産の鉄製刀剣が発掘されており、平安時代には交易があったことがわかる。鎌倉時代以降、津軽安東氏の拠点である十三湊(とさみなと)を中継地に、日本海沿岸地域と蝦夷地の交易が発展する。

  室町時代、渡島(おしま)半島南西部に小領主が館(たて)をかまえるようになって、館主がアイヌなどから手にいれた物産は、京都・大坂方面まではこばれた。これらは蝦夷の三品とよばれたサケ・ニシン・昆布が中心で、当時の手習い本「庭訓往来」にも、箱館(函館)近くでとれた宇賀(うが)昆布や蝦夷サケがでている。

  江戸時代には1604(慶長9)徳川家康の公認をえて、松前藩が蝦夷地交易権を独占する。藩自身が、アイヌ首長を城下によんで、朝貢形式のウイマムという交易をおこなった。瀬棚町にあるセタナイチャシの調査によって、17世紀初頭、舶来の青磁のほか、肥前・唐津・瀬戸などの陶磁器、刀・ハサミなどの金属製品、ガラス玉などの装身具が蝦夷地にもちこまれたことがわかる。

  いっぽう、松前藩の各家臣には知行の一部として、蝦夷地内の商場(あきないば)での交易権があたえられ、アイヌの面倒をみるという蝦夷介抱の名目で、毎年船1艘の派遣をゆるされた。

   この交易権も江戸中期以降は商人の手にゆだねられ、和人の商人が場所請負人として蝦夷地の物流をにない、いっそう交易が盛んになる。商人は北前船( 廻船)で、酒・米・タバコ・塩をはじめ、鍋・刀などの鉄製道具、古着・漆器などを持参し、アイヌから熊皮・鹿皮などの獣皮、干ザケ・干ニシン・干ダラ・煎海鼠(いりこ)・昆布などの乾物、熊肝(くまのい)・鷲羽、薬用のオットセイなどと交換した。これらの産物の一部は、俵物として長崎貿易にも利用された。

  さらに、北蝦夷地とよばれた樺太(サハリン)を通じて、山丹錦など中国産物を交易することもあった。蝦夷地から産する砂金やタカは松前藩から幕府への重要な献上品となったが、元禄期(16881704)ごろからは飛騨屋久兵衛などにうけおわせ、アスナロ・ヒノキなどの木材移出が盛んになる。

   高田屋嘉兵衛 たかだやかへえ 17691827   江戸後期の海運業者。淡路国津名郡都志本村(兵庫県五色町)の農民の子として生まれ、22歳のとき兵庫(神戸)で樽廻船の船子となる。以後、船頭から船持ちへと出世し、1796(寛政8)から蝦夷地に着目し、兵庫と箱館(函館)をむすぶ北前船の営業をはじめる。上方の酒、木綿や酒田の米を箱館にはこび、箱館から海産物をつんでかえるという商売で、豪商として成長した。

  北方の海防問題から、1799年に幕府は東蝦夷地を直轄地(天領)とし、物資輸送を担当した嘉兵衛は、択捉島航路を開発する。のち、蝦夷地産物売捌(うりさばき)方を命じられて、本店も箱館にうつし、択捉場所、根室場所、幌泉場所の経営をうけおうなど、幕府の蝦夷地政策に乗じて蝦夷地交易で活躍した。

   1812(文化9)に逮捕されたゴロブニンの救出にきたロシア船ディアナ号にとらえられ、カムチャツカに連行されるが、翌年国後島に送還され、ゴロブニンの釈放をめぐって日露間の交渉につくした。この間の事情をしるした「高田屋嘉兵衛遭厄自記」や、ディアナ号の士官リコルドの手記をもとに、司馬遼太郎が小説「菜の花の沖」を書いている。隠居後、故郷の都志本村で死去した。

   658年 - 660年 阿倍比羅夫の東北遠征

   現在の北陸地方、越(こし)の国守である阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、658年に軍船をひきいて日本海沿岸に遠征し、齶田(あぎた。秋田)、渟代(ぬしろ。能代)の蝦夷(えみし)を服属させた。新潟県北部にとどまっていた支配領域を北に大きくひろげた意義は、唐にならった小帝国であることを念願していた大和政権にとってたいへん大きかった。比羅夫は飛鳥(あすか。奈良県明日香村)200人あまりの蝦夷たちを連れかえった。彼らは大和政権の位を授与され、旗、鎧(よろい)、弓矢などをあたえられている。また比羅夫は660年にも遠征し、蝦夷と対立していた粛慎(みしはせ)ともたたかった。なお蝦夷は、当時の東日本地域にすみ、大和政権の支配下にない人々のことを中央でよんだ言葉である。

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