蝦夷とアテルイ

   「蝦夷」と「アテルイ」「蝦夷・アルテイの戦い」久慈力著 抜粋。

    黄色人種モンゴロイド                 

 エミシというのは、厳密に言えば一つの人種や民族を言い表している言葉ではない。あえて、人種を表す言葉でいえば、「主として東北地方に住んでいたモンゴロイドの人々であり、古モンゴロイドと新モンゴロイドの混血であり、むしろ、北方系新モンゴロイドの色彩が濃厚な人々である」。それではこのモンゴロイドとは何か。

 9000年前から5000年前の間に、気温が2度上昇、いわゆる縄文海進が進行して、現在より5m以上も海面が上昇した。濃尾平野、関東平野、津軽平野、北上平野でも海域が拡大した。東日本には、落葉広葉樹林が広がり、西日本には照葉樹林が広がった。日本列島は、世界にもまれに見る豊かな森林生態系に恵まれるようになり、一万年にも渡って、安定した独自の縄文文化が形成されていく。

 日本列島では、歴史的に見て、ユーラシア、オセニアという広大な地域の「人種のるつぼ」といってもいいくらい、様々な人種が混交してきた。「日本民族-=単一民族」などとは、成り立たないのである。遠くは、中近東・西アジア・中央アジア・オセアニア・ミクロネシアさらにギリシャ・ローマなどヨーロッパの人々も入ってきている。幾代にもわたって混血「日本人」という新たな民族が形成されたのである。

 「日本人」の基底をなしているのは、モンゴロイドと言われる人々である。程度の差こそあれ、殆ど全ての「日本人」いは、モンゴロイドの流れていると言ってもよい。日本列島が大陸から分かれた後は、新人たちが船やカヌーに乗り、様々なルートを経て様々な人種、民族が幾重にも幾重にも渡ってきた。

    稲作文化が入った中国ルート

 一万五千年頃には、日本列島と大陸が切り離されたが、縄文時代にも中国と日本の交流は海路で盛んに行われた。縄文時代における山内丸山文化と中国東北部との文化的共通性が次第に明らかになってきている。

  中国ルートで、特に重要なのは、稲作が伝わったと考えられる長江下流域の中国北部から東シナ海、九州、本州ルートである。

  湖南省の長江流域の遺跡から、七千年の稲モミ、籾殻、稲の茎と農具が大量に発見され、日本列島では縄文早期で三内丸山よりも1500年も前である。この遺跡からは瓢箪やエごまやマメ類が出ている。これは日本各地の遺跡からも出土している。しかも、中国の長江流域の稲と日本の稲の遺伝子が一致しており、必ずしも水田でなくても、焼き畑や低湿地でも栽培できる熱帯ジャポニカ種だと言うことも分っている。

  ただし、日本列島で水田稲作が始められたのは、縄文晩期の2600年前で、九州や中国、近畿地方の縄文晩期の遺跡から水田遺構や農機具やモミが発見され、青森や岩手でも弥生前期には稲作が開始されたと言われる。

  しかし、植物栽培の痕跡は残りにくいので、それ以前からの稲作の可能性もあるだろう。水田を伴わない畑作による稲の栽培の痕跡を示す遺跡は、九州や岡山の縄文草創期から晩期にかけての遺跡で見つかっている。日本列島でも長江文明の影響で、縄文の早い時期から熱帯ジァポニカ種の栽培が行われていたと思われる。

    縄文人とは何か

   日本や中国の史書に現れた日本先住民

 彼等は大陸から弥生文化の入る前より、日本列島に住んでいた縄文人と言っていいだろう。これらの呼称は、植民者、征服者たちが、先住民たちを軽蔑して付けた名前が多いため、正確差に欠け、一部は重複している呼称もある。

  南方から。

 沖縄人(南西諸島、南方系)阿麻美人(南西諸島、南方系)、

 熊襲(クマソ、南九州、南方系)隼人(ハヤト、南九州、インドネシァ系)

 安曇(アグモ、北九州、インドネシァ系)肥人(クマビト、西九州、南方系)

 国栖(クズ、四国、畿内大和から関東、土蜘蛛と同属か)

 佐伯(北陸から関東)土蜘蛛(関東から西日本、ツングース系)

  八束脛(ヤツカハギ、土蜘蛛と同属か)、蝦夷(東日本、ツングース系)

  越人、高志人(裏日本、ツングース系)労民(東日本、オロチョン系)

  毛人(エミシ、東日本、苗族系とオロチョン族の混血か、蝦夷と一部同属か)

 粛填(ミシハセ、裏日本北部、ツングース系、エミシと重なる)

 えた(東日本、ウイルタの蔑視)、蝦夷(エゾ、北海度、アイヌ)

 渡島蝦夷、渡島えびす(青森から北海道にかけてのアイヌか)

 日の本(千島列島、コロボックル)

 何万年、何千年の間に棲み分け、共存したり、人種的、民族的な混交も進んだ。一万数千年の間、これらの縄文人たちは、国家や支配の無い平和な社会を保っていた。

 縄文時代は、一万三千年前から一万年以上も続いた。人類史でこれほど長く独自の文化を築いた地域は無いといって良いだろう。いわゆる、四大文明もその他の文明も、これほど安定して長期間続いたものは無かった。一番長く続いたエジブト文明でさえ、最大限に見ても7000年に過ぎない。

    エミシとは何か

   中央の権力闘争に敗れた人々

 大和朝廷の国史は、「蝦夷」について、未開で野蛮な蛮族のように描いている。蝦夷とはどうゆうような人々であったか。蝦夷の蝦という字は、カエルやエビを表し、夷は、野蛮な民という意味で、何れも侮辱後である。

 時代が下り、「蝦夷征伐」が行われる八世紀までには、畿内での権力争いに破れた邪馬台国勢力、出雲勢力、長髄彦一族、物部勢力、新羅勢力が東北地方へ退却している。例えば、九州から生駒に移住していた物部の祖、ニギハヤヒコノミコトと長髄彦の連合軍は、東征してきた神武天皇に破れ、物部一族は常陸や陸奥に逃れ、長髄彦一族は津軽に逃れたとされる。また、七世紀から八世紀にかけ、度重なる大和朝廷の権力争いで、百済勢力、藤原勢力との戦い破れた新羅勢力が中部から関東、東北へ進出している。

 大和朝廷は、東北地方の中央権力に従わない「まつろわぬもの」の総体を「蝦夷」「東夷」として恐れ、さげすみ、討伐の対象としてきた。そこには、中央の権力争いで破れた人々も含まれていたが、主体はやはりエミシと呼ばれた縄文先住民である。

    自然とつらなるエミシの世界観

 縄文文化は、日本列島の豊かな森林生態に涵養された自然共生文化である。東北北部地域は、ブナ、コナラ、ハンノキ、クルミ、クリなど落葉広葉樹が優勢で、関東、中部、北陸まで広がった。山々は木の実、山菜、鳥、獣を育んでくれるだけでなく、栄養豊かな水を川や畑に供給し、作物と貝類と魚類を育んでくれる。八世紀頃には弥生文化の影響を受けて、水田が河川や湖沼の低湿地帯に作られた。

 縄文社会は、総じて食料も生活用具も豊かな社会であった。自然が豊かな恵みを与えてくれたので、獣を採り尽くしたり、魚をとり尽くしたり、植物を採り尽くしたりすることは殆ど無かった。

 縄文人の末裔と考えられる東北の山の民には「きのこが三本あったら、一本は山の神のために、一本は動物の為に残し、一本だけ頂く」という教えがあるが、縄文人たちもそのようにしたであろう。これは、種を絶滅させない知恵であった。家族・氏族・民族・人類だけでなく、人と植物、人と動物、人と大地、人と宇宙もつながっており、全ての生命、全ての植物、全ての 動物を同属と見ているのである。     

縄文人の末裔である蝦夷

  縄文人の末裔である蝦夷の国・東国

 青森県の山内丸山遺跡の発掘などで、縄文社会の想像を越えた高度な文化があったことが解った。縄文人は東国に密集して棲んでいた人々であり、後の朝廷が恐れ続けた東国蝦夷である。

 の字にわざわざの字を加えたのは、蝦夷の体毛の濃さと無縁では無さそう。エミシの先祖・縄文人たちは、のちに流入する弥生人が体毛の薄い新モンゴロイであったのに対し、体毛の濃い古モンゴロイであった。(モンゴロイド;黄色人種。後期旧石器時代に中国全土からバイカル湖以東の広い地域に分布していた。中でも東北の寒冷地で暮らした人々は寒冷の東北に適応し、胴長・短足・長い顔・一重まぶた、体毛の少ないなど、と体形・体質に変化していった。これが新モンゴロイドで、逆に東アジヤ中・南部で暮らした人々は、古いモンゴロイドの体質を残していた。丸顔・顔の凹凸の強さ、体毛の濃い古モンゴロイドで、前者が日本に流入した弥生人後者が日本先住民の縄文人の身体的特徴とされる)。つまりは一文字でエビで、ヒゲの長い生き物であり、この外見がエミシの体質と共通と見られたと考えられる。この蝦夷たちの先祖・縄文人は、今から一万年以上も前から日本に住み続けた先住民であった。

 この東国の縄文という現象こそ、重大な意味を持ってくるのだが、何故、東国に縄文の息吹きが強烈に残ったのか、日本を二分する植生の差が大きな原因とされている。  西日本が照葉樹林帯であったのに対し、東日本は落葉樹林帯で、東国の植生が食料採集民族縄文人の食料の宝庫となり、縄文人の東国偏在を生んだのである。このため、西日本に一気に稲作を広め、縄文人との共存を達成した弥生人たちは、東国では西国とは異なる方法・速度で進出し、同化・共存の道を選ばざるをえず、縄文色の強い文化がそのまま残ったと考えられる。

 「日高見国」(ヒタカミノクニ)「蝦夷」         

  日高見国という呼称は、エミシの生活圏の呼称として「日本書紀」「常陸国風土記」「延喜式」などに出てくる。「日高見国というのは、岩手県から宮城県にかけての北上川流域のことを指すが、常陸国(茨城県)もそれ以前に日高見国と言われていた」。「日高見国」というのは、「日が昇る肥沃な東の大地」を意味し、北上川中上流域、関東平野がいずれも該当する。即ち、「日の出ずる処」という意味である。なお、国というのは、「日高見国」の場合は、国王をまつる「国」ではなく、故郷、古里と言う意味での「クニ」ということの方が相応しい。先住民、縄文人は国家などというものを形成したことが無い。

   アテルイの戦い。               

  植民者たちは「蝦夷征伐」の先頭に立つ

   大和朝廷のエミシの生活圏に対する植民政策は、朝鮮半島からの移民が激しくなった七世紀の中頃から始まっているが、これに対するエミシの組織的抵抗は続いた。殺略され、奴隷化され、土地を奪われ、自然を荒らされるから当然である。日高見国は大和朝廷からは「化外」とか「外番」とかいわれ、大和国家に組み込まれ無い言わば外国のように扱われてきた。しかし、先住民からいえば、大和国家こそが、日本列島に侵入してきた「化外」「外番」であったと言える。彼等を構成した天皇家、公家、豪族、高級官僚・神官・軍人の殆ど全てが「渡来人」侵略者である。

「日高見国」(ヒタカミノクニ)・「蝦夷」

  「日高見国」(ヒタカミノクニ)「蝦夷」    (梅原 猛著抜粋)     

    日高見国という呼称は、エミシの生活圏の呼称として「日本書紀」「常陸国風土記」「延喜式」などに出てくる。「日高見国というのは、岩手県から宮城県にかけての北上川流域のことを指すが、常陸国(茨城県)もそれ以前に日高見国と言われていた」

   「日高見国」というのは、「日が昇る肥沃な東の大地」を意味し、北上川中上流域、関東平野がいずれも該当する。即ち、「日の出ずる処」という意味である。なお、国というのは、「日高見国」の場合は、国王をまつる「国」ではなく、故郷、古里と言う意味での「クニ」ということの方が相応しい。先住民、縄文人は国家などというものを形成したことが無い。

   肥沃な大地のある「日高見国」は植民地を求める渡来人の国家、大和朝廷にとって、垂涎の的であった。まさに、「東の辺境に日高見国がある。土地が肥えて広い。攻撃して奪い取るべきである」と驚くべき素直さで、東国を視察した大臣、竹内宿祢が「日本書紀」の中で景行天皇に述べている。

   岩手県の岩手郡に源を発する北上川は北上盆地真ん中を突き切り、仙台平野を南下し、石巻市で太平洋に注ぐ大河である。この北上川の流れる流域は昔は日高見国といわれ、水と太陽に恵まれた肥沃な大地である。北上川は日高見川のなまったもので、今に昔の名前を残している。

   この日高見国の中心は仙台平野でしたが、大和朝廷の度重なる軍事的な侵攻によって丹澤地方(岩手県の水沢を中心とした北上盆地)に最後の拠点を残すだけになりました。この最後の拠点も802年の坂上田村麻呂によって阿弓流為(アテルイ)が降伏して、陥落してしまいます。これで、実質的な奥州の日高見国は滅びます。

   貞観6年(632)の中国の「新唐書」にも大和朝廷の使者が訪れた際、蝦夷の使者も一緒に唐を訪れたとの記載がある。これらで、奥州・陸奥には大和朝廷とは全く別個の王国の存在が確認される。

  大和朝廷の勢力範囲は34世紀のころは、新潟から栃木千葉を結ぶ付近まで達していたようですが、45世紀には、新潟から福島のラインへ北上し、さらに、8世紀の多賀城時代には秋田県中部から宮城県北に至っております。さらに9世紀に入ると秋田北部から岩手県南部まで達している。

 大和朝廷は蝦夷地との国境沿いに城柵を作り、兵胆地として侵略の策をねり、領土を広げたときにはまた前進基地として城柵を作っていきました。

   そして、柵の周りに柵戸といって倭人を移住させ、抵抗する蝦夷は北方へ追い出し、捕虜となった蝦夷は夷俘として全国の収容施設へと収容していったのです。そして、後期になるとその統治を政府に帰順した蝦夷(倭人との混血)に任せるようになります。この蝦夷を朝廷側では俘囚と呼びました。

  蝦夷地に移住していった倭人は最初の頃は一般人(富農)でしたが、8世紀の後半から9世紀に入る頃には、犯罪者や浮浪人を送り出すようになります。日高見国が滅んだ後は蝦夷地は俘囚長の時代に入ります。

   安部・清原・平泉藤原の時代はこの時代のことです。江刺(えさし)郡豊田館(とよだのたち)から磐井郡平泉に居を構えた藤原清衡は、国府の威光を背景に、積極的な領国経営に乗り出す。清衡の実質的な支配地域は、現在の青森県・岩手県・秋田県のほぼ全域に渡っていました。

   絶大な資産と権力を手に入れた清衡は、大治元年(1126)中尊寺に1500人もの僧侶を集め、大規模な法会を営みました。中尊寺伽藍の落慶法要です。

   文治5年(1189)、藤原泰衡(やすひら)は約百騎を従えて源義経の住む衣川館を急襲、義経を自害に追い込みます。これで、鎌倉の源頼朝にとって平泉討伐の名目が無くなったかに見えましたが頼朝は出兵し、白川関を越えて陸奥の国になだれ込みました。藤原泰衡は討ち取られ、四代・100年に渡って続いた奥州藤原氏は遂に、滅びました。

   栄華を極めた奥州藤原氏を滅ぼし、全国統治を完成させた源頼朝は文治5年(1189)、葛西清重に陸奥国御家人を奉行し、平泉郡内検非違使(現在の裁判官と警察官を兼ね、権限は強大である)所を管轄させた。これが、鎌倉幕府が陸奥国に守護の代わるものとして置いた「奥州惣奉行」の始まりで、清重は藤原氏に代わる平泉の主として、奥州の軍事・警察権を一手に引き受ける立場となる。

   元弘3年(1333)に鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が新政権を樹立すると、陸奥国の体制も一新されました。まず初めに奥州に進出したのは足利尊氏(あしかがたかうじ)です。鎌倉幕府を滅亡に追い込んだ最大の功労者である尊氏は鎮守府将軍に任じられ、北条氏の旧領を我が物として、勢力を拡大します。これに対して後醍醐天皇は北畠を陸奥守に任じ、尊氏の勢力を食い止めようとする。後醍醐天皇と足利尊氏の対立が決定的になります。

   大永2年(1522)、伊達種宗が陸奥国守護職に任じられました。と言う歴史の時代に「日高見国」が大きく変遷されて、織田信長から豊臣秀吉へそして、徳川家康の江戸時代から明治を経て現在に至ることになり、縄文時代の日本人の変遷が、縄文人の「蝦夷」であり、現在の我々の人類の存在に関わっているわけです。