日本の美術
縄文・弥生・古墳時代
日本美術 にほんびじゅつ 日本の美術は長い期間にわたって大陸の美術の影響をうけつづけてきた。大陸の先進的な技法や様式は最初は模倣のかたちで受容され、しだいにそれは緩やかに同化変容されていく。この過程のうちにこそ日本美術のオリジナリティがある。
日本美術の中に形成されていった性格のひとつに観念的世界よりも感覚の美を愛好する精神があり、それはしばしば装飾する意思とむすびつく。しかし最大の特質は自然の中に心を投影し、そこに抒情をみいだす繊細な感性であろう。日本人にとって自然は人間と対立し、人間が征服する対象であるよりも、むしろ親和する対象であった。日本の美術家たちは自然の美を貴重な糧とし、そこへたちかえっていく。日本美術の中に自然をモティーフにして装飾性と抒情性とがみごとに融合した例をみつけだすことは、そうむずかしいことではない。絵画と工芸のジャンルの中にそれはとくに鮮やかである。
長谷川等伯「松林図屏風」右隻
桃山時代を代表する水墨画の傑作。等伯は中国の画僧牧谿(もっけい)の様式をまなんだとされるが、この作品では、湿潤な大気の中の松林を、日本的感性によって詩情豊かに描いている。16世紀後半。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵
北斎「富嶽三十六景・神奈川沖浪裏」
「富嶽三十六景」は1831年(天保2)から制作された錦絵シリーズ。富士を題材に、機知にとんだ構図でまとめられ、和漢洋の技法が巧みにもちいられている。Encarta EncyclopediaArt Resource, NY/Giraudon
縄文・弥生・古墳時代の美術
縄文時代
縄文時代は前1万年ごろから弥生時代のはじまる前300年ごろまでの間に日本のほぼ全域に広がった新石器時代を総称する。この時代の美術をもっとも特色づけているものが縄文土器である。その名称は土器の表面に繊維をよった縄をおしつけるようにしてつけられた装飾文様に由来する。縄文人の生活は狩猟や漁労を中心とする採集文化であったが、しだいに小規模ながら集落が形成され、列島の温暖化にともなって定住化がすすんでいった。縄文土器も生活環境の変化を反映して器種のレパートリーは豊かになり、その大きさは多様化し、装飾文様も複雑化してゆく。
装飾への意欲の高まりは中期になって最高潮に達する。関東から中部地方にかけてボリューム豊かな彫塑性をしめす勝坂式土器、新潟県には炎がもえあがるような華麗な装飾から火焔土器と称される馬高(うまだか)式土器が出現する。こうした豊饒(ほうじょう)な装飾性は後期以降は沈静化し、器本来の機能性を重視したものになっていく。この傾向は沈滞というよりは装飾の一種の洗練化とみるべきで、後期には黒い光沢の肌をもつ磨研土器が普及する。土器のほかに注目すべきは土偶である。装飾性が頂点に達した中期には彫塑的な土偶がみられ、後期以後はみみずく土偶、眼鏡をかけたような遮光器土偶もあらわれて、これらは呪術的色彩が濃厚である。
縄文美術は外来文化の影響が少なかったために、1万年近い長期にわたる変遷は比較的緩やかなものであった。縄文という装飾法もほぼ全期間を通じてもちいられ、縄文美術は世界の新石器時代の美術の中でも特筆すべき洗練に達したのである。
「縄文のビーナス」 長野県八ヶ岳山麓(さんろく)は、尖石遺跡(とがりいしいせき)など、縄文中期の集落遺跡が多い。茅野市米沢の棚畑遺跡(たなばたけいせき)もそうした中期の遺跡で、この土偶は集落中央の小さな穴に完全な形でうめられていた。妊娠しているようなおなかをした豊満な下半身には、縄文人の豊穣をねがう気持ちが表現されているといわれ、世界各地の古代遺跡からみつかる地母神「ビーナス」の一種と考えられる。高さ27cm。茅野市尖石縄文考古館所蔵
弥生時代
前300年ころ、西日本を中心に本格的な農耕文化がはじまり、また鉄器もつたえられた。金属期文化の誕生である。戦前、東京本郷弥生町で発見された壺から命名された弥生時代は、紀元300年ころまでつづく。農耕は社会に大きな変革をもたらした。稲作によって規則的な生活がいとなまれ、集落は拡大し、農産物の蓄積は貧富の差を生じた。それは権力の誕生につながっていく。
弥生土器
弥生土器は明るい褐色を呈し、文様は簡素で規則的、あくまで器の美しさが特色である。後期にはしだいに無文様化した。写真は、弥生中期の丹塗り台付き壺(つぼ)。名古屋市高蔵貝塚出土。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵
弥生土器の文様は簡素で規則的、あくまでも器の美しさが特色で、装飾はその形と機能をそこなうことがない。後期にはしだいに無文様化し、古墳時代の土師器(はじき)へと接近してゆく。弥生美術を特色づけるものに青銅製の銅鐸がある。これは宗教的な儀礼に使用されたものとされる。西日本を中心に出土しており、堂々たる大型のものに発展していく。装飾は流水文と袈裟襷文(けさだすきもん)が典型的なもので、人や動物の姿、建物などが記号的に表現されている。流水文のよどみない美しさは、のちの日本美術の特質となる自然をみつめる感性に遥かにつながっているようである。弥生時代の土器や銅鐸の整然とした形は呪術性のこい縄文土器とはすでに異質の世界である。
銅鐸
神戸市桜ヶ丘遺跡出土の弥生中期の銅鐸で、高さは39.2cmある。表裏にそれぞれ4区画ずつきれいな線で原始絵画が描かれている。この面の絵画は、左下がスッポンと鳥、右下が臼をつく人、左上が魚をとる人、右上がトンボとトカゲである。Encarta Encyclopedia神戸市立博物館蔵
古墳時代
3世紀の末から4世紀の初めにかけて古墳の造営がはじまる。このころから日本に仏教が伝来した6世紀ごろまでが古墳時代である。集落は大規模なものになり、階級が生まれ、複数の集落を首長が統治している。古墳はその支配者の墳墓であり、支配者をあつくとむらうとともに亡き支配者の権力をつぐ者の新たなる権力を誇示するものであった。多彩な副葬品を生んだ古墳時代の美術は葬礼の美術の性格をもっていた。
特徴的なものにまず埴輪がある。埴輪は中空の素焼きで、古墳を神聖な区域として区切るために墳丘の周りにめぐらされた。そのおもな種類には円筒埴輪や形象埴輪があり、家の形や武具をはじめとして多彩である。とくに動物や人物の素朴な表情は、一種のユーモアをたたえて古代人の感性を素直につたえている。土器には古墳時代の初期に素焼きの土師器がみられ、中期には朝鮮半島の製陶技術がつたわって、よりかたく焼きしめた須恵器があらわれている。
武人埴輪
人物埴輪は6世紀にもっとも盛んにつくられた。モデルには、武人、貴族、巫女のほか、農民や子守りなど一般民衆の姿もみられる。人物埴輪の素朴な表情は、一種のユーモアをたたえて古代人の感性をつたえている。Encarta EncyclopediaCorbis/Seattle Art Museum
一方、日本最古の絵画資料として装飾古墳があげられる。これは石室の壁面や石棺を装飾するもので、幾何学的な文様の壁画をもつ熊本のチブサン古墳のように、壁画は九州に多く分布している。なお、石人山(せきじんやま)古墳の石棺などにきざまれた特徴的な文様に直弧文がある。これは直線と弧線とを複雑にくみあわせた日本固有の文様で、銅鏡などにももちいられている。
この時代、大陸からの文物の影響は弥生時代とは比較にならないほど増大する。4世紀半ば以後には、畿内に大和朝廷が成立し、統一国家の誕生をもって大陸文化の巨大な波をうけとめる器ができあがった
チブサン古墳の装飾
熊本県山鹿市のチブサン古墳は、全長44mの前方後円墳である。横穴式石室内に石板をたてた家形の石棺状施設があり、内側に同心円文や連続菱形(ひしがた)文などが描かれている。これは現況を忠実に再現したレプリカである。Encarta Encyclopedia熊本県立装飾古墳館提供
飛鳥・白鳳時代の美術
この時代は朝鮮半島の百済から仏教が伝来したとされる538年(宣化3)から662年(天智帝の初年)までの前半期を飛鳥時代とし、以後藤原京をへて710年(和銅3)の平城京遷都までの後半期を白鳳時代とする。仏教が伝来するとともに大化改新以後に律令制の整備がすすみ、造寺造仏が積極的におこなわれたことが、この時代の美術の大きなエネルギーとなった。仏教美術誕生の時代である。
亀井勝一郎『大和古寺風物誌』初旅の思い出
1937年(昭和12)はじめての奈良旅行で亀井が法隆寺の百済(くだら)観音をみた際の、鮮烈な印象をかたった一文をあげる。以後、亀井は毎年のように東大寺や薬師寺、唐招提寺など奈良の古寺をおとずれ、関心を深めていく。古寺や仏像に美を追求することは純粋な宗教心とは異質であろうが、美と信仰の間にたつ高い精神性は43年『大和古寺風物誌』に結実する。採録した文庫本におさめられた著者後書きには「仏像を語るということは、古来わが国にはなかった現象である。仏像は語るべきものではなく、拝むものだ。常識にはちがいないが、私はこの常識を第一義の道と信じ、ささやかながら発心(ほっしん)の至情を以て、また旅人ののびやかな心において、古寺古仏に対したいと思ったのである」としるす。
[出典]亀井勝一郎『大和古寺風物誌』(新潮文庫)、1953年
この数年のあいだ幾たびとなく法隆寺を訪れたが、はじめての日の印象ほど感銘ふかいことはなかったようだ。私はいつもその日を想い起す。昭和十二年の晩秋、夕暮近く、木津川の奔流に沿うて奈良へ辿(たど)りついたが、これが大和(やまと)への私の初旅であった。それまで大和の風光や古寺の美は聞いていたけれど、容易に訪れようとはしなかった。北国に育った私は東北地方や津軽海峡を渡るのをさして億劫(おっくう)に思わぬが、まだみぬ南の古都は、遥かにとおく雲に隔った異郷のように感ぜられ、また早い青年時代の自分にとっては、古仏などあまり心にとめなかったのである。むしろ西欧の古典美術に憧(あこが)れ、伊太利(イタリー)へだけは是非とも行きたいと思っていた。希臘(ギリシャ)やルネッサンスの彫刻の方がはるかに私の心をひいたのである。 尤(もっと)もそれらの彫刻や像は、写真で知っているのみだったから、判断も曖昧(あいまい)なものには相違なかったが、正直なところ、私は仏像にどうしても親しみえなかったのである。その主な理由は、仏像は人間を行為に誘う溌剌(はつらつ)たる魅力にとぼしいということであった。仏像に対していると、彼は自らは語らず、私にのみ多くを語らせようと欲する。私は自分の生存について、環境について、苦悩について、限りなく彼に訴え問うことが出来るが、仏像の表情は何事も答えない。半眼にみひらいたこのものは、人をみているのか、人の背後の漠々たる空間をみているのか不分明である。人間を無視したような腹だたしいまでの沈黙が私を疎遠にさせた。仏は人間の行為をすべて無為に誘うのであろうか、その眼を見ていると、私はそこに屡々(しばしば)人間の神秘よりも野獣の神秘を見るのであったが、たとえばアポロ像に比して、これがより原始に、より自然に、母なる大地にむすびついている所以(ゆえん)なのでもあろうか。対自然的ではなく、即自然的に、行為よりは直観に依存して自得した人間の着座でもあろうか。希臘彫刻には対自然的に争闘し、行為し、時に敗北した人間の悲哀が宿っているように思われる。我々は彼と偕(とも)に肩を組んでオリムポスの峰々を歩むことが出来る。そういう親しさが仏像にはない。あまりの沈黙と静謐(せいひつ)、尨大(ぼうだい)で奇怪な生命力??それに対すると、私は抱擁せずむしろ狐疑逡巡(こぎしゅんじゅん)し警戒するのを常とした。生の讃歌を否定するのではないか??これが私の仏像への危惧であった。 奈良へ来てはじめてわかったことであるが、自分のこの感じは主として座像に関係していたようである。はじめどのような座像にも心をひかれなかった。殊に巨大であればあるほど。しかし立像と半倚(はんい)像の美しさは言語に絶した魅力をもって私を圧倒した。わけても法隆寺金堂に佇立(ちょりつ)する百済(くだら)観音は、仏像に対する自分の偏見を一挙にふきとばしてくれた。このみ仏の導きによって、私は一歩一歩多くの古仏にふれて行くことが出来たと云ってもいい。 はじめて法隆寺を訪れた日は、俄雨(にわかあめ)の時折襲ってくる日で、奈良の郊外は見物人も少くひっそりと静まりかえっていた。雨の晴間には、透明に高い秋空があらわれ、それに向って五重の塔は鮮かな輪郭を示していた。金堂の内も外もこの日は落着いてみえた。私は塔をみあげながら金堂の後を廻って、案内人に導かれつつ慎んで扉の内へ入ったのである。仄暗(ほのぐら)い堂内には諸々(もろもろ)の仏像が佇立し、天蓋(てんがい)には無数の天人が奏楽し、周囲には剥脱(はくだつ)した壁画があった。私はその一つ一つを丁寧にみようともせず、いきなり百済観音の前に立ったのである。橘(たちばな)夫人念持仏の厨子(ずし)を中心にして、左側に百済観音、右側に天平(てんぴょう)の聖(しょう)観音が佇立していたが、それを比べるともなく比べて眺めながら、しかし結局私は百済観音ただ一躯に茫然としていたようである。 仄暗い堂内に、その白味がかった体躯が焔(ほのお)のように真直ぐ立っているのをみた刹那(せつな)、観察よりもまず合掌したい気持になる。大地から燃えあがった永遠の焔のようであった。人間像というよりも人間塔??いのちの火の生動している塔であった。胸にも胴体にも四肢にも写実的なふくらみというものはない。筋肉もむろんない。しかしそれらのすべてを通った彼岸の、イデアリスティクな体躯、人間の最も美しい夢と云っていいか。殊に胴体から胸・顔面にかけて剥脱した白色が、光背の尖端(せんたん)に残った朱のくすんだ色と融けあっている状態は無比であった。全体としてはやはり焔とよぶのが一番ふさわしいようだ。 これを仰いでいると、遠く飛鳥(あすか)の世に、はじめて仏道にふれ信仰を求めようとした人々の清らかな直(す)ぐな憧憬(どうけい)を感じる。思索的で観念的であるが、それが未(いま)だ内攻せず、ほのぼのと夢みているさまがおおらかである。他の推古仏と同じように、その顔も稍々(やや)下ぶくれで、古樸(こぼく)端麗、少しばかり陽気で、天蓋の天人にもみらるる一種の童話的面影を宿している。顔面の剥脱して表情を失っているのも茫乎(ぼうこ)として神々しい。同時に無邪気であり、生のみちあふれた悦(よろこ)びと夢想の純潔を示す。静に佇立しているようだが、体躯は絶えず上へ上へとのびあがり、今にも歌い出さんばかりである。飛鳥びとの心に宿った信仰の焔を、そのまま結晶せしめたのだろうか。??私が長い間失っていた合掌の気持を、このみ仏がしずかによび醒(さ)ましてくれたのであった。 私はまた千三百年前の民たちが、かような仏像をどんな心で拝したかを想像しないわけにはゆかなかった。建立された当時の金堂は、目を奪うばかり絢爛(けんらん)たる光彩を放っていたであろう。壁画も鮮かな色彩のままに浄土の荘厳(しょうごん)を現出していたであろうし、百済観音も天蓋の天人も、おそらく極彩色で塗られ、ことによるとしつこいほど華麗なものだったかもしれぬ。民たちは新しい教(おしえ)に驚異し、畏敬(いけい)と恐怖と、あるいは懐疑の念をもってこの堂内にぬかずいたであろう。しかし、ふと頭をもたげて、灯明と香煙のたちのぼる間に、あのすばらしい観音の姿を見出したときの驚きはどんなであったろうか。彼らは我々のように無遠慮な批評がましい観察などしなかったにちがいない。合掌のあいまに、彼らもまた仏陀(ぶっだ)のごとく半眼にひらいて陶酔したのではなかろうか。すべてが剥落し崩れて行くこの御堂に在って、古(いにしえ)のそういう荘厳を私は幾たびも心に描いてみた。今はすべてが寂しく崩れようとしているが、後代に附与された一切の解説は空しい。 初めて奈良へ旅し、多くの古寺を巡り、諸々の仏像にもふれた筈(はず)なのに、結局私の心に鮮かに残ったのは百済観音の姿だけであった。云わばこのみ仏を中心として、他の多くが群像としておぼろげながら眼に浮んでくる、そういう状態であった。私の初旅の思い出はつまりは百済観音の思い出となるのである。その頃夢殿は修理中であり、折あしく救世(ぐぜ)観音は拝することが出来なかったが、中宮寺の思惟(しゆい)像も、薬師寺の聖観音も、三月堂も、高畑(たかばたけ)の道も、香薬師(こうやくし)もみた。いずれも美しく、驚嘆と悦びの連続ではあったが、何故か初旅の後に、筆をとればつい百済観音の讃歌のみをかいてしまうような有様だった。その後、屡々大和を訪れるようになってから、次第に自覚してきたことであるが、多くの古寺、諸々の仏像を同じような態度で見て廻り観察することは、つまり自分の心にそぐわぬのだ。一度の旅には、ただ一つのみ仏を。そこへ祈念のために一直線にまいるという気持、私はいつのまにかそれを正しいとするようになった。尤もついでに(ついでにと申しては他のみ仏に失礼であるが)多くをみるけれど、その旅に念ずるものは唯(ただ)一つ。現在の私はそうである。
(c) 亀井書彦
建築
仏教寺院の本格的な造営は、仏教の伝来から約半世紀にわたる宗教をめぐる抗争をへてはじまった。この間、仏像などとともに造仏工や造寺工などの技術者が朝鮮半島から渡来している。最初の仏教寺院は、蘇我馬子の発願によって6世紀の末に造営が開始され、7世紀初頭に完成した飛鳥寺である。百済からの渡来工人が造営にあたった伽藍は塔を中心に三方に金堂を配したもので、その配置は高句麗に例がみられる。ついで聖徳太子が四天王寺を創建したが、これは中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべた伽藍配置で、朝鮮半島に例が多い。そして607年(推古15)ころ聖徳太子によって創建されたのが法隆寺である。現在の法隆寺は7世紀後半に焼失したのち白鳳期に再建されたと一般的に考えられているが、創建法隆寺の面影をとどめる飛鳥風で、西院の金堂、五重塔などは世界最古の木造建築である。
律令制が充実する白鳳時代になると、それまでの豪族の氏寺にかわり、各地から労働力を徴用して国家による大規模な官寺の造営が本格化し、最新の様式が導入される。天智天皇の発願で7世紀後半には飛鳥に最初の初唐様式をとりいれた川原寺が完成する。ここでは建築の設計にもちいられる尺度はそれまでの高麗尺にかわる唐尺である。7世紀末には藤原京に薬師寺が完成している。伽藍は金堂を中心に東西2塔を配するものであった。また藤原京にあって西南の薬師寺に対して東南に位置したのが大官大寺である。
法隆寺金堂
607年(推古15)に建立されたが、その後焼失したため再建された。五重塔とともに、世界最古の木造建築とされる。Encarta EncyclopediaPhoto Researchers, Inc./法隆寺
彫刻
はじめて仏教美術の洗礼をうけた飛鳥時代の彫刻は、朝鮮半島を経由した南北朝時代の様式の強い影響をしめしており、つづいて白鳳時代には隋、初唐の影響がみとめられる。
7世紀の初め、飛鳥寺におさめられた釈迦如来像は日本初の丈六の大金銅仏である。通称飛鳥大仏、作者は渡来人の子孫、鞍作止利と「日本書紀」はつたえる。623年完成の銘がある法隆寺金堂釈迦三尊像は止利の代表作で、その正面観照性と口元にたたえた神秘的な微笑を思わせる表情は飛鳥様式の典型である。衣文(えもん)の表現は形式的といえるほどによく整理されており、全体の抽象的な印象を強めている。大陸の様式はすでに理知的に消化されているのである。
安居院「釈迦如来座像」
「飛鳥大仏」の通称がある大金銅仏で、「日本書紀」には606年(推古14)に鞍作止利(くらつくりのとり)によって完成され、元興寺(飛鳥寺)金堂に安置されたとある。左頬(ひだりほお)と右手指3本をのぞいては中世の補修だといわれているが、日本の現存最古の仏像として貴重である。室町時代に堂宇をうしなった飛鳥寺は、現在は安居院(あんごいん:江戸時代の建立)とも称して、飛鳥大仏を安置している。Encarta Encyclopedia安居院/井上博道撮影
7世紀の初め、飛鳥寺におさめられた釈迦如来像は日本初の丈六の大金銅仏である。通称飛鳥大仏、作者は渡来人の子孫、鞍作止利と「日本書紀」はつたえる。623年完成の銘がある法隆寺金堂釈迦三尊像は止利の代表作で、その正面観照性と口元にたたえた神秘的な微笑を思わせる表情は飛鳥様式の典型である。衣文(えもん)の表現は形式的といえるほどによく整理されており、全体の抽象的な印象を強めている。大陸の様式はすでに理知的に消化されているのである。
白鳳初期の金銅仏に野中寺弥勒菩薩半跏像がある。つづく興福寺仏頭はかつて山田寺講堂の本尊だったもので、頭部だけをのこしているが、ボリューム豊かな白鳳金銅仏の代表作である。白鳳期には法隆寺献納宝物中の四十八体仏をはじめ小金銅仏に優品が多く、法隆寺阿弥陀三尊像(橘夫人念持仏)や同夢違観音像などのあどけない童顔童子形が共通している。
興福寺仏頭
685年(天武14)に開眼(かいげん)した旧東金堂本尊の頭部。もとは飛鳥の山田寺にあったものといわれ、鎌倉時代に興福寺の僧たちによって、興福寺東金堂に安置されたという。眉、目、鼻筋の直線的な切れ味に特徴があり、白鳳仏の遺品として貴重。銅造鍍金(ときん)。Encarta Encyclopedia興福寺所蔵/奈良市写真美術館
木彫の最古の例は法隆寺夢殿の観音菩薩立像、通称救世観音(ぐぜかんのん)である。クス材の一木造で、その目鼻立ちの強さは表情に厳かな緊張感をあたえ、しかも釈迦三尊像にもまして神秘的である。法隆寺金堂四天王像は銘文から作者は山口大口費(やまぐちのおおくちのあたえ)とされ、7世紀中ごろの作。法隆寺百済観音像は同じころの木彫で、流麗なプロポーションをもったエキゾティックな異色の作風は中国南朝系の影響が考えられている。
7世紀後半、白鳳時代に入って法輪寺薬師如来像と虚空蔵菩薩像があり、そのやわらいだ質朴な表現は飛鳥風をとどめている。法隆寺の六観音像と同金堂の天蓋天人像は小金銅仏に通じる童顔童子形をしめしている。そして中宮寺弥勒菩薩像の瞑想する表情と調和のとれた姿勢の穏やかさは飛鳥・白鳳彫刻のもっとも成熟した姿である。ながれおちる衣文も自然で、写実にむかってさらに一歩がふみだされている。
広隆寺「弥勒菩薩半跏像」
宝冠をいただき、清楚(せいそ)な気品をただよわせる飛鳥時代の弥勒菩薩。様式に新羅仏との類似がみとめられ、材質も朝鮮に多いアカマツがもちいられている。弥勒菩薩は、釈迦の委嘱をうけて、その入滅後56億7000万年後に仏としてこの世に生まれるとされる。Encarta Encyclopedia廣隆寺所蔵/奈良市写真美術館
白鳳時代にはより写実的な表現に適した塑造と脱活乾漆造が新たな造像技法としてもちいられている。当麻寺金堂の弥勒座像は塑像で、同じ金堂の四天王立像は麻布を漆ではりかさねて型をつくり木屎漆(こくそうるし)をもって整形する脱活乾漆造である。これは天平時代に入ると造像の主流になっていった。
絵画・工芸
6世紀の末、飛鳥寺造営のために百済から画工が渡来し、7世紀初めには高句麗の僧曇徴が来朝して顔料や紙、墨の製法をつたえた。さらに聖徳太子の時代には渡来系の画家組織が活動していたことが知られている。
中宮寺の天寿国繍帳
日本では現存最古の刺繍(ししゅう)である。飛鳥時代の製作時には480cm四方もあったとつたえられるが、現在は大部分がうしなわれ、ぬいあわされた88.8cm×82.7cmのみがのこる。仏像や僧侶、飛仙像などが中国六朝(りくちょう)風のタッチで表現されている。Encarta Encyclopedia中宮寺所蔵/飛鳥園提供
最初の絵画的作品の例は623年の法隆寺金堂釈迦三尊像の須弥座(しゅみざ)と、同じころの中宮寺「天寿国繍帳」である。須弥座は損傷はなはだしいものの四天王や山岳風景に飛天や神仙が描かれているのがみとめられる。一方の天寿国繍帳は聖徳太子の死をいたんで太子の往生した世界をあらわした刺繍で、原画を描いた3人の渡来系の画工の名が知られている。人物の服装に当時の日本の風俗もとりいれられている点が注目される。7世紀半ばの法隆寺玉虫厨子の須弥座と宮殿部には、漆絵と一種の油絵である密陀絵(みつだえ)を併用した技法で、仏教説話図などが描かれる。なかでも「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は物語の一連の3つの場面を同一の構図に巧みにおさめた作品で、大陸の影響は濃厚であるにしても日本の画工の高い水準をしめしている。
高松塚古墳の壁画
奈良県明日香村にある高松塚古墳の石室西壁にあった4人の女子像。同じ西壁の入り口側にも4人の男子像が描かれていた。東西の壁に男女4人ずつ合計16人の人物像があった。服装や、さしば(左)と如意(中央)などの持ち物類は、当時の高句麗や唐の古墳壁画と類似するところも多い。7世紀末〜8世紀初頭。Encarta Encyclopedia国(文部科学省保管)
白鳳絵画としては7世紀後半の法隆寺金堂壁画(1949年の火災でその大部分が損傷をうけた)が初唐様式をつたえる本格的な絵画作品で、諸仏の肉身表現は西域の陰影法をとりいれている。それは大陸様式を消化して模倣をこえ、真の古典のみがもつ気品にみちている。初唐の絵画様式をつたえ、古墳壁画の伝統の最後をかざるものに奈良明日香村の高松塚古墳壁画がある。700年前後の作とみられ、仏画としても風俗画としても完成度の高い貴重な資料である。
金銅灌頂幡
灌頂幡(かんじょうばん)は仏教の灌頂式のときにかける布製または金銅製の幡(旗)。法隆寺献納宝物の金銅灌頂幡は、天蓋(てんがい)、中央にたれる大幡、四隅にたれる小幡からなる。写真は、大幡の透彫文様(すかしぼりもんよう)で、如来と菩薩(ぼさつ)の姿がみられる。7世紀後半。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵
この時代は盛んな寺院の造営と造仏にともなって仏教工芸も開花した。法隆寺金堂の木造天蓋は奏楽の飛天や鳳凰とともに荘厳の空間をつくりだした初期の例で、法隆寺再建期にさかのぼる。法隆寺玉虫厨子の入母屋造(いりもやづくり)の宮殿部はミニチュアながら建築としても飛鳥様式をしのばせるものであるが、随所に高度な工芸技法がうかがわれる。外側は黒漆塗りで、金銅の透彫(すかしぼり)金具の下には当初は玉虫の翅がしきつめられていた。内部には金銅押出しの千仏像がはられている。金工には宝石をちりばめた夢殿救世観音の金銅透彫宝冠と法隆寺献納宝物中の金銅灌頂幡(かんじょうばん)がある。染織には中宮寺天寿国繍帳とともに法隆寺献納宝物に蜀江錦(しょっこうきん)の小幡がある。
伎楽面・治道
伎楽は、寸劇を演じながら屋外を行道(ぎょうどう)したと思われるが、治道(ちどう)はその先導役をつとめたらしい。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵
伎楽面・呉公
本来は呉国の男性の意。貴人の役で、扇をもち、笛をふいて踊る仕種をする。目はつりあがっているが、口もとには笑みがある。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵
伎楽面・迦楼羅
迦楼羅(かるら)はインド神話に登場する神鳥ガルーダのこと。急な動きの舞を本領としたものと思われる。Encarta Encyclopedia東京国立博物館所蔵