薬師寺

  薬師寺

今からおよそ1300年も昔の白鳳時代、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈り、藤原京にて創建されました。その後平城遷都に伴い、養老2(718)に現在地に移されました。移転については、伽藍、仏像を全部そのまま移したという説と、寺院の名籍だけを移し、伽藍や仏像は新しく造立したという説があります。前説なら東塔や薬師三尊像などは白鳳時代の作となり、後説では天平初期の作となるため、美術史学界を二分する重大な問題であり、現在も論争が続いています。金堂、講堂などを中心に、東塔と西塔の2つの三重塔を配する構成は独特なもので、薬師寺式伽藍配置と呼ばれています。この華麗な伽藍も数次の火災にあって次々と焼失し、創建当時の姿を残すのは東塔のみです。しかし、昭和51年(1976)金堂が、昭和56年(1981)には西塔が復原造営され、その後も白鳳伽藍の復興を目指して再建が進められています。

薬師寺 やくしじ 奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山で南都七大寺のひとつ。680(天武9)天武天皇が皇后(のち持統天皇)の病気回復をいのって発願(ほつがん)し、当時計画中だった藤原京の条坊線を意識して建立をはじめた。天武天皇の死後は持統天皇がひきつぎ、698(文武2)藤原京に伽藍が完成した。これが現在、奈良県橿原市に礎石などがのこる本薬師寺(もとやくしじ)である。

710(和銅3)都が平城京にうつると、薬師寺も718(養老2)新京にうつし、平城右京に新しく伽藍をかまえた。伽藍配置は薬師寺式といわれ、金堂(こんどう)、東塔、西塔を、中門から出て講堂に達する回廊がとりかこむ。973(天延元)以降たびたび災いにあってすたれ、1528(享禄元)には戦火で大半をうしなった。1976(昭和51)以降、金堂、西塔、中門、講堂をはじめ積極的に古代伽藍が再現されている。

南上空からみた薬師寺

手前の小さな門が南門で、左右に回廊がのびる大きな門が中門である。金堂を中心に東西に東塔、西塔が配置される伽藍(がらん)は、薬師寺式といわれるもので、本来は、金堂の北まで回廊がめぐり、金堂の北に回廊につながる講堂があった。この写真では講堂が新講堂再建のために撤去されているが、2003(平成15)3月に完成した。災害や戦火で建物の多くが焼失し、高さが33.6mの東塔が創建時の姿を今につたえる唯一の建物である。

東塔は平城遷都の際に新造された。三重塔ではあるが、各層に裳階(もこし)をつけるため、一見六重塔のようにみえる。相輪の長さが総高の3分の1近くを占め、水煙(すいえん)に模様の組み合わせではなく、飛天像があしらわれているのも大きな特徴である。記録によれば、かつては東塔・西塔の内部に釈迦八相( 涅槃図)群像が安置されており、現在その一部とみられる残欠が伝来している。

薬師寺東塔

薬師寺の建築の中でもとくに名高い東塔は、平城遷都後に西塔(焼失、のち再建)と相対して建立された。三重塔であるが、各層にスカートのような裳階(もこし)をつけているため、六重塔のようにみえる。

金堂には、本尊薬師如来座像に脇侍(きょうじ)の日光・月光菩薩(ぼさつ)立像を配した薬師三尊像がまつられる。豊かな肉体と、均整のとれたプロポーションをもち、台座には四神、鬼人、葡萄唐草文(ぶどうからくさもん:→ 唐草文様)の浮彫がほどこされており、日本を代表するすぐれた金銅仏である。藤原京からうつされたとする説と、平城遷都にともなって、新しく鋳造されたとする説がある。

仏像ではほかに、東院堂の金銅聖観音立像、木造十一面観音菩薩立像、天平末から平安初期の文殊菩薩座像、9世紀末の僧形八幡神、神功皇后、仲津姫命の座像などがある。

薬師寺の吉祥天像

吉祥悔過会(きちじょうけかえ)の本尊として信仰された吉祥天像である。吉祥悔過会は災いをはらいのぞき、五穀豊穣(ほうじょう)をいのる法会(ほうえ)。麻布に盛装の貴婦人の姿で描いた8世紀後半の優品である。精緻(せいち)な描写、豊かな彩色によって、「美人画」ともいえる優婉(ゆうえん)な作品となっている。771年ごろ。Encarta Encyclopedia薬師寺所蔵/奈良市写真美術館

四神 ししん 古代中国に源流をもつ東西南北の各方位を象徴する動物。東の青竜、南の朱雀(すざく)、西の白虎(びゃっこ)、北の玄武をさし、四象ともいう。この四神と同様のものは前漢時代(→ 漢)の諸文献にあらわれるが、今日の形にととのったのは「礼記」(→ 四書五経)曲礼篇がもっとも古いとされている。しかし、春秋戦国時代の曽王乙墓出土の漆絵衣装箱の蓋(ふた)には、北斗や二十八宿の星宿名とともに竜と虎と思われる獣が両端に描かれており、天空の星宿と結合した四神の原初的な観念がすでに存在したと考えられる。この竜虎に朱雀と玄武がくわわって四神が成立した背景には、麟(きりん)、鳳(おおとり)、亀、竜という四霊の観念が影響したのではないかという説もある。また陰陽五行説とむすびついて、各動物には青(青竜)、赤(朱雀)、白(白虎)、黒(玄武)の4つの色も配されている。

北方の玄武は亀と蛇の結合した形であらわされるが、蛇は原初的な混沌をあらわすウロボロス(尾をかんで円形をなす蛇または竜)を想起させ、蛇と亀は宇宙を生みだす性的交合を表現したものとも考えられている。この四神の図像は前漢末から墓の壁画やさまざまな器物に描かれはじめ、後漢時代には小宇宙の象徴として画像石や四神鏡などに数多く描かれるようになった。四神思想は中国周辺諸国にもつたわり、朝鮮半島高句麗の墳墓や奈良の高松塚古墳の壁画などにも四神の像がみられる。また、古代の宮都も風水学的に四神相応の地を選択して建設され、現在平城京跡には南の大門として朱雀門が復元されている。


四神
四神は東西南北の方位をつかさどる神(象徴的動物)で、中国古代に源流をもつ。東(画面では右)を青竜、南を朱雀(すざく)、西を白虎(びゃっこ)、北を玄武があらわす。これらのうち、亀と蛇が結合したかたちであらわされる玄武の姿は一種独特で、宇宙を生み出す性的交合を表現したものと考えられている。


キトラ古墳の朱雀像
2001年(平成13)に南壁で発見された朱雀(すざく)の像。朱雀は古代中国の四神のひとつで、南方を鎮護し、邪気をはらうといわれる霊鳥である。四神信仰は朝鮮半島や日本にも伝播(でんぱ)し、高句麗古墳(こうくりこふん)や日本の高松塚古墳などの石室にも四神像が描かれている。奈良、薬師寺金堂(こんどう)の薬師如来座像の台座には四神が浮彫されている。



絵画では、麻布着色吉祥天(きっしょうてん)像が、盛唐美人画の様式をつたえる。771(宝亀2)に薬師寺でおこなわれた吉祥悔過会(けかえ)の本尊だったと考えられている。そのほか、753(天平勝宝5)制作の仏足石、天平時代の金石文の遺例とされる仏足跡歌碑がある。

薬師寺金堂の三尊像

本尊座像は左手に楽器をもたない古式の薬師の姿をあらわしている。脇侍(きょうじ)は日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)立像、豊かな肉体と、均整のとれたプロポーションをもち、台座には四神、鬼人、葡萄唐草模様(ぶどうからくさもよう)の浮彫がほどこされている。

2000(平成12)末、玄奘三蔵院の大唐西域壁画殿に平山郁夫による高さ2.2m7場面13枚で総長49mにおよぶ大壁画が納入された。玄奘三蔵院には、玄奘の舎利がおさめられており、壁画は玄奘が経典をもとめて長安を出発、西域やヒマラヤをへてインドにいたり、ナーランダー僧院などをたどる場面が描かれている。

仏教寺院の伽藍配置

わが国最初の本格的寺院の飛鳥寺は、塔を中心に3金堂がそれをとりかこむ形式であった。次の四天王寺は東西の金堂を省略し、法隆寺は塔と金堂がならび、薬師寺では金堂が中心になり、塔が東西2棟となった。興福寺では金堂の前庭から塔がでて、別に院をつくる。このように主要建築群の配置は、飛鳥寺創建から100年余りの間に急激に変化した。中国あるいは朝鮮半島の寺院でも同じような変化があったので、その影響と考えられている。

飛鳥・白鳳時代の美術

この時代は朝鮮半島の百済から仏教が伝来したとされる538(宣化3)から662(天智帝の初年)までの前半期を飛鳥時代とし、以後藤原京をへて710(和銅3)の平城京遷都までの後半期を白鳳時代とする。仏教が伝来するとともに大化改新以後に律令制の整備がすすみ、造寺造仏が積極的におこなわれたことが、この時代の美術の大きなエネルギーとなった。仏教美術誕生の時代である。

仏教寺院の本格的な造営は、仏教の伝来から約半世紀にわたる宗教をめぐる抗争をへてはじまった。この間、仏像などとともに造仏工や造寺工などの技術者が朝鮮半島から渡来している。最初の仏教寺院は、蘇我馬子の発願によって6世紀の末に造営が開始され、7世紀初頭に完成した飛鳥寺である。百済からの渡来工人が造営にあたった伽藍は塔を中心に三方に金堂を配したもので、その配置は高句麗に例がみられる。ついで聖徳太子が四天王寺を創建したが、これは中門、塔、金堂、講堂を南北に一直線にならべた伽藍配置で、朝鮮半島に例が多い。そして607(推古15)ころ聖徳太子によって創建されたのが法隆寺である。現在の法隆寺は7世紀後半に焼失したのち白鳳期に再建されたと一般的に考えられているが、創建法隆寺の面影をとどめる飛鳥風で、西院の金堂、五重塔などは世界最古の木造建築である。

律令制が充実する白鳳時代になると、それまでの豪族の氏寺にかわり、各地から労働力を徴用して国家による大規模な官寺の造営が本格化し、最新の様式が導入される。天智天皇の発願で7世紀後半には飛鳥に最初の初唐様式をとりいれた川原寺が完成する。ここでは建築の設計にもちいられる尺度はそれまでの高麗尺にかわる唐尺である。7世紀末には藤原京に薬師寺が完成している。伽藍は金堂を中心に東西2塔を配するものであった。また藤原京にあって西南の薬師寺に対して東南に位置したのが大官大寺である。

法隆寺金堂

607(推古15)に建立されたが、その後焼失したため再建された。五重塔とともに、世界最古の木造建築とされる。

安居院「釈迦如来座像」

「飛鳥大仏」の通称がある大金銅仏で、「日本書紀」には606(推古14)に鞍作止利(くらつくりのとり)によって完成され、元興寺(飛鳥寺)金堂に安置されたとある。左頬(ひだりほお)と右手指3本をのぞいては中世の補修だといわれているが、日本の現存最古の仏像として貴重である。室町時代に堂宇をうしなった飛鳥寺は、現在は安居院(あんごいん:江戸時代の建立)とも称して、飛鳥大仏を安置している。

縄文時代は前1万年ごろから弥生時代のはじまる前300年ごろまでの間に日本のほぼ全域に広がった新石器時代を総称する。この時代の美術をもっとも特色づけているものが縄文土器である。その名称は土器の表面に繊維をよった縄をおしつけるようにしてつけられた装飾文様に由来する。縄文人の生活は狩猟や漁労を中心とする採集文化であったが、しだいに小規模ながら集落が形成され、列島の温暖化にともなって定住化がすすんでいった。縄文土器も生活環境の変化を反映して器種のレパートリーは豊かになり、その大きさは多様化し、装飾文様も複雑化してゆく。

「縄文のビーナス」

長野県八ヶ岳山麓(さんろく)は、尖石遺跡(とがりいしいせき)など、縄文中期の集落遺跡が多い。茅野市米沢の棚畑遺跡(たなばたけいせき)もそうした中期の遺跡で、この土偶は集落中央の小さな穴に完全な形でうめられていた。妊娠しているようなおなかをした豊満な下半身には、縄文人の豊穣をねがう気持ちが表現されているといわれ、世界各地の古代遺跡からみつかる地母神「ビーナス」の一種と考えられる。高さ27cm

6世紀の末、飛鳥寺造営のために百済から画工が渡来し、7世紀初めには高句麗の僧曇徴が来朝して顔料や紙、墨の製法をつたえた。さらに聖徳太子の時代には渡来系の画家組織が活動していたことが知られている。

中宮寺の天寿国繍帳

日本では現存最古の刺繍(ししゅう)である。飛鳥時代の製作時には480cm四方もあったとつたえられるが、現在は大部分がうしなわれ、ぬいあわされた88.8cm×82.7cmのみがのこる。仏像や僧侶、飛仙像などが中国六朝(りくちょう)風のタッチで表現されている。

最初の絵画的作品の例は623年の法隆寺金堂釈迦三尊像の須弥座(しゅみざ)と、同じころの中宮寺「天寿国繍帳」である。須弥座は損傷はなはだしいものの四天王や山岳風景に飛天や神仙が描かれているのがみとめられる。一方の天寿国繍帳は聖徳太子の死をいたんで太子の往生した世界をあらわした刺繍で、原画を描いた3人の渡来系の画工の名が知られている。人物の服装に当時の日本の風俗もとりいれられている点が注目される。7世紀半ばの法隆寺玉虫厨子の須弥座と宮殿部には、漆絵と一種の油絵である密陀絵(みつだえ)を併用した技法で、仏教説話図などが描かれる。なかでも「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」は物語の一連の3つの場面を同一の構図に巧みにおさめた作品で、大陸の影響は濃厚であるにしても日本の画工の高い水準をしめしている。

高松塚古墳の壁画

奈良県明日香村にある高松塚古墳の石室西壁にあった4人の女子像。同じ西壁の入り口側にも4人の男子像が描かれていた。東西の壁に男女4人ずつ合計16人の人物像があった。服装や、さしば()と如意(中央)などの持ち物類は、当時の高句麗や唐の古墳壁画と類似するところも多い。7世紀末〜8世紀初頭。