天武天皇の正殿

南北2棟 天武天皇の正殿

天武天皇の皇居の全容が明らかになった。

2006年・平成18年3月8日・朝日新聞朝刊)

   奈良県明日香村の飛鳥京跡で、天武天皇の宮殿「飛鳥浄御原宮」(672694)の正殿と見られる飛鳥時代最大級の建物跡の北隣から、同規模の建物跡が新たに見つかった。

 県立樫原考古学研究所が7日、発表した。

 同研究所は今回の建物を「北の正殿」と呼び、天皇の私的空間だったと見ている。 正殿が二つ並ぶ珍しい形式と判明し、これで日本書紀が伝える浄御原宮の主な建物跡を全て確認。

  内郭と呼ばれる宮の中枢(南北197m、東西158m)のうち約700uを調査したところ、柱穴26本(最大で直径約1.5m)や石敷きなどが見つかり、掘立柱建物跡の一部と判断。

 04年度調査で全容が判明した南側27mにある正殿(南の正殿)と並行に同じ構造で建てられているため、北の正殿も南北約12m、東西約24mで、東西に渡り廊下でつながった小規模な別棟があったとみている。

  南の正殿と同様に、柱の太さや位置から屋根は切り妻造りと推定。建物の四隅に旗を掲げたと見られる柱の跡、(直径約60cm)も、北西と南西の角が見つかった。二つの正殿の間は石敷き広場だったと見たれる。

  日本書紀は「天皇が皇子らを内安殿に招いた。臣下は外安殿で酒を振舞われる舞楽を楽しんだ」(681)、「天皇は大安殿にお出ましになり」(686)と、主な建物について伝えている。

古代最大の内乱、壬申の乱(672)を制して即位した天武天皇が造営した飛鳥浄御原宮(672694)で、巨大な「正殿」がもう一つ見つかった。

   

  「同じ規模の建物がもう一つ出るとは、想定外で驚いた」。千田稔・国際日本文化研究センター教授。

 飛鳥京は大王(天皇)が代わる度に移していた宮殿を、初めて同じ場所に築いた都。

 630年以降、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮が造られた。

 浄御原宮の「南の正殿」は、土器の年代から、後岡本宮の時代に斉明天皇が建て、子の天武天皇が引き継いだ可能性が高いとされている。

 59年から続く調査で、日本書紀が伝える主要な四つの建物「大安殿」「内安殿」「外安殿」「大極殿」と見られる跡が姿を現した。

  発掘担当の林部均・県立橿原考古学研究所主任研究員は、同じ規模の建物が二つあった理由について、「後の時代には政治をする正殿が大きく立派になり、北側の住居は小さくなっていく。斉明天皇の時代は、公私の区別が未分化だっのではないか」と説明する。

 千田教授は「以前は居間に客を招いていたが、斉明天皇は何らかの理由で客間が必要になり、二つ造ったのではないか」と話す。

 後を継いだ天武天皇は、左右対称に造られた南の正殿の西側別棟を壊し、池を設けたと見られている。

 河上邦彦教授は「二つの建物は並存していなかった」との説。「正殿は天皇と神が対話する場、北の正殿が先にあり、伊勢神宮の式年遷宮のように、北を取り壊して南に立て替えた」と推理する。

 皇子たちとの食事の場か

 和田・京都教育大学教授は「日本書紀では、天皇に招かれる身分が建物ごとに違ったとある。当時は礼の仕方や衣服が階級分けされていたが、建物にも格があった。大安殿と内安殿は規模や構造は同じだが、飾りなどで外装は可也違っていたかもしれない。今回見つかった内安殿と見られる建物は、儀式や皇子たちとの食事の場だったのではないか。

飛鳥時代・明日香探索

明日香村のスライド写真集

 第155次調査の成果(橿原考古学研究所、現地説明会資料抜粋)

  飛鳥京跡

 奈良県高市郡明日香村岡に所在する宮殿構造です。

 これまでの調査で3時期の宮殿に関わる遺構が検出されています。これらを下層からT期、U期、V期と呼んでいます。

 V期は斉明・天智の後飛鳥岡本(656〜)、天武・持統の飛鳥浄御原宮(672〜)、U期は皇極の飛鳥板蓋宮(643〜)、T期は舒明の飛鳥岡本(630〜)とも考えられています。

 その中で最も構造がよく分かっているV期は内郭とエビノコ郭、外郭とから構成されています。

 内郭は内裏、エビノコ郭は大極殿、外郭は官衙(役所)が配置された空間とも考えられています。

 飛鳥京跡内郭中枢の調査は、V期の建物配置の解明と下層にあるT期・U期の調査を目的に2003年から実施しています。これまでにV期の大型建物と石敷広場・池状遺構などが見つかっています。

 今年度は、昨年度に検出した大型建物の北の空間にどのような建物が配置されていたのかを調べるために発掘調査を実施した。

  155次調査の成果

 今回の調査ではV期の掘立柱建物・掘立柱塀・石組溝・石敷きと共に、T期の掘立柱建物も検出した。

 V期の掘立柱建物は、北調査区で検出されたもので、建物1・2があります。建物1は東西4間(約12m)以上、南北4間(約12.2m)の東西棟で、内郭の中心軸で折り返すと、東西8間(約24m)、南北4間の大型建物となります。北と南に庇を持つ切妻建物です。建物1の南西隅と北西隅には、旗ざお施設があります。建物1の西では、建物2を検出しました。東西1間(約3m)以上、南北4間(約12.2m)で、建物1と柱筋を揃えています。

 又建物1と2は廊状建物でつながっています。建物1・2ともに床束が検出されていますので、床をもつ建物であったことがわかります。建物1・2の北と南には東西方向の石組溝があります。さらに建物1・2の北には石敷があり、東西方向の石組溝も見つかっています。

 一方、建物1・2の南では、南北塀が1条だけ見つかりましたが、石敷きなどは検出されませんでした。元々は石敷きの広場があったものと推定できますが、中・近世の耕作により石が取り除かれた可能性が考えられます。

 T期では、南の調査区で掘立柱建物を検出しました。U期・V期の建物や塀が正方位を取るのに対し、北で西約20度前後振れています。この建物3は、東西3間(約9m)以上、南北3間(約9m)以上の大型建物です。

 柱穴も大きく、柱の抜き取り穴には大量の焼土や炭が詰まっており、この建物は焼失したものと考えられます。これと同じ特徴をもった柱穴は、V期の建物1の下層においても確認されています。建物3と一連の遺構となり、東西塀となる可能性もあります。

  3年間にわたる飛鳥京跡内部中枢の調査で様々なことが明らかとなりました。今後、この成果をもとに古代宮都や律令制国家の形成過程や王権の問題について、具体的に考えていきたいと思います。

(橿原考古学研究所 2006年3月11日)