天武天皇

  天武天皇

てんむてんのう ?686 第40代とされる天皇。在位673686年。父は舒明天皇で、母は皇極天皇。中大兄(なかのおおえ)皇子(天智天皇)の同母弟で、持統天皇の夫。草壁皇子の父。本名は大海人(おおあま)皇子。大化の改新のときはまだ年少だったが、成長するとともに兄の中大兄皇子をたすけ、中央集権的な国づくりに協力したと思われる。

唐の侵攻によって朝鮮半島が緊迫し、663(天智2)には日本の百済(くだら)救援軍が白村江で大敗( 白村江の戦)。その責任が問われるとともに、国内でつづく中央集権化政策にも批判が高まった。大海人皇子はこうした中、664年に冠位二十六階制定や大氏・小氏の格づけ作業など、内政改革の推進に手腕を発揮した。天智天皇には適当な後継者がいなかったため、次期天皇として有力視されていたが、天皇は671(天智10)に大友皇子を太政大臣につけて、事実上の次期天皇に指名する。これを不満とする大海人皇子は、翌672(天武元)壬申の乱をおこし、数万の大軍で大和・美濃方面から近江(おうみ)大津宮を攻囲。約1カ月の戦いのすえ大友皇子をたおし、翌年、即位して天武天皇になった。

この皇位継承戦争により、従来政府の中枢にあった保守的な中央豪族が処分され、没落した。その反面、勝利した天武天皇の権威・権限は拡大する。この力の差を背景に、天武朝は改新以来もとめられてきた天皇制的な律令にもとづく中央集権国家へと、一気に国家体制を転換させた。地方行政区画の整備、班田収授のための造籍・測地などは、この時期おおいにすすんだ。675年の諸氏の部曲(かきべ:諸豪族の私有民)の廃止、林野などの再没収は公地公民制の徹底であり、684年の八色の姓の制定は律令位階制導入の下準備であった。きたるべき律令体制にふさわしい国家事業として、飛鳥浄御原(あすかきよみはら)宮の都城としての拡充、国史編纂・飛鳥浄御原令編集などにも着手した。天皇や日本の称号もこの時期に成立したようである。檜隈(ひのくま)大内陵(奈良県明日香村)に埋葬されている。

 持統天皇 じとうてんのう 645702 第41代とされる天皇。在位686697(正式即位690)。父は天智天皇で、母は蘇我石川麻呂の娘の遠智娘(おちのいらつめ)。本名は?野讃良(うののさらら)皇女。657(斉明3)に、叔父の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)と結婚した。671(天智10)に夫が皇位継承への不満をいだいて吉野に隠棲すると行をともにし、翌年の壬申の乱のときにも、美濃への危険な逃避行にしたがった。673(天武2)に皇后となり、「天皇を佐(たす)けて天下を定め、…言政事に及び、毘(たす)け補う所多し」(「日本書紀」)とあるように、以後の国政をたすけた。

子の草壁皇子への皇位継承をのぞみ、686(朱鳥元)大津皇子の変などで、その政敵をしりぞけた。草壁皇子がわかくして没すると、遺児の軽皇子(文武天皇)への皇位継承をはかる。とりあえず自ら即位して皇位をおさえ、697(文武元)の譲位後も、太上天皇として後見しつづけた。在位中には藤原京遷都・飛鳥浄御原令公布・班田収授法の開始などがおこなわれ、大化の改新以来の内政改革の成果が、荒削りながらシステムとして目にみえるようになった。桧隈(ひのくま)大内陵(奈良県明日香村)に、天武天皇と合葬されている。

談合をする中大兄皇子と中臣鎌足

これは、「多武峰縁起絵巻(とうのみねえんぎえまき)」にある場面。まだ中大兄皇子といっていた天智天皇と中臣鎌足(藤原鎌足)が、山の中で蘇我氏をほろぼす計画を話しあっているところ。右の2人が中大兄皇子()と中臣鎌足()。江戸時代の住吉如慶(じょけい)・住吉具慶の合筆。

乙巳の変で改新政府を樹立

 日本の政変は皇位継承問題がきっかけとなり、権力者である蘇我入鹿が古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子をおしたのに対し、皇極女帝の子の中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌子(藤原鎌足)らがクーデタを計画。645(大化元)飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿をたおした(乙巳の変:いっしのへん)。こののち中大兄皇子は皇太子にとどまって孝徳天皇をたて、保守派の阿倍倉梯内麻呂(あべのくらはしのうちのまろ)・蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を左右大臣に、中臣鎌子を内臣とする改新政府を樹立。政府は元号を大化とし、唐に対抗して高句麗・百済とむすぶ外交姿勢をしめした。国内では都を難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)にうつし、鍾匱(しょうき)の制・男女の法などを制定。政府の直轄領の色彩の強い東国・大和六県(むつあがた)にそれぞれ国司と使者をおくり、土地・人民を掌握し、彼らの武器をとりあげた。

大化の改新 たいかのかいしん 7世紀半ばにおこなわれた一連の中央集権的な国政改革。国内では6世紀末以降、部民制( 部民)から公地公民制にうつりはじめていたが、中国の大帝国隋・唐の成立にも刺激された。とくに隋・唐が高句麗遠征をはじめ、朝鮮半島での国益と影響力があやうくなると唐の遠征軍に対抗できる軍事力をもつことが急務となった。そのため専制的な中央集権体制をつくって強力な人民支配をおこない、それを基盤に全国から兵士と物資をあつめた。こうした動きは朝鮮半島にもあり、641年には高句麗で泉蓋蘇文がクーデタで権力をうばい、百済・新羅でも政変がおこり、いずれも専制権力が生まれた。

壬申の乱 672

天智天皇の同母弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)と、天智天皇の息子で事実上の皇位継承者となっていた大友皇子が、皇位をあらそって約1カ月にわたる壬申(じんしん)の乱がおきた。天智天皇が大友皇子を次期天皇とする気持ちにかたむいたため、次期天皇に予定されていた大海人皇子は前年、身の危険を感じて吉野(奈良県)にのがれた。そして天智天皇の死の半年後ついに挙兵、いったん美濃国(みののくに:岐阜県)に脱出。まもなく東国の兵や中小豪族の勢力をあつめてせめのぼった。いっぽう、有力豪族の援助により近江朝廷をひきいた大友皇子は奈良盆地をほぼ支配下においたが、大海人皇子軍はこれを撃破し、ついに近江大津宮もせめおとした。大友皇子の自殺後、大海人皇子は673年に即位して天武天皇となった。

大宝律令による戸籍 筑前国島郡川辺里(現、福岡県志摩町)の戸籍。郡司の長官である大領の肥君猪手(ひのきみいのて)702(大宝2)に作成したもの。古代国家は、戸籍をつくることによって全人民の身分をしるし、居住地もさだめて自由な移動を禁じた。年齢、性別、家族関係を記し、これをもとに班田を支給、税を徴収したのである。こうして国家による国郡里制にもとづく領域的支配が可能となった。記述のあるところには国印をおしている。「正倉院文書」より。正倉院 宝物

これら大化の5年間の改革を狭義の大化の改新といい、改新の詔の内容にそった中央集権化策がおこなわれた。663(天智2)日本は白村江の戦で唐・新羅連合軍に敗北し、当初の目的ははたせなかった。しかし内政改革はその後もすすめられ、670年にははじめての全国的な戸籍の庚午年籍ができ、壬申の乱(672)をへた天武朝・持統朝には班田収授法と人頭税による新税制もはじまる。701(大宝元)大宝律令の成立で国政改革の成果がまとまることとなり、改新当初にえがいていた律令制による中央集権国家体制はようやく完成された。