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大化の改新・談山神社の絵巻

 大化改新の人々とその時                

   革新政府の中枢は、中大兄皇子を背景にした藤原鎌足。

   鎌足の系図には、いろいろと疑問が多いが、通説では、父は中臣彌食(みけ)で母は大伴氏出身の気仙媛で、大和朝廷の中央貴族ではなく、常陸の鹿島辺りの地方豪族が、中央に進出して身を起こした者だと言われている。

  鎌足が蘇我政権の打倒を現実に抱いた時点は、山背大兄王(聖徳太子の子)の討滅で、天皇制に危機が迫ったころ。

  運動の盟主を求めて、中大兄皇子に(飛鳥寺の蹴鞠の会の時)接近して、蘇我石川摩・佐伯子麻呂・葛城綱田らを同士に獲得。

 

  御破裂山での密談、右、中大兄皇子。

 入鹿の襲撃は、皇極兆年(645)6月12日、飛鳥板蓋宮の大極殿で行われた。

その日、韓半島の国々からの貢物を受納する為の儀式が行われる、その式場が決行の場所と定められた。石川摩が表文を朗続している間に、まず、子麻呂と

綱田が、不意に入鹿を襲う手筈であった。

 その日は雨降りであった。

    室に入る前に、そこに待ち受けていた俳優(朝廷に仕えており、滑稽な仕草などをする役目?)が何か話し掛けると、入鹿は笑いを浮かべて、佩倹をとって俳優に手渡した。入鹿が用心深くて常に剣を離さないので、鎌足があらかじめ謀っておいたのであろう。

   中大兄皇子と鎌足の子麻呂と綱田の四人は、武器を携えて物陰に身を潜めて折り、石川摩が表文の朗読が始まったが、表文を読んでいる間に、子麻呂と綱田が、入鹿の威に打たれて、食べ物を吐いたり、たじろいでいる間に朗読は終わろうとしていた。石川摩も、冷や汗を流し、身体は震えて入鹿に怪しまれる有様であった。

  左上が皇極天皇、刀を持っているのが中大兄皇子、壁には入鹿の首が、その首が鎌足を追いかけて多武峰へ、又、飛鳥寺に。

 中大兄皇子が、物陰から躍り出て、入鹿の頭から肩にかけて斬りつけた。かくて、蘇我政権の崩壊した翌日、鎌足の強力な指導の下に、新政府の組織に取り掛かった。皇極女帝は天皇の座から退けられた。中途退位の先例は無い。

 女帝は即時退位を余儀なくされたのは、今後の大変革を前に、新政府にとって大きな障害であったことを示唆している。

 反天皇政治勢力の根城(飛鳥)となっているこの地から、自由の新天地(難波に遷都)に移り、反対派の抵抗に悩まされることなしに、改革を進めてゆく為であった。(数年後に飛鳥への再遷都を強行している)。

 

 

 

   

「天皇政治と対立抗争の展開」渡辺英三郎著。談山神社本殿での絵巻撮影。

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