蘇我入鹿邸か?大化改新で焼失・645年

 明日香村・甘樫丘

   奈良県明日香村の甘樫丘(標高148m)の麓にある甘樫丘東麓遺跡で、掘立柱建物5棟や塀などの遺構が見つかった。

 奈良文化財研究所が13日、発表した。1994年に約20m南東で大量の焼けた壁材や木材、土など(7世紀中頃)が出土しており、その直ぐ近くで発見されたことで、今回の建物跡は、大化改新のクーデターで倒れた権力者・蘇我入鹿の焼け落ちた邸宅跡の可能性が高いという。

    


  国営飛鳥歴史公園の整備に先立ち、約725uを発掘。直径2030pの柱穴が20個以上見つかった。建物は南北10.5m、東西3.6mのものなど、いずれも小規模で、全容や用途は不明。塀は長さ約12m分。周辺の溝(0.81m)からは、焼けた石や土、炭などが出土した。

 調査地は甘樫丘の東側の麓で、入り江のようになった谷間。起伏の激しい場所を大規模に整地していたことも判明。

 丘の頂上からは蘇我氏建立の飛鳥寺跡や、大化の改新の幕開けとなる「乙巳の変」(645)で入鹿が中大兄皇子(天智天皇・626671)に首をはねられたとされる飛鳥板蓋宮の伝承地(後の飛鳥浄御原宮の跡)などが見渡せる。

 日本書紀によると、644年、入鹿の邸宅が丘の谷間、父の蝦夷の邸宅が丘の上に築かれ、乙巳の変でいずれも焼け落ちたとされる。焼けた部材や土などが1994年に出土した際には建物跡は見つからなかったが、同研究所は今回の発見で入鹿邸跡との見方を強めている。

 今回出土した土器の中には、入鹿邸が存在した7世紀後半のものもあった。遺構が入鹿邸跡とすれば、蘇我氏滅亡後もこの場所に何らかの施設があったことになる。

 調査員は「土器の年代幅を限定しにくく、調査面積も狭かった。入鹿邸跡の有力候補地だが、結論は来年度予定の本格調査を待ちたい」。

  「書紀」裏付けへ調査拡大

 日本書紀に記された有名な政変、大化の改新のドラマを裏付けることになるかもしれない有力な「物証」が、明日香村の甘樫丘東麓遺跡で見つかった。史実を生々しく再現させる発見の第一歩になるのか、今後の調査に期待が掛かる。

 出土した20個以上の柱穴から想定される建物や塀は小規模なものだ。今回は調査範囲も狭く、大権力者だった蘇我氏の邸宅と言い切るのは現時点では難しい。だが、1994年には直脇から焼けた木材や土などが大量に出土しており、焼け落ちた入鹿邸の痕跡の可能性がある。

 「入鹿邸は甘樫丘の谷にあった」という日本書紀の記述と、今回の発掘現場の地形も符合する。

 入鹿邸跡と断定するには、周辺の発掘で権力者に相応しい大規模な建物跡が見つかり、焼失したことが確認される必要がある。更に、日本書紀の記述通り、丘の上から蝦夷邸とみられる大規模な建物群が見つかれば、蘇我氏滅亡の舞台の全体像が明らかになる。奈良文化財研究所は来年度、範囲を広げて調査を続ける方針だ。その成果が待たれる。(小滝ちひろ)

(朝日新聞、2005(平成17)年1114日)

   「天皇家が最利用」説

 奈良文化財研究所の豊島直博研究員は、今回の調査担当に決まったこの春、同僚らに冷やかされた。「いいところに当たったな」。94年に焼けた木材などが大量に見つかった場所の直ぐ脇だったからだ。その期待通り、建物跡が出てきた。

 日本書紀はこう伝える。――皇極天皇3年(644年)の冬、甘樫丘の頂上と麓に邸宅が築かれた。蘇我大臣蝦夷の「上の宮門」と、その子入鹿の「谷の門」。家の外に城柵、門の近くに兵庫(武器庫)があった。

 丘の上から宮殿(飛鳥板蓋宮、後の飛鳥浄御原宮)を見下ろす蝦夷邸は、蝦夷の妹の法堤朗媛(ほてのいらつめ)を天皇家に嫁がせることで強大化していく蘇我氏の権力の象徴だったのだろう。

 約半年後の645年(大化1)、入鹿は宮殿で政敵・中大兄皇子(天智天皇)に暗殺され、蝦夷は翌日、邸宅に火を放って自害。このクーデター「乙巳の変」で蘇我氏は滅ぶ。

 今回の調査で、小規模だが5棟分の建物跡が見つかった。しかもそこは、日本書紀が入鹿邸のあった場所と記す「谷」だ。11年前の調査の担当者、奈良文化財研究所の次山淳・主任研究員は「予想道りだ、建物が小さいので、邸宅の周辺施設ではないか」と言う。

 和田 ?・京都教育大教授(日本古代史)

 入鹿邸との断定は難しいが、7世紀前半に甘樫丘を造成して建物を建てる力があったのは蘇我氏と考えていいだろう。飛鳥一帯を見渡せる好立地で、丘全体が軍事施設も兼ねた邸宅だったのではないか。発掘現場の北約200mに「エミシ(エベス)谷」という地名が残っており、蝦夷邸はその辺りにあったのではないか。

(朝日新聞続き)

蘇我入鹿邸跡か 奈良・明日香村 7世紀建物群 火災跡も確認


20051114 ()

 「大化の改新」(六四五年)で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(後の天智天皇)らに暗殺された大豪族・蘇我入鹿(いるか)(生年不明−六四五年)の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)の東麓で、七世紀の建物群跡が見つかり、奈良文化財研究所が十三日、発表した。日本書紀では入鹿邸を「谷(はさま)の宮門(みかど)」と記している。今回の建物群跡が甘樫丘の谷に築かれ、一部で焼けた痕跡も確認されたことから、大化の改新の際に焼失した入鹿邸の可能性が高く、飛鳥時代を知るうえで一級の資料となった。

 調査では幅約八十メートル、奥行き約七十五メートルの谷(約六千平方メートル)のうち七百三十平方メートルを発掘。掘っ立て柱建物跡五棟と、東西に伸びる長さ十二メートル以上の掘っ立て柱塀が見つかった。このうち一棟は縦一〇・五メートル、横三・六メートル。残る四棟は調査区域より外に広がっているため規模は不明だが、一辺一・二メートルもの柱の据え付け穴が見つかっており、太い柱を使った大型建物の可能性もある。

 日本書紀には「蘇我蝦夷(えみし)、入鹿父子は甘樫丘に邸宅を並べ建て、蝦夷邸は『上(うえ)の宮門(みかど)』、入鹿邸は『谷の宮門』と呼ばれた」と記述。今回見つかった建物群跡は谷を広範囲に造成して建てられ、工事の規模からみても当時の最有力者・入鹿の邸宅である可能性が高い。

 また、出土した一棟の両側には溝があり、焼けた土や炭などが詰まっていた。日本書紀では入鹿暗殺の翌日、飛鳥寺(現・奈良県明日香村飛鳥)に陣取った中大兄皇子らの軍勢に取り囲まれた蝦夷が、邸宅にあった記録を焼いたと記述。自邸に火を放って自害し、入鹿邸も同時に焼失したと推測されている。

 平成六年には現場近くで、七世紀中ごろの土器や焼けた建築部材が大量に出土しており、今回見つかった焼け跡とあわせ、蝦夷自害の際の火災の可能性が高いという。

 ただ、蘇我邸焼失後の七世紀後半の土器も多数見つかっており、同研究所は「必ずしも入鹿邸とは断定できないが、七世紀前半に大規模な整地を行っており、一帯が蘇我氏邸の有力な候補地であることを示す重要な資料」としている。
     

 飛鳥の調査を数十年間手がけた猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)の話 「歴史的大事件だった大化の改新の舞台と、蘇我入鹿という第一級の人物にかかわる建物跡が見つかったことはとても大きな成果だ。今回の建物跡は小規模なため入鹿邸の中枢とは言えないが、邸宅の一部であることは間違いない」
    

 蘇我氏 6世紀から7世紀半ばにかけて朝廷で権勢を振るった大豪族。大和を本拠に渡来系氏族を配下に置き、仏教など大陸文化を積極的に取り入れた。蘇我馬子は聖徳太子とともに仏教を中心とする国家の建設に尽力したが、太子の死後、馬子の子である蝦夷とその子・入鹿が専横を強め、天皇家をしのぐ力を持った。中大兄皇子らのクーデターで入鹿は宮中で暗殺、蝦夷は自殺した。
     

 大化の改新 中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣(藤原)鎌足が645年から推し進めた政治改革。中大兄皇子らが蘇我入鹿をクーデターで倒し、改新の詔(みことのり)を示して中央集権支配を目指した。皇族や豪族の私有地を廃止する「公地公民制」、新しい租税制度「租庸調」などを定めたとされる。公式に年号をたて「大化」としたため、一連の改革を大化の改新と呼ぶ。 (産経新聞)

大化改新、舞台に迫る 明日香・甘樫丘東麓遺跡

20051113

図

大化改新の人物相関図

 「やっぱりあったか」。奈良県明日香村の甘樫丘(あまかしのおか)東麓(とうろく)遺跡で見つかった建物や塀の跡に、考古学者らの興奮が高まった。11年前、焼けた木材や土などが近くで出土し、「焼失した蘇我入鹿(そがのいるか)邸の痕跡では」と話題になった場所だ。古代史上最も有名な政治改革、大化改新のきっかけになった蘇我氏滅亡の舞台なのか。決定的な証拠を求めて調査は続く。

 奈良文化財研究所の豊島直博研究員は、今回の調査担当に決まったこの春、同僚らに冷やかされた。「いいところに当たったな」。94年に焼けた木材などが大量に見つかった場所のすぐ脇だったからだ。その期待通り、建物跡が出てきた。

 日本書紀はこう伝える――。皇極天皇3年(644年)の冬、甘樫丘の頂上とふもとに邸宅が築かれた。蘇我大臣(そがのおおおみ)蝦夷(えみし)の「上(うえ)の宮門(みかど)」と、その子入鹿の「谷(はさま)の宮門」。家の外に城柵(きかき)、門の近くに兵庫(つわものぐら)(武器庫)があった。

 丘の上から宮殿(飛鳥板蓋(いたぶき)宮、後の飛鳥浄御原(きよみはら)宮)を見下ろす蝦夷邸は、蝦夷の妹の法提郎媛(ほてのいらつめ)を天皇家に嫁がせることで強大化していく蘇我氏の権力の象徴だったのだろう。

 約半年後の645(大化1)年、入鹿は宮殿で政敵・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)(天智天皇)に暗殺され、蝦夷は翌日、邸宅に火を放って自害。このクーデター「乙巳(いっし)の変」で蘇我氏は滅ぶ。天皇中心の中央集権化を進める大化改新が始まり、元号も初めて導入された。

 今回の調査で、小規模だが5棟分の建物跡が見つかった。しかもそこは、日本書紀が入鹿邸のあった場所と記す「谷」だ。11年前の調査の担当者、奈良文化財研究所の次山淳・主任研究官は「予想通りだ。建物が小さいので、邸宅の周辺施設ではないか」と声を弾ませた。

 一方で、蘇我氏滅亡後の7世紀後半の土器や整地跡も見つかり、入鹿邸と断定するには謎が残る。ただ、巨大氏族が最期を迎えた地を、天皇家が再利用したとも考えられる。猪熊兼勝・京都橘大教授(考古学)は「蝦夷の父、馬子の邸宅跡も後に天武天皇が使っている。蝦夷・入鹿の屋敷跡を天皇家が利用しても不思議ではない」と話す。

 河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は、邸宅跡が天皇家の苑池(えんち)(庭園と池)の一部になったのではと推測する。飛鳥川を挟んで南東約400メートルには、7世紀後半の斉明天皇時代に築かれたとみられる「飛鳥京苑池」(国史跡・名勝)がある。「蘇我氏は天皇家にとって目の上のたんこぶ。その本拠地跡を苑池に取り込み、天皇の権勢を示したのではないか」と想像を巡らせる。
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甘樫丘東麓遺跡その後の現地写真
甘樫丘東麓遺跡その後の現地写真